その名は久保利光! 学年次席見参


「突破される!」

 悲鳴のような叫び声に、木下さんが血相を変えて廊下に飛び出した。

 開戦チャイムの余韻を早々に打ち消すように、開かれた扉から廊下の阿鼻叫喚が一気に流れ込んできた。

「これは……やられたわね。吉井!」

 どうやら本陣でのんびりしている余裕はないらしい。木下さんに連なるように、僕も人でごった返す廊下に顔を覗かせる。

 渡り廊下ではすでに激しい戦闘が始まっていた。ただ、遠目に見ても、どちらが優勢かは一目瞭然だった。青白い光が一閃、二閃と瞬くたびに、こちら側の召喚獣がボロクズのように舞い上がっては消えていく。

 あの閃光に、僕は見覚えがあった。

「いきなり久保君が投入されるなんて……!」

 そう――本人の姿を確認しなくても判る。あの青い輝きは、文月学園男子として最高得点を叩き出した一人の生徒にしか扱うことが出来ない。

 久保利光。良光君のお兄さんで、生徒会副会長。そして、全体的に女子の成績がいい文月学園において、入学以来孤塁を守り続ける男子の次席。霧島さんが成績を下げた現在では、もしかすると姫路さんをも抜いて学年主席かも知れない。文系科目に限って言えば、間違いなく生徒会側最強の戦力だろう。

「今の私たちに止める手立てはないわ! いったん主力を下がらせて、久保君の苦手科目で止めて!」

 木下さんが即断して、手近なところに指示を飛ばし始めた。

 渡り廊下に陣取る久保君は、自身のもっとも得意とする公民をベースにしているだろう。文系科目の最高得点は久保君が総なめにしているから、彼を突破するのは殆ど不可能といえる。

 僕も歴史などではそこそこのパラメータを持つけれど、いくらなんでも久保君とやりあうには程遠い。肉薄して数発ダメージを入れたとしても、あとは薙ぎ払われてジエンドだ。

 久保君はじわりじわりと歩を進めてきている。召喚獣同士の争いになれていない新一年生は、殆ど棒立ちのまま刈られる稲のように次々と戦死していった。

「みんな! 久保君は召喚獣の扱いが上手くない! なるべく分散して、他方向から攻撃を――」

 本人はテレビゲームなどが苦手らしく、高いステータスを持ちながらも、召喚獣の機敏な操作が出来ない。多面攻撃なら僅かでも削れると判断し、僕は大声で下知を飛ばした。

 けれど、それが悪手になってしまった。もとより他面攻撃を仕掛けるには向かない廊下という立地だ。正面から飛び掛らざるを得ず、久保君の横薙ぎ一閃であっという間に前線が綻んでいく。

「…………明久、本格的にマズい」

 壁をよじ登るようにして視界を確保したムッツリーニが、前線を見やるなり表情を曇らせた。

「…………ラグビー部が久保の後ろにいる!」

 雄二はこちらの篭城作戦を見透かしていたのだ。僕らが前線に体育会系を配置して防火扉の封鎖を狙ったのと同様に、雄二もまた、前線に屈強なパワータイプを並べて渡り廊下を突破する構えを見せている。惜しむらくは、久保君を押し留められる戦力が僕らにないことか。

 最後の試験で、二人して総合科目を受けた。その総合科目が配置される本陣から、僕を動かしてしまおうという腹積もりなのだろう。

「…………久保が引いた。来る!」

 露払いは終わったとばかりに、最前線の高得点者を軒並み灰燼に帰した久保君が後方へ下がる。代わって、がっちりとスクラムを組んだラグビー部員がのっしのっしと前進を開始した。彼らの前方で小さく肩を組む召喚獣たちは決して高得点というわけではなかったが、その横陣に対抗できるだけの戦力を僕らは久保君に刈りとられてしまっている。

