対決! 謎の覆面ファイター
5
「第五回対治安維持生徒会対策会議ー!」
マイクを握り締め高らかに宣言すると、ぱちぱちとムッツリーニが熱烈な拍手で迎えてくれた。
あれから僕らはひとしきり泣いた。そして、そうだここはカラオケボックスじゃないかと思い出し、とにかく声を張り上げて歌いまくった。胸が張り裂けそうなほど辛いときは、その心のままに声を出せば良い。少しだけ気持ちがすっとするものだ。
ちなみに一番盛り上がった歌はガンダーラだった。どこかにあるユートピア。理想郷と平和を求める詞に僕は涙を堪え切れなかったけれど、声に詰まると必ずムッツリーニが歌声のフォローを入れてくれた。
芽生えた友情を確かめ合うように、僕らは肩を抱き合って、最後は涙のシャウトで歌いきったのだ。ここがユートピアかもしれない、とすら思った。
「……まあちょっと変なテンションだったのは認めるけど」
「…………思い出させるな明久。あの頃の俺たちはどうかしてた」
うん、冷静に思い返すとドン引きの光景だな……。
ともあれ立ち直ることはできた。酷い寄り道をしたような気がするけれど、さっさと本題に入ろう。
「一番の問題はこれをいつ使うかだけれど」
机の上に置いたルーズリーフには、登校中の恋愛活動を許可する、という雄二の一筆がしたためられている。昨日屋上で書かせたものの原本だ。
「…………なるべく早いほうがいい。相手が実力行使に出てくる可能性もある」
宣言文だけでなく、ちゃんとサインと拇印も押捺されている。
一方で、言い逃れのできない強力な証拠能力を持つだけに、生徒会が物理的手段での奪還に動く可能性が否定できなかった。
「大々的に発表したい――けど、それをやると確実に生徒会に妨害される」
「…………おそらく間違いない」
乱闘のどさくさに紛れて文書を破り捨てる程度の悪事なら、平気で計画するのが雄二で、疑いもなく実行するのが生徒会会員だ。だから常日頃から生徒会の動向には気を配っておく必要があるのだけれど――。
「…………そこでこんなものを用意した」
ムッツリーニが幾つかのコードを、カラオケのモニタに繋ぎだした。店のものを勝手に弄くっていいんだろうかと心配していると、店に許可は取ってある、とこともなげに言った。いつの間に。
「…………実はこの店は、生徒会駅前支部の拠点でもある」
「そうなの!?」
知らなかった。いつも何気なく利用していたけれど、僕は相当な虎穴に飛び込んでいたらしい。教えてくれればいいのにと口を尖らせた僕に、ムッツリーニは首を振って、
「…………明久に腹芸は無理。あえて教えてなかった。明久を監視させることで相手の動きを予測しやすくする」
知らない間に僕は囮になっていたらしい。
あの、僕一応、対生徒会ゲリラ戦線のリーダーなんだけど。
「…………神輿は担がれるために、旗は振られるためにある」
カッコいいんだか蔑ろにされているのかいまいち判断のつかないことを言って、ムッツリーニはリモコンをモニタに向けた。配線が終わったらしい。懐メロばかりが並ぶランキングが切り替わり、新たにどこか別の部屋の様子が表示された。
「怖っ!」
思わず後ずさってしまった。
――映し出されたのはサバトの儀式だった。
黒い覆面に黒マントといったいでたちの、見るからに怪しい集団が、ミラーボールがくるくる回るカラオケボックスで歌うでもなくただじっと俯き加減に座っているのだ。
異端審問会――彼らが身につけている黒の装束は、僕が所属していた2-Fで暗躍していた異端審問会の正装そのものだ。かつて額に入れられていた血の色をした「F」の刺繍が、今は「生」に変わっている。
見慣れた光景ではあったけれど、改めてその異様さには恐れおののかざるを得ない。
