第3章 カシダのギター(2)

 単音、和音。

 ややぎこちない手つきで、デュルケンはギターを爪弾く。

 先程の音源は子供部屋だった。子供達がふざけ合いながら弦を弾いている所へ乗り込むと、彼らは一旦しんと静まり返った。

 しかし、デュルケンが手を差し出すと、ギターを弾いていた少年は言わんとするところを察したか、そろそろと楽器を差し出した。

 湿った髪のまま床に座り込み、いくらか調弦すると、ギターはそれなりに歌い出した。

 和音、単音、和音。

 不器用に奏でる音を、子供達はどこか小馬鹿にしたような表情で眺めていた。自分達より年上のくせに、楽器ひとつ満足に弾けないのか、しかも、偉そうに奪い取ったくせに、と。無言のからかいの一番手にいるのは勿論サムだ。

 しかし、パルテナだけは違った。ぬいぐるみのサティを抱えてデュルケンの前に座り込み、藍色の瞳をきらきら輝かせて、デュルケンの生み出す一音一音を食い入るように聴いている。

「ギターを聴いた事が無いのか?」

 人と向かい合う事には慣れていない。あまりにも真摯な瞳で見つめられるのがおもはゆくて、デュルケンは手を止めて少女に訊いた。

 パルテナは、デュルケンに話しかけられたとわかると、花が咲いたような笑みをほころばせ、嬉しそうに何度も何度も頷いた。否定形の質問に首肯で答えたのでは結局どちらなのか判断がつかない。デュルケンはそれ以上を語り合うことを諦め、再びギターの弦を弾く。

 単音、単音、和音。

 散発的だった音が次第に流れをもって、曲と成ってゆく。

 それに気づいたパルテナが、歌詞を口ずさみ始めた。

 それは、風詠士イルザが親を失った子供達の為にトル・メダと共に作り出したという、子守歌。ミナ・トリアの人間ならば誰もが知っている一曲だ。

 十一歳の子供にしては均整の取れたパルテナの吟詠に、いつしかデュルケンの演奏も調子づき、美しい旋律を生む。

 デュルケンを侮っていた子供達も嘲笑を引っ込め、そこかしこの床にきちんと腰を下ろして、二人の紡ぎ出す歌に聴き入っていた。

「きれい」

 ふっと歌を止め、パルテナが幸せそうにサティに顔をうずめて言う。

「デューの音はすごくすごくきれいだから、大好き」

 和音が乱れた。

 きょとんとこちらを見上げるパルテナを居心地悪そうに見下ろして、デュルケンは呟く。

「お前、そう簡単に好きだの嫌いだの……」

 金緑の瞳が戸惑うように揺れ、弦を弾く指に迷いが生じる。

「好きなものはちゃんと好きって言いなさいって、ママが」

 パルテナはにこりと笑うが、デュルケンは答えなかった。心なしか赤くなった顔を伏せがちにしてギターを弾き続ける。

 自分は誰かに好きと言ってもらえる資格など無い。

 その思いが、デュルケンの胸の内でぐるぐると渦を巻く。

 自分は殺したのだ、他人を。自分を育ててくれた恩人さえも。

 誰かの死の上で生きている人間に、好意を寄せてもらえるはずなど無い。

 そう考えると、この曲の弾き方を教えてくれた、もういない人の顔が、デュルケンの脳裏に浮かんだ。

 カシダ。

 カシダ・アスタル。


 カシダは南の大陸スル・ジョ出身の、炎のごとき真っ赤な髪と紅玉ルビーにも似た瞳を持つ、小柄な男だった。

 彼の正確な年齢をデュルケンは知らない。訊いてみた事もない。デュルケンが物心ついた時点でカシダは既にいい大人で、デュルケンが成長する間には、ちっとも歳を経たように見えなかったのだ。

 デュルケンという名をつけたのはカシダである。彼の故郷に伝わる神話の英雄の名前だそうだ。

 彼はベレタからやや離れた森の中に一人で住んでいた。別に人間嫌いだとか、俗世から離れたかったとか、そういう訳ではない。ただ単に住処に選んだ場所が辺鄙なだけだったらしい。