「渡り廊下は捨てるしかない、二陣、三陣で止めよう木下さん」

「大将が慌てないの。見てなさい、ここからよ」

 久保君という目先の脅威がいなくなったことで、木下さんは一足先に落ち着きを取り戻したらしい。前進してくるラグビー部に対抗できる人材を、的確に拾い上げて指示を下す。

「行きなさい――卓球部!」

「全員撤退!」

 僕の声に、三階の主力たちが後退を始める。

「ちょ、ちょっと! 卓球部が、俺たちの練習は実はハードだって自慢してたのよ!」

「筋肉の育て方が違いすぎる!」

 予想通りというか当然の帰結というか、日ごろのハードな練習も生かせず、卓球部員たちは腕周りが倍ほど違う男たちに押しつぶされてすぐに見えなくなってしまった。

「このままだと一気にカタを付けられちゃう! 用意しておいたもの全部使って、何とか勢い止めないと!」

 始まって十分も経たないうちに、三階廊下は撤退戦の様相を呈し始めていた。後方へ後方へと下がる逆流に抗いながら、僕も木下さんもなんとか戦線を立て直そうと試みる。

 すでに渡り廊下は突破された。敵もラグビー部員に代わって、高得点者を主軸にした召喚獣を押し出してきている。主戦場は社会から現国へ。ささやかな小説家である木下さんの友人なのか、こちらにも潤沢な高得点者が配備してあるフィールドだけれど、今一度久保君が出張ってくれば成す術もないだろう。

「いきなりクライマックスね……! プランA、開始よ!」

 かねてより打ち合わせてあった行動なのか、最前線に立つ数名が互いに頷きあって、大きく後退し始めた。現国フィールドから数学へ、数学から世界史へと、どんどん下がっていく。

「後方は二階と四階にそれぞれ退避! 押さない掛けない喋らない! ゴー、ゴー、ゴー!」

 木下さんが尻を叩いて、戸惑い始めた三階戦力を引き締めなおす。間一髪、恐慌に陥り掛けていた生徒たちが我を取り戻して、粛々と後方への撤退を開始する。

 雄二の作戦に動かされるのはしゃくだけれど、撤退の流れに乗って僕も本陣を放棄することにした。すでに三階は半分ほどが敵の手に落ちている。本陣と最前線はもはや目と鼻の先だ。

「――今! プランA、ゴー!」

 敵が肉薄してくる。その牙が殿に届く瞬間、引き絞った矢を放つように木下さんが声を張り上げた。すかさず突破されたフィールドの、側面に位置する各教室の扉が開け放たれ、長く伸びた敵戦力の横っ腹目掛けて伏兵が襲い掛かる。もちろん踊りかかるフィールドは彼らの得意分野だ。

 敵勢力が壊乱し始めた。あちこちで召喚獣同士の交戦を示す光が瞬き、戸惑う声と鬨の声が入り混じる。

「どうにか上手くいったわね」

 満足そうに木下さんは額の汗を拭う。

 後方を荒らされたことで、最前線を張る生徒たちも戸惑ったように足を止めていた。作戦成功だ。

 勢い良く押し込めば、当然戦力は縦に長く伸びてしまう。最前線こそ得意科目で固められても、中段や後方まではなかなか気が回らない。とりわけ移動の際には無防備な得点を側面に晒すことになるから、高得点者が襲い掛かれば一騎当千の活躍が期待できる。

 ただ、じわりじわりと、一つ一つの教室を制圧されてはこの作戦は成り立たない。だから前もって、押し込まれそうならいっそ大きく引いてしまおう、という打ち合わせをしておいたのだ。相手も空いた間隙を埋めようと、血気に逸って距離を詰めてくる。

 木下さん苦心の、カウンター戦法だった。

「まして、私たちを囮にしてるんだもの。敵は殊勲を狙って突っ込んでくるわよ」

 僕たちも、最後尾とは行かないまでも後方付近に留まっている。敵の牙が届きそうな場所に敢えて身を置くことで、こちらに意識を向けさせようという狙いだ。

「ここから押し返すわよ。世界史隊! 突撃!」

 作戦の成功に確信を抱いて、木下さんが第二の剣の切っ先を向ける。弾かれたように殿部隊が反転し、その勢いのまま召喚獣をぶつけていく。前方と後方に気を取られて注意散漫となったのか、敵の最前列はたいした抵抗も見せずに溶解していった。

 いける。相手を呼び込んで戦力を削り続け、局所的な勝利を積み重ねて兵力差を覆す。木下さんが一番最初に立てた作戦だ。まさか開始十分程度で使わざるを得なくなったのは予想外だが、確実に効果を上げつつある――。

 が、僕らの優位も長く続かなかった。

 再び、廊下に青い光が瞬き始めたのだ。後方で一度目、中盤で二度目。そして三度目の青い閃光は、僕らの殿へと向けられた。強固な防壁と成りつつあった世界史部隊が一瞬にして消滅する。