「…………いつも生徒会が使っている部屋に隠しカメラをしかけておいた。もちろん――」
『須川がやられたようだな』
「…………盗聴器も完備している。これで情報は筒抜け」
生徒会の監視の穴をついてデートスポットを斡旋する――というゲリラ活動を僕たちはしているけれど、そういえば生徒会の盲点を見つけ出してくるのはいつもムッツリーニだった。どんなパイプがあるのだろうと不思議に思っていたけれど、これで合点がいった。ムッツリーニを敵にまわしてはいけない。
『ククッ、ヤツは生徒会の中でも最低……』
『リア充ごときに負けるとは我らの面汚しよ』
誰が何を喋っているのかまでは判らないが、会話の内容はちゃんと聞き取れる。
早速、昨日再入院と相成った須川君の話題が議題に上っているらしい。
『知っているか。須川は入院直前、美女をナンパしていたらしいぞ』
『許せんな。生徒会の風上にもおけん……殺るか?』
『早まるな。
『しかし、須川はこの地区の支部長だった……。後任人事を早く決めなければならんぞ』
『それも心配するな。総統閣下はすぐに対処すると仰っていた』
『……ここだけの話だが。近頃の総統の方針には疑問を感じずにはいられない』
『――貴様、総統を信じておられないのか!?』
『待て、興奮するな……俺は単に、総統と霧島翔子との関係性に疑問を抱いているだけだ。この間も登校デートをしたと聞く』
『……その登校デートが、今度解禁されるという話は知っているか。吉井明久――あの我らが怨敵と、総統が取引したともっぱらの噂だ』
『なんと……! やはり総統は我らを裏切ったのか!?』
『おのれ坂本! これほどまでに尽くしてきた我らを最後はゴミのように捨てるのか……っ!』
会話は取り止めがなく、須川君の生命を案じてしまう台詞も飛び交っていて心配になったけれど、ともかく僕が勝ち取った解放令は彼らにそこそこの動揺を与えつつあるらしい。
雄二も配下を完全に掌握しているわけではなさそうだ。ここを起点に切り崩すことも可能かもしれない。
そんな思案に暮れていると、俄かに画面の中の黒覆面たちがざわつき始めた。
『――落ち着きなさい』
扉が開いて、新たな人物が入ってきたのだ。
真っ赤な覆面に真紅のマント――常軌を逸したド派手な格好のその人物は、沸き立つ歓声を楽しむかのように黒覆面たちを睥睨してから、すっと掌ひとつで喧騒を鎮めて見せた。
下っ端黒覆面風情とは明らかに一線を画す存在感を放っている。モニタごしにも威圧感が伝わってきて、こいつは只者じゃないと僕は直感した。
『今日からこの地区を監督することになったゲバルトよ』
『おお……! まさか幹部が我らの指揮を執ってくれるとは!』
『総統閣下は我らを見捨てたわけではなかった……。鮮血の美少女の異名をとるゲバルト様にならこの魂奉げて悔いはない!』
『ゲバルト様……! 卑しい私めを踏んでください!』
しかもかなり人望の高い人物らしい。
雄二がこんなにも強力な配下を持っているなんて予想外だ。折角生まれつつあった亀裂があっという間に溶接されていってしまう。彼女はいずれ、ゲリラ戦線の前に強大な壁となって立ちふさがるだろう。
こんな人身掌握術に長けた人物、校内にいただろうか。声に聞き覚えがないわけではないけど、一体誰なんだ――!
『私たちの目的はアキ――いえ、吉井明久の動向を監視し、その暴挙を食い止めることにあるわ。アキ――吉井明久は瑞樹と付き合うという己の妄執に取り付かれ、校則を打ち砕こうとしている。私のため、そしてアキのため、皆には命を賭して戦い抜いてもらうわ!』
「――ってやっぱり美波だよね!? なにやってるの!?」
薄々感づいていたけど! 鮮血の美少女なんて暴力的な二つ名、美波にしかつけられない代物だけど!
