第4章 ミナ・トリアの騎士(1)

 ミナ・トリア王都ベレタは、『風の都』として大陸全土にその名を知らしめる程の美しい都市であった。

 風詠士の王族が治める城下には常に新鮮な風が吹き、整備された水路が街中を縦横無尽に駆け巡って、澱む事を知らなかった。

 そこに住む人々は陽気で善良であり、道で誰かとすれ違う度に祝福の言葉を交わし合う。年に一度、春に開かれる精霊祭では、地区ごとに腕を競って作り上げた大小様々な山車が大通りをねり歩き、その上から、きらきらしく化粧を施しトル・メダに扮した若い娘達が沿道の人々に向かって色とりどりの花を撒き散らして、都は歓喜の輝きに包まれた。

 だが今、そんな『風の都』の面影はどこにも見当たらない。

 悪王ベルギウスの愚政によって風の流れを止めた王都は、空気悪しく、水路には、無造作に捨てられたごみや犬猫時には人の死体が浮く。

 大通りは石畳が割れたそのままに、店も半分が開いていない。行き交う人々はまばらで、時折見かける彼らも、死人のような顔を陰気に下へ向け、誰とも目を合わせないよう早足に通り過ぎるだけ。

 隣人と顔を合わせれば、口をついて出るのは挨拶ではなく、嘲り、悪口、もしくは上辺だけのお追従。

 反逆者を密告した者には、しばらく遊んで暮らせるだけの金が入る。いつ何時、ありもしない罪をかぶせられて処刑されるか。民は疑心暗鬼になり、結果、彼らの精神は更に荒れた。

 もっとも、悪銭は身につかない。むしろ強力に不運を呼び込む。冤罪で他人を陥れて金を手にした者は、暴力で全てを解決しようとする輩の格好の餌食となって、金どころか命をも失い、水路に浮く死体を増やすだけだった。

 そんな暴挙を更に増長させているのは、ミナ・トリアの騎士団であった。民を守るべき彼らが逆に民草を刈る。ベルギウス王の腐り切った性根の権化とばかりに、彼らは巡回と称して街に繰り出しては、男を斬り、女を物陰に引き込み、老人を蹴り、子供の指をそぎ落として、下卑た笑声をあげた。

 そして今日も、腐敗した実は街の陰で破裂し、その肉片をまき散らしている。


 鼻歌が流れて来る。

 デュルケンは、半ばスキップの足取りで道をゆく少女からわずかに遅れ、しかしいざという時必ず少女に手が届く距離を保って、黙々と歩いていた。

 今日は、家の大人一人とパルテナが連れ立って街へ買い物に出る日だったのだが、担当の女性が熱を出し寝込んでしまった。

 そこでパルテナの指名を受けたデュルケンが、彼女と共に郊外の家を出て街へと降りて来たのだ。

 彼の蒼髪と金緑の瞳は今、ひた隠すようにフードの下に収まっている。

『その姿で街を出歩いたら目立ってしょうがないわ。ベルギウスの配下に見つかったら、とんでもないもの』

 出かける前に、レジーナがそう言ってマントを差し出したのだ。

『なら、俺を外に出すのを止めれば良いだろうに』

 デュルケンはそう不満を口にしたのだが、レジーナはそれに対し、少しだけ意地悪げに口元を持ち上げて、デュルケンを絶句させる台詞を吐いた。曰く、

『ただ飯食べさせてあげているんだから、子守りくらいはして頂戴』

 と。

 あげているなど、恩の押し売りかと辟易したが、十数日経っても具体的な行動を起こせず、家を出てゆく理由もきっかけも得られず、世話になりっぱなしの身だ。反論の余地は無かった。

 そんな大人達のやりとりなど知る由は無いのだろう。パルテナは相変わらずな上機嫌の足取りで進む。

 呑気なものだと嘆息した時、デュルケンの耳に、大勢の人間が一人を足蹴にする音と、命乞いをする悲鳴じみた声が聞こえた。

 足を止め視線を転じる。狭く暗い路地裏で、四、五人の男が、一人の少年に罵声を浴びせながら、硬い長靴でこれでもかとばかりに蹴りをくらわせている。少年は顔を血と涙で濡らしうずくまりながら、必死に助命の嘆願をしているが、男達は聞きもしない。かえってその様子を面白がり、更に少年を蹴り上げ踏みつけた。

