永久の愛

麻倉 ミツル


 アラン・ブラウンは弟のマイクと一緒に、三人分の朝食の準備を終えた。昼食の分と併せて作ったサンドイッチをテーブルに運んだアランとマイク。

「父さん。一緒に食べよう」

 アランがそう声を掛けた先、そこには一家の大黒柱アドルフ・ブラウンがテレビの前でじっと座りこんでいた。テーブルの位置から見えるアランたちよりも一回り大きい、大人の背中。幼い頃からあれを見て育ってきたアランはその後ろ姿を見るたび、安心感をいだいていた。そんな父の背中はいま、やや前方に折れ曲がっていて、テレビゲームにのめりこむ子供のような体勢をしていた。

「言っても無駄だよ、兄さん。どうせ返事なんてこないんだから」

 向かいあって座っていたマイクがサンドイッチを頬張りながら言う。その声からは諦めが滲み出ていて、とても冷たい。

 アドルフの方に目を向けたアラン。その背中を押してしまえば、テレビと顔がぶつかってしまいそうな距離で、アドルフは朝からずっとテレビを見ていた。建設業で鍛え上げられた体格の良い体は、いまや萎れた花のように弱々しい。それでいてテレビの光にあてられた頬は痩せこけ、短い茶色の髪は乱れている。テレビの方に目を向ければ、そこにはマリア・ブラウンが笑っていた。家族の間で撮っていたホームビデオを繰り返し再生するアドルフ。その碧い瞳は、マリアだけを映していた。

 マリアとアドルフ、アランとマイク。四人の楽しそうな笑い声がテレビから聞こえていた。思い返せば目に浮かぶ家族四人の楽しい光景は、もうこれ以上ホームビデオに残すことはできない。だからアドルフは、ホームビデオを繰り返し、再生していた。マリア・ブラウンは、二週間前に病で息を引きとっていた。


 ウェスト・ヨークシャー州にある小さな町、ヘブデンブリッジ。紡績業で栄えたこの小さな町に住むブラウン夫妻はおしどり夫婦として名が通っていた。しかし、二週間前にマリアは息を引きとってしまった。もとより病弱だったマリア。自分にもしものことがあったら、と、常に考えていたのだろう。アランやマイクに、一通りの家事をマリアは教えこんでいた。その成果もあってか少しずつ料理ができるようになったとアランは自覚する。歩きながらスクールバッグにランチボックスがあることを確認し、マイクと一緒に住宅街を下って、二人並んで学校に向かう。ここ一帯は傾斜が多い。振り向けば、煉瓦造りの一軒家が階段のようにして建てられている。

 十一月。見上げれば薄暗い空が広がっていて、時折、横から吹く風が冷たい。ここ最近、雨が降りそうな天気が続いていた。いつもこの時間帯に犬と散歩しているおじいさんと挨拶を交わし、煉瓦造りの建物に挟まれた商店街にブラウン兄弟は踏みこむ。石畳の通りを歩いているとマイクが「寒い」と声を洩らす。

「確かに寒いね」

 マイクの言葉に返事をしたとき、店の前でアランが立ち止まる。アランに倣って立ち止まり、無言で隣りに立つマイク。ショーウィンドウの向こう側に立つ人形は、マフラーを首もとに巻いては暖かそうな服装をしていた。その人形から、視点を鏡に。

 兄弟揃って短い金の髪に、碧眼。お互い父とは程遠い細い体つきで、白いワイシャツに、黒のズボン、茶色のネクタイと、それに併せた茶色のセーターを着こんでいる。ガラスに映る十五歳のアランと十三歳のマイクの身長差は、十センチ以上はあった。

「兄さん、身長いくつ?」

 アランと同じように鏡を見ていたマイクが、そんなことを訊いた。

「あと二センチあれば百七十かな」

「羨ましい」

「その内、マイクも伸びるよ」

 そんな会話をして、立ち止まっていた足を前に踏み出す。

 ここ最近、弟と会話をしていて気付いたことがアランにはあった。

 マイクが自分から父親の話題を持ちこまない。そのことにアランは気付いていた。

 マイクはアドルフに失望している。最愛の人の死を受け容れられず、魂が抜けたかのようなアドルフは、マリアが死んでからというものの仕事に行かないでいた。そんなアドルフを弟は許せないのだろう。自分は立ち直れているというのに、父が立ち直れていないことにマイクは憤りを覚えている。