『――? 今アキの声が聞こえたような……』
「…………しっ! 声に気をつけろ。ヤツラはすぐ隣にいる!」
「近すぎるよっ」
このカラオケボックスの防音はガバガバだ。迂闊に大声を上げればすぐに気付かれてしまう。そしてこの距離だ。即座に乗り込まれれば逃げ場なんてない。僕たちはあっという間に血祭りにあげられるだろう。
さっきのガンダーラ熱唱はスルーしてくれたようだからバレてはいないはずだけれど、より慎重な行動が求められることになったのは間違いない。
『――ゲバルト様!』
『大隊指揮官殿と呼びなさい』
『はっ! 大隊指揮官殿! 方針は見敵必殺でよろしいのでしょうか!』
『俺は吉井が憎いであります!』
『姫路瑞樹と両想いなどというこの世の不条理、小官には到底許せません!』
僕と姫路さんの顛末は今や学校中の知るところとなっている。惚れた腫れたが周知の事実というのは気恥ずかしさもあるけれど、そこらへんは慣れだ、と最近僕は悟った。僕は未だに、皆に囃し立てられている時以上に姫路さんを前にした時のほうがよっぽど照れてしまうのだから、周囲の視線なんて気にしていられない。
それに、モテない衆愚の嫉妬を一身に浴びるのはなかなか誇らしい気分だったりもする。……嫉妬の視線だけでなく、拳と刃物もぶんぶん飛んでくるのは閉口するけれど。
『……ダメよ。アキに危害を加えることは許可しないわ』
そんな、今にも刃物を持って僕を探し回りそうな暴発直前の黒覆面たちを、しかし美波は上手く宥めてくれていた。
『しかし大隊指揮官殿……!』
『吉井が野放しというのはあまりに耐え難く……!』
『毎日呪っても呪っても呪ってもあいつはまだ死なない……!』
『ダメったらダメ!』
もしかすると美波は僕を守るためにあえて生徒会に入ったのかもしれない、と僕は思い当たった。必死の説得を続けてくれる美波の姿からは真剣な想いが伝わってくる。
僕は自分を強く恥じた。まさか彼女も下衆な彼らに染まってしまったのでは……と一瞬だけでも考えてしまったから。
美波はちょっとアグレッシブに手が出てしまう女の子だけれど、やっぱり僕が尊敬する一番の親友なのだ。自分のイメージダウンに繋がりかねないのに、こんな風に僕の知らないところで頑張ってくれている――。
『それに、いざとなれば私が殺るわ』
前言撤回。真なる危機はやっぱり彼女だ。
『いい?
卒業にそんなルビ振るのは芸能人だけだから辞めて欲しい。それと、あまりにオープンな美波の独白に、部屋が殺意で満ち溢れてしまっている。
『おのれ吉井明久ッ……!』
『姫路を手篭めにしただけでは飽き足らず島田すらもその毒牙に掛けるとは……!』
『男としてうらやま……いや恨めしい!』
矛先は当然僕だ。目の前にいる人は君たちを使い捨ての駒にしか思っていないんだから、まずはそこに憤りを感じるべきなんじゃなかろうか。
『……考え方を変えるのだ同志たち』
そんな中、唯一冷静を保っていた黒覆面が騒ぎを鎮める。
『吉井が島田とくっつけば……姫路はフリー、ということではないか?』
『……その発想はなかった!』
『比べてみるのだ、島田と姫路を……!』
『……おお、同志の言うとおりだ! 清楚で可憐、頭脳明晰で巨にゅ』
実際に比較対象してしまった彼が、もちろん最後まで言い終わることはなかった。頸があらぬ方向に回転してびくびくと身体を痙攣させ始める。
『巨乳という言葉一回につき、脊椎をひとつ滑らせる……判ったわね?』
下手人が気迫を滲ませる。手並みに淀みと躊躇いがない。一回目のミスで第一頚椎だなんて、最初からクライマックスじゃないか。
『――噂になっている登校中の恋愛解禁だけれど』
一瞬にして恐怖に縛られた室内に美波は満足して、ここからが本題、という風に話し始めた。
僕らがもっとも欲しい情報だ。雄二があの取引を遵守するはずがない。必ずなんらかの妨害工作を企てているはずだ。ムッツリーニも身を乗り出して耳を澄ませる。
『坂本は好きにさせろとのことよ』
しかし、美波の発言は僕らの意表をついたものだった。
