第五十話:大団円。そして──

「控えよ玄蕃! 御老公の御前であるぞ!」

 突如として自らの眼前に駆け込んできた鷲鼻の家老に対して、頼時は鋭く叱責の声を上げた。

 だが、この魁偉な容貌を持つ男はいささかも怯んだりなどしなかった。

 おのれの主君と将軍家長老の御前にてうやうやしく片膝をついた彼は、されどまったく萎縮することなく自説のままを披露した。

「否、控えませぬ」

 傲然と胸を張りつつ玄蕃は言った。

「殿。殿のお命は、もはや殿御自身だけのものではありませぬ。残りわずかとなった殿のお命は、殿御自身のみならず、金森の、そして飛騨高山のものにてございます。

 にもかかわらず、いま殿は左様大事なお命を、ただ御自身のわがままのためにのみ浪費なされようとしておられる!

 ゆえにこそそれがし、殿の忠実なる家臣として、飛騨高山の重職を担う家老として、おのが主の間違いを正さぬわけにはいかぬのです。

 殿。たとえそれがつまらぬ口約束の類いであったとしても、先日御老公と交わされたそれが殿にとっていと尊き約定にほかならぬこと、この玄蕃とて理解できぬものではありませぬ。されど、それとこれとは話がまったく別にござる。殿は一己の武士である以前に、由緒ある金森本家と、そして六代続く飛騨高山藩におけるたったひとりの主なのでございますぞ!

 殿。重ねて申し上げます。御老公との誓約を違えることでここに一時の恥を晒すことになろうとも、金森が主として、飛騨高山が主として、何卒何卒、大いなる決断をもって我が進言を聞き届けていただきとう存じまする」

「面白き男でございますな、そのほうは」

 そんな玄蕃の物言いに応じた者は、意外にもその主君・頼時ではなく将軍家長老格である光圀のほうであった。

 このなんとも人好きのする小柄な老爺は、その外見に相応しいからからとした笑い声を上げながら、あたかも軽口を叩くがごとくに言を発した。

「仕える御家の危難に際し、不興を買うことをいささかも恐れずおのが主人へ苦言を呈する。これは、わかっておってもなかなかできる所行ではございませぬぞ。玄蕃とやら。もし私がおまえさまの主であったのなら、その剛毅のほどを心より褒め称えておったことでありましょうな」

 投げかけられたそれは、明らかに賞賛の意を含んだ言葉であった。

 よほどひねくれた気性の持ち主でなければ、まずそれ以外の受け取り方をするはずないと評し得た。

 思いもかけぬ相手からの思いもかけぬ好意の発露に、鷲鼻の家老はその表情をはっきりと緩ませた。

 「ははっ」と大きく頭を下げつつ彼は、形式張った感謝の言を口にする。

「御老公様より直々のお褒めを賜り、この玄蕃、感激至極にございます」

 しかし、続く光圀の発言は玄蕃にとって決して好ましいそれではなかった。

 「左様喜色をあらわにするのは、いささか早計でありますぞ」とひと言彼をたしなめたのち、老爺はおのが前言にすかさず注釈を付け加えてみせたのである。

「いま私が申したことは、前提として、そのほうの進言がまこと忠義の心より出たものであれば、という但し書きが付いたものでありますからのう」

 それを聞き、わずかにその身を硬直させた飛騨高山藩城代家老に対し、光圀はなお畳みかけるように鋭利な舌鋒を差し向けた。

「おまえさまの言い草をここで黙って聞いておれば、まるで頼時殿の身罷るがその望みのごとくではありませぬか。そのように不遜な態度が、果たして藩の重臣たる者のそれであっていいわけなどありませんでしょうに。いみじくも金森の禄を食む人間がおのが主の回復を希求せず、ただただその黄泉路へ向こうたのちのことのみ思いやろうとは、ひととして、臣として、明らかに礼を欠いた振る舞いだと思うたりはしないのですか?」

「御言葉ですが、御老公様」

 玄蕃からの反論は素早かった。

「それがし、飛騨高山が城代家老の地位を預かる者として、当藩の行く末を過つわけにはまいりませぬ。たとえ後世に冷血非情と呼ばれようとも、間違っていることは間違っていると我が主人を諫め奉らねばならぬのです。

 御老公様。これも皆すべて、公のためにございます。飛騨高山の、金森家のためにございます。奇跡を望み、神仏に頼り、殿の御身体が健やかに戻られるを懸命に祈るは、あくまでも私のことにすぎませぬ。左様な私心に偏るがあまり、訪れるかどうかすら判然とせぬ幸運に一国が政を委ねるなどといった権限を、我ら重臣一同、微塵も与えられてはおらぬのでござる」

「ほう」

 それを引き継いで光圀が言った。

「では、あくまでおまえさまは頼時殿が逝去を望んでおるわけではない──左様申しておると受け止めて間違いないのでございますな?」

「当然でござる」

 胸を張って玄蕃は答えた。

「この玄蕃、金森家中の者として、何ゆえそのような不義理をこの心中に抱くことなどあり得ましょうや」

「なれば、改めて尋ねましょう」

 老爺の口調がわずかに変わった。

「この私がそなたの主人の命を繋ぐ良き薬を携えておると申した件について、何故におまえさまはそれを意に介そうとしないのですか?」

「良薬などと」

 鷲鼻の家老は不躾に鼻を鳴らした。

「我が殿の病は、当藩選りすぐりの医師たちがことごとくさじを投げたほどの難病。いわば回復できぬ死病にござる。そのような病を討ち果たせる薬餌など、およそこの世に存在するはずもありませぬ。もし左様な代物をいま御老公様が本当にお持ちであるのなら、ぜひこの場にてそれがしにお見せいただきたいものでござる」

 玄蕃には確信があった。

 そんなものなど実在しないという確信である。

 当然であろう。

 彼の主・頼時の病、それは決して自然発生的に生じたそれではなかったからだ。

 頼時の身体を襲っている不調のすべては、この鷲鼻の家老の息がかかった藩の医師・大村寿仙の手で密かに盛られた毒薬の類いが引き起こしているものだった。

 病の症状とされているものの正体が人為的なそれであるのならば、どれほど有用な薬をその肉体に与えようとも患者の容態が好転しようはずなどない。

 それは、もはや自明の理と言っても構わないことですらあった。

 だから玄蕃は挑発気味に光圀へ対した。

 それが武士としてはるか上位の存在であるにもかかわらず、知らず知らず軽い侮蔑の表情すら浮かべてこれに当たった。

 そんな玄蕃の態度を前に、しかし光圀はあえて怒りの感情を表に出しはしなかった。

 無論、それに気付いていなかったというわけではない。

 むしろこの英邁極まる老人は、鷲鼻の家老の心中深くに潜む本音をすら見通していたと言って良かった。

 そこに垣間見えたものは、あまりにも薄暗い出世欲そのものだった。

 目的を果たすためには手段を選ばぬという、常軌を逸した上昇姿勢そのものだった。

 ある意味人道の極みを越えているとさえ評し得たその欲求は、実のところ光圀がもっとも嫌悪する情動のうちのひとつだった。

 ゆえにであろうか。

 続いて放たれた彼の言葉は、およそひととしての温もりが欠落しているものだった。

 あたかも融通の利かぬ町奉行が冷たく裁きを言い渡すかのごとき口振りで、老爺はきっぱりと言い放つ。

 その発言は、どこか最後通牒にすら酷似していた。

 彼は言った。

「よろしい。ならば見せてしんぜよう。頼時殿が病魔を払う、これ以上なき良薬のなんたるかを」

 光圀が軽く左手を挙げるとともに、この場へ勢いよく駆け込んできた影があった。

 それは、明らかに武家のそれとは思えない風体の子供たち三名であった。

 女の子がふたりに男の子がひとり。

 使い古された地味な着物を身にまとった彼らは、口々に「頭白さま!」と叫びながら、いまだ舞台上で力なく座り込んでいた白髪の僧侶目がけ懸命な足取りで駆け寄っていく。

 鼓太郎はその三人の子供たちをよく見知っていた。

 それは紛れもなく、彼が尾張名古屋の古寺で生活を共にしていたあの兄弟分どもに相違なかったからだった。

「なんで、あいつらがここにいるんだよ」

 驚きの余り思わず頓狂な声を発する鼓太郎の眼前で、白髪の僧侶が飛び出さんばかりの勢いで舞台上から飛び降りる。

 次の刹那、「ゆき、はな、大治郎!」と両手を広げて迎え入れる頭白に向かって、三人の子供たちが身体ごとぶつかっていった。

 頭白は戦いで傷付いた顔を文字どおりくしゃくしゃになるほどに歪ませつつ、子供たちを力強くその両腕で抱きしめた。

 具体的に何が起こったのかを考えるだけの余裕は、この時の彼にはなかった。

 ただただ心の混乱に流されるがまま、青天の霹靂とも言える存外の喜びへその身を投じるしか為す術を持たなかった。

 降って湧いたようなこの出来事に激しい当惑の色を見せたのは、光圀の御前で形だけかしこまってみせている城代家老・姉倉玄蕃と彼の腹心である用人・生島数馬もまた同様であった。

 ふたりは、その子供たちが裏柳生・柳生蝶之進の身内の者であり、彼におのれらの意を強制するための体のいい人質であることをはっきりと認識していたからだ。

 だが、それら三名の子供たちは、いま姉倉屋敷の一角で容易に外界と接触できぬよう完全な幽閉状態に置いてあったはずだ。

 それが何故、いまこの瞬間、よりによってこの場所にいる?

 あり得ぬ。

 あり得ぬ。

 そんなことがあり得ていいはずなどない。

 両名が陥った混乱に強く拍車をかけたのは、続いてこの場に姿を現した屈強な渡世人風のひとりの男であった。

 松之草村小八兵衛。

 徳川光圀の手足として、陰に日向にその能力を駆使するこの常陸の国の盗賊は、力任せに引き連れてきた坊主頭の小男をどさりとおのが足下に投げ捨てた。

 見るからに高価な十徳を羽織り、町医者風の身形で固めたその男。

 鷲鼻の家老とその腹心は彼が何者であるのかを知っていた。

 飛騨高山藩御目見医師・大村寿仙。

 それがこの小男の肩書きと名前であった。

 藩内屈指の知恵者であるを自認する姉倉家用人・生島数馬は、この瞬間、何があったのかを迅速に察してその顔色を見る見るうちに青ざめさせた。

 そしてそれは、理解度の大小こそあれど彼の主人もまた同じだった。

 そう。

 両名はともに、何者かが「藩主暗殺」という自分たちの目論見を知り、それを探り出すべくこの渡世人風の男を姉倉屋敷と寿仙の邸宅に侵入させたことをいま痛烈に認知したのである。

 だが何故だ?

 数馬は戸惑いつつも自問した。

 我らはおのが尻尾を掴ませるようなへまはしていない。

 企てに関わった人数は最小限。

 ことにその核心たる毒薬の手配を手がけた者を言い挙げるなら、我ら主従と此奴、大村寿仙以外にはひとりもおらぬ。

 にもかかわらず、いったいどこから企てが漏れた?

 いったい何奴が、どうやって我らの企みに感付くことができたというのだ?

「御家老さまよ」

 そんな数馬の困惑を尻目に、小八兵衛は玄蕃に対して芝居がかった啖呵を切った。

「まったく、忠臣面が聞いて呆れるってもんだ。てめえの大事な殿さまに一服盛り、自ら進んで病魔の役を買って出た野郎がそんな台詞を口にするたぁ、こいつはなんともふてぶてしい。地獄の閻魔さまもびっくりだぜ。

 おめえさん、殿さま亡きあと御養子の跡継ぎに取り入ることで藩の政を欲しいがままにしようって魂胆だったらしいな。獅子身中の虫たぁ、まさにこのことのこった。

 だが御家老さまよ。残念ながら、悪事って奴はいくら隠し立てしたところで、お天道さまにはすっかりとお見通しさね。これこのとおり、おめえさんの悪行をしたためた書状を御老公さまのもとへお届けなさるくれぇなんだからな!」

 そう言い終えるや否や、小八兵衛はおのが懐から幾重にも折りたたまれた一枚の紙を取り出した。

 音も立てよとばかりに広げたそれを、右手で高々と頭上に掲げる。

 その紙面には、達筆だがどこか癖のある文面がつらつらと高密度で書き綴られていた。

 無論、距離があるせいで詳細な内容までを読み取ることはできない。

 にもかかわらず、鼓太郎はこの時、その書面が頭白の手になる代物であることをはっきりと理解した。

 そこに記されているやや変形した文字のいくつかに、しかと見覚えがあったからだ。

 あれは頭白さまの字だ。

 間違いない。

 そう少年は確信した。

 そして同時に洞察した。

 あの書状が、過日の夜、自分が彼の者の手より直に託された「あの書状」であることに間違いないという厳然たる事実をである。

 それは、数日前の深夜における出来事だった。

 高山城二の丸屋形に設けられた一室でひとり就寝していた鼓太郎は、不意におのれの名を呼ぶ聞き慣れた声によって無理矢理眠りを妨げられた。

 「誰だよ。こんな夜遅くに……」と完全な寝ぼけ眼でまぶたをこする彼を声の主は「しっ」と短く制し、続いて「私だ。鼓太郎」と単刀直入に名乗りを上げる。

「頭白さま!」

 跳ね起きざまに思わず声を上げそうになった鼓太郎の口を素早く片手でふさぎつつ、その予期せぬ来訪者、白髪の僧侶・頭白坊こと柳生蝶之進は、極めて真剣な眼差しでもって少年を見詰めた。

「おまえに頼みがある」

 なんの前置きもなく彼は言った。

 懐から分厚く折り畳んだ一通の封書を取り出し、それを鼓太郎の手に押し付ける。

「この書状を水戸の御老公にお渡しして欲しいのだ」

「そんなの──」

 何か訳ありな空気を察してか、頭白の手を振り払いながら声を潜めて鼓太郎が応える。

「おいらになんて頼まずに、そっちで勝手にお渡しすればいいじゃないか」

 それは、なんとも子供らしい素直な反発心の表れだった。

 この時の鼓太郎にとって、頭白という存在はかつて自分が敬愛していたあの風変わりな旅の僧侶と重なり合う存在ではなかった。

 むしろ、明確な敵対者として認識されていたと言ってもいいだろう。

 何しろ彼は、城代家老・姉倉玄蕃の代理として敬愛する師匠・古橋ケンタの前に立ちはだかる対戦相手なのだから、まだ世の中の粋も甘いもよくわからない少年が左様判断してしまったことも、まんざら無理のない話であった。

 だからであろう。

 その声色には有無を言わせぬ抗議の意がはっきりと込められていた。

 危険を冒してまでわざわざこんなところ高山城二の丸に忍んでこれたんだから、いっそのこと最後までその手でやり遂げてみせろよ、とでも言いたげな光彩が、その眼の中でぎらぎらとした輝きを放っていた。

 高山城内に乗り込んで遂には囚われの身となったケンタと鼓太郎を「天下の副将軍」こと徳川光圀がその権威でもって救ったあの日以来、少年は師匠共々この二の丸屋形においてほとんど軟禁同然の状態に置かれていた。

 もっとも監視の有無と移動の制限を除けば生活自体に不自由はなく、どちらかと言えば藩主の客人にすら近い扱いでもてなされていたがゆえに、送る日々それ自体が不快であったというわけでは毛頭ない。

 さらに光圀直々の配慮からか、同じ二の丸屋形に居を与えられたケンタに対してだけでなく、城の外から足繁く通ってくるおみつや茂助との接触までもがいっさい阻害されることなかったゆえに、その感触はことさら強固なものとなっていた。

 ただ、自分をそんな状態に置いた張本人たるあの好々爺や藩主・頼時、そして言い方は悪いがこの仕合の「賞品」たる秋山葵のような一件の中核にいる人物たちとは、さすがに面会する機会を与えられなかった。

 もちろん、ケンタの対戦相手に指名された頭白とその後ろ盾となっている姉倉玄蕃らに関しては、改めて述べるまでもないだろう。

 彼らは城外の姉倉屋敷に沙汰あるまでの待機を命ぜられ、家老職にある玄蕃は藩命によって城への出仕を免じられているほどだった。

 それは、行われる仕合に公正を期するため必要な最低限の仕切りであった。

 そんななか、仕合当事者の片割れである頭白が禁を破ってまで高山城内に忍んできたという事実は、彼の持ち込んできた案件がただごとでないことを雄弁に物語っていた。

 暗中に煌めく頭白の双眸が、何よりも確かにそれを裏付けていた。

「おまえの言うことはもっともだが、私がこれ以上動けば、事が大事になりすぎる」

 いきりたつ鼓太郎に向け、白髪の僧侶は斬り捨てるようにして言い切った。

「だから、おまえに託すのだ、

 鼓太郎。これが御老公さまの目に留まるか否かで、古橋殿や葵殿は言うに及ばず、飛騨高山三万八千石の命運までもが左右される。

 おまえは事が為すまで、決してこのことを余人に告げてはならぬ。たとえそれが古橋殿であろうとも、だ。この件は、あくまでもおまえひとりが、おまえひとりの裁量でやり遂げねばならぬ。そうしなければ、おまえに託した意味がないのだ」

 私はおまえを信じている──頭白はそう言葉を締めくくって、ふたたび音もなく闇の向こうに姿を消した。

 鼓太郎からの受諾を待つ素振りすら見せなかった。

 それはまるで、少年が自分の依頼を拒むことなどありえぬと確信しているがごとき所業であった。

 しばらく困惑したままだった鼓太郎が意を決して行動を起こしたのは、ちょうどその夜が明けるか否かの頃合いだった。

 迷いはあった。

 心のどこかに親愛の情が残っていたとはいえ、いったんは裏切り者の烙印を自分で押したそんな男を信じることに強い抵抗があったからだ。

 だが、鼓太郎はそんな自分を振り切った。

 本能だったと言ってもいい。

 頭白が自分を騙そうとしているようには見えなかったし、正直、あれだけの大人がおのれを名指しで頼ってくれたことを嬉しく思う気持ちがあった。

 山肌から流れ込む朝霞と早朝の闇の中に身を隠し、藩士たちの目を盗みながらその出入りの隙を突いて本丸内に忍び込んだ鼓太郎は、幾度かの危機を乗り越えつつ、たまたま厠へと向かっていた松之草村小八兵衛と出会うことに成功した。

