第6章 鏡の巫女(ミ・ルラ)(3)
殴打の音が狭い室内に響く。
一切の手加減をしなかったデュルケンの一撃は、ケヴィンの頬にめり込み、彼をよろめかせた。
「――お前!」
金緑の瞳をぎらぎらと怒りに燃やしてデュルケンは我鳴る。
「お前のせいか!」
メティラと名乗る女がパルテナを連れて姿を消した後、床にのびていたデュルケンを助け起こしたのは、異変を感じ取ったレジーナだった。
彼女がケヴィンを呼んで来て、彼がある事実を語った途端、デュルケンの怒りは暴発したのだ。
曰く、メティラ・ネフロはベルギウス王の現在の妃であると。
その瞬間、デュルケンの思考は一つの道へと急速に繋がった。
ベルギウスの最も身近にいる女がここへやって来た。敵が知らないはずのこの場所を教える事ができるのは、女に近づける立場の者だけ。
つまり、ミナ・トリア正騎士であるケヴィン以外にいないではないか、と。
そして、噴出した激情を抑える事はまだ年若いデュルケンにはかなわなかった。
デュルケンが憤怒の表情で胸倉をつかみあげても、青年は口の端から伝う血も拭わぬまま青の瞳をただまっすぐに向けている。
「何とか言ってみせろ!」
「――やめなさい!」
更に拳を振るおうとしたデュルケンをレジーナが押しとどめて、ケヴィンから引き離す。
デュルケンの手から解放されたケヴィンは、騎士服の襟元を正してからやけに穏やかな声色で言った。
「確かに、僕は君に疑いを抱かれても仕方の無い立場にいるとは思っている。でも」
口元の血を拭った手が拳を形作る。それが急速に眼前に迫って来たと思った時には、デュルケンは部屋の隅まで吹っ飛ばされていた。
「一発は一発だ。心当たりの無い罪を着せられたお返しはさせてもらう」
ぎんと睨みつけると、こちら以上に鋭い冷たい視線がデュルケンを見下ろしていた。
こんな瞳をする男なのか。いや、これがこの男の本性なのだ。それくらいでなければ、体制をひっくり返す計画の先陣を切る事などできはしないのだろう。
確かに、自分の一方的な逆恨みだ。パルテナを守れなかったのは自分の落ち度なのに。デュルケンは唇を噛みしめ、がくりと肩を落とす。
「……何で」
我ながら情けない程にか細い声が、口から洩れた。
「何であいつなんだ。メティラは『ミ・ルラ』と言っていた。それは何なんだ」
レジーナとケヴィンが顔を見合わせる気配がした。
「あなた、カシダって人から聞いていないの?」
確認を取るようにレジーナが訊ねて来る。
「何をだ」
のろのろと顔を上げると、心配げにのぞき込んでいるレジーナの顔が間近にあった。
「風詠士なら知っていると思ったわ。オズ・クルと、ミ・ルラの存在を」
「オズ・クルの話は腐る程聞いた。ミ・ルラは知らない」
レジーナとケヴィンが再度視線を交わし合う。レジーナは真正面からデュルケンを見つめて語り出した。
「よく聞いて。メティラはオズ・クル。そしてパリィは、ミ・ルラなの」
「世間には、もう滅び去ったと思われているのよ。私達も、あなたも」
目の前の女が何を言っているのか。パルテナには理解しきれなかった。ただひとつ確実なのは、この女が自分に対して好意的な感情を持ってはいない、という事だけである。
誰だって、友情をおぼえる相手を、どことも知れない薄暗い部屋に後ろ手で縛りあげて放り出したりはしないだろう。それくらいは十一歳の少女でもわかる。
「私達オズ・クルは闇に潜んでずっと待っていたの。忌々しいイルザの血族に復讐し、再び我々の時代を取り戻す日を」
女が靴音高く近づいて来て、爪の長い指ですっとパルテナの頬を撫で上げる。
「その為に、私の同志が何世代もかけてミナ・トリア王宮に潜伏し、王の傍に近づいて吹き込んでやったのよ。『生まれる王子は、あなたの治世を脅かす』と」
くつくつと喉の奥を鳴らす嫌な笑いが、パルテナの耳に障った。
「ベルギウス王はとても素直な男ね。あっという間に信じ込んで、生まれた王子を捨てたわ」
ミナ・トリアの王子がデュルケンを指すというのはわかる。詳細はわからないが、デュルケンは王子として暮らせず苦労をして来たようだった。それが、オズ・クルとかいうこの女達のせいだというのか。
「ひどい」
感じたままの憤りを口にすると、「酷い?」と女は心外そうに肩をすくめて、紅をたっぷりに引いた唇をにやりとつり上げた。
「オズ・クルを異端として迫害して来たこの大陸の人間の方が、よっぽど酷いのではなくて?」
やたら冷たい指が再び触れ、パルテナの顎をぐいと持ち上げる。
「あなただって同じよ、お嬢ちゃん。ミ・ルラだと世間に知られれば、あなたも人間としての扱いを受けないわ」
「ミ・ルラは『鏡』の名が示す通りよ。接触した相手の力を反映し増幅させる、特殊能力者なの」
レジーナが右の掌で鏡を示し、左手の指で、反映、と突く。
「イルザ王の時代には、王の傍について風詠士としての力を倍加させる巫女がいたらしいわ」
だけど、と彼女は目を伏せる。
「その力ゆえに、ミ・ルラは恐れられて迫害された」
皮肉なものだとデュルケンは思った。風詠士であるイルザは王として栄光の道を歩んだのに、それを助けたミ・ルラは影の歴史を刻むしか無かったとは。