「どういう意図だと思う、ムッツリーニ」
「…………判らん。けど何もしてこないならチャンス。大きく勢力を拡大すべき」
ひそひそと僕らは善後策を話し合う。
雄二の真意は読めない。もしかすると泳がされているのかもしれない――と感じつつも、ようやく生まれた生徒会の隙は見逃せない。
『バカな! この世に蔓延るカップルたちの、幸せを邪魔し阻害するのが我らの存在意義では!』
『上層部はいかなるお考えか! 事と次第によってはただでは――』
一方で、モニタの中の黒覆面たちは一様に激昂していた。これも大きな隙だ。生徒会への信仰心が揺らげばいずれ離反者も出るだろう。
『静かにしなさい。もちろん貴方たちの心配も判るわ』
この中だと唯一の心配要素が美波だ。人心を美貌と恐怖で鷲づかみにしかねない。
だが、一方で美波が手綱を握っている限り暴発はしないという安心感はある。離反者は得られないが、妨害もなくなるだろう。功罪相半ばといったところか。
『実際、私も困る。瑞樹なら朝、アキを迎えにいくことくらいはやってのけるでしょうし、逆に私が近づけば恋愛活動の一環としてフられかねない……』
いや僕も鬼じゃないから、朝っぱらからおはよう美波、ところでこれからも良いお友達でいましょうね、なんてコンボをするわけがないんだけど……。
『では、我らはどう動きますか』
『そうね。私たちは独自にアキを追って、文書の奪還を目指すわ。もし総統が間違っていると判断したら――』
『できたら?』
『坂本を吊って私が権力を握る』
「独断専行は良くないと思うよ!?」
思わず大声が出てしまった。まさか美波自らが暴走するとは思いもよらない。
「…………バカ、明久!」
ムッツリーニが舌打ちする。モニタの中で、黒覆面が身を硬くしていた。聞かれてしまったか――?
『聞き間違えじゃないわ。今、アキの声がした』
モニタの中の黒覆面たちがあたりを探し始める。やがてその中の一人がこちら――カメラを向いた。
『大隊指揮官殿! これを!』
『カメラ……! やっぱりいるのね、アキ!』
ヤバい、完全にバレた!
「すぐに逃げようムッツリーニ!」
(ただいま留守にしております)
振り返った先に戦友の姿はもうなかった。アニメだったら破線が表示されているくらいの早業だ。
「相変わらず仲間を見捨てる判断だけは早いなもうっ! 僕も急がないと――」
『御用改めである!』
扉に向かいかけた瞬間、黒覆面たちが雪崩を打って踏み込んできた。間一髪、ソファの下に潜り込むことに僕は成功する。床はベトついている上、異臭を放っていた。スニークミッションなんてやるもんじゃない。
「……ここにはいないか。一番隊、二番隊で上の階を制圧しろ! 三番隊は出口を固めるんだ!」
さすがは元Fクラスの古強者たちだ。的確で迅速な指示を飛ばしながら、黒覆面たちが部屋から出て行く。
『ムッツリーニを出口付近にて発見! 追撃許可を!』
遠くからそんなやり取りが聞こえてきた。逃げ切れなかったらしい。
『追撃を許可する! 吉井もその近くだ、逃がすなよ!』
ムッツリーニを囮にすれば僕はなんとか脱出の糸口をつかめそうだ。捕獲されたムッツリーニが自供を始めるまでの僅かな時間が僕の生死を分ける。
ソファの下で身を捩じらせて周囲を伺う。喧騒は遠くに去った。逃げるなら今しかない――。
「気配は、ここからする……」
が、今度はゲバルト大隊指揮官殿が静かな足取りで入ってきてしまった。これで武力による突破は絶望的になった。立ち去るまで隠れているしかない。
「おかしいわね、
乙女心にそんな機能はついていないはずだ。
美波はうろうろと部屋を歩き回る。細い足首が目の前をよぎるたび、恐怖で声が漏れそうになって仕方がない。
しかし、このべとつく汚い床に這い蹲って、ソファを覗き込むことはしてこないだろう。いくら生徒会に所属したと言っても、美波が女を捨てたとは思いたくなかった。
「これは……アキのスマホ?」
しまった――と僕は重大なミスに気付く。