 事情を話し、その伝手をもって彼の老爺との対面にまで辿り着いた鼓太郎は、緊張が解けたゆえかその場で大泣きしながら気を失ってしまった。

 なんとも恥ずかしいことながら、少年はその前後に起きた出来事を鮮明に記憶していた。

 「坊。よう知らせてくれたのう」と、あの水戸光圀が自分を労ってくれた言葉が耳の奥ではっきりと蘇ってくる。

 その瞬間、鼓太郎は頭白の、古橋ケンタに先んじるおのが師匠の真意を悟った。

「頭白さまは……頭白さまは、おいらたちのことを気になさっていてくれたんだ」

 少年は呟く。

「御老公さまに敵の悪事をお知らせして、師匠や葵姉ちゃんを助けようとしてくださったんだ。頭白さまは、やっぱり頭白さまだったんだ。おいらの……おいらの知ってる頭白さまだったんだ!」

 過日にいったい何が起こったものかを鋭く察した人物は、鼓太郎のほかにももうひとりだけ存在した。

 それは、姉倉家用人・生島数馬そのひとであった。

 彼は鼓太郎とは違い、おのれのなかで深い推測を積み重ねていくことによって、自力でその真実へ辿り着いたのである。

 そうか……そうであったか……

 それを知った数馬は、感情をひた隠しにしつつおのが奥歯を噛み締めた。

 柳生蝶之進、彼奴の仕業か。

 おそらくは、彼奴が御家老とともに殿が御前へ伺ったおりのことなのだろう。

 あの男は、そこで殿が御薬湯のかすかな残り香か、はたまた殿御自身の御様子からか、殿が身に投じられた毒薬の存在に勘付いたのだ。

 そこに気付くことさえ叶えば、あとはそれを為すことのできた者、そしてその後ろで糸を引いていた者を推測することは決して難しいことではない。

 その真実に至った彼奴は、いずれ我らによって自らが害されることを予想し、我が身と人質との安泰を図るため、密かに策を講じていたということか。

 おのれ、蝶之進!

 数馬は、歯軋りしながら心の中で吐き捨てた。

 この期に及んで、まんまと我らを計りおったか!

 小八兵衛の告発と前後するように、金森家親族の者たちと譜代の家臣たちその双方から、罵倒にも等しい詰問が玄蕃の頭上に降り注いだ。

 それはあたかも激しい雷雨にも似た勢いでもって、この傲慢で知られる城代家老を一方的に打ち据えていく。

「玄蕃! 彼の者の言葉は真実であるのか?」

「姉倉どの! もしそうだとすれば、これは断じて許されぬことでありますぞ!」

「嘘偽りなくお答えなされい!」

 等しく左右から浴びせられる聞くに堪えない糾弾に、しかし玄蕃はその顔を伏したままなんの弁明も返そうとはしなかった。

 その身に叩き付けられた屈辱のゆえか、でっぷりと肥えた肉体をときおり小刻みに震わせるのみである。

「見苦しいぞ、玄蕃!」

 そんな城代家老に業を煮やした光圀が、決定的なひと言を突き付けた。

「すべては、そこにおる藪医者が白状したわ。もはや言い逃れはできぬぞ。おぬしも武士の端くれならば、潔うこの場にて腹を切れい!」

 日の本屈指の実力者からおよそ聞き間違えようのない最後通告を受け、この魁偉な容貌を持つ鷲鼻の男は、おもむろにおのれの足で立ち上がった。

 俯いていたその顔をゆっくりと上げ、真正面にいる水戸藩主を憎々しげな眼差しで凝視する。

 その血走った双眸に宿る光は、すでに尋常なそれではなかった。

 正気を失った目。

 殺気に満ちた目。

 狂気を孕んだ目。

 玄蕃の目付きは、いまやそのいずれであるとも言え、同時にそのすべてであるとも評し得た。

 それは、あまりにも危険極まりない眼光であった。

 とてもまっとうな人間の持てるようなそれではなかった。

 異変を察した幾ばくかの者たちが、ぎょっと息を飲みつつ背筋を伸ばす。

 腰を浮かべて刀に手をやる藩士たちまでもが少なくなかった。

 まさに、それほどまでの異形であった。

「御家老! なりません。なりませんぞ!」

 直後、そんな玄蕃を押さえんと必死になってその身におのれを組み付かせたのは、長年に渡って彼の知恵袋として働いてきた姉倉家用人・生島数馬だった。

 彼はおのが主を脇から懸命に制止ながら、自らの考えを目力でもって訴える。

 御家老。

 ここは白を切るの一手でござる。

 光圀公は確かに徳川家の重鎮ではありますれど、我が高山藩の政に言を挟む権利までは有しておられませぬ。

 この御仁がいま何を仰ろうとも、金森の殿とその御家中の方々さえ言いくるめてしまえば、御家老の立場は安泰なのでございます。

 御自重を。

 御自重を。

 この数馬には、それを成し遂げるだけの知恵と策とがございまするゆえ!

 数馬にとって、主である玄蕃の失脚はおのが未来の断絶と同じ意味合いを持っていた。

 ゆえに、なんとしてでもそれを阻止しなくてはならない。

 たとえ可能性は低くとも、明かりが灯る先へ望んで向かう必要がある──彼はそのような意図をもって、鷲鼻の家老に自身の考えを主張した。

 だが、当の玄蕃の反応ははなはだ芳しいものではなかった。

 いや、むしろ彼の望んだそれとはまったく真逆のものだったとすら言える。

 鷲鼻の家老は、かっと見開いたままの両目を数馬に向けた。

 その眼差しが、用人の瞳を真っ向から射貫く。

 そして次の刹那、数馬はおのが主の唇が紡ぐ短い言葉をはっきりと認めた。

 認めてしまった。

「黙れ」

 玄蕃の口は、明らかに左様な言葉を吐き出していた。

 決して大きな声ではない。

 しかしながら、それは極めて強靱な意志のこもった、通常とは別の意味でまったく揺るぎのない発言であった。

 数馬の肉体が強い熱さに見舞われたのは、まさしくその瞬間の出来事だった。

 肩口から脇腹にかけて、焼け火箸でなぞったかのような一筋の灼熱が電光石火に走り抜ける。

 次いでぶしゃっと音を立てて吹き出した血液が、自らと、その主との全身を鮮やかな朱一色に染めあげた。

 おのれの身に何が起こったのかを彼が知ったのは、その直後のことだった。

 彼は見た。

 いつの間にか、玄蕃の右手にその腰にあったはずの業物が抜き身となって握られていたことを、だ。

 すべてを察した数馬の口が、「何故……」という言葉を最後に緩やかな沈黙を果たす。

 そう、この魁偉な容貌を持つ城代家老はおのれの感情のおもむくまま、あくまでも忠実であろうとしたひとりの家臣を、いま理不尽にもその手にかけて葬り去ったのである。

 力を失った数馬の身体がどさりと直下に崩れ落ちるのと前後して、葵の口から甲高い悲鳴がほとばしった。

 目の前で突然起こった惨劇に、この場にいるすべての者たちがその目を大きく見開かせる。

 忠臣の返り血で身体中を真っ赤に濡らした姉倉玄蕃が、抜き身を片手に向き直った。

 その眼に宿る炎は、明らかな狂人のそれであった。

 もはや合理的な判断など那由多の果てに捨て去った、妄執に憑かれた鬼人のそれに相違なかった。

「出会えっ!」

 裂帛の気合いを込めて彼は叫んだ。

「出会え、出会え、出会え、出会えっ!」

 その声に応じて陣幕の向こう側から姿を現してものは、たすきをかけた複数の侍たちであった。

 人数は二十人近くにも及ぼうか。

 そのどれもが、城代家老たる姉倉玄蕃が目を掛け、引き上げ、飼い慣らしてきた、いわば股肱の臣とも呼ぶことのできる腕利きの剣士たちであった。

 そんな彼らに向かって、ためらうことなく玄蕃は命じた。

「我が殿は御乱心めされた! あそこに座る老いぼれも、水戸光圀公の名を騙る不届き者じゃ! よいか者ども。すべては金森家が名誉のため、飛騨高山藩が未来のため。構うことなどない。恐れることなどない。正義の名において、この場におるすべての者どもをひとり残らず斬り捨てるのじゃ!」