 男達はいずれも、金糸の装飾が施された白布による制服を身につけ、胸元には風切り刃の刻まれた紋章が鈍く輝いている。まごうかたなきミナ・トリア正騎士だ。

 デュルケン以外に足を止める者はいない。皆、見て見ぬ振り聞いて聞こえぬ振りをして過ぎゆくばかり。

 それが正しいだろう。下手に手出しをしようものなら、自分までも災難の渦に引きずり込まれる。命を奪われない為には、関わらないのが一番なのだ。

「デュー?」少年がついて来ない事に気づいたパルテナが立ち止まって振り返る。「どうしたの」

「……何でもない。行くぞ」

 デュルケンは蛮行から目を逸らすと、少女を促して再び足を進めた。死に物狂いの声が、やがて小さく弱々しくなってゆく。距離が遠ざかってゆくせいだけではあるまい。あの少年は遠からず、身勝手な悪意によって死ぬだろう。

 だがここで騎士達を制止して一人を救っても、鬱屈した彼らによって明日は二人が犠牲になる。それを救えば更に倍の人数が。もしくはその前に、自身の命が失われるかも知れない。

 自分が死ぬ。それは避けなくてはならない。風詠士の末裔として、カシダにもらった命で、父王の愚行をただすまでは。

 たとえそれが、自分のひとりよがりだとしても。


 そこそこ良質な野菜を良心的な値段で提供してくれる菜果店で、野菜と果物を買い、顔見知りのパン屋で残り物を分けてもらう。

 この時世、パルテナのような無邪気な――悪く言えば無知とも言える――子供がやって来れば、それにつけ込んでぼったくりのごとき値段をふっかける人間は多くいるのではないか、とデュルケンは予想したし、実際そういう場合に仲裁に入る為の自分の存在だと思っていた。

 ところが意外にも、そう、あまりにも意外な事に、パルテナは顔なじみの店員に笑顔で話しかけ、あれとこれとそれが欲しい、と非常に手際良く必要最低限の品を指差した。

 そして、『こないだの値段はこれだけだったから、今日もこれくらいでお願いね』と、大人顔負けの交渉術を発揮して、家の人間が数日間暮らせるだけの食料をあっさりと手に入れたのである。

 にこにこ顔で抜かり無く交渉の才を見せる少女の前では、大人達も悪意を差し挟めなかったのだろう。人の多い場所に出る時はカシダの後ろにくっついてばかりで、すっかり人見知りが板についてしまったデュルケンにとって、パルテナの歳に見合わぬ対人能力の高さは、舌を巻くに値するものだった。

「……お前、すごいんだな」

 重い荷物を担ぐ――自分の役割は荷物持ちだったのかとやっと気づいた――デュルケンが、相変わらずなスキップ並の歩調で大通りをゆくパルテナに声をかけると、パンの入った手提げ籠を振りながら歩いていた少女は、くりっとした藍色の瞳をこちらに向け、

「なにが?」

 と小首を傾げた。

 先日まではこの鈍感な様子が苛立ちを誘ったものだが、今は何故か微笑ましくすら映る。

「何でもない」

 デュルケンまで知らず知らずの内に口元を緩めると、パルテナがぽかんと口を開けた後、それはそれは嬉しそうに表情をほころばせた。

「……何だ」

 一体何がそんなに喜ばしいのか。たちまち眉間にしわを寄せて問うと、パルテナは満面の笑みを崩さぬまま言った。

「はじめて笑った」

「誰が」

「デューが」

 言われて、デュルケンは咄嗟に口を手で覆いたくなった。が、右手は野菜籠を担ぎ左手には果物の入った袋を持っているので、かなわない。何だか悔しくて、顔が紅潮するのを自覚した。

 それを隠す為にうつむき加減で歩を進めていると、パルテナの赤毛がふわんと視界に飛び込んで来て、デュルケンは足を止めた。パルテナが立ち止まり、にこやかな笑みを浮かべたままこちらの顔を見上げている。

「何なんだ」

 もう何回この少女に投げかけたかわからない台詞を、気だるく口にする。しかしパルテナは少しも怖気づかず、わくわくを抑えきれないといった様子で、右手――デュルケンから見て左手――を指し示す。顔を上げると、食事処の看板がぶら下がる建物があった。

「レジーナに、お金が余ったら二人でご飯を食べて来ていい、って言われてるの」

 実にタイミングの良い事に、デュルケンの腹が空腹を訴える不満声をあげた。折しも太陽は南中。買い物後の腹ごしらえをするにはうってつけの時刻だ。

「食べていこ?」

 頭を軽く傾けて誘惑の言葉を投げかけて来る少女の誘いに対し、育ち盛りの少年は、そっけなく断るという選択肢を執行する事がかなわなかった。

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