 先のリビングで見た父の様子を思い出す。マリアが死んだあの日から、アランとマイクの言葉にアドルフは反応を見せない。そのことにアランは微かな不安を懐いていた。このままでは、父はどうなってしまうのだろうか。現状をどうにかしたい気持ちがあったけれども、自分の言葉はアドルフに届かない。

 商店街を抜け、川沿いの道を歩むブラウン兄弟。川のせせらぎを聞きながら二人が歩む川沿いの逆側に、幾つものボートが縦一列に浮かんでいた。あのボートで寝食を共にし、日々を過ごしている人たちの中に、アドルフの親友、ジョセフが住んでいる。

 川の向こう側には森林が見える。川沿いを歩いていると、やがてアランたちが通うセカンダリースクールが見えてきた。アランたちと同じように通学路を歩む生徒たちの姿も見え、皆、校門に向かって足を進めている。

 そこでマイクがため息を洩らす。

「嫌だな、学校」

「どうしたんだよ、急に」

「急に、じゃないよ。昨日、兄さんに話しただろ? ここ最近、クリスが僕の身長についてからかうんだ。あいつ、自分が少しばかり背が大きいからって調子に乗ってるんだよ」

「それでさっき、身長のことについて触れてきたのか」

「そういうこと。僕も兄さんくらいの身長があったら、クリスも黙るのに」

 マイクが再びため息を吐いた頃には、ブラウン兄弟は校門前に辿り着いていた。不意に、アランの隣りを歩いていたマイクが兄から距離をとる。友達を見付けたのだろう、「兄さん、またあとで」と振り向きざまにマイクは手をあげ、校舎の方に向かって走っていく。

 マイクの背中を見送ったアランは、校舎を見上げていた。薄暗い空を背景に聳え立つこの学校は新築でまだ十年も経っていない。ヘブデンブリッジではあまり見ることのない真っ白な建物、その建設には父のアドルフが関わっている。そのことをアランは誇りに思っていた。父もまた、自分が建設に関わった学校に息子が通うことを喜んでいた。そのときのアドルフの笑顔を、アランは一人思い出す。

 マリアが死んでからというものの、アドルフは笑っていなかった。

「おはよう、アラン」

 名前が呼ばれた方へと振り向けば、そこにはクラスメイトのエドウィンが立っていた。アランと同じ金の髪に碧い瞳。少しばかりお腹が出ている友人は体つきに反して運動神経がとても良い。「おはよう、エド」と挨拶を返し、アランはエドウィンと一緒に校舎に向かって足を運ぶ。

 マリアが死んでから、クラスメイトはアランから僅かに距離をとっていた。エドウィンもその内の一人で、それでもここ最近はいつものように喋りかけてくれる。それは自分の心を落ち着かせるための対応だということをアランは知っていた。そうした配慮をしてくれる同級生たちに、アランは心から感謝をしている。

 校舎内に踏みこめば、生徒たちがそれぞれ会話を交わしながら教室に向かう、いつもと変わらない光景が広がっていた。天候のため、少し暗い廊下を歩いていると「アラン、エド」と二人はうしろから名前を呼ばれる。振り向けば同じクラスのハリーとエレナがこちらに向かって歩いていた。

 ハリーは四人の中でも一番身長が大きい。サッカーボールを持ったハリーは、先程までグラウンドで運動していたのか、服が少しばかり土で汚れていた。

 背中まである長い金の髪をかきあげたのは、四人の中で唯一の女の子であるエレナだ。その口元に可憐な笑みを湛えながら、アランたちと挨拶を交わす。

 廊下に集まったこの四人は、クラスでも休み時間に集まるほど仲良しだ。こうして友達と一緒にいると、自分はとても周りに恵まれているとアランは実感する。エドウィンと同じようについ最近までこの二人も自分に気を遣っていたのだ。申し訳ない気持ちもあったが、それ以上に嬉しい気持ちのほうが強かった。この友人たちになにか辛いことがあったら、必ず助けになろうとアランは密かに誓う。