「理数科目で不意をつければと思ったんだけど……!」

 決まりかけた作戦をひっくり返されて、苦々しく木下さんが呟く。

 悠然と現れたのは、もちろん久保君だった。少しズレた四角い眼鏡を煩わしそうに指で押し上げて、丸裸になった僕たちの前に進み出てくる。

「木下さん、悪いね。僕は文系だけど、数学もそれほど苦手ではないんだ」

 どうやら久保君は、最初から渡り廊下を離れずにいたらしい。伏兵が解き放たれるのを見るや、最後方から悠々と、まるでモーセのごとく人ごみを断ち割ってきたのだ。

 伏兵によって巻き起こしたばかりの狂乱が、もう鎮圧に向かいつつある。もののついでとばかりに、久保君が目立った高得点者を始末したのだとすぐに判った。

「ここは私が引き受ける! とにかく逃げなさい!」

 木下さんが僕をかばうように久保君に向き直った。この場で久保君と渡り合えるのは木下さん以外にいない。

「ダメだ、木下さんに離脱されると後がない――」

「他に手がないのよ!」

 フィールドは僕の得意科目でもある世界史。僕の召喚獣は、Aクラス上位陣にも匹敵しうる302という実に誇らしいパラメータを頭の上に浮かべている。けれど久保君の召喚獣は600点オーバーだ。急所に当たれば一瞬で勝負が決まってしまう。

 それは木下さんだって例外ではない。彼女だって学園五指に入る秀才だけれど、やや世界史には弱いようで、300点中ほどに留まっている。いや、それで不得意科目と断じてしまうAクラス連中がおかしいのだけれど。

「これで終わりかい? 吉井君」

 久保君の召喚獣が、獲物である死神の鎌のような凶器を構える。来る、と判断したときにはもう遅かった。飛び退ろうにもスペースがない。青い閃光が廊下一杯に広がり、僕は咄嗟に召喚獣に防御姿勢を取らせた。

「ふむ。流石になかなかやるね」

 急所に当たるのは免れた。けれど、木刀で受け止めたにも関わらず、僕の点数は二桁にまで落ち込んでいた。木下さんも同様らしい。辛うじて100点台を維持していたが、もう二発目はない。

「何やってるの吉井、早く――!」

「そうは言っても――!」

 ここに来て、撤退の速度が極端に遅くなっていた。どうも後方階段付近で目詰まりを起こしてしまったらしい。狭い廊下に人が集中しすぎて二進も三進も行かない。

 おかしい。三階兵力は確かに人数が多いけれど、その分階下や階上に、彼らが逃れるゆとりは多く設けてある。校舎に入りきらないほどの兵力なんて、僕たちはそもそも持っていない。

 まさか、と僕は首をめぐらせた。人ごみに隠れて様子は見えないけれど、先頭部分が階段付近で立ち往生しているのだけはわかった。

「…………明久、ここは危険! 二階が制圧される!」

 一足先に様子を伺いに行ったムッツリーニが、器用に壁際をすり抜けて伝令を持ち帰ってきた。直後に、眼前に立つ久保君を見て、自分が絶望的な最前線に来てしまったと気付いて表情を固くする。ムッツリーニの世界史の点数は僅か14点。火の粉が降りかかっただけで爆発四散しかねない。

「秀吉は?」

 久保君の動きに注意を向けながらも、僕はムッツリーニに階下の状況を尋ねた。もし想像が正しいのなら、僕らはすでに詰みの状況にある。

「…………判らない。敵の相撲部が突っ込んできてそれっきり……」

「くっ……! 吹奏楽部じゃ適わないっていうの……!?」

「そもそも運動部じゃないよ!?」

 どうも木下さん、大事なところでポカをやらかしているようだ。

「だってあの子達、自分たちは実は運動部なんだって胸張ってたし……」

「学校あるあるだけど本物と比べるのは無茶すぎる! 吹奏楽部が体育会系っぽいのは上下関係だけだよ!」

 何にせよ、僕らはとんでもない窮地に陥っている。吹奏楽部もそうだけれど、演劇部や美術部で固めた選択科目重視の二階が劣勢というのはとんだ誤算だ。

「あくまで召喚戦争は座学に筆記が主体だからね。絵の上手い下手、音感の良し悪しなどは問われないのさ。これは坂本君の言だが、一夜漬けでも選択科目ならそれなりの戦力になる――とのことだよ」

