プロローグ

 新入生も学校に馴染み始めてきた四月の終わり、陽光の眩しい朝の校門で、ズダ袋を引っ張る霧島さんにあった。

 彼女――霧島翔子さんはこの文月学園の三年主席で、つまり今いる生徒の中で一番頭が良い女の子だ。一年二年、そして新しく三年と最下層のFクラスを突っ走ってきた僕とは住む世界が違う人なのだけれど、いろいろあって最近は良く話す。

「おはよう霧島さん――どうしたの?」

 声をかけると霧島さんは振り向いて、

「……おはよう」

 と、とても素敵な笑顔を向けてきた。

 ――笑ったとはいっても、もともと表情の変わりにくい無口な女の子だ。大きくて切れ長の目や、長く艶のある黒髪とか、スレンダーな体型とか、いろいろ加味すると学校で一二を争う綺麗な女子生徒なのだけれど、表情の乏しさから初対面では冷たい印象を与えてしまいやすい。

 でも、霧島さんの口元は少し上がっていて、彼女が何かにとても喜んでいるのが僕にはわかった。親しくなった恩恵というか、細かな表情の違いに気付けるようになったのは嬉しいことだ。

 よくよく見れば頬もどこか恍惚と上気していて、とにかく霧島さんは今とても幸せのようだった。

「重そうだけど、手伝おうか?」

 霧島さんの美人さに思わずどぎまぎしながら、僕は地面に転がる汚いズダ袋を指差した。

 何が入っているかわからないけれど、人一人分くらいの大きさがあってずいぶんと重そうだ。霧島さんの華奢な腕では苦労するだろう。

「……大丈夫」

 でも霧島さんは疲れをまったく見せずに、どこか恥らうように顔を伏せて、

「……一緒に登校、してるから」

 とポツリと言った。その仕草がとても可愛い。

「ああ」

 ようやく合点がいった。これ、か。

「……じゃあ、チャイム鳴っちゃうから」

「うん、引きとめて悪かったね――って霧島さん、縄が解けちゃいそうだよ」

 ずいぶん長い距離を引っ張ってきたようで、ズダ袋はあちこちが細かく破れて中身が飛び出しそうになっている。それに、口を縛る部分が上のほうに行ってしまっていて、このままだとすっぽ抜けてしまう。

 摩擦によるあれこれで、つまり物理の常識だ。

 僕は改めて結び目を整えてやる。中身はどこか人の形に似ていて、首に似ている部分にもやい結びを作ってやると不思議なほどしっくりくる格好になった。

「……上手」

「僕のクラスでは良く使うからね」

「あきひさ……たすけグッ!」

「うん、これでよし。これなら強く引っ張っても解けないよ。引きとめちゃって悪かったね」

 霧島さんにとってはきっと幸せな一時なのだ。あんまり邪魔しちゃ悪い。折角遅刻もしないで済みそうだから、僕は先を急ぐことにした。

 下駄箱について、少し振り返る。

 文月学園の校内に咲いていた桜はもう散ってしまったけれど、校庭にはまだまだ春らしい暖かな日差しが溢れている。

 校内に満ちる穏やかな陽気と、生徒が行きかう快活な声が、この学園の何気なくも一番いいところなんじゃないかなと、三年生になって僕はようやく気付いた気がする。

 その中を、霧島さんは幸せな様子でズダ袋を引っ張っている。僅かに抵抗を見せていたズダ袋も、今はすっかりおとなしくなっていた。

 やっぱり、学校に恋する乙女は欠かせないな、と僕は霧島さんの恋が健やかに実ることを祈った。

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