机の上のスマホを回収していない。雄二の一筆だけは確保したが、時間的に限界だったのだ。
ただ、スマホに手がかりはないはずだ、と僕は思い直す。
姉さんによって完全に壊されてしまっているからだ。不幸中の幸いというべきだろうか、画面の映らないスマホなど、他人と大きな差異が出るような代物ではない。
「……ん、焦げ臭い……」
すんすんと残り香を嗅ぎはじめた美波にちょっと身を硬くしてしまったが、それも無駄だ。融解したスマホからは金属の焼けた異臭しかしない。いや、そもそも残り香で個人を特定するなんてことが可能なのかどうかはわからないけれど。
「やっぱり気のせいかしら……」
美波がきびすを返す。――よし、これでやり過ごせる!
『――アキくん、姉さんです。さっきはごめんなさい、少しやりすぎてしまいました』
嘘でしょう……?
壊れたはずのスマホから、雑音交じりの姉さんの声が流れ始めた。着信機能だけは残っていたというのか。姉さんのトラップが優秀すぎて涙も出ない。
折角出て行きかけた美波が、恐ろしい勢いで戻ってきてスマホを掴み取る。
姉さんめ、なんて最悪のタイミングで――。
『あれから姉さん、反省しました。アキくんも男の子なんですね。たまには発散しないと、姉さんも身の
――なんて最悪な気の利かせ方をするんだ。それに姉さんだけには身の危険を感じて欲しくない。どんなに鬱屈しようと僕は姉に襲い掛かったりはしない。
『――か、勘違いしちゃいけませんよ、別にアキくんのためじゃないんですからね』
もう本当に僕のためになっていないよ……!
やがて姉さんの宣言どおり、さきほどムッツリーニと肩を寄せ合って見守ったえっちな動画の、音声だけが零れ落ちてくる。確か水泳の練習をしている女の子のところに、おっさんのコーチがやってきて、アドバイスと称して様々なエロい事をしていくというシチュエーションだったはずだ。
『ホラもっと足を開いて。恥ずかしいなんていってちゃダメだろう? そうしないと泳げないよ? さあ水着を脱いで裸になってみようか。そうすると上達が早いんだよ。ゆっくり右の肩から』
ぐしゃり、とスマホが握りつぶされて、破片がぱらぱらと僕の目の前に落ちてきた。
床の上で苦しそうに跳ね回るかつてスマホだったものたちは、まるで数秒後のわが身のように思えた。
「アキ……いるわね」
美波が、もはや一切の迷いがない足取りでこちらに向かってきた。
膝をつく。手をつく。覗き込まれる――。
咄嗟に僕は目を瞑った。
今ここで美波の顔を見たら、とても正気を保っていられる自信がなかった。
『大隊指揮官殿! 二番隊がムッツリーニを確保しました!』
救いの声は戸口からした。どうやらムッツリーニは戦死したらしい。
『二番隊は大隊指揮官殿の査閲を求めています!』
『すぐ行くわ。縛って逃がさないようにしておきなさい』
美波が歯切れ良く指示を出して、そして足音が遠ざかっていく。
五秒、十秒、二十秒……。僕の名を呼ぶ声はいつまでもしなかった。
おそるおそる瞼を開けた。誰もいない、静まり返った部屋に戻っていた。
美波は呼ばれるまま行ってしまったようだ。黒覆面が誰だったのかはわからないけど、深く感謝しなくてはいけない。
「恐怖だけで死ぬかと思った……」
はは、と安堵から笑みと涙まで出てしまった。背中がぐっしょり濡れている。
とはいえあまり虚脱している時間はない。ムッツリーニがゲロる前にここを離れなくては。
僕はずりずりとソファから這い出した。
そして見た。ソファの上に仁王立ちして、僕を見下ろす赤覆面の女の子を。
「アキ――みィつけた……」
「きぃぃぃぃえぇぇぇぇ!」
――眼前に迫り来る靴の裏の後、その先の記憶が僕にはない。
6
翌日の昼飯時に再び3-Fにやってきた雄二は、いつになく上機嫌だった。
そのとき僕は、ムッツリーニと会議の最中だった。もちろん、あの文書の公表をいつにするかという議題だ。
(…………良くあの拷問から守り通した。敬服する)
(うん、尻の間に挟んでいたからね!)