 久保君の補足で、雄二の作戦の全貌が明らかになった。

 雄二は最初から、速攻で三階と二階を押しきってしまうつもりだったのだ。三階は久保君を主力に、二階はこの数日で鍛え上げた部隊を軸に。校舎中段のいずれか、あるいは両方を制圧してしまえば、僕らは四階と一階で分断されてしまう。そうなれば後に待つのは絶望的な消耗戦だけだ。

 わけても悪辣なのは二箇所同時という点だった。退路の向きが重なってしまい、僕らは逃げ場を失って久保君と対峙せざるを得なくなっている。

「覚悟は出来たかい?」

 久保君の召喚獣が鎌を振り上げる。木下さんと、14点しかないムッツリーニまでもが僕の前に立ちはだかって、何とか威力を和らげようとしてくれる。でも、僕ら三人の点数を合計しても久保君には太刀打ちできない。焼け石に水だ。

 ここはあの作戦で行くしかない――か。

「二人とも、ここは僕に任せて」

 不安そうな二人を下がらせて、僕は矢面に立った。極めて劣勢。詰みの状態。――僕の本領は、いつだってここからじゃないか。

 僕は覚悟を決めて身を屈めた。膝を付き、手を広げ、腰を折って――。

「坂本君から、吉井君の土下座は絶対に信用するなと言われていてね」

「くっ、流石に見抜かれていたか……!」

「開始十分で大将が土下座とか士気に関わるんですけど……」

 背中越しに後輩たちのざわめきが聞こえてくる。でも僕は声を大にして言い返したい。いいかい、君たち。人間に大切なのはプライドより堪忍だ。古の名将韓信だって相手の股を潜ったというし。

「話を聞いて欲しい、久保君! 命だけは助けてくれないかな!」

「君の命乞いも一切聞くなと言われている」

 去年一年、不名誉ながらコンビを組んだだけはあって、雄二に僕の行動は完全に予測されてしまっているらしい。聞く耳持たぬと言った風に、召喚獣にトドメの指示を繰り出そうとした久保君が、ふと思いついたように静かな声で言った。

「……そうだね、吉井君。君の命乞いの代わりに、僕の話を聞いてくれないかな。敵対していると思われたままというのは、僕としても心苦しいから」

 久保君の意図が読めず、僕はちらりと木下さんの顔を伺った。木下さんも予想が付かないようで思案顔だったけれど、結局小さくこくりと頷いた。今は一分でも二分でも時間を稼げるならそれでいい。とにかくこの状況を少しでも変えないといけない。

「実は、僕は別に、坂本君に心から同調しているわけじゃない。こういうやり方は好みではないしね」

「ならどうして!」

「僕は待っていて欲しいだけなんだ。他でもない、吉井君にね」

 どこか恥ずかしそうに、久保君は目を逸らして続ける。

「いつか僕は、必ず世界を変えてみせる。その時まで、吉井君には今のまま、変わらないで居て欲しいんだ」

「どうして僕に……?」

 久保君の決意に、僕がどう関わっているのだろう。首を捻っていると、久保君と目が合った。答えをくれるかと思ったけれど、彼は照れくさそうに俯いてしまった。

「それはまだ、言えない。でも、僕が理想とする世界を、吉井君も気に入ってくれると嬉しい。僕はね、吉井君。いつか必ず、マイノリティが差別されない、人々があるがままでいられる世界を作ってみせるよ。――どうかな、こんな考えは」

「……とても、素晴らしいことだと思うよ」

 差別は良くないし、人が自由であるというのは誰もが願うことだ。けど何故だろう、久保君の決意表明を聞いていると背筋が凍って仕方がない……。

「そう、そうか。良かった、吉井君に認められたことは、僕の最大の宝物だよ」

 安堵したように久保君は微笑んだ。久保君は恋人を作らないことが不思議なほどのイケメンだ。よほど勉強に打ち込んでいるのだろう。理想の世界を作るという、僕などでは及びも付かない壮大な夢を持っているのだ。恋になんて感けている時間はないということか。