 そんな彼がデュルケンを見つけたのは、十七年前。嵐が過ぎた秋の一日。

 猟の為に仕掛けた罠が雨で流されていないか山へ様子を見に行った時、泣き声が聞こえ、そちらへ足を向けると、狼の死体が累々と横たわる中、ひたすらに声をあげて泣く赤ん坊がいたのだという。

「風詠士だと、すぐにわかった」

 カシダはデュルケンが六歳の時に、己が知る全てを語った。

 狼達は、鋭い刃で切り裂かれたようにして死んでいた。なのに赤ん坊だけは無事で、まるで、赤ん坊を中心に凶暴な風が吹き荒れたようだった。

 そして、赤ん坊がくるまれていた布の高価さと、その中にひっそりと忍ばされていた風切り刃のペンダントが、カシダに確信を与えた。

「お前はミナ・トリア王家の血を引く、最後の風詠士だ」

 カシダは、デュルケンが子供だからと遠慮せず、誤魔化さず、言葉も簡略化せず、風詠士の系譜とこの国の陰惨な現状を包み隠さず語った。

 デュルケンもはじめから全ての話を呑みこんだ訳ではない。カシダの所有する書物を紐解き、時に辞書を引き、時にカシダ自身に質問をぶつけて、岩に水が染み込んでゆくようにゆっくりと、子供なりに、ミナ・トリアの来し方と現在と己の立場を理解していった。

 カシダは養父として、デュルケンに言葉を教え、最低限の常識を教え、獣を狩る方法を教え、己を守り戦う術を教え、人として在る為に必要な知識の殆どを与えてくれた。

 ギターをこよなく愛し、冬の寒い日には暖炉そばで、南の大陸から輸入される貴重な薄荷パイプをくわえながら、様々な曲を奏でたものだった。

 そんな彼だが、デュルケンが求めても教えられない唯一のものがあった。それが風詠士としての技能だった。トル・メダと語り合い風を制御する方法はイルザの子孫へ一子相伝で、親から子へと伝えられるもの。東の大陸出身でない者、ましてや風詠士でもない者が教えられるはずが無かったのだ。

 己の力を持て余したデュルケンは、事件を起こすべくして起こした。ある日、些細な言い争いから激昂したデュルケンの怒りにトル・メダが反応し、風の刃を暴走させたのだ。カシダは咄嗟に自衛したが、左手の腱を切った。

 ぼたぼたと手首から流れる血で床を赤く染めた養父の姿を見て、デュルケンは、感情ひとつで人を傷つける程の力を自分が帯びている事に戦慄し、気が動転して、爆発するように声をあげてただひたすら泣いた。

 そんなデュルケンを、カシダはそれでも、ぶつのではなく強く強く抱き締めた。

「ごめんな、俺は悪い親だ」

 そしてカシダは初めて自分の過去を語った。

 まだ南の大陸に住んでいて、家族と暮らしていた頃。

 彼の父親は非常に酒癖が悪く、毎晩浴びるように飲んでは母親に罵声をぶつけ、手当たり次第に物を投げつけて壊し、まだ子供であるカシダと妹に当たり前のように手をあげた。母と妹は毎日のように泣いていた。

「いいかデュルケン、女を泣かせる男は最低だ。自分の子供に手をあげる親はもっと最低だ」

 冬の寒い日の事だった。例によって酷く酔った父親を、母が珍しく勇気を振り絞ってたしなめたところ、父は激怒し、台所から包丁を持ち出して振り回した。

 泣きながら逃げ回る母と妹をかばい、カシダは無我夢中で父親に組みついた。泥酔していた父は子供の体重さえ受け止めきれずによたついて、ごうごうと燃えていた暖炉の中へ倒れ込んだ。たちまち、炎が父の身体を包み込んだ。

 断末魔の悲鳴をあげながら燃え落ちてゆく父を、誰も助けなかった。母は慄然と凍りつき、妹は恐怖のあまりにわんわん泣いた。

 カシダもまた動けずにいた。自分のしでかした事の重大さを、受け止めきれなかった。

 その後、母は精神を病んで早々にこの世を去り、残された子供達はそれぞれ別の家に引き取られていった。別れ際まで泣きじゃくっていた妹の顔は今も夢に見るのだと、カシダは語った。