 下克上。

 そう、それは誰の目にも明らかな、政権の簒奪を目的とした武力の行使クーデターにほかならなかった。

 かつて戦国の世にあってはあたりまえのように繰り広げられていた武士の作法。

 実力者がその実力に相応しい地位をおのが腕力でもって手に入れようとする、秩序を無視した婆娑羅の振る舞い。

 だがそれは、この泰平の世にあっては決して許されぬ類いの行いであった。

 たとえそこに万人の納得する理があったとしても、断じて許されることのない獣の所業に相違なかった。

 ましてや、その根幹にあるものがいわゆる私利私欲ともなれば、それが世の中に認められる可能性などまったくの絶無であった。

 たすきがけをした剣士たちにとっても、それは例外事項でなどありはしなかった。

 藩主やその一族。

 一国の政を司る重臣たち。

 そして、徳川家長老たる偉大な老人。

 周囲を囲む老若男女を含め、それらことごとくを戮殺せよという指図には、さすがの彼らも戸惑いの色を見せるほか為す術を持たなかった。

「明智光秀にでもなったつもりか、玄蕃!」

 その一瞬の隙を突き、衰弱した身とはとても思えぬ力強さで金森頼時が一喝する。

「御老公の前でこれ以上の狼藉は許さぬぞ。主家に対する謀反とは……そなた、親兄弟、妻や子供をも道連れにするつもりか。悪いことは言わぬ。おとなしゅう恭順し、法の裁きに従うのだ。さすれば、御上にも慈悲はあろう!」

 頼時の声は、明らかに玄蕃を、そしてそれに従う剣士たちの心を打った。

 しかしそれは、残念なことに彼の望んだような結末を導き出してはくれなかった。

 そのひと言によって退路を断たれ、いまや血迷った一匹の窮鼠と化した姉倉玄蕃は、なお一層の決意を定めて剣士たちに号令した。

「金森が殿、もはやこれまでにござる」

 彼は言った。

「皆の者、かかれぃ!」

 私心を封じ、侍たちはおのが差し料を一斉に鞘走らせた。

 陽光を浴びた数多の白刃が、ぎらりと怪しい輝きを放つ。

 彼らもまた、主と一緒にその覚悟を決めたのだった。

 直属の上役に従い、兵としてのおのが責務を果たすこと。

 そう、おのれの意志であえて反逆の汚名に荷担することを、である。

 ふたつの人波が真っ向から激突し合ったのは、およそ次の刹那の出来事だった。

 殺意をむき出しに達せられた命を果たさんと試みる剣士たちと、それを身をもって阻止せんと図る藩士たち。

 その双方が小細工なしの正面衝突に至ったのである。

 白刃と白刃が各所で激しく火花を散らし、怒号と叫声とが周囲の空気を否応なしに震わせる。

 それは、まさしく「戦場」だった。

 「戦場」以外の何物でもありはしなかった。

 「このたわけ者どもが!」と、叛徒どもの前に立ちはだかる武者奉行・山田恵一郎が小柄な身体を目一杯に膨らませて獅子吼すれば、小八兵衛とボブサプとが当たるをさいわい主人たちに迫り来る屈強な剣士たちを次から次へとなぎ倒していく。

 状況は混乱のるつぼに陥っていたが、その優劣は最初からはっきりしていた。

 個々人の技量に勝る玄蕃側の剣士たちであるが、いまの時点で彼らと彼らに立ち向かってくる藩士たちとの人数比は、少なく見積もっても二対三。

 これに城内各所よりなお続々と押し寄せてくる援軍の数を加えるなら、絶対的な数の差という如何ともしがたい現実を前にいずれ玄蕃側の剣士たちが制圧の憂き目を見るであろうことは、もはや避けようもない未来であった。

「悪足掻きは止め、観念して兵を鎮めるのだ、玄蕃!」

 水戸光圀が怒りとともに咆吼する。

「おのが空しき野心のため、あたら有能な家臣どもに詰め腹斬らせるとは何事ぞ!」

 それは、降伏の勧告にほかならなかった。

 だがその朗々たる大音声は、寸分も玄蕃の耳には届かなかった。

 完全な視野狭窄に陥ることで正常な判断能力を失ったこの男はいま、まことおのれにだけ都合の良い、細い蜘蛛の糸のような可能性をたぐり寄せることにしかその関心を持たなかったからだ。

 そんな鷲鼻の家老がやにわに突貫を開始したのは、光圀が厳しい言葉を口にした、まさにその直後の出来事であった。

 かっと両目を見開きつつ、玄蕃はおのが狂気のおもむくまま、血塗られた刃を片手に素早く藩士たちの間隙を縫う。

 もはや進退窮まったを悟り、自ら本丸光圀を突くべく強攻策に転じたか──そのように察した小八兵衛とボブサプとが、老爺にとっての盾となるべく両者並んで一歩を踏み出す。

 しかしこの時、あろうことかふたりの予想は完全に的を外していた。

 なぜならば、玄蕃の血迷った視線の先にあったものは、端から彼らの主・徳川光圀の姿ではなかったからだ。

 かといって、老爺とともにある高山藩主・金森頼時のそれでもない。

 なんとしたことか、その狂った瞳がまっしぐらに見据えていたものは、この野心家がおのれの道具にせんと目論んでいたひとりの少女、秋山葵の姿にほかならなかった。

 左様常軌を逸した彼の選択は、この場にいる者すべての予想を完全無欠に裏切った。

 それは、不意を打たれた光圀主従が、おのおの「しまった」と声を上げたほどだった。

 不幸にも初動の混乱に巻き込まれ、護衛もなく半ば孤立状態にあった葵の至近に、玄蕃はその魁偉な容貌をこれ以上もなく歪ませながらひと呼吸でもって踏み行った。

 それは、でっぷりと肥満した中年男の動きとは到底思えないほどの素早さであった。

 そして無理矢理に少女の手首を掴み取り、その身をおのが側へと引き寄せる。

 狂気に染まった両の眼をその場で妖しく輝かせ、鷲鼻の家老は怒鳴るようにして彼女に告げた。

「さあ、わしとともに参るのじゃ!」

「嫌! 放して!」

 恐怖のあまり身を捻って抵抗の意をあらわにする葵の口から、続けざまに助けを呼ぶ声がほとばしった。

 その喉奥から、彼女の最も信頼する男の名前が繰り返し繰り返し絶えることなく飛び出してくる。

「古橋さま! 古橋さま! 古橋さまぁっ!」

 その呼び声が、「おとこ」の持つ「おとこ」の真髄たる部分をこれ以上もなく刺激した。

 普通ならば身動きひとつできぬであろうほどに傷付いた我が身をものともせず、弾かれるように立ち上がった古橋ケンタが舞台の上から隼のごとく飛び降りる。

「葵さん!」

 すかさず少女の名を呼んだ彼は、続けざまにひと声大きく玄蕃に叫んだ。

「そのひとを放せっ!」

 だがしかし、鷲鼻の家老はそんなケンタを一瞥もせず、力任せに少女の身体を引きずって戦場よりの離脱を図る。

 事ここに至って、玄蕃の目的は白日の下に晒された。

 この男は、自らの指示に従って謀反者となった配下の者どもを見捨て、恥も外聞もなくただおのれだけの保身を図ろうとしたのである。

 つまるところ、秋山葵という娘は彼にとって御しやすい人質。

 それも小藩なりとはいえ一国の主の姪という、およそこの世にふたつとない値打ちを持つあまりに美味しい人質だったというわけだ。

「見苦しいぞ、玄蕃! それでも武士か」

 金森頼時の放つ感情的な罵声が、踵を返す姉倉玄蕃の背なを撃った。

 されど、その足取りは寸分たりとも乱れるようなことがない。

 あたりまえだ。

 いったいどこの誰がわざわざ明白な破滅の待つ道程を自らの意志で選ぶというのか。

 この時の玄蕃には、いまを逃れることさえ叶えばそこに明るい未来が開けているはずという、およそ常人には理解しがたい希望があった。

 その根拠となって彼を支えていたものは、江戸城で将軍・綱吉に仕える側用人、上総国佐貫藩藩主・柳沢出羽守保明の存在だった。

 玄蕃は信じていた。

 いざとなれば、あの御仁が自分を救ってくれるに違いない。

 なんといっても、この自分はこれまで忠実にあの仁の手足となって動いてきたのだから、軽々に使い捨てにされることなどあり得ない。

 自分のように有能極まる無為な人材を簡単に切り捨てるような真似を、あの御仁がなさるはずなどない。

 無論、そのための手土産もまた用意した。

 このさえ、このさえおれば、名門「金森」の命脈は我が手中にあるも同然だ。

 このかけがえのない切り札がこちらの手元にある限り、いったんは策敗れたりと言えど、ふたたび元の権勢を取り戻すことも、あるいは改めてこの国飛騨高山の支配者を目指すこともまったくの夢物語ではない。