「そういうわけで、僕はこの場で君を討つ」

 久保君が右手を上げた。ダメだ、挽回する道筋が思い浮かばない。このままではあっけなく戦争が終わってしまう。

 右手を振り下ろされた。青い光の奔流が巻き起こり、僕の召喚獣を飲み込まんと迫ってくる。成す術がない。僕は申し訳なさからぐっと瞼を閉じる――その瞬間だった。

「――吉井先輩! 伏せて!」

 援軍が、間一髪間に合った。




 気炎万丈、背後から飛び出してきたのは僕の腹心の後輩だった。

 久保良光君――今眼前に立ちはだかる、久保君の実弟だ。ゲリラ戦線設立当初から味方で居てくれる最古参の幹部で、新一年生ながら僕が全幅の信頼を置く優等生。

「伏せて!」

 咄嗟に身を屈めた僕の上を、良光君の召喚獣が大きく飛び越していった。そして、迫り来る青い光の奔流に負けじと大技を繰り出して迎え撃つ。

 兄と良く似た青白い閃光が煌いて、激しい明滅を起こしながらぶつかり合った。そして、光のつばぜり合いを凌ぎきった良光君の召喚獣が、敢然と床の上に着地して胸をそびやかせる。

「ヨッシー!」

「それ辞めてください。……遅れてすみません、ここは僕が食い止めます」

 文系科目最高峰の兄に臆することなく、良光君が進み出て立ちふさがる。身の丈ほどのツーハンドソードを獲物に構える召喚獣も、彼の気合を体現するように、きりりと口元を引き締めて傍らに寄り添っていた。

 こうして兄弟を並べてみると、本当に二人はよく似ている。良光君にはまだ多少のあどけなさがあるけれど、切れ長な目や整った顔立ち、落ち着いた雰囲気はそっくりといえる。何より二人とも、佇まいが知的だ。

「恥的だとか……言わないでください! こんな兄に似ているなど屈辱だ!」

 誉めたつもりなのだけれど、なぜか良光君は憎々しげに吐き捨てて、怨念ありげな視線を兄に向けた。

「ふむ。良光、中々勉強しているな」

 弟の反抗期に動じることなく、久保君は互いの頭の上に表示される点数を比較して嬉しそうに呟く。

 良光君の召喚獣は、300点後半という驚くべき数字を叩き出していた。平均が200、Aクラス水準が300点前半だから、文句なしに学内トップクラスといえるだろう。歴史という科目は、中学と高校の指導要領において、深さは違えど広さは変わらない。今後三年間でどこまで伸びるのか、大いに教師陣が期待を持ちそうな点数だった。

 しかし――。

「…………それでも久保には……届かない!」

 ムッツリーニが渋い顔をする。そう、相手が悪すぎる。久保君は、良光君が今後積み重ねていくだろう勉強の深さをすでに点数に加えている。600という信じがたい点数は、継続した努力の積み重ねを確かに表すものなのだ。

「粘ることくらいは出来ます。先輩たちは後ろに!」

「行かせないさ!」

 久保君の召喚獣が肉薄してくる。良光君が咄嗟に受け止めて、今度は格闘戦になった。

 獲物は大鎌だ。自然、大降りになるから隙も多いのだけれど、避けて叩くという発想をするには威力がありすぎる。まだ召喚獣の扱いに慣れていないのもあって、良光君はあっという間に防戦一方に転じた。

「今加勢する!」

「大丈夫です!」

 ほんの僅かにでも攻撃のチャンスを作れないかと召喚獣を動かし始めた僕を、他でもない良光君がぴしゃりと押し留めた。何か策があるのか。確かめたいところだったけれど、久保君の攻勢に押されてその余裕がない。

「早く下がって!」

「行くわよ、吉井。――道を開けて! 殿部隊はここに踏みとどまって戦いなさい! サポートに徹すればそう簡単にはやられないわ!」

 木下さんの指示に、僅かに人一人分のスペースが作られていった。これなら逃げることはできる、けれど――。

「でも、木下さん!」

「ここは久保弟を信じましょう」

 見捨てるわけにはと踏みとどまろうとした僕を、他でもない良光君自らが突き飛ばすように叱咤してきた。

「早く行ってください! それと――」

 そして気勢一発、怒りを滲ませて兄に切り込んでいく。

「久保弟という呼び方はしないでください! 不名誉だ!」

 二人の間にどんなわだかまりがあるのかは判らないけれど、良光君が兄に向ける感情は随分ととげとげしい。久保君はそんな弟の斬撃を真っ向から受け止めて、力比べに持ち込もうとしている。

