二の段其の七幕 女教師美亜と職員教育
「美亜さま、多くの国々と言葉があり、それぞれ別の生き方と法があるのでは、この世に絶対の法などないということにはなりませぬか?」
道義の授業時間、そう美亜に問い返したのは才人として名高いわけでも、世に知られたわけでもない一人の男だ。
十六人の男女が集まる教室にざわめきが起こることもなく、この時代にあっては考えられない教師に対して自由に発言する生徒という図式を、皆当然と受け止めていた。
農協の職員となったものに義務として課せられる授業の中では、既に詳細な世界地図を使っての世界情勢や実験器具を用いて観測される物理現象を教えている。
そのため、農協はこの時代にあってもっとも高い見識や相対的な比較によって法則を導き出す科学的思考を持つ学徒を生み出すまでになっていた。
「それは間違いではありませんが、義を踏み外し、誤解を生みやすい考え方ですね」
美亜が語っているのは善悪二元論ではない論理的思考に基づいた考え方=義というものを使った善悪の判別法だ。
「誤解ですか? 義は正しく筋道だったものの考え方だから……矛盾しやすいということですか?」
前の授業で得た知識をもとに美亜の言葉を理解しようと男は問いを重ねた。
「はい。 絶対ではなくても法に目的がある以上、共通の認識によって成り立っています」
男の理解が間違っていないことを肯定し、美亜は話を続けた。
「さっき
なるほどという顔になって男は美亜が言いたいことを理解したことを言葉で示した。
「ええ。 ですから罪に対する罰として以外に人を殺すことや傷つけること。 盗むことや女性を力づくで手込にすることなどは、基本的にどんな文化でも禁じられています」
実のところどんな文化であれ、生産性を有する集団が組織を維持するために創る根源的な法というものに大差はない。
そうでない集団は欲望を制御できない獣の群れでしかなく、容易く崩壊してしまうからだ。
「それでも侍たちは平気でそれをやっとります」
暗い顔でそう言ったのは故郷の村を焼かれ逃げ出した年若い女だ。
本来、人の集団を束ねる役割を持っていたはずの人間がその役割よりも自分たちの欲望を優先し、力による横暴を通すようになってから過ぎた長い時が戦国の世を産み出していた。
「そうですね。 集団に共通した敵というものを勝手につくることで自分達の組織の内側では認められない行為を許すのは矛盾です。 その矛盾を正すのが道義で、矛盾しない義が正義になりますね」
そう言いながら女の傍によりそうと、なぐさめるようにその背を撫ぜ、美亜は続けた。
「そうした矛盾を持った無数の組織が世界中に乱立する戦国の世を、
同時刻。
その教室から数百キロ離れた
「ですから、正等防衛による殺傷を除く全ての暴力を禁じられた‘武士’と侍はそういう意味では真逆のものになります。 民を守るという言葉を名分としてしか使わずに、自分達に従う者のみに与える侍の義は、矛盾を持ち天下を治める正義ではありえないということです」
この教育棟に集まるのは農協職員の中でも体力に優れたもので‘武士’というものに興味を持った人々である。
盗賊や無法者が降伏した場合は、久遠の操る‘式貴’による地獄の矯正により、半ば洗脳に近い教育や命衣の魔術による個人記憶消失などが使われるが、ここに集まった人間は職員採用試験で人格的に問題ないと判断されたため、美亜が教育を行っているのだ。
「美亜さま。 では、我ら‘武士’は侍を敵として戦うことが役目なのですね!」
そう声をあげたのは商家の出だという若い男だ。
美亜を崇拝する男達の一人でかなりの御調子者だった。
どうやら美亜にいいところを見せたいという思いに駆られているらしい。
「いいえ、それは違います」
しかし、男のたくらみは美亜の一言であっさりと潰えた。
「武家である侍も民であることに変わりありません。 彼らを敵として戦うのなら、彼らと同じ存在になるということ。 それは矛盾であり正義とはいえません」
「では、戦わずして勝つことを我らは目指すのでしょうか?」
そういったのは、かって一向宗の僧籍にあった一人の男だ。
「いえ、それも違います。 “ 何ものにもとらわれず何ものをも恐れず何ものをも憎まず良心のみに従い、道義をもってただ民を守ることを誓う ”。 これはあなたがたが‘武士’となるときにしてもらう宣誓ですが、それこそが ‘武士’のたった一つ役割です」
「なるほど、‘武士’とは戦うものにあらず。 戦わないのであれば勝ち負けもない。 そういうことでしょうか?」
もとは小さな神社の
「はい。 ですから、あなた達は農協の者であってもなくても、戦えない者を、人を害する者達から守る存在になってもらいます」
それは近代日本でいうなら、自衛官やましては旧軍の軍人などではなく警官の在り方だ。
それも刑事などの犯罪捜査官ではない街のお巡りさんの在り方だろう。
遥か未来の理想を語られた彼らが、それを夢物語と思っていないことは、その真摯な瞳を見れば充分判る。
多くの武家や公家達が聞けば、鼻で笑うだろう言葉を耳にしても彼らがそんな目をしていられるのは、彼らが‘武士’によって助けられた者達だからだ。
全身をパワードスーツに包み槍や刀剣を受け付けない‘武士’は彼らからすれば、神仏の使いと感じられた。
人間には無理な所業も神仏の力ならば、と感じるのはこの時代にあっては当然の事だ。
「軍人や国家というものの存在を否定するというのは、難しいと思っていたけどあまり抵抗なく受け入れられているようね」
いくつもの教育現場を使い魔を通して見学していた命衣は、予想外に簡単に教化が進む様子に感心した様子で言う。
「近代と違って国家による精神的征服が確立していないからだろう。 武家にも主家に対する忠義は存在しても、愛国心なんていう実体のない国家に対する抽象的な従属欲は生まれていないしね」
愛国心や国家への忠誠というものは、中央集権国家が異文化を仮想敵にして国民をマインドコントロールすることでしか成立しないのだと説明しながらも久遠の言葉には客観的な事実を述べている雰囲気しかない。
「ナチスにしろバチカンの連中にしろ、権力の亡者供のやることがろくでもないのは確かね」
対する命衣の言葉には
どちらも表だってではないが大魔女としての彼女の命や身体を奪おうとしてきた相手だ。
また民族的にも、公的には
現代の先進国においてさえ、差別は根強く残っているが、大魔女メイアの生きた時代は、その比ではないほど、世界中で権力による暴虐が罷り通った時代だった。
彼女の声に恨みや憎しみが混じっていないのが、いっそ不思議なくらいだったが、それは久遠と出会った事が大きいのかもしれない。
「同じ歴史を繰り返させる気はないよ。 そのための武家文化の否定だ。 彼らのやりかたにつきあって同じ穴の狢になる気はない」
そういう久遠の声からは情熱も意気込みも感じられない。
唯、静かな意志だけが存在していた。
「そうね。 戦う事しかできなかった昔とは違うものね。 せいぜい驚かせてやりましょう」
命衣はそう久遠の意志に応えると華やかに笑った。
そう、ここに英雄として散った大魔女はもういない。
そして久遠の計画が成功すれば、英雄という概念は神と同じく過去の遺物となるだろう。
天道暦0004。 人類の変革は静かに進んでいた。
用語解説 特殊読み仮名
農協: いのつみ
‘武士’: まもろし
ジプシー: チガニー
天道暦0004: てんどうれきダブルオーゼロフォー
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます