第7章 名前を呼ぶ(2)
別棟の中は異様な静寂に包まれていた。
仮にも王がいる建物なのだから、護衛の兵がいてもおかしくないはずだ。だのに、騎士一人どころか王の懐刀たる毒蛇の一匹も出て来ないとは、どういう事か。
罠の可能性を疑いながら走るデュルケンの足音だけが、長い廊下に響く。
走れ。ただひたすら自分に命じ、腕を振り、足を前に踏み出す。かつて同じ一念で一人闇の中を駆けたのが遙か過去のようだ。カシダが死んでからたった数週間の間に、自分は何て遠い所まで来てしまったのだろう。
どれほど走っただろうか。前方に人の気配を感じて、デュルケンは走る速度をわずかばかり落とした。
この気配には覚えがある。緊張に汗をかく手で短剣を握り、慎重に廊下の突き当たりへと踏み込む。
上階へ続く踊り場に立っていたのは、抜き身の半月刀を手にした黒服の男だった。間違い無い。家で襲って来た毒蛇だ。
一度見たら忘れられない三白眼が、ぎょろりとデュルケンを真正面から見つめた。
「どけ」デュルケンは油断無く短剣を構えながら毒蛇との距離を測る。「邪魔をするなら、倒す」
それは脅しではなく本気だった。パルテナを助ける邪魔をする者は、誰であろうが全力をもって排除する。それが今、デュルケンの思考を支配していた。
だが毒蛇が次に取った行動は、デュルケンの想像の範疇を軽々と超え、絶句させるに足るものであった。彼はゆっくり階段を下りて来ると、警戒心を解かない少年の前に片膝をつき、深々と頭を垂れたのである。
「我を障害と思うならば、貴方様のお気の済むように」
半月刀の柄をデュルケンに向けて床に置き、毒蛇は言った。
「ですがもし貴方様に一片でも慈悲のお心があらば、どうか、我が戯言を聞くだけのお時間をいただけないでしょうか」
ただ黙々と殺戮を行うだけの戦闘人形だと思っていた毒蛇が饒舌に語り出した事に、デュルケンははじめの内はただただ面食らって立ち尽くしていた。だが、武器を放棄し完全に殺気を消してひざまずくこの男の姿を見ている内に、今日の戦いが始まった時からたぎっていた激情の炎が、一時的に静まっていったのである。
少年が話を聞く気になった事を感じ取ったのだろう。毒蛇が覆面を脱ぎ顔を上げた。その素顔は思ったよりも若い――とはいえ三十路は迎えているだろう、頬骨の目立つ細長い面をした、蛇というよりは猛禽類を髣髴させる男だった。
「我が名はゾラ・イグ」
毒蛇が名乗った。
「毒蛇の長は代々この名を受け継ぎます」
「代々?」
デュルケンがおうむ返しに訊くと、ゾラは「は」と短く答えて話を続けた。
「我々毒蛇は、元をただせばオズ・クルの一族。しかしながら、イルザ王はオズ・クル全てを敵とはみなさずに我らの先祖に慈悲をくださった。その恩を未来永劫忘れぬ為に、我が血脈はゾラ・イグを名乗るのです」
「ならどうして俺を襲った。それが王家への義理立てか」
「いえ」
デュルケンが半眼になると、ゾラは再度平伏する。
「ベルギウスは風詠士の血を引かぬ偽りの王。真に仕えるべきは、亡きニネミア様の御子である貴方様ただ一人。それは重々承知しております」
「それが何故」
「恐れながら、試させていただきました」
デュルケンの苛立ちを込めた問いに、ゾラはあくまで淡々と返す。
「貴方様が我ら毒蛇が仕えるに足る王の器かどうか。あの炎の中で我に敗れるような王子であらば、最早ミナ・トリアに未来は無いと、自らの手でベルギウスを誅するつもりでおりました」
一瞬間を置き、毒蛇は付け足した。
「いえ、それ以前から。まだ赤子の貴方様を山中へ置き去りにした時から。ここで終わるような子では、死にゆくミナ・トリアを救う事はかなわぬだろうと」
その言葉の意味をデュルケンが理解するのにしばしの間が必要だった。しかし理解した瞬間、驚愕に目を見開く。
「お前が、俺を、捨てた?」
