第二十八話:脱出行
空は一面分厚い雲に覆われ、いつ何時崩れだしても一向に不思議ではない、そんな雰囲気を濃厚に醸し出していた。
もちろん、星明かりも月明かりも鉛色のそれらを透して下界を照らし出せたりはしていない。
道行く者たちにとっては、目の前に視界を遮る黒いベールが掲げられているようなものだ。
確かに、物陰に入らなければ「鼻をつままれてもわからない」ほどの闇ではない。
しかし、それでも少し間を設ければ、もう人の顔を判別するが難しくなるくらいの環境だと言えた。
そんな劣悪な条件であるにもかかわらず、ほうほうの体で襲撃者たちの前から逃げ出したケンタたち一行は、人気のない原野の中を必死になって駆けていた。
それは到底整っているとは評し得ない、文字どおりの荒れた間道だった。
表層に顔を出す尖った石が、履き物を着けていない彼らの素足を容赦なく傷付ける。
おそらく、普段であればまず使用することなどなかったはずの間道だった。
ことに、いわゆる「武家のお嬢さま」たる葵であるならそれはなおさらのことだ。
だがこの時、彼らの背後にはほぼ間違いなく敵の追っ手が迫っていると思われた。
少なくとも、そう考えるべき必然性は十分にあった。
とてもではないが、人目に付くような街道を自ら選ぶことなどできない。
その選択は、あまりにも危険に過ぎた。
四人のなかで最も周囲に土地勘を有するおみつが先導したこの間道は、いわゆる未開拓地を抜ける百姓道だ。
まだ人の手が入っていない、ただ開けただけの荒れた土地。
そこには人の膝ほどの高さに雑草が生い茂り、ところどころにねじくれた木々の姿が見て取れる。
そのなかをうねうねと走るこの百姓道は本格的な道と言うよりはせいぜい獣道とでも言ったほうがしっくりくる程度の代物で、おもに近隣に住む者が自分たちの田畑へと向かう近道に利用しているとのことだった。
当然、自然発生的にできあがったそれに整備が行き届いているわけもなく、所々に存在する低木の枝や取り除かれていない小石の類いが往来の邪魔になるだろうことは極めて容易に想像できた。
ゆえによほどのことがない限り、わざわざ日が没してからここを通ろうとする地元の者はいなかった。
おみつが危急の際の逃げ道として真っ先にここを推薦したのも、あるいは当然の帰結と言えた。
彼らがひとり弥兵衛を残して秋山道場をあとにしてから、もうどれくらいの時間が経ったのだろうか。
足下の何かにつまずいた葵が、突然どっと前のめりに転倒した。
短い悲鳴がその口から飛びだす。
「葵さん!」とひと声叫んで、一行の殿を勤めていたケンタが慌てて彼女に駆け寄った。
両手でその身体を助け起こす。
「大丈夫ですか?」
葵は無言のまま頷いた。
いつもならその可憐な唇はきちんと感謝の言葉を紡いでいたに違いない。
しかし、この時の彼女はケンタに向かってひと言の謝意をも返すことができずにいた。
息も絶え絶えに苦悶の表情で喘ぐいまの彼女には、それを放つだけの体力的余裕が一切失われていたからだった。
無理もない。
ケンタは思った。
いかに本人の選択とは言え、今日の旅程は葵のような少女にとってやはり強行軍に過ぎたのだ。
たぶん、秋山道場へ辿り着いた時点でその疲労はほとんど危険水域に達していたのだろう。
そしてそれを十分癒やすだけの休息も取らず、今度はこの全力に近い逃避行である。
足りない体力を気力とやらで補うにしても、しょせんは限度というものがあった。
岐路を前にしてケンタは即断した。
「おみつさん」と彼は尋ねた。
「どこかこの近くに隠れて休息できるような場所はありませんか?」
「隠れて休息、ですか」
怪訝そうな声でおみつが応えた。
「古橋さま、いまはそんなのんきなこと言ってる場合じゃないですよう」
「そいつは重々わかってます」
彼女の言いたいことをほぼ全面的に肯定しながら、それでもケンタは引かなかった。
「でも、葵さんがもう限界です。鼓太郎、おまえもだろう?」
いきなり話を振られた鼓太郎は初めのほうこそ強気の言葉を口にしていたが、さらに数回師匠から突っ込まれると渋々ながらおのれの現状を告白した。
そこで張り詰めた精神の糸が切れてしまったのだろう。
どさりと身を投げ出すように座り込んでしまう。
くそ、とケンタはおのれ自身に悪態を吐いた。
なんて俺は莫迦なんだ。
秋山先生から葵さんを狙ってる連中のことをちゃんと聞いておきながら、ついさっきまですっかりそのことを忘れていたなんて。
もし頭の片隅にでもそのことが引っかかっていたなら、きっといまみたいな状況には陥っていなかったはず──いや、それは言い過ぎにしても、もっとましな状況にはなっていたはずだ。
間違いなく、そうできていたはずだ。
俺の莫迦。
無能者。
くそっ、くそっ、くそっ!
