Who are you?

麻倉 ミツル

Who are you?

 

 あなたは昨日の夕御飯を覚えていますか。

 あなたは一年前の夕御飯を覚えていますか。

 あなたの昨日はどんな一日でしたか。

 あなたの十年前はどんなものでしたか。

 あなたはどこにいますか。

 あなたはどこで産まれましたか。


 渋谷の町並みは相変わらず雑多としていた。歩いてる最中、流行の衣服を着こんだマネキンが硝子の向こう側に立っているのを横目で見て僅かに立ち止まる。硝子が自身を朧気に映す。もう少し服装に気を遣った方が良いかもしれないと、よれよれになった長袖のシャツと、背後を通り過ぎる人達の服装を鏡で盗み見て思った。溜息を吐いてから、再び渋谷の通りを歩き出す。高層建築物はドミノのように並び、交差点を通れば人波に呑まれそうになる。そんな人混みの中を抜けては裏道に踏みこみ、やがて辿り着いたのは、クリーム色だった外壁がところどころ剥がれたボロアパートだ。

 幼馴染みの伊藤 海斗が地元を離れて渋谷に住みはじめたのは一年前のこと。志望していた学校に見事合格した海斗は自宅と大学の距離を考えて、大学から近い渋谷で一人暮らしを始めた。家賃などの金銭的な面では両親の援助とアルバイトで賄っていると海斗は言っていた。音符のマークが付いたインターホンを押すと、「はーい」と間延びした声が聞こえる。鉄製の扉がゆっくりと開かれ、海斗の顔が覗いた。

「久しぶり」

 海斗の弾んだ声。規律のあった高校生の頃とは違い、海斗の髪はかなり伸びていた。黒い前髪は眉を隠し、目元まで届きそうになっている。

「うん、久しぶり」

 約六ヶ月振りの再会に、僕も喜ぶ。早速、海斗が住む部屋にあがる。思っていたよりも部屋は片付いている。お互い畳の上に腰をおろしたところで、僕は炭酸飲料をショルダーバッグからとり出し、海斗に手渡す。

「はい」

「さすが。気が効く。大学はどう?」

「特に何も。友達もそんなにいないし、高校の頃の方が楽しかったよ」

 僕もまた、バッグからペットボトルをもう一本とり出し、海斗と一緒に喉を潤す。

「海斗はどう? 大学は」

「まあ、行きたい大学に行けたわけだし、結構満足してる。でも、こっちは強い相手がいなくて退屈してるよ」

 海斗の親指がさした先には、既に点灯した薄型テレビがある。テレビの画面には見慣れた格闘ゲームが映し出されていた。ショルダーバッグから格闘ゲーム専用のアーケードコントローラーをとり出すと、海斗は待ってましたと言わんばかりにアーケードコントローラーを膝の上に置いた。

「僕も、海斗以上に強い相手がいないから退屈してたよ」

 日当たりの悪いワンルームで、薄型テレビの光はやけに輝いて見えた。いつもと同じキャラクターを互いに選択し、対戦をしながら僕達は些細な会話を交わす。僕達の会話はいつも適当で、明日には忘れてしまうような、そんな話題ばかりだった。