 いつものように三人と楽しい会話を交わしながら廊下を歩む。

 母が死んだ悲しみが少しずつ、アランの中で和らいでいた。


 夕刻。校門前で弟を待ちながら、アランは亡き母マリアのことを思う。学校での授業もあまり集中できず、アランはマリアとの思い出ばかりを振り返っていた。マリアの笑顔を思い出すたびに、寂しいという思いが胸の内から湧いた。マイクもきっとそうだろう。思い出すのがいまは辛いから、母のことを話題に出さない。

 母はよく笑っていた。病弱とは思えないほど元気な振る舞いをしていた。いつも元気で、だからこそ、病で倒れたことは現実味がなかった。マリアの葬式には沢山の人たちが駆けつけてきてくれた。マリアを知る人たちみんなが、死を悼み、涙を流した。その光景は、マリアがどれだけの人たちに愛されていたのかをブラウン一家に教えてくれた。

 これまで親しい人の死を経験したことなかったアランは、母の死を目の当たりにして、まるで胸に穴が空いたのではないかという不思議な感覚に陥った。その感覚は、いまでも忘れられない。きっと、生きている内は忘れることのできないものだ。

 しかし忘れることはできずとも、その穴を埋めることはできるのだろう。もちろん、完全に塞ぐことはできない。大きな傷跡が残り、ときどき痛みに襲われるかもしれない。それでも、きっと、満たすことはできるのだろう。アランは周りの友人たちと話をしていると、そう感じることがあった。

 父は、どうだろうか。おしどり夫婦として名が知れ渡っていたアドルフとマリア。母が死んでから全く喋らず、まるで死人のような父をアランは思い浮かべる。父の胸に空いた穴は、どれほどの大きさのものだろうか。家族の言葉にも一切反応を見せないアドルフ。一体誰が、父の胸の穴を埋めることができるのだろう。満たすことができるのだろう。

「お待たせ、兄さん」

 マイクの声に、いつの間にか俯いていた顔をあげるアラン。どちらからともなく互いに手をあげ、二人は帰り道を辿り始める。川沿いを歩きながら今晩の食事について話し始めた二人。マリア亡きいま、アランとマイクの二人で料理を作っていた。

「ハンバーグがいいな」

「ハンバーグか」

「作るの難しい?」

「大丈夫だよ。一度、母さんには習ってるから」

「そうだけど、兄さん、作り方覚えてるの?」

「メモしてあるからね、多分、作れる」

「期待してる」

「マイクも手伝うんだよ」

「兄さんがそう言うなら、仕方ないな。手伝ってあげるよ」

 アランの隣りでマイクが笑う。その笑みにつられて、自然とアランも笑っていた。

 マリアが作った料理の味をアランは覚えている。どれも美味しかった母の料理。その作る過程にアランはいままで目を向けていなかった。それは料理だけではない。折り畳まれた衣服に、綺麗に片付けられた部屋。全ては、母がやったことだった。日頃の感謝が足りなかったのではないか、と、アランは思いながら「母さんはすごいね」と呟きを洩らす。それはとても小さな声だったけれど、隣りのマイクには聞こえていたらしい。「そうだね」とマイクはアランの言葉に同意していた。

 川沿いから離れ、二人はそのまま商店街に向かう。夕食がハンバーグと決まったため、ついで、この辺りで買い物を済ませようとアランは考えていた。赤茶色や鼠色の煉瓦で造られた店が両脇に軒並み続いている通り道、そこを二人して歩いていると、前から見覚えのある人影が見えた。