 そうだ。

 この身の明日はまだ完全に閉ざされたわけではない。

 まだ負けたわけではない。

 まだ負けたわけではないのだ。

 もし事前に彼の忠臣・生島数馬がこの算段を耳にしていたなら、おそらくその考えの甘さを強い言葉で糾弾したに相違あるまい。

 御自身が斯様な窮地に陥ったおり、御家老は何ゆえにおのが未来を他人の慈悲に委ねようとなさるのか。

 何ゆえにおのれの手で動かしたわけでもない他人の理に進んでその身を投じようとなされるのか。

 何者かの手駒となるを甘んじて受け入れられると仰せなら、そこで得られるものは量の大小こそあれど、しょせん下働きの給金と変わりなき代物にてございますぞ。

 御家老。

 たわけた夢はこれまでにして、早うその目を覚まして下され。

 しかし、そうした耳に痛い忠告を囁いてくれるあの男は、もはや玄蕃の側には立っていない。

 衝動に駆られた彼自身が、その手で刃に掛けてしまったからだ。

 そのことを顧みると、この鷲鼻の家老に迫る本当の破局はあの瞬間にこそ決定付けられていたのかも知れなかった。

 そう、仮に玄蕃自身がその事実にまったく気付いていなかったとしても……

 庭樹院館と呼ばれる東の二の丸から直接外へと繋がる門。

 ケンタが玄蕃の背を追って全速力で駆け出した時、鷲鼻の家老はちょうどその門前へと差し掛かろうとしているところであった。

 血まみれの刀を振りかざした玄蕃の迫力に威圧され、門番たちがうろたえ気味に分厚い扉を引き開けていく。

「待てー!」

 制止の声を発しながら、プロレスラーが脇目も振らずに疾駆する。

 その眼中に映っていたものは、彼が護るべき対象と定めた娘とそれを腕尽くで虜にしている魁偉な容貌の侍のみ。

 この時のケンタもまた、玄蕃とは別の意味で視野狭窄に陥っていた。

 ゆえにその身は、文字どおりまったくの隙だらけだと言っても良かった。

 左様な彼に残酷な現実が襲いかかる。

「師匠、後ろ!」

 遠間で発せられた鼓太郎からの警告がケンタの鼓膜を震わせたのは、まさにそんなおりの出来事だった。

 玄蕃の逃亡を手助けしようとしてのものか。

 はたまたたまたま目に付いた大男をその手で討ち取らんとしてのものか。

 この瞬間、幾名かの剣士たちが頭上に刀を掲げながらケンタの背後に肉薄しようとしていたのだ。

 それは完璧な奇襲だった。

 咄嗟に振り向いたケンタの眼前で、複数の刃が掛け声とともに振り下ろされる。

 避けられない!

 そう、それは人の身である者が到底避けられるようなタイミングでなどありはしなかった。

 灼熱の殺意が物理的な斬撃と化して、ケンタの命をここに絶つべく稲妻のように落下する。

 おのれの不覚を悟ったケンタが、歯を食い縛って首をすくめた。

 せめて致命傷だけは回避しようと、刀の軌道に両腕をかざす。

 そうすることしかできなかった。

 それ以外のいかなる選択肢も、彼に与えられてはいなかった。

 来る痛みを覚悟して、ケンタは強くまぶたを閉じた。

 だが続く刹那、そんな抜き身の鋭刃は、何故かひとつも目標を捉えることができなかった。

 突如として両者の間に飛び込んできた一陣の疾風が使い手ども全員をなぎ倒し、一瞬にしてそのことごとくを地の上へと這いつくばらせてしまったからだ。

 何が起こったのか、と改めてまぶたを開けたケンタの視界に飛び込んできたもの。

 それは白雪のような頭髪を持つ、巌のごとく逞しいひとりの僧侶の姿であった。

 ケンタは思わずその名を叫んだ。

「頭白さん!」

「ここはそれがしに任せ先を急がれよ」

 なお戦意を失わず立ち上がってこようとする剣士たちと対峙し、それゆえケンタにはその広い背中を向けたままの姿勢で、振り向きもせず頭白は言った。

「古橋殿。願わくば此度のように素晴らしき仕合を、ふたたびそこもとと繰り広げてみたいものでござるな」

 ケンタの位置からうかがい知ることはできなかったが、いと感慨深げにそう述べる彼の表情ははっきりと満面の笑みを浮かべていた。

 「さすれば次こそは、必ず勝利してみせようぞ」と、好敵手に向け彼は告げた。

 ケンタもまた、「その時は全力で受けて立ちますよ、頭白さん」と、その挑戦を快諾する。

 ゆらりと刀を構え直す剣士たちへ異形の僧侶が轟然と躍りかかるのと呼吸を合わせ、この時代唯一無二のプロレスラーは姉倉玄蕃のあとに続き門を潜って城外へと脱した。

 庭樹院館の門を出た先には、よく整備された傾斜路が臥牛山の麓に並ぶ武家屋敷群に向かってまっすぐに伸びていた。

 追いすがるケンタが鷲鼻の家老を捕捉したのは、その坂道の下りが終わり、城の三の丸を囲む水堀のひとつをちょうど右手に見るようになったあたりの場所だ。

 普段からの不摂生が祟ったものか。

 体力の限界とばかりに腰を曲げ激しく息を切らせている玄蕃に追い付き、ケンタは険しい口調でおのが要求を突き付ける。

 単刀直入に彼は迫った。

「葵さんを放せ。いますぐ、そのひとを解放しろ」

 玄蕃の血走った両目が、なんとも忌々しそうにケンタのほうに向けられた。

 その唇が呪詛の言葉を吐き捨てる。

「この下郎が」

 言うが早いか、鷲鼻の家老は捕らえていた葵の身体を力一杯突き放した。

 小柄な少女が「あっ」と声をあげて倒れ込むのを尻目に、正眼の位置で愛刀を構える。

 これをもって彼は、一対一でケンタに対抗する意志をはっきりと表明して見せたのだった。

 いかに自分だけが刀を手にしている立場とは言え、まともに剣術を修めたわけでもない中年の侍がいましがたその実力を証明して見せたばかりの武芸者を単身相手取ることなど、およそ無謀の誹りを免れない愚挙そのものであった。

 少なくとも、その決断が第三者からそのように評されるであろうことに疑う余地は微塵もなかった。

 だがこの時の玄蕃には、あえて自ら戦いを挑むにおいて確固たる勝算があった。

 その根拠となっていたものは、素人目にも明らかなケンタの身体の損傷だ。

 よく見ると、彼の両膝はいまにも崩れるのではと思えるほどに、ぶるぶると大きく揺れていた。

 俗に言う、「膝が笑っている」という状態である。

 おそらくは、先だっての仕合で受けたダメージから回復しきっていないのだ。

 さもありなん。

 いかに勝ちを得たりとは言え、この男はあれほど激しい柳生蝶之進の攻めをその一身でもって受け止めきって見せたのだから。

 状況をまとめ、玄蕃はそのように判断した。

 どうやらこの様子から察するに、此奴はいま、立っているのがやっとなくらいに疲弊しきっているのだろう。

 たぶん、痛手を負ったままのおのが身を気の力だけで奮起させ、無理強いさせながらようやくここまで辿り着いたのだ。

 敵ながら、なんとも天晴れな意気地者よ。

 されど、その意気地こそが命取りじゃ。

 この古橋なる武芸者。本来の力をもってすれば、このわしを打ち倒すことなど児戯にも等しい行いであったろうに、左様満身創痍の五体であれば、生兵法にも劣る我が技量であっても戦い退けるは容易いことよ。

 玄蕃の顔が醜く歪んだ。

 傷付いた強者をいたぶることに対する嗜虐的な喜びが、見る見るうちにその口元へと浮かび上がる。

 もちろんだが、おのれの肉体の抱えた不利は当のケンタが誰よりもよく自覚していた。

 いまの自分が十ある力のうち良くて半分、いやせいぜいひとつかふたつ使えれば御の字という具合であることを、ほかの誰かに言われるまでもなく骨身に染みるほど知悉していた。