「今日、夢を見たんだけどさ」と海斗が話を切り出す。互いの体力ゲージは半分まで削られている。

「夢? どんな?」

「トラック乗ってる夢。街中をひたすらトラックで突っ走って、止めたいんだけど、アクセルもブレーキもないんだ」

「ハンドルは効いたの?」

「ハンドルも効かなかった」

「うわー、絶望的だね」素早くコマンドを入力する。このラウンドは僕が貰った。すぐさま第二ラウンドが始まる。

「そう、絶望的。夢の中での俺はすごい怖がってるわけ。走ってるから降りることもできないし、トラックはずっと信号無視」

「結局どうなったの、それ」

「目の前にきた車と衝突するところで、夢から醒めた」

「目覚めて安心した?」

「したした。神様に感謝したくらいだ」

「神様なんていないって、海斗言ってなかったっけ?」

「都合良いときに神様は生まれるんだよ、俺の中では」

「なにそれ」と笑い声をたてる。しかし、目は笑っていない。第二ラウンドはあっさり海斗にとられた。二本先取で勝敗が決まる中、第三ラウンドが開始する。

「でもそんなスリルある夢、最近見てないなあ。空から地上に向かって急降下する夢とかなら、幼い頃に見たけど」

「パラグライダー?」

「ううん、背中には何もつけてない」

「その夢のオチ、あれだろ、地面に衝突するところで夢が醒めたとか」

「うん、大正解。夢から醒めて、汗がすごかった」

「あー、コンボミスった」

「よし」

 海斗のミスによって生まれた隙を突き、僕は勝利をおさめる。再戦を選び、時間を忘れて僕達はゲームに耽る。益もない会話もまた、続いた。僕達が死んだあとにゲームはどれだけの進化を果たしているのか。人型ロボットが孰れ人類に反逆を企てる未来とかを想像して話が盛り上がったり、先程海斗が見たという夢から連想した、アクセルとブレーキを必要とせず目的地を告げれば運んでくれる自動車はこの先普及するかどうか、など。あとから振り返えれば、なんであのときあんな話をしていたんだろうって、疑問に思うこともある。けれども、そんなどうしようもない話が一番、楽しかった。海斗の前だと、いつだって僕は本音で語り、海斗もまた、思ったことをそのまま言う。僕達の間に、遠慮はなかった。友達ってきっと、そういうものだと僕は思った。

 連戦が続き、少し休憩をとることになった。今回、勝率は僕の方が良い。海斗は少しコンボミスが目立っていた、コマンドの入力がシビアなコンボを海斗は使うようになった。まだ安定はしていないけど、海斗ならすぐマスターするだろう。海斗は手を止めることなく、オンライン対戦でコンボの練習をしていた。僕は、サンドバッグになっている対戦相手をじっと見る。キャラクターの上に表示され続けている2Pという文字を見て、僕は、思いついたことをそのまま話す。

「本当に、人間が操作しているのかな」と。

「なに言ってるんだよ」と海斗が笑う。

「たまにそう思わない? 本当は人間じゃなくて、コンピューターを相手にしてるんじゃないかって」

「その考えは面白いけど、コンピューターは高度なコンボを使用しないし、残り時間を見て待ちプレイをすることもない。コンピューターとの間には、たいした駆け引きがない。人間との違いは露骨だ」

「いまは、そうだね。僕達が死んだあとにゲームがどれだけの進化を果たしているか、さっき話しただろ? 近い内に、コンピューターと人間の操作が区別つかなくなるくらい、格闘ゲームは進化してるかも」

「それは、楽しいだろうな。ちゃんとした練習になる」

 海斗の笑みにつられて、口角があがるのを僕は自覚した。

「人間じゃなくて、コンピューターを相手にしてるっていういまの話、現実にあてはめて考えてみたことがあるんだ」

 アーケードコントローラーを常に弄っている海斗とは違って、手が止まっている分、僕は自分が饒舌になっていることが分かっていた。

「おはようと言えば、おはようと返す。それは当然の反応だ。その当然の反応が不意に、不気味に感じたのが切っ掛けで、周りの人達が皆、物事を本当に考えているのかどうかって疑ったことがあるんだ」

 虚空を見詰めて語る僕の声は徐々に弾んでいく。海斗以外の前では、こうした話はしたくてもできないだろう。馬鹿馬鹿しいと一蹴されるのがオチだ。だからこそ、楽しい。

「僕は、僕の視点から考えると一人のプレイヤーなんだ」

「プレイヤーか」

「そう、プレイヤー。多分、誰だって自分が主人公で、他のひとたちはRPGでいう村人に映る。話し掛ければ、決まったことしか応えないプログラムに」

 海斗が相槌を打つ。それが心地よくて、僕は誰にも話したことないことを話せる。

「そう考えたら、僕以外のひとは皆、NPCじゃないか、って、」

 そう思うんだ。

 そう言い切ろうとしたのに、声が出なかった。日当たりの悪いワンルームで、海斗の顔がホログラムのように、僕の目には映る。

「ん? どうした」

 海斗の顔は、身体は、ゲームのバグみたいに緑の発光を伴って常に点滅し、不鮮明に、この現実に存在していた。海斗は自身の変化に気付いていないのか僕が何故、驚いているのかが分かっていない。