「こんばんは」

 アランとマイクが声を揃えて挨拶をしたのは、ここ、ヘブデンブリッジの村長であるエイブラハムだった。白髪の老人は背筋がしっかりとしていて、にこやかな笑みを口元に浮かべては「こんばんは」と嗄れた声で、ブラウン兄弟に返事をする。村長がこうして町を歩き、住民と会話を交わすのは、ヘブデンブリッジでは普通のことだ。運動不足を解消するために時折、町を歩いている村長はみんなと分け隔てなく接している。アランやマイクの同級生で、村長と言葉を交わしていない者はおそらくいないだろう。そんな村長は、ヘブデンブリッジに住む人たちからとても好かれていた。それは勿論、アランやマイクも例外ではない。

「二人は、学校の帰りかい」

「はい、そうです。帰りのついでに夕食の買い物を済ませようと思って、ここに」

「そうかそうか。うん、二人とも、元気そうで安心した」

 感慨深そうに言う村長。

「アドルフは、どうだね?」

「父さんですか?」

「あの日からまるで死んだようだと、みながみな、アドルフのことを心配している。もっとも、それは仕方のないことかもしれないが」

「どうして仕方ないんですか」

 語調を強くしてそう言ったのはマイクだ。いまの父の姿に憤りを覚えているマイクにとって、仕方ないという言葉は納得できなかったのだろう。「マイク」とアランが弟を諫めるも、村長が手をあげてそれを制し、マイクと向き合った。

「当たり前のことかもしれないが、アドルフは君たち兄弟よりも長く、マリアと長い時間を過ごしている。マイク、君はマリアが死んで悲しくはなかったかい?」

「……悲しかったに、決まってます」

「そうだろう。でも、アドルフは君が産まれてからいままでの、二倍以上の時間をマリアと過ごしている。それでいて、アドルフがマリアのことをどれだけ愛していたか、君たちなら知っているだろう。町の人たちも、みんな、知っている」

 村長の言葉に対し、不満そうな表情をしながらも口を閉ざすマイク。村長はそんなマイクに微笑み、言葉を続ける。

「マリアとアドルフは、新婚たちから見れば憧れの的であるほど、夫婦として仲が良かった。ヘブデンブリッジの夫婦が皆、羨むほどに、ブラウン夫妻の仲は良かったのだ。だから、アドルフの悲しみの深さは、仕方ないのだとわたしは思うよ。もちろん、このままではいけないと思うが」

 村長はマイクの気持ちを察し『このままではいけない』と付け加えたのだろう。いまの口振りからして村長は、アドルフがいま仕事をしていないことを知っている。

「分かってます、父さんが母さんをすごく愛してたことは」

 口を閉ざしていたマイクが、面と向かって村長にそう伝えた。村長がマイクの言葉に頷き、アランもまた心の中で頷いた。

 幼い頃、同級生の女の子から『アランのママとパパ仲良いね』と言われたことがアランの脳裡によぎる。それは一度だけではない。近所や親戚の人たちにも、同じことを言われたことが何回もあった。

「仕方ないとしても、僕はいまの父さんを見ていられない。母さんが死んでからまるで父さんも死んだみたいだ。父さんはちゃんと生きているのに」

 そう言ってマイクは口を噤む。村長の視線がマイクから自分に向けられていることにアランは気付き、その意図を察した。

 マイクの肩を叩き「行こう」と促すアラン。

「いつでも構わないから、何か困ったことがあれば遠慮せずわたしに言いなさい」

「ありがとうございます、村長。ほら、行こう、マイク」

 マイクの手をひいて村長から離れる。兄弟だからか、マイクが言いたいことは痛いほどアランには伝わっていた。離れる際、村長に頭をさげ、そこから買い物先に向かう二人。無言でアランの隣りを歩むマイクは、明らかに不機嫌な様子だ。いまのアドルフについてマイクは不満を持っている。そのことが言動からひしひしと感じ取れる。

 石畳を踏むブラウン兄弟の足取りは重い。マリア亡きいま、自分たちが何とかしなければならないと思いつつも、どうすればいいのか二人とも分からないでいた。一体どうすれば、父の魂をとり戻せるのか。アランの頭の中はそのことでいっぱいで、そしてそれは多分、マイクも同じだった。