 しかし同時に、この時の彼はそんな事実を気に留める様子など欠片もうかがわせてはいなかった。

 正確に言えば、そんな現実をわざわざ意識する必要性をまったく認めていなかったようだと評してもいい。

 その面持ちが示すとおり、目下のケンタにとって何よりも優先されるべきものは、おのれの身の安泰などというたわけた代物のごときではなかった。

 そんなものはどうでもいい。

 そんなものより、もっともっと、はるかに大事なものがそこにある。

 それは、秋山葵の未来であった。

 健やかなる彼女の明日をなんとしてでも取り返すこと。

 そのために我が身のすべてを費やすことこそが、いまの彼を地上に立たせるたったひとつの存在意義レゾンデートルだった。

 葵の父・秋山弥兵衛と交わした約束。

 おのれの中の内なる自分と結んだ誓約。

 ケンタは、それらふたつに従うことでいまを迎えた。

 それらふたつの忠実な僕としてこの刹那を迎えた。

 いまさらそんな自分を覆す選択など、もとより頭の片隅にすら存在していない。

 そんなものは、まったくあり得ない可能性にほかならなかった。

 ぐらつく視界。

 おぼつかない足下。

 それでもケンタは、おのが肉体を確かな決意で前進させた。

 それが、自分が自分であるために必要な絶対証明なのだと頑なに信じていたからだった。

 小山のごとき巨体をふらつかせながら、プロレスラーは玄蕃に向けて歩み寄った。

 鬼気迫る様相とは、まさにこのこと。

 その全身から溢れ出す圧力が、対面する者に対して無条件の屈服を要求する。

 だが、そんなケンタを目の当たりにしてもなお、鷲鼻の家老はにやりと不敵に笑うことができた。

 彼の上辺を直視したことで、おのれの予想が的中したを再確認したゆえである。

 おもむろに殺意が吹き出る。

 生々しく血に酔った眼差しを切っ先に載せ、にやりと口の端から歯をのぞかせた姉倉玄蕃は、気合いとともに大きく前に踏み出した。

 深く剣術を学んだ者からすれば、無様としか言いようのないその踏み込み。

 しかしたとえそうであったとしても、いまのケンタがその斬撃をいなし得るものかと問われれば、やはり難しいと答えるしかないのが実情でもあった。

 玄蕃は、おのが勝利を確信した。

 震える歓喜が背筋を登る。

 こと武芸と名の付くものに関しては、なんの才能も備えていなかった我が身。

 武士の嫡男として生まれながら、戦う素質を欠片も有していなかったおのれ自身。

 彼は、これまでの人生において、ただの一度も「おとこ」としての勝利を修めたことなどなかった。

 その存在を眩しげに見上げながら、ずっと「あの山葡萄は酸っぱい」と自分に言い聞かせて、そうした現実に目をつむってきた。

 そんな目映い栄光が、突如として自らの射程距離内に出現した。

 望んでも望んでも決して手にすることの叶わなかった、「おとこ」としての初勝利。

 それを手にする好機を前に、玄蕃の中でいくつかのたがが音を立てて弾け飛んだ。

 意図しない衝動が、心の奥底に眠っていた闘争本能を目覚めさせる。

 その抑圧された欲求の解放は、母親の胎内より生まれ落ちてこれまで彼がおよそ経験した記憶のない、まさしく目も眩まんばかりの快楽だった。

 だが次の瞬間、予期せぬ足枷がそんな彼の初動を横合いから制約した。

 片足に鎖のように絡みつく何者かの強い意志が、現実世界の重荷となってその行いを掣肘しようと目論んだのだ。

 企ての実行者は葵だった。

 誰あろう、それまで玄蕃が柔弱な人形としてしか認識していなかったあの秋山葵が、あたかも獰猛な肉食獣から我が子を守る母親のごとく身体ごと敵手の太股にかじりついたのである。

「何をする。放せ。放さぬか!」

 少女の取った予想外の行動に対し、あからさまな怒気を込めて玄蕃は叫んだ。

 その魁偉な容貌が醸し出す迫力は、並の男であれば思わず怯んで見せたであろうほどのものだ。

 されど葵は一向に、両腕の力を緩めようとはしなかった。

 むしろ玄蕃が放った一喝を皮切りに、その束縛をより一層強める素振りさえ見せている。

 その行為がいったい何を目的としてのものなのか、改めて言うまでもあるまい。

 この少女は、文字どおり一身を挺して、おのが想い人を守らんと図っているのだ。

 その純粋な健気さが、かえってこの男の癇に障った。

 膨れあがったどす黒い激情が、出口を求めて噴出する。

 容赦なく振り下ろされた刀の柄が、葵の額を殴打した。

 一撃だけではない。ごつんごつんと鈍い音を立てながら、それは二度三度と繰り返し彼女の眉間を直撃する。

 たちまちのうちに皮が裂け、真っ赤な血がそこに滲んだ。

 苦痛も衝撃も、ごくごく普通に暮らしてきた十四才の娘にとって、とても耐えられるものではなかったはずだ。

 にもかかわらず、葵はうめき声ひとつあげなかった。

 固くまぶたを閉じ、唇をかみ締めながら、彼女は襲いかかる理不尽な痛苦を必死になって我慢し続けた。

 そんな葵を見下ろしている玄蕃のこめかみで、ぷちぷちと何かが切れる音がした。

 浮き出た太い血管が、生きた蛇のように脈動する。

 間を置かず、彼の中で淀んでいた腹立ちが直接の害意へ、そして明確な殺意へと華麗な進化を成し遂げた。玄蕃は叫んだ。

「この小娘が!」

 刀を握る彼の右手が、ひときわ大きく振り上げられた。

 明らかに撲殺の意が込められた振る舞いだった。

 吊り上がった双眸が、その情念を余すところなく訴える。

 小娘が、あくまでもこのわしに逆らうか!

 逆らうか!

 逆らうか!

 だが、左様な玄蕃の目論見をプロレスラーが真っ向から阻んだ。

 不躾に伸びてきたケンタの左手が、刀を握る彼の利き腕、その手首の部分をむんずとばかりに掴み取ったのだ。

 仰天して顔を上げた玄蕃の眼前にいた者、それは文字どおりの仁王であった。

 義憤にその身を沸き立たせ「怒髪天を突く」を地で行っている大男が、鷲鼻の家老を至近距離から大喝する。

「貴様、よくも葵さんを!」

 新鮮な林檎を軽々とクラッシュさせるケンタの握力が、ひと息に玄蕃の手首を締め上げた。

 みしみしと音を立てて骨が軋み、意図しない変形を強いられた関節部位がたちまち悲鳴を上げ始める。

 「ぎゃっ」という短い叫び声を発し、玄蕃はおのが愛刀を取り落とした。

 主を失った彼の差し料はそのまま空しく落下して、その鋭い切っ先を敵の身体にではなく地面の上へと突き立てた。

 それと時を同じくして、玄蕃の表情から先ほどまでの顔色が消えた。

 入れ替わりに別種の面持ちがはっきりと浮かび上がる。

 紛うことなき怯えに支配された顔付きだった。

 魁偉としか言いようのなかったこの男の面相が、見る見る間に子供の泣き顔のごとく変貌を遂げる。

 ケンタ渾身の逆水平チョップがその胸板を打ち抜いたのは、次の刹那の出来事だった。

 直撃と同時に、ばきっと生木の裂けるような音が玄蕃の体内から発生した。

 周囲六十センチの剛腕が放つ桁違いの一発が、彼の胸骨を真正面からへし折ったのである。

 それは、到底素人の肉体が耐えられるような打撃ではなかった。

 当たり所によれば生命の存続にすら関わったことだろう。

 例を挙げるなら、その一打による容赦ない喉元への強襲などがそれに当たる。

 ケンタがあえてその道を選ばなかったのは、おのれの抱く矜恃ゆえであった。

 決して、この男姉倉玄蕃に対する慈悲の心があったためではない。

 プロレスは断じて人殺しの技ではないという絶対の信念、そして敬愛する秋山弥兵衛から与えられた最後の教えが、彼というおとこにその選択を強制した結果であった。

 だが鷲鼻の家老には、左様なケンタの心情はおろか、我が身を襲った衝撃を認識する余裕すら与えられなかった。

 彼の意識はその一瞬をもってものの見事に粉砕され、否応なしに那由多の彼方へ放逐された。

 そして完璧に失神し弛緩した肉体は、あたかも支えを失った杖のごとくどさりと仰向けに転倒する。

 白目をむき、死に体となって地面の上に横たわるその見るも無残な様相は、分不相応なおのれの野心に踊らされ続けたひとりの男の生き様を、まったく端的に現しているようでさえあった。

 飛騨高山藩城代家老・姉倉玄蕃は破滅した。

 おそらくはこののち、藩主・頼時の名において彼とその一派に対して厳しい沙汰が下されることとなるだろう。

 そこに疑問を挟む余地などなさそうに思えた。

 ただし、この一件が後世にいかなる記実をもって残されるかは、いまの時点において全然定かではなかった。

 しょせんは天下国家に関わらぬ、辺境の小藩において発生した御家騒動のひとつである。

 たちまちのうちに歴史の闇へと埋没し、人々の記憶から抹消されてしまう運命となるのやも知れなかった。

 されど、それが実際にこの世で起きた「ひとの手によって織りなされし物語のひとつ」であることだけは、たとえ神仏であろうとも決して否定できない絶対的な真実だった。

 歴史を語り継ぐのがいわゆるひとのさだめであるのなら、歴史を作りあげるのもやはりひとのさだめにほかならぬ。

 たとえその物語においておのれに与えられたのが取るに足らぬ端役のそれであったとしても、ひとはその配役を必死に演じる義務がある。

 そうした視点で見る限り、この姉倉玄蕃という哀れな男も、ひとの世でおのれの役を懸命に演じきったかけがえのない名優のひとりだった。

 自分の力で自分だけの物語を創造しようと試みた希少な人材のひとりだった。

 そしていま、そうしたひとつの物語に見事な幕引きを行った俳優古橋ケンタが、敵役のあとを追うようにしてその場でどさりと尻餅をついた。急速に冷めていく血の気に成り代わり、唐突に湧き起こってきた虚無感が否応なくその心身を満たし始めたからだ。

 そのなんともいえない空白の刹那が、この時のケンタに事のすべてが終わりを告げた旨をこれ以上もなく知らしめていた。

 明確極まる緊張感の断裂。

 ここしばらくの間、完全に忘れ去っていた心の贅沢を突如として取り戻し、ケンタは唐突に、ははは、と軽快な笑い声を上げ始めた。

 ぽっかりと口を開けていた胸の隙間に、強烈な達成感がこんこんと泉のごとく溢れかえる。

 ひと呼吸置いて武辺者らしからぬ柔和な笑顔を浮かべると、ケンタは少女に向かって優しく告げた。

 その発言は、時が来たらば必ず言おうと暖めていた、この男にとって何よりも何よりも大切な、そう本当の意味で何よりも大切なひと言であった。

「葵さん。お迎えに上がりました」

 その言葉を口にした時、本人はできる限りの格好を付けたつもりだった。

 いまのおのれであればそれぐらいの見栄は張ってもいいだろうと自分自身に言い訳をしてまで、無理矢理に気取った台詞を口にしたつもりだった。

 だが、その言葉を面と向かって送られた当の葵は、さほど芳しい反応を示してくれなかった。

 固いままの表情を一向に崩さずゆるりと数歩前に出た彼女は、座り込んだ姿勢のケンタをやや上方から見下ろす形でじっと見詰める。

 そんな予想外の対応に直面して、ケンタはあからさまに戸惑った。

 その態度が、彼の知るそれまでの葵とは随分かけ離れたものに感じられてならなかったからだ。

 あれ?、という頓狂な気持ちが顔に出て、ケンタは思わず自問する。

 俺、何か気に障ることでも言ってしまったのかな?