(…………飯時に聞くんじゃなかった)
記憶が飛び飛びだけど、えらい目にあったのは確かだ。いつもより全身の関節が動かしにくい。
公表は今日の放課後と決めていた。ゲリラ戦線の活動は現状上々の結果を迎えていて、非公式ながら数組のカップルが誕生している。この一ヶ月抑圧されたおかげで、学内では恋愛に対するボルテージが上がっているはずだ。
問題はただ一点、生徒会の妨害があるかどうかだけだった。雄二は放っておく方針らしいが、どこまで本当かは判らない。
「ずいぶん機嫌がよさそうだね、雄二」
話がある、と再び僕は屋上に連れてこられた。そこで襲われる心配も加味して、ムッツリーニに文書を渡して別の場所に逃げてもらい、中立である秀吉の同伴も頼んだ。
けれど、それは杞憂だったらしい。
「ああ。仕込が終わったんだ。霧島翔子浮気計画の第二幕を始めるぞ」
「なんじゃ、おぬしらまだ続けておったのか」
秀吉が口を尖らせる。僕だって同じ気持ちだ。
「霧島さんを傷つけるような計画には乗れないよ」
今度はきっぱりと、僕は拒絶した。人を悲しませたくないというのは本心だけど、ぶっちゃけ巻き込まれたくない。大概ロクな結果にはならないのだ。僕だっていい加減判る。
「安心しろ、翔子を傷つけたりはしない」
しかし、雄二は自信ありげな笑みを浮かべて言い切る。
「むしろ今回は喜ぶはずだ。いや、今現在喜んでいるかもな」
雄二が婚姻届に判を押すこと以上に、霧島さんが喜ぶことなどなさそうだけれど。
そういえば僕らは高校三年生だ。次元が歪まない限りもうすぐ18歳になる。婚姻可能年齢は男子が18歳だから、雄二としてはもはや後がない状況といえる。だからこんなにも焦って事態を打開しようとしているのかもしれない。
「使うのは――コイツだ」
雄二が取り出したのは、どこにでもあるようなスマホだった。
僕たちは一様に首を捻った。探偵七つ道具をいくつも兼ねられる代物だけに、スマホを使う計画といわれても具体的なものが思い浮かばない。
「翔子はとあるサイトに小説を投稿しているんだ」
「へえ、初めて聞いた」
頭の良い人は小説とかも上手に書けそうだ。霧島さんの作るお話と聞くと、ちょっと興味が湧いてくる。
「なんてサイトなの?」
「カワヨメとか、良妻賢母になろうとか……。主に主婦層を中心とした投稿サイトだな。中には夫婦生活の暴露とか、今日の献立とかもある」
「……うん」
世の中にはそういうのがあるんだ。広いんだね。
「読んでみるか?」
雄二がスマホを操作して、僕に差し出してくる。小説の目次ページらしい画面がそこにはあった。
タイトルは『雄二とわたし』。
「雄二、これ」
「何も言うな。――ちなみにすでに74話まで更新されている。当然連載中だ」
目次に目を走らせる。第一章・生誕編。第二章・邂逅編。第三章・別離編。第四章・戦火編。第五章・誓約編。第六章・天命編。第六章・魔界編。第七章・神話編……。
「……えっと、異世界系?」
「……多分ファンタジーだ」
雄二にはホラーかもしれない。でもちょっと第六章だけは読みたい。雄二が魔界で何するんだろう。
「ともかく、翔子はかなり熱心に小説を書いている。……ここで問題だ、明久。投稿サイトにアップするような人間は、何に喜ぶと思う?」
なんだろう。僕なら食べ物とかの差し入れが嬉しいかもしれない。または、自称小説家、という言葉には過分に貧乏のイメージがあるから、もっと直接的にお金とか――あるいはいっそ仕事かもしれない。面接なしで正社員になれるような会社を斡旋してくれたら万々歳だ。