 十一月にもなると日が沈むのが早い。日は暮れ、あと少しもすれば真っ暗になる空、ブラウン兄弟は買い物袋を提げて帰路を辿っていた。街灯に照らされた住宅街。道路は傾いていて、ふもとから坂道を見上げれば煉瓦造りの一軒家が綺麗に両脇に連なっている。この先を上って中腹辺りに辿り着くとアランたちの自宅が建てられていた。

「ここ最近、思うんだけど」

 坂道をのぼりながら、先程まで黙っていたアランが声を発した。

「この坂道、買い物袋とか提げて歩いていると、結構辛い」

「情けないな、兄さんは」

「そうかな。でも、自転車でもこの坂道は結構辛いと思う。母さんはいままで、沢山の買い物袋をかごに入れて、この道をのぼってたんだ」

 体、弱いのに。そうアランが一言付け加えた。

「やめてよ、そういう話は」

 マイクが露骨にいやそうな顔をした。

「どうして?」

「母さんは、もう死んだんだ。いまさら何を思ったって、どうしようもないだろ」

「どうしようもないなんてことはないだろう。マイク。どうしてそんなことを言うんだ」

「だって、いやな気持ちになるだけだ。母さんのことを話し合ったって、母さんはもうこの世にいないんだ。母さんのことを考えたって、ただ、悲しい気持ちになるだけじゃないか。母さんのことだけじゃない、僕は父さんのことも考えたくない、話したくない。朝に父さんの姿を見ただろう? まるで死んだみたいだ」

「でも、父さんはしっかりと生きてる。さっきそう言ったじゃないか」

「そう言ったけど、でも、生きてるならどうして僕たちの言葉に返事しないんだよ? 僕たちは家族だろ? なのに何でコミュニケーションがとれないんだ。こんなの、おかしいよ」

「マイク……」

「もう、やめよう、この話は」

 兄の隣りを歩いていたマイクが、アランと距離をとって前を歩く。アランから見える弟の背中はとても小さいもので、目に見えない悲しみを負っていた。

 マリアが死んでから、家族の様子がいつもと違うものになってしまった。魂が抜けたかのような父に、悲しい表情をした弟。やはりこのままでは駄目なんだと、アランは危機感を懐いた。

 母がもしこの現状を見たらどう思うだろうか。そんなこと考えなくてもアランには分かっていた。きっと、悲しむに決まっている。自分が死んだことで家族から笑顔が消えてしまうなんて、マリアはそんなこと絶対に望まない。

 天国にいる母を安心させるために、一体、自分に何ができるのだろう。考えてはみたものの、しかし何も解決策が思いつかないまま、自宅に着いてしまった。そこで、違和感。少し離れて見えるリビング、そこに通ずる窓硝子から光が洩れていない。アドルフは電気も点けずにリビングでホームビデオを見ているのだろうか。

 先に玄関に上がっているマイクのあとを追うアラン。玄関に続く道の脇には少しだけ広い庭があって、小さい頃、ここでアドルフとマイクの三人でよく軽いキャッチボールをしていた。またあの頃のように、父とキャッチボールができる日は来るのだろうか。

 いつの間にか立ち止まっていた足を動かして、アランは玄関にあがる。リビングに足を向ければ、マイクが照明を作動させたのか部屋は明るい。

 テレビがある方を見る。アドルフはそこにはいなかった。

「父さんは?」

「見てないけど」

 マイクのそっけない返事を聞いて、アランは首を傾げる。別室にいるのだろうか、と、リビングを出て、一階で父の姿を探すも見付からない。

「父さん?」

 廊下で反響するアランの呼びかけに、返事をする者はいない。

 二階を探してみるも、アランとマイクの部屋にアドルフはいなかった。

 アランは、いやな予感に駆られた。マリアが死んでからというものの、父はリビングにいつもいて、食事や排泄以外、そこから動かなかった筈だ。なのに、アドルフが家にいない。これは、どういうことなのだろうか。リビングの照明が射す薄暗い廊下で、アランは自分が無力であることを示すかのように、両腕をだらりと下げた。一体、父は自分やマイクに一言も残さず、何処に行ってしまったというのだろう。


 そして、アランのいやな予感は的中した。その日、アドルフは家に帰ってこなかった。




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