内心で歯軋りする彼に向かって少しだけ息を整えた葵が問いかけを発したのは、ちょうどそんなおりのことだった。
彼女は、およそ深刻が声になったかのような口振りをもってケンタに問うた。
「古橋さま、あの者たちはいったい何者なのでしょう?」
震えながら顔を上げた葵がケンタの両目をじっと見据えた。
「いったいなんの目的で私どもを襲い来たりしたのでしょう? お父さまはその理由をご存知なのでしょうか? 古橋さまは? 古橋さまは、お父さまから何か聞いてはおられぬのですか? もし左様なれば、何卒この私にお教えください。お教えくださいまし!」
「……俺も先生から詳しいことを聞かされてるわけじゃないんですが」
彼女の真剣を突き付けられたケンタは、一瞬のためらいを見せたのち、葵と初めてあった日、そう、あの日以降に交わされた弥兵衛とのやり取りを順序立てて隠し立てせず語り始めた。
可能な限り主観を含めず、ただ淡々と実際に見聞きしたことだけをまっすぐ素直に彼女へ伝えた。
葵の表情から次第に血の気が失せていくのがわかった。
ひと通りケンタが語り終えるのと前後してその唇がゆっくりと動いた。
「私が、目的だったのですね……」
葵は言った。
「あの竹林での出来事も、その日の夜の人さらいたちの狼藉も、ともに単なる偶然などではなく、私の身を狙う何者かが意図したものだというのですね」
「秋山先生はそんな風におっしゃってました」
「なぜです」と彼女は叫ぶ。
「私などどこにでもいるただの娘ですし、古橋さまもご存じのとおり、我が家も単なる剣術道場に過ぎません。賊が私の身と引き換えに得られる財貨など、さしたるものではありません。それなのになぜ? なぜなのです?」
「わかりません」
うつむきがちにケンタは小さく首を振った。
「でも、どこかの誰かがあなたをさらおう、手に入れようとしていることは事実だと思います。俺はその点、秋山先生のおっしゃってることを信じます」
葵の双眸に新たな決意が宿ったのはその時だった。
彼女はやにわに立ち上がり、まさに一行がいま来た道筋を引き返そうと力強く足を踏み出す。
「葵さん、いったいどこへ」
驚いたケンタが制止の声を放つ。
そんな彼に向かって、肩越しに振り返った葵が決然と答えた。
「屋敷に戻ります」
有無を言わせぬ態度で彼女は言った。
「この私が原因となる揉め事なれば、お父さまのみにその重みを背負わせるなど到底できるものではありません。これからすぐ屋敷に取って返し、ともに敵へと立ち向かう所存でございます」
「無茶だ!」
立ち上がりざまにケンタが叫んだ。両手を広げて力説する。
「こういう言い方はあれですけど、葵さんが一緒にいたところで先生の足手まといになるだけです」
「そんなことはありません!」
葵もまた感情的になって反論する。
「たとえ力及ばずとも、この身がお父さまの盾ともなりましょう。それが武士の娘として生まれた私の覚悟でございます」
「本末転倒だ」とケンタも必死に説得を試みたが、葵の決心はまさしく小揺るぎすらもしなかった。
この時、彼女の心中を占めていたのがいわゆる情念というものであったことは、理詰めで翻意を促そうとするケンタにとって災い以外の何物でもなかった。
葵の中で燃え上がったその理不尽な感情は、次々とケンタが注ぐあたりまえの理屈に反発し、ついには激しく音を立てて爆発した。
「古橋さまに、私ども親子の情をご理解願おうとは思いません」
叩き付けるように彼女は叫んだ。
「なんと言われようとも、葵はお父さまのもとへ戻ります。もしその場で討ち手の剣に倒れようとも一切の悔いはございません!」
「このわからず屋!」
刹那ののち、そんな葵の頬を小さな平手が殴打した。