「良光、お前が僕の部屋を見てしまったことは知っている。久保家にとっては恥かもしれない。だが、貫きたい想いがあるんだ! 判ってくれ!」

「そんなの、もう諦めてる! 僕が許せないのは兄さんの考え方だ!」

 二人の激戦と舌戦に後ろ髪を引かれながらも、僕たちは後退を始めた。ちらりと振り返ると、良光君は久保君を跳ね除けて、思いのたけをぶつけていた。僕は走りながらも、良光君の言葉に耳を済ませる。僕にとって、とても重要だと思ったのだ。

「マイノリティが差別されない世界を作るだって? なに甘えてるんだよ! 差別されようが後ろ指差されようが、吉『何してるの、急ぎなさい!』輩と二人で生きていく覚悟を見せろよ!」

「木下さんのせいで大事なところが!?」

 何故だろう。僕にとって凄く重要で、なおかつ致命的な予感のする一言を潰された気がする。

「くっ、良光! 確かに僕は『…………空いた、今がチャンス!』君のことが好きだ! けどそれは『走って!』君と二人、世界から祝福されなければ意味がない!」

「それが甘えなんだ! 理屈捏ね回してうだうだやってないで――早く吉『通るわよ! 前開けて!』輩に気持ちを伝えろよ! その気持ちだけにまっすぐになれよ、バカ兄貴!」

「ちょっとムッツリーニたち黙っててくれないかな!?」

 窮地を脱したはずなのに、どうも追い詰められている感が否めない。――他でもない良光君の手によって。

 言いようのない不安と恐怖を背中にひしひし感じながらも、ともあれ僕たちは撤退組の先頭部分に頭を出すことが出来た。

「開けなさい! 大将が通るから!」

 そこは、人口密度が廊下とは段違いだった。乗車率120%の満員電車もかくやといった混みようで、小柄な女の子が悲鳴を上げるほどだ。木下さんが指示を飛ばしてもまったく道が開かない。

「すまん、明久……二階を突破されたのじゃ」

 声のしたほうを向くと、申し訳なさそうな顔の秀吉がいた。辛うじて無事だったみたいだけれど、相当追い詰められた撤退戦を行ったようで、髪はぼさぼさに乱れていた。

 階下の踊り場からはすでに喧騒が聞こえ始めている。二階殿部隊が必死の防戦を続けているようだった。

「とにかくここに留まるのは危険よ」

 木下さんが周囲を覆うフィールドに注意を向けて言った。第二外国語。選択する人の少ないマイナー科目だ。立ち往生する生徒はおろか、木下さんですら頭の上に1点という絶望的な数値を浮かべている。この中だと唯一オペラの原曲をこなせる秀吉だけが、その知識だけで80という頼りになる数字を出していた。複数の言語は唄えても、文法や聞き取りに強いわけではない。

「吉井と残存兵力を四階に収容しましょう。秀吉は二階兵力の統率を取って。私は三階兵力を纏めるわ。左右に分けて、真ん中にスペースを作りましょう」

「判ったのじゃ」

 木下姉弟が息の合ったコンビネーションを見せて、階段を埋める集団を二つに分けていく。踊り場の喧騒はじわりじわりと階段を昇ってきている。時間との勝負だ。

「よし、いくのじゃ明久! わしもすぐ追いかける!」

 80点といえど、1点ばかりが並ぶ中では強力な戦力だ。秀吉はここに残って殿を努めることにしたらしい。

「頼んだ、秀吉!」

「わしも戦死はしたくないからのう。程ほど粘って、合流を目指すつもりじゃ」

 秀吉の決意に謝辞を置いて、階段の一段目に足をかけた、その直後だった。

「逃がさないわよ、アキ」

 聞きなれた声を合図にして、弾丸のように召喚獣が階下から飛び上がってきた。ポニーテールとリボンをなびかせる、どこか三銃士のような煌びやかないでたちをしたソイツは、周囲を巻き込むように斬撃を放って見せた。たちまち周囲の召喚獣が霧散していく。

「美波――!」

 文月学園でおそらく唯一第二外国語を最強の武器にできる、この場に一番居て欲しくない女の子。

 島田美波が、階下の踊り場で仁王立ちしていた。

「大人しく私に討ち取られなさい!」

 美波が再び召喚獣を跳躍させる。挑みかかろうとした秀吉が、その点数を見て躊躇した。500点オーバー。抗う余地なんて、ありはしない。

 しまった、と後悔する時間すら与えられなかった。美波の繰り出した剣の切っ先は、手すりに棒立ちになっていた僕の召喚獣の、胸元に深々と突き刺さっていた。



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