「お前はバカか。顔も住所も知らない相手にどうやって食い物送るんだ」
「仕方ないだろ、僕は小説なんて書いたことないんだから」
「ワシは判ったぞ雄二よ。――感想を貰うことじゃろう?」
秀吉がぽんと手を打つ。
「そういえば姉上も、感想には一喜一憂しておったのう。辛口な意見もあったりと中々気苦労も多いらしいのじゃが、ないよりはよっぽど嬉しいと言っておった」
「木下さんも小説を書いているの?」
秀吉には双子のお姉さんがいる。木下優子さんといって、二卵性らしいけれど外見は秀吉そっくりだ。でも木下さんは秀吉と違って、3-A所属になるほど成績が良い。
頭のいい人はみんな小説を書くんだろうか。
「うむ。なんだかんだ、もう二年にはなるかのう」
思った以上に年季が入っている。
「いわゆるボーイズラ――いや、ラブストーリーじゃな、ラブストーリー。わりと熱心にやっておる」
恋愛小説か。木下さんはちょっとキツめの性格をしているのだけれど、案外王子様とお姫様が出てくるようなベタで甘い小説を執筆しているのかもしれない。秀吉が苦虫を噛み潰したような顔をしているのが気になるけれど、身内が創作活動に熱心というのがちょっと気恥ずかしいのだろう。
「秀吉の言うとおりだ。投稿サイトに作品を上げているようなヤツは、感想ひとつでコロッと落ちる……!」
雄二がクズなことを言い始めた。
「……だから俺は、こっそりアカウントを取って翔子の74話全てに感想を書いた。もちろん内容は徹底的にべた褒めだ。感動した、涙が出ました、早く続きが読みたい……そういうことだけを延々とな」
仕込みが必要というのはそういう意味だったのか。それなら確かに今現在の霧島さんは喜んでいるだろう。でも、真実を知ったら酷く悲しむんじゃないだろうか。
「作戦は順調だ。最近じゃ翔子も更新ペースを上げてきてる。考えてみりゃ、翔子に浮気をさせるなんて簡単なことだったんだ。俺にしか振り向かないなら、俺自身が振り向かせればいい……!」
雄二が悪魔のように獰猛な笑みを浮かべる。だめだ、こんな茶番、霧島さんが哀れすぎる。
「悪いけど雄二、やっぱり協力は――」
「明久。俺は翔子を傷つけたくてやってるわけじゃない」
声の調子を落として、雄二は哀願するかのように弁解を始めた。
「判ってくれ――ほんのちょっと、今後に有利な交渉材料が欲しいだけなんだ。昨日、俺の別のアカウント名でLINEを交換した。今から直接会う約束をして、待ち合わせ場所に現れた翔子を直撃する、たったそれだけの作戦だ。誰も傷つかない。感想をつけたのが俺だったとは漏らさないし、そうだな、今後も翔子のために読者をやり続けてもいい」
WIN-WINの関係……と言えるのだろうか。雄二は霧島さんの圧力をほんのちょっと弱めることができる。霧島さんは一所懸命書いた小説が報われて嬉しくなる。
ネットゲームで出来た何でも話せる一番友人が実は自分のお母さんだった、という話を聞いたことがある。笑い話か悲劇の類だけど、もしお母さんだと最後までわからなければ、きっと両方とも幸せだっただろう。
「……そういうことなら」
僕は折れた。もし雄二が暴走するようなら、そのとき止めれば良い。
「助かるぜ。じゃあ、早速誘うぞ――」
雄二はチャット画面を開いて、流れるような指使いでメッセージを送った。こんにちわ、チャットでは初めまして。