ぱしんという軽快な音が、夜の巷に短く響く。
突如として我が身を襲った一撃に目を丸くした彼女が、次いで惚けたような表情を浮かべた。
打たれた頬に手をやりながら、恐る恐るその者の顔に目を向ける。
鼓太郎だった。
夜目にも鮮やかなほどはっきり顔を紅潮させた少年は、目の前に立つ年上の少女に向かって、まなじりに涙をにじませつつ激しい言葉を投げ付けた。
「武士の覚悟だって? 親子の情だって? いくらきれい事並べたって、そんなの結局は葵姉ちゃんのわがままってだけじゃないか!」
鼻息荒く鼓太郎はたたみかけた。
「そりゃ自分のわがまま貫けば葵姉ちゃんは満足だろうさ。たとえあの連中に何されたって、それは自分が選んだ道なんだからさ。でも、姉ちゃんをそんな目に合わせられないって頑張ってる人間の気持ちも少しはわかれよ! 姉ちゃんの父ちゃんは、そう思ったからこそあそこに残ったんだろ。おいらやおみつ姉ちゃん、それにケンタ師匠はそう思ったからこそいまこんなところにいるんだろ。違うのかよ! そんなみんなの気持ちを踏みにじって自分のわがまま通そうなんて、そんなのあんまりだって思わないのかよ! おいらたちの思いって、葵姉ちゃんの中じゃそんなに価値のないものなのかよ!」
真っ向から駆け引きなくぶつけられたその気持ちを、この時、葵は黙って受け止めるしかなかった。
それは、彼女にとりよほどの衝撃だったのだろう。
その膝が身体を支える努力を放棄し、少女は塩をふられた青菜のごとく地面の上にへたり込んだ。
あるいは頬を張られ頭から怒鳴りつけられたことなど、彼女の人生においてはこれまで皆無だったのかもしれない。
じわりとその目に涙が浮かび、やがてそれは大きな粒となってなだらかな頬を伝わり落ちた。
「鼓太郎、言い過ぎだ」
興奮した牛のように息を乱す弟子をひと言でたしなめ、ケンタは腰をかがめて葵の肩に手を置いた。
呆然と言葉を失ってしまった彼女を慰めるように、しかしその上でなお先の彼女をいさめるように、短い言葉で彼は告げた。
「でも、俺だってこいつと同意見です」
遠くから草を踏み分ける足音が聞こえてきたのは、まさにそんなおりの出来事だった。
それに気付いたケンタと鼓太郎がはっと顔を上げるやいなや、「いました!」という男の声が原野を走る。
声に続いて闇の奥から姿を現したのは、明らかに先の曲者どもと同列の剣客たちだった。
数はふたり。どちらも顔に巻いた布で表情を隠しているが、むさくるしい浪人風の身なりをした一方と比べて、もうひとりのほうは格段に立派な衣装を身にまとっている。
くそ、追いつかれたか──現状を察したケンタが、男たちを遮らんと立ち上がった。
大きく左腕を振り、葵たち三人をおのれの後ろに下がらせる。
仮にいまから逃げ出したとしても、この状況下では逃げ切れないのが自明の理だった。
ならば迎え撃つしか選択肢などない。
それが叶うかどうかはともかく、活路を見出すにはこの連中と一戦交えねばならぬ自分たちを率直に認め、ケンタは素早く腹をくくった。
ふたりの剣客はおよそ四間、すなわち約七メートル強の距離を挟んで仁王立ちするケンタと相対した。
みすぼらしいなりの剣客が、その場でもう一方に耳打ちする。
男の口から何が告げられたのだろうか。
その剣客はおもむろに顔を覆った布を取り去り、堂々と自身の素顔をあらわにした。
闇の向こうであってもはっきりとわかる、爛々たる猛禽の眼差しがケンタの眼を貫いた。
「おぬしが古橋ケンタ、秋山家の居候か」
覆面を脱いだ剣客が、ずいと一歩を踏み出した。
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