「パリィの母親は、かろうじて生き延びたミ・ルラの末裔だった。だけどそれをオズ・クルに知られて抹殺された。パリィの両親が殺された真相は、そういう事よ」
では何故、ミ・ルラの血を引くパルテナが殺されずに生き残ったのか。デュルケンはしばし思考し、そして行き当たった答えに息を呑む。
「あなたの思っている通りよ」
レジーナが力強く首肯した。
「パリィはその時に初めてミ・ルラの能力を発揮し、暗殺者の力を反映して、逆に暗殺者を殺したの」
パルテナは死を理解できなかったのではない。目の前で、自分の力で人が死んだ為に、死を理解する事を拒絶したのだ。自身の心を守る為に。
自分よりも幼い歳に、己の力で他者を傷つけたあの少女の心境を思うと、デュルケンの心臓はきつく締め付けられるような息苦しさを覚えた。
それから思い返す。家が襲われたあの日、パルテナが見せた自分と同じ金緑の瞳を。あれは、少女がミ・ルラとしてデュルケンの風詠士の力を反映したがゆえの色だったのだ。
だが、とも思う。パルテナがミ・ルラならば、それ以前にデュルケンと接触した時に能力が発動してもおかしくなかったはずだ。
「サティだよ」
疑念が顔に浮かんだのを読み取ったのだろう。ケヴィンが床に落ちていたくまのぬいぐるみを拾って、デュルケンの腕の中に押し込んだ。
「パリィの父君は、このぬいぐるみにミ・ルラの能力を制御するまじないをかけて、パリィに持たせていたそうだ」
デュルケンは驚いてぬいぐるみをまじまじと見つめる。赤いくまは、自分の事を話題にされているなど微塵も思っていない様子で――と見えるのは錯覚なのだろうが――ガラス玉の瞳をこちらに向けている。
だが、それでデュルケンの中で得心がいった。あの毒蛇の襲撃の時、パルテナはサティを携帯していなかった。その為に、デュルケンの風詠士としての力に触発されて、ミ・ルラの能力が発動したのだろう。
では、メティラがパルテナを連れ去ったのは。嫌な予感がデュルケンの中で膨れ上がる。
「ミ・ルラは、オズ・クルの力も増幅させるのか?」
問いかけにレジーナが無言で頷き、「恐らくは」とケヴィンが続ける。
「メティラは、パリィのミ・ルラとしての力を利用し、君を狙って来るだろう」
利用。その言葉に怒りがわき上がる。
メティラは、オズ・クルは、自分を倒す為に利用する気なのか。何も知らないあの無邪気な少女を。太陽のように笑い花の香りを振り撒く、暖かい場所にいて欲しいあの少女に、死を撒き散らさせる気なのか。
そうはさせたくない、させない、という決意が、デュルケンの中で強くなる。
彼は顔を上げ騎士を真正面から見つめて、はっきりと言い切った。
「お前達に協力する」
突然の宣誓に、ケヴィンとレジーナが目を丸くして見つめて来る。それを金緑の双眸で見返し、デュルケンは言い募った。
「お前達はミナ・トリア解放の為に俺を使えばいい。俺は、あいつを取り戻してベルギウスを倒す為に、お前達を頼る。それであいこだ」
あまりの言い分にレジーナは呆れた表情を見せたが、ケヴィンには逆に好感を与えてしまったようだ。
「そうだね」彼はふっと笑いを洩らす。「それくらいの利害関係であった方が、お互い気兼ねしなくていいか」
ケヴィンはみたび右手を差し出しかけ、しかし中途に止める。
「僕は君の信用を失ったままだろうからね。これは無しだ。これからの行動で身の証を立てるしか無い」
その言葉に、デュルケンも苦笑を返すのだった。
「それでいいさ」
と。
そして言葉には出さずに、祈った。
パルテナの無事を。
果たしてデュルケンの祈りは、届いたと言えるのだろうか。
「毒蛇があなたの事を報告して来た時には、本当に驚いたわ」
パルテナはこの時点では五体満足であった。オズ・クルの女のねっとりと絡みつくような視線に射抜かれている事を除けば。
「ミ・ルラはイルザに尻尾を振った忌まわしい眷属だけど、こちらの手に収めれば、風詠士を倒す為に使いようもあるって事ね」
パルテナは女の言う事を全ては理解しきれなかった。だが、この女が何か良からぬ企みをしている事、それがデュルケンに害をなすだろう事は、把握していた。
「デューをいじめないで」
少女の言葉に、女は一瞬、呆けたようにきょとんとして、それから高らかな笑い声を爆発させた。
「いじめる? ああ、あなたあの子が好きなの?」
何がそんなにおかしいのか、パルテナが不快を感じる程に笑い転げると、女は非常に意地の悪そうな笑みを顔に張り付かせた。
「面白い、面白いわ! ミ・ルラが風詠士に好意を寄せているなんて。そのミ・ルラが風詠士を殺すなんて、何て楽しい筋書きかしら」
女の両手がパルテナの頬を包み込む。
「いや」
自由のきかない身をよじって精一杯の抵抗を示す。だが、女の黒い瞳は真正面からパルテナをとらえて離さない。
逸らす事のできない視界に、水晶でできた髑髏が入り込んで来た。その両眼に黄色い光が灯った途端、パルテナの意識は空ろへと引き込まれてゆく。
「ミ・ルラ。受け入れなさい、我らオズ・クルの……」
女の言葉を最後まで聞き取れず、五感が失われてゆく。
(デュー)
少女は呼んだ。少年の名を。
(デュー、どこ……?)
切実な呼びかけに応える声は無かった。
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