いくら雄二にしか目が向かない霧島さんでも、今回の作戦には引っかかってしまうかもしれない。何せ今回の浮気相手は雄二その人なのだから。あまり誉められたことじゃないけれど、雄二が新しい形で霧島さんを受け入れようとしているなら、ここは応援すべきだ。
「ククッ、掛かりやがったな翔子……!」
……いや、もう少し熟考しても良かったかもしれない。雄二がかつてないほど下衆な表情を浮かべている。
いつもありがとうございます、励みになっています、と霧島さんの返事が届いていた。そこに訝しがるような雰囲気は感じ取れない。むしろ、画面の向こうに霧島さんの微笑があるような気さえした。
「ここは単刀直入に、一度お会いしませんかと聞く」
「流石に急展開すぎない? こういうのって、もっとステップを踏んでいくものだと思うけど」
「いや、相手は翔子だ。ズバッといく男が好きだろう」
雄二がそういうのなら間違いないだろう。他でもない、ズバッといく男の代表例は雄二なんだから。
多少文面を思案して、要約すれば「会いませんか」という内容を送る。
「翔子、さっさと返事を寄越して来い……! その瞬間俺は自由を手にする!」
「まるで純真無垢なワナビを食うような手際じゃのう……」
秀吉はやや距離を取って呆れ顔だ。木下さんにも是非、こういう輩には気をつけてと注意喚起しておいて欲しい。
「まあ、姉上は大丈夫じゃろ」
「木下さんは慎重な人だもんね」
「いやそうではなく……多分男はそんなに読まん」
ああ、確かに恋愛小説だものね。好きな男の人もいるだろうけど、わざわざネットで探してまで読もうとはしないかもしれない。
「来た!」
勝利を確信した顔で雄二がメッセージを読む。
霧島さんの返事は――。
『雄二?』
一瞬でバレていた。
「バカなっ! このスマホは俺が独自のルートで入手したもんだ! バックドアもマルウェアも仕掛けられてるわけがねぇ! バレるわきゃねぇんだ!」
滝のような汗を流しながら、雄二が必死の形相で切り返す言葉を考え始める。霧島さんのメッセージは疑問系だった。上手くごまかせればワンチャンあるかもしれない。
『雄二でしょ』
なかった。
雄二が文章を組み立てるより早く、矢継ぎ早に霧島さんからのメッセージが舞い込んで来る。
『言葉の選び方が雄二。文体が雄二。句読点の打ち方が雄二。漢字の変換、改行のタイミング、余韻の残し方、全てが雄二。それに――』
もう抵抗する気力すら失ってしまったらしい。雄二はがっくり膝を折って、冷や汗の海に沈みかけていた。
『スマートフォンから伝わる体温が、雄二』
霧島さんのトドメに、雄二は崩れ落ちた。ただの脱水症状だろう。雄二ならちょっと干からびても問題ない。
「秀吉、僕らはもう行こうか。この際だから恋愛解禁令も発表しちゃいたいし」
雄二がこの状態なら、生徒会の大部分は機能不全に陥るはずだ。つけこまない手はない。
「……雄二はどうするかの」
「すぐに霧島さんが来ると思うから、あとは任せよう?」
これからは直に感想を伝えてあげればいい。少なくとも霧島さんは嬉しいはずだ。
予想通り、屋上を出るときに霧島さんとすれ違った。霧島さんは胸にたくさんのノートを抱きしめて、飛び跳ねるような足取りで雄二のもとへ向かっていった。
表紙に『夢幻編』と書かれていたから、きっとあれはアイディアノートみたいなものだろう。
読み聞かせだろうな、うらやましいぞ雄二――と。
僕は友人の無事を願ってやまない。
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