 いや、そうではなかった。

 きょとんとしたまま口を閉ざすケンタの目前でやにわに崩れだした葵の顔付きが、その何よりの証左だった。

 堪えきれなかった自制の堤がついに決壊を果たし、桜色の唇を震わせる彼女の眼から大粒の涙が滝のように流れ落ちる。

 その両腕が力強くケンタの首に巻き付いたのは、次の刹那の出来事だった。

 おのれのすべてをぶつけるようにプロレスラーの分厚い胸板へと飛び込んできた少女は、無言のまま男の顔にその柔らかな頬をすりつけた。

 「葵さん?」と、ますます困惑の度を深めるケンタの呼びかけに彼女は応える。

「そんな呼び方は嫌です。葵、と呼び捨てにして下さい!」

 武家の娘の体面などどこか遠くにかなぐり捨て、葵はケンタの耳元でまっすぐな気持ちをまっすぐに叫ぶ。

「古橋さま! 古橋さま!

 葵は信じておりました。必ずや敵に打ち勝ち私を迎えに来て下さると、心の底から信じておりました!

 この上は、もはや隠し立てなどいたしません。

 古橋さま。葵、一生のお願いでございます。

 私を古橋さまの妻として下さいませ。

 女としての生涯を、あなたさまのために捧げさせて下さいませ。

 葵は、あなたさまにお仕えしとうございます。あなたさまとともに日々を生き、暮らし、あなたさまの子を産んで、それを立派に育て上げとうございます。

 いえ、もしその願い聞き届けてさえいただけるのであれば、妻でなくとも構いません。妾でも端女でも、どのように扱っていただいても、葵は一向に構いません。

 お願いです、古橋さま。

 私を離さないで下さいませ。

 このままずっと、私を側に置いて下さいませ。

 私を、ひとりにしないでくださいませ」

 それは、駆け引きの色合いなどどこにもない、まさに直球勝負の告白だった。

 ひたすらに最短距離を突き進む、誤解のしようなどない一直線の感情だった。

 そんなむき出しの好意を真正面から叩き付けられた古橋ケンタは、この時、激しく狼狽する以外、まったくもって為す術を持たなかった。

 ただでさえ異性経験の乏しいケンタである。

 二十一世紀日本型のなんともまわりくどい交際の申し出でさえ、これまでの人生においておよそ経験したおぼえがない。

 ましてやこんな「空気を読む」ことを端から相手に求めていない直接的な愛情の吐露など、実際には耳にしたことすら一度もない。

 百戦錬磨の恋愛達人ならば何か有効な対応を用意できたのであろうが、彼のような朴念仁にそんな器用な真似を期待するのは、文字どおり荷牛に木登りを要求するようなものだ。

 ケンタは困った。

 自分に対していまあからさまな慕情を表明した少女の温もりと香りとを至近距離で突き付けられ、面食らい、戸惑い、そして混乱した。

 つたない知識を総動員してなんとか気の利いた回答を用意しようと奮闘するが、哀しいかなその尽力が実を結ぶことはついぞなかった。

 結局のところケンタが選んだ道は、葵のそれとほとんど一緒のものだった。

 彼もまた、正直な気持ちを表に出して誠意に応えるほかに執るべき手段を思い付かなかったのだった。

「葵さん」

 ついいましがた拒まれたばかりであるにもかかわらず、なお「さん付け」で彼女の名前を呼びながら、ケンタはその太い両腕で葵の身体を抱きしめた。

 彼は言った。飾り気のない想いを込めて、短くも確かな気持ちを少女に伝えた。

「なんというか……その……こちらこそ、よろしくお願いします」

 その返答の背後にあったものが果たして恋愛感情であったのかと言えば、おそらくそうではなかっただろう。

 そのこと自体は、ケンタ本人もはっきりと自覚していた。

 だが同時に、この娘とともに生きていきたいというその本心に偽りはなかった。

 そのことだけは、天地神明にかけて真実であると断言できた。

 その心根の裏側には、奇妙な安心感が存在していた。

 胸の奥で最後まで引っかかっていた小さい刺がようやくのことで取れたかような、そんな気持ちのいい開放感が存在していた。

 それは、言うなれば何者かからおのれ自身が認められたことによる、承認欲の達成に極めて近いものであった。

 いわゆる「時代」からの承認。

 いわゆる「世界」からの承認。

 こことは違ういつか、こことは違うどこかから来たかりそめの異邦人に過ぎない自分が、この世界の、この時代の住人としてついに承認されたのだという歓喜の情。

 ケンタは、そんな自分の立場がこの上なく嬉しかった。

 もう二度と、この気持ちを忘れたりするものかと心より誓った。

 華奢な葵の細腰を左右の腕で力強く掻き抱くケンタ。

 そんな彼の両目からは、知らず知らずのうちに熱い涙がこぼれ落ちていた。


 ◆◆◆


「どうやらすべては落ち着くところに落ち着いたようでありますな」

 お互いを重なり合うようにして認め合うひと組の男女。

 その姿をやや遠目の間合いから眺めつつ、徳川三位中将光圀はなんとも人好きのする笑顔を浮かべてそう述べた。

「葵さんは、実によく男を見なさる。あそこにおる大男はいかにも風変わりな仁ではありますが、決してひとの信頼を裏切るような人間ではありません。そのことが確約されてさえおれば、女はそうそう不幸せを掴んだりはいたしませぬからのう。

 出雲殿。そこもとの姪御につきましては、もはや心配無用でございますぞ。なんなら、この光圀が太鼓判を押しましょうほどに」

「御老公の仰るとおりでございます」

 老爺の傍らに立つ飛騨高山藩主・金森出雲守頼時が、その言葉に本心からの同意を伝えた。

 彼の双眸は、光圀と同じ対象をまんじりともせず見詰めている。

 どこか寂しそうな色合いこそあれど、その目の色は明らかに温かい肉親の情を含む好意的なものにほかならなかった。

 ケンタたちから少し離れた傾斜路の半ばあたり。

 そこに集っていた面々は、水戸光圀一行と金森出雲、そして鼓太郎たち三名という都合七名の男女だった。

 いまの時点において、高山城内の騒乱はほぼ完全に鎮圧されていた。

 武者奉行・山田恵一郎の指図のもと、指折りの藩士たちの手によって粛々とした事後処理が進められている。

 争いによる怪我人はそれなりの数に上ったが命まで失った者は少なく、一時の激しさの割に流血が最小限に抑えられたことが不幸中の幸いと評し得た。

 彼らは、左様大筋で秩序を取り戻した城内を抜け、各々が、各々の想いを胸に、いま古橋ケンタと秋山葵の両名に対し穏やかな眼差しを注いでいるところなのであった。

 大団円の前振りとは、まさしくこのことなのであろうか。

「御老公。失礼ながら、この場にてお尋ねしたきことがござる」

 眼下であざなうふたりの様子をじっとその目で愛でながら、頼時はふと何かを思い出したように光圀へと尋ねた。

「この私はまだ世を生きることを楽しめるのでございますな」

「いかにもそのとおり」

 自信満々に老爺が応える。

「というより、楽しんでいただかねば、この光圀が困ります。せっかく質の悪い病魔を退治して差し上げたのです。出雲殿には領主としての役目をまっとうしていただくと同時に、ぜひとも『ひと』として、そして『おとこ』としての喜びを成し遂げてもらわねばなりません。

 ほれ、あそこに見える、あの者たちケンタと葵と同じように」

 その発言には、あるいはいささかの冗談も混じっていたのかもしれない。

 されど頼時は、その言葉の意味を額面どおりに受け止めた。

 にこりともせず頷いた彼は、これまた糞真面目な口振りでもって、老爺に向けて答えを返した。

「ではこの頼時、いつか心底大切に思える伴侶を得て、その者を守り、慈しみ、そして子を成し育ててみたいものと存ずる」

 頼時は言った。

「この私のごときがあの者のように生きられるかどうかはわかりませぬが、もし左様なおりが訪れましたなら、その時は御老公、何卒よしなに取り計らっていただきとうござる。この金森出雲、一期の願いでございます」