 両親を死に追いやり、妹を泣かせた。

「つまり、俺も最低の人間だという事だ」

「最低なんかじゃ、ない」

 自嘲するカシダに対し、デュルケンは涙で顔をぐしゃぐしゃにして、しゃくりあげながら言った。

「カシダは、俺を育ててくれた。色んな事を教えてくれた。カシダは俺の最高の父親だ」

 背中に回された腕から流れる血がしっとりと服を濡らしてゆくのを感じながらも言い切ると、その腕に込められる力がいっそう強くなった。

「お前にそう言ってもらえるなんて、俺は幸せ者だなあ」

 流血しているのに、腕の力は強いのに、カシダの声はやけに呑気だった。だがその声はしっかりとデュルケンの耳に入り込んで、心に染み渡った。

 ギターを弾けなくなったカシダは、それから後、デュルケンに己の知る限りの楽器の弾き方を指南した。

 今でこそ人並みの身長だが、当時は細くて背丈も低かったデュルケンが、大きいギターを抱えきれなくて悪戦苦闘していると、小柄なりに使いこなせる持ち方や調弦から曲の奏で方までを、しっかりと教えてくれた。

 元々カシダの演奏を見ていたデュルケンは、呑みこみだけは早かった。ところが、知る事と実際に指を動かす事は別物。カシダが「まあそんなもんだろ」と、薄荷パイプをくわえながら苦笑する、そんな腕前にとどまった。


 結局、カシダからの評価は「そんなもんだろ」から上がらなかった。そして未来永劫上がる事はない。

 カシダは死んだ。デュルケンはそう確信している。

 あの晩、突如二人の住処である小屋を襲った暗殺者達。黒装束で統一し、覆面で目以外を覆い隠して、決して素顔を知られぬように闇を駆ける、『毒蛇ヴィ・ボラ』と呼ばれるミナ・トリア王家の懐刀。狙った獲物はしとめるまで追い続ける、執拗な爬虫類。

 彼らの目に触れないように、カシダはひっそりと暮らし、デュルケンを連れて街に出る時は、彼に深々とフードをかぶらせて、風詠士であると主張する蒼い髪と金緑の瞳が目立たないように用心していた。

 それでもどこからか噂は洩れたのだろう、毒蛇は蛇のくせに聡い耳を持っていたのだ。

「逃げろ」

 小屋の裏口へデュルケンを導きながら、カシダはいつになく真剣な表情で告げた。

「裏手の森をまっすぐ抜けて、街へ潜りこめ。人の中に入っちまえば、奴らもしばらくは手を出せないだろう」

「あんたを置いて行けない」

 一緒に逃げようと迫ると、カシダはふっと笑んで首を横に振った。

「お前はこの国に必要な存在だ。生きろ。血まみれになっても、泥水すすってでも、生き続けろ。俺ごときの命に、重みを感じる暇なんて無いんだ」

 すっかり成長したデュルケンよりも小さい手が、さりげなく、しかし意外な力を込めて、「行け」とデュルケンの胸を押した。

「お前を育てられて良かった。できれば、お前がミナ・トリアの王になる所を見たかったがな」

 それがカシダの口から聞いた最後の言葉になった。


 和音を奏でて、弦を弾く指は止まった。どうして途中で止めるのかと、パルテナが不思議そうに見上げて来る。

 デュルケンの口の中には、もう何度もかみしめた後悔の苦味がじんわりと広がっていた。

 カシダがデュルケンを逃がした後、できるだけ多くの敵を足止めしようとしたのだろう、小屋は爆発して燃え落ちた。カシダの命をも呑み込んで。

 カシダは大陸最大の帝国リバス・タリエルで開発された、火薬を使った武器を独自に研究していた。夜中まで武器を解体していた事もあったし、取り出した少量の黒い粉に火をつけて、油を用いたランプよりも煌々と炎が燃える様を見せてくれた事もある。

 更に量を増やせば、戦場で一気に数十人を消し飛ばす恐ろしい武器になるとも教えてくれた。カシダはそれを人生の最後に実践したのだ。

 ギターを奏でる方法が、その指を持つデュルケンが存在する事が、カシダが生きた事をこの世に残す証。それ以外のカシダの全ては、あの爆発で世界から消えた。

 己はそこまでして守られるべき命なのだろうか。デュルケンは自問を繰り返して来た。

 答えはまだ出ていない。

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