 海斗がなにか喋る。いつも流暢に喋る海斗の言葉は片言になっていって、やがてそれも、スピーカーの周波がズレてしまったかのように何を言っているのか分からなくなった。畳の上に置かれた荷物に目を向けることなく、僕は海斗に背を向けて、靴下だけを履いたまま外に出る。そのまま息を切らして、とにかく走る。放棄していた思考が少しずつ、冷静さをとり戻す。これは現実だ、さっきから夢のような浮遊感はない。走っている最中、靴下を通して感じる地面の冷たさと、小石を踏んだときの痛みがはっきりと伝わる。「どうして」と声を洩らす。どうして、こんなことに、どうして海斗が、あんなことに。間違いであってほしい、夢であってほしい。海斗のアパートから出て、僕はこのどうしようもない恐怖から解放されようと、後ろ姿が見えている、おそらく主婦だろう、食材がはいったビニール袋を提げているひとに「すみません」と声を掛ける。「はい?」と甲高い声で返事をして、そのひとは振り返る。僕は「ひっ」と、思わず、悲鳴を洩らしてしまう。そのひとの顔は原型を留めていなかった。海斗同様、ゲームのバグが起きたように、全身がブレていて、緑色の発光

を起こし、点滅している。それは最早、僕の知っている人間ではなかった。僕は全力でその場から逃げる。追いかけてこないか、ときおり、うしろを見る。

 渋谷は、

 バグが起きていたのは、人間だけではない。建物もまた地震が起きたかのようにブレ、中は透け、電波の繋ぎが悪いテレビのような光景が目の前にあった。現実から目を背けて、前を走る。「どうして」と、なみだ声で言う。なにが原因で、おかしくなってしまったのか。いや、もともとおかしかったのか、この世界は。都合のいいように地面と空気があってみんな生きている。地球がどう生まれたかなど実際に見ることは叶わない、この世界は五秒前に出来上がったものだということを人類は未だに否定できない。考えれば考えるほどに疑問が生じ、地面に立っているのが不思議だと感じてしまうほどに、気持ちが不安定になる。

 人通りに出て、僕は絶望する。擦れ違う人達みんなが、人体の原型を留めていなかった。この現実がゲームだとしたら、狂ったようにリセットを繰り返し押すだろう。だが、そうではない。僕は、悪夢から醒めてほしいと願って、通り道を走りながら叫び続ける。そもそも、最初から悪夢の中にいたのか、僕は。分からない、どれだけ考えても。訊いてしまったのが、駄目だったのか。僕以外のひとは皆、NPCじゃないかって、そう、友達に話したことが駄目だったのか。友達。「あれ」

 名前が、思い出せない。

 立ち止まって、頭を両手で抱える。さっきまであんなに仲良く話してたのに、嘘だ、こんなの。それとも、最初から僕に友達はいなかったのか? そんなことないとかぶりを振って、過去の記憶を辿ろうと目を瞑る。高校生だった自分を思い出そうとするけれど、その記憶が正しいのかが思い出せない。中学生のときにどんな毎日を過ごしていたのか、どのような授業を受けていたのか、先生の名前と顔が、思い出せない。小学生のとき、隣りに座っていた子が誰だったのか、食べていた給食の献立も、分からない。確かに足跡を刻んでいたはずなのに振り返えれば、もう何処にも見えない。お母さんとお父さんとの思い出が、僕の頭の中に確かにあったはずなのに、手を伸ばしてもすり抜けてしまう。昨日の夕飯の記憶さえも朧気で、あれ、そもそも、僕は誰だ? 疑問は解されないまま面をあげればショーウィンドーが映って、さっきもここを通った気がするとマネキンを見て思った。僕は鏡に映る僕を見て、乾いた笑いを洩らす。

 僕は思う。知らないほうが良いこともあると。疑問なんて持たないほうがいい、一回しかない人生は楽しんだほうが良い。僕は、考えることをやめた。そうしたら、世界は元通りになった。僕は、伊藤 海斗が住むあの一室へと踵をかえす。

 世界は、きょうも平和だ。


 あなたは昨日の夕御飯を覚えていますか。

 あなたは一年前の夕御飯を覚えていますか。

 あなたの昨日はどんな一日でしたか。

 あなたの十年前はどんなものでしたか。

 あなたはどこにいますか。

 あなたはどこで産まれましたか。

 

 あなたは、あなたですか?

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