「承知」

 破顔しながら光圀は告げた。

「仮にも一国の主たる者、なかなかにその生き方は思うがままとはいかぬもの。あるいは義理、あるいは血筋。左様さまざまなしがらみがおのずからその両肩には降りかかってくるものにてございます。

 なれど出雲殿さえ心底その気におなりなら、この光圀はいくらでもその志に力添えをする覚悟にてございますぞ。これもまた縁。ご安心なされい」

「ありがたき幸せにござる」

 その返答を受け、頼時もまた破顔した。

 その笑顔を見た老爺が、より一層愉悦の度合いを高めていく。

 ついと目線を変えた先では、秋山家で永らく下女を務めていた娘・おみつがひくつく口の端を意志の力で抑えながら、必死になって笑い顔を取り繕うと尽力していた。

 その目尻に貯まった涙の滴は、感極まった祝福の想いゆえのものだけではないのだろう。

 恋敗れたりの哀しみか。

 光圀はその真意を測り、心中で語った。

 おみつさんや。

 おまえさまも、あそこにおる葵さんに負けず劣らずの良き「おんな」でございますよ。

 だから、いまはその胸を張りなさい。

 その痛みを忘れない限り、いつか必ずおまえさまにも良き「おとこ」があらわれることでありましょう。

 それは、この老いぼれが保証しますぞ。

 確かに確かに保証いたしますぞ。

「小八兵衛、ボブサプ」

 ついと背筋を伸ばした水戸光圀が、おのれの従者目がけておのれの意向を口にする。

「近いうちに、もう一度この地を訪れることになるやも知れぬ。左様心して、いまより万全の準備を怠るでないぞ」

 そして「はて、そいつは如何なる御用にてごぜえますか?」と率直な疑問を呈する小八兵衛に向かって「決まっておるではないか」と前置きした彼は、その精気に満ちた両の瞳を輝かせつつ、実にきっぱりと返答した。

「あそこにおる心根良き男女の祝言に、このわし自ら夜討ち朝駆けを仕掛けるためよ。

 なあに、時と場合は心得ておる。さすればふたりとも嫌な顔はせんだろうし、そもそもさせるような真似をするつもりもない。何せ、この徳川光圀がわざわざ江戸より赴くのだからのう。あれらにそれを栄誉だと思うてもらわんことには、このわしの沽券に関わる。下手を撃つわけにはいかぬだろうて。

 それにしても、楽しみなことよ。

 そのおりとなって、いざこのわしの顔を見たあの者たちがいったいどのような驚きを見せてくれるものか。それを思い浮かべるだけで、この年寄りの寿命が十年は延びるわ」

 そのあまりに子供じみた悪戯の計画を聞かされた者たちが唖然とした表情を浮かべるなか、老爺は天に向かってからからと大笑した。

 かっかっか、という高らかな笑い声が臥牛山の裾に響き、どこか遠くでさえずっている小鳥の鳴き声と混じり合いつつ、ゆっくりと風に流され消えていった。


 ◆◆◆


 物語は、いま静かに大団円を迎えんとしていた。

 それを疑う者は、少なくともこの場には誰ひとりとしていなかった。

 だがしかし、ひとの悪意という存在は、そんな美しき大詰めのさなかに音もなくそっと忍び込んでくるものなのであった。


 ◆◆◆


 姉倉家用人・生島数馬は、いままさに死なんとしていた。

 主・玄蕃の刀によってその身に刻みつけられた傷跡は深く、呼吸のたびにその傷口から音を立てて鮮血が吹き出すような有様だった。

 医師が診察するまでもなく、それが致命傷であることはあまりにも明白だった。

 おそらくは、いまだ数馬が生きているという事実こそがこの世に生じた奇跡の一手であるのであろう。

 数馬本人も、その聡明さゆえにはっきりとそのことを自覚していた。

 そして、自覚していたからこそ、彼は純粋に残った命の使い道を精査することができた。

 それは、古橋ケンタに対する明確な「復讐」の道であった。

 ただし、その理由は主たる玄蕃の野心を彼が邪魔したゆえではない。

 土壇場でおのが忠臣を切り捨てるような男がどのような結末を迎えようとも、いまの数馬にとってはおよそあずかり知らぬことだった。

 彼の復讐心、その唯一の原動力となっていたものは、おのれに抱いた自尊心であった。

 自身が人の常を上回る才の持ち主であり、事実、それを実績でもって証明してきたのだという強烈な自負の心。

 それはいつしか我が身を支える柱としての役目を越え、生島数馬という一己の男、それそのものと同一の存在として成り上がってきていた。

 だからこそ、それがもろくも砕け散った時、数馬の心もまた崩壊の危機に陥った。

 この自分が、なぜこのようなざまに──…

 半ば侮りながらそれでもなおこの身と一心同体だと信じていたそんな男姉倉玄蕃の手に掛かり、避けられぬ死に直面した彼は何度も左様に自問した。

 そして、そう問いかけるたびに同じ数だけまったく同じ回答を得た。

 俺の策が間違っていたからではない。

 俺の策を邪魔する奴がいたからだ、と。

 其奴さえいなければ、俺がこのようなざまに成り果てていようはずなどなかった。

 其奴さえいなければ、俺の才がこんなところで散り果てていようはずなどなかった。

 そうだ。

 そうに違いない。

 すべては其奴が悪いのだ。

 なれば、この手で其奴を排除しなければならない。

 古橋ケンタ。

 あの武芸者を名乗る男を、なんとしてでも排除しなければならない。

 そうしなければ、この俺の存在価値がなくなってしまう。

 そうしなければ、この俺の積み重ねてきたものが一切合切失われてしまう。

 そうしなければ──…

 そうしなければ──…

 そうしなければ──…

 そう、それはまさしく修羅の妄想であった。

 しかし、確実な死を目前にした数馬はその妄想を信じ、その妄想に従って、残り少ないおのれの命を一滴残らず燃焼させた。

 いま、彼の手中には一丁の鉄砲があった。

 火縄はすでに点され、突き固められた火薬とともに鉛玉も込められている。

 引き金さえ引けばいつでも弾が放たれる、それだけの用意が調えられてあった。

 そんな数馬が這うようにして城門を潜り、そして密かに陣取ってみせたのは、二の丸より外界へと伸びる長い坂道の途中だった。

 ちょうどケンタを眺めている光圀たちと比べて、すこしだけ上に登ったところである。

 数馬はそこで手頃な灌木の存在を見出し、その陰に身を隠しつつ銃口を構えた。

 もうおのれが何を見ているのかすら判然としなかった。

 身体に感じる熱さ寒さすらわからなかった。

 何も見えない。

 何も聞こえない。

 何も感じない。

 されど、不思議なことに自分が狙うべき対象だけは、その姿だけはしかとその目に映っていた。

 古橋ケンタ!

 心の中で血を吐くように彼は叫んだ。

 おまえさえいなければ!

 おまえさえいなければ!

 おまえさえいなければ!

 その直後、火縄の臭いに感付いた松之草村小八兵衛が何やら叫んだ。

 黒人戦士・ボブサプが、怪力を利してその場にいた光圀以下をひと息に道の端へと押しやった。

 小八兵衛の手の中から、きらりと煌めく何かが飛んだ。

 手裏剣の類いだった。

 だがおのれを狙ったその鋭刃に、数馬はまったく気付くことがなかった。

 もっとも、たとえ気付いたとしても彼はその存在を意に留めなかったことだろう。

 その切っ先が自らの息の根を止めることになろうとも、この時の数馬にはさほどの大事とは思われなかったであろうからだ。

 小八兵衛の放った小刀が狙い違わず数馬の眉間を貫いたのは、次の刹那の出来事だった。

 皮と肉を破り骨まで貫いた鋭刃が、ものの見事にその前頭葉へと突き刺さる。

 言うまでもなく、その一撃は数馬の人生、それ自体の終焉を告げる決定的な要因となった。

 よしんばこの男の命が間もなく消える運命であったとしても、それを格段に早める因子となったことだけは否定できない事実だった。

 しかし、それ以前に数馬の余生を賭けた目論見は果たされていた。

 それは引き金にかけられていた彼の指が、その所有者の息の根が止まる寸前、すでに与えられた任務を完了していたからにほかならなかった。

 一発の銃声が轟いた。

 続く刹那、古橋ケンタは自身の体内を固い何かが一直線に通り抜けるのを実感した。

 痛いとか熱いとか、とにかくそのような感触はいっさいなかった。

 ただその瞬間、不思議な喪失感がおのれの脳天を急速に貫いたのを漠然と認識しただけだ。

 全身から力が抜け、視界がぐらりと傾いた。

 その視界が、あっというまに真っ黒な闇のヴェールに覆われる。

 ケンタは、おのれの身体がどさっと地表に倒れ込んだのを理解した。

 だが単にそのことを理解しただけで、それに対応する何かを行うことはできなかった。

「古橋さま!」

 狂ったような葵の悲鳴が激しく耳朶を震わせるなか、プロレスラーの意識は深くて重い底なしの虚無の只中へと音もなく沈み込んでいったのだった。

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