「申し開きの余地もございません」
ゾラが床にこすりつけんばかりに更に頭を下げる。
「十七年前、山中に貴方様を捨てて殺せと王に命令されました。しかしどうしても貴方様の生命を奪う決心がつかず、風切り刃の紋章と共に置き去りました。風詠士の血族だと気づく何者かに拾われる事を願って」
デュルケンは己の胸元に手を当てた。胸当てに覆われた服の下には、ミナ・トリア王族である事を示す風切り刃のペンダントがつけられている。それを自分に残したのがこの男だというのか。
「そして貴方様は生き延び成長され、こうしてお帰りになった。どうか今こそ正統なるミナ・トリア王として、暗愚の時代に終わりを。我らに再びイルザの末裔に仕える喜びをもたらしてください」
一気に言い終えたゾラが顔を上げ、熱を帯びた瞳でデュルケンを見つめる。心底からの期待に満ちた表情だ。
デュルケンはしばらくの間黙り込む。ゾラは辛抱強く少年の返事を待っていた。
「……俺は」
ゆうに三十秒は流れた後、デュルケンは戸惑いながらも言葉を紡ぎ出した。
「王になるなど考えた事が無い。国を治める自分なんて想像がつかない」
それは何度も己の頭の中で繰り返した、偽りようの無い本音だ。
「だけど」
わずかに眉間にしわを寄せたゾラの懸念を振り払えるよう、精一杯の強さを声に込めて、デュルケンは言い切る。
「俺には今、幸せになって欲しい人間がいる。笑っていて欲しい相手がいる」
脳裏で赤毛が揺れ、藍色の瞳が親しげに細められる。花の香りが鼻先をかすめた気さえする。
「俺が王になる事であいつが泣かないで済むのなら、俺はミナ・トリアの王でも何にでもなる」
ゾラは何も言わずデュルケンをじっと見つめていた。失望させただろうか。仕えるに値しない風詠士と思われただろうか。やはりこの男と戦わねば先へは進めないだろうかと、デュルケンが不安になり始めた頃、毒蛇は口の端をほんのわずかばかり動かした。
「カシダ・アスタル殿は、貴方様の養父として優秀なお方だったのでしょう」
笑ったのだ、とわかったのは、続けられた台詞からだ。
「今はそのお答えで充分です」
ゾラが半月刀を拾い上げるとすっくと立ち上がり、刀を鞘に収めた。そして半身をずらして、上階を指し示す。
「その証の為に、どうかミナ・トリアの解放を」
「お前はどうする気だ」
デュルケンが質問すると、ゾラはついと廊下の彼方へ視線を馳せる。
「我は毒蛇の長です。貴方様が戦いを止めろとおっしゃれば部下達を治めに走ります」
それでデュルケンも思い出した。まだ中庭で、城内で、城門前で、あちこちで、革命軍と騎士団と毒蛇が戦いを繰り広げているはずだ。
デュルケンがベルギウスを倒せば全てが終わるのだ。これ以上無益に血を流させる訳にはいかない。
「皆を止めてくれるか」
懇願にも似た次期王の最初の命令を、ゾラ・イグは胸に手を当て静かに低頭する事で受け入れた。
「メティラは雷を操る為の水晶髑髏を有しております」ゾラが忠告する。「オズ・クルの雷を封じる為にはそれの破壊を」
一瞬後、毒蛇は影となってその場から素早く姿を消す。一人残ったデュルケンは、上階を見上げた。
この先に、ベルギウスが、父がいる。顔も知らない、声も覚えていない。親らしい事を何もしてくれず、ただ死だけを与えようとした男が。
カシダが死んだ直後は激しい怒りを抱えていた。自分の唯一の居場所さえ奪った憎い相手だと。だが今、思う感情は別のものになっている。
止めて欲しい。もうこれ以上、オズ・クルに振り回されて不幸を撒き散らすのは。誰かを、パルテナを泣かせるのは。
それだけで良い。それ以上を望まない。
デュルケンは一歩一歩を踏み締めて、階きざはしをのぼり始めた。
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