第二十七話:秋山邸の変

 ケンタたちが光右衛門一行らとともに久々野村を出たのは、その日が暮六ツ午後六時頃に至る少しだけ前の出来事だった。

 近隣の百姓家に水を請うて軽くのどを潤した以外は、休憩らしい休憩などほとんど取らずの強行軍だ。

 まだ体力的な面で大人とは言い切れない葵や鼓太郎の疲労が甚だしいことを考えると、素人目にも無茶な旅程だと断言できる。

 にもかかわらず彼らが左様な決断に至った理由は、たまたま同地にて出くわした秋山家下女・おみつの口より伝わった情報によるところが大きかった。

 葵とケンタが名古屋へと向かった矢先に、秋山弥兵衛がおのが道場の門を閉ざした──それは、秋山家の客分たるケンタはおろか家長の愛娘である葵ですらがまったく予想していなかった現実だ。

 だからといって、そのことを告げたおみつが嘘を言っているとは思えなかった。

 それ以前に、この木訥とした田舎娘は虚言を弄するような人物ではない。

 両親とともに高山へ移り住んで以来、彼女とずっと親しく交わってきた葵は、おみつのことをそんな風に信じて疑おうともしなかった。

 父の身に、自らのあずかり知らぬなんらかの事情が降りかかったのだろうか。

 もしそうだとすれば、とてもぐずぐずしてなどいられない。

 急ぎ我が家へ帰還して、この目でそれを確認せねば。

 この時、葵がそのように考え、そしてその意思をすぐさま実行に移そうと決意したことは、肉親の安否を気遣うひとりの娘として至極当然な反応だった。

 光右衛門やケンタがやんわりと放った制止の言葉も、そんな彼女を翻意させるまでには至らなかった。

 そんな葵の心情を知ってか知らずか、唐突に旅路の同行を申し出てきたのがおみつだった。

 「お嬢さまがお屋敷に戻られるなら、あたしも御一緒してよろしいでしょうか?」と彼女は尋ねた。

 いまの葵とさして変わらぬ年頃から一所懸命秋山家に奉公してきたおみつにとって、「主家の娘」とでもいうべき少女の意向に従うことは、ある意味当然の成り行きであったのかもしれない。

 無論、葵のほうにも否はなかった。

 久々野を発った一行が直面するふたつの峠を乗り越えた時、日はすでにとっぷりと暮れ、あたりには完全に夜の帳が降りていた。

 峠向こうにある飛騨一ノ宮までの一里半約六キロメートルを歩ききるのに彼らが要した時間は一刻約二時間余だ。

 普通なら、この道筋を踏破するのに一刻まではかからない。

 事実、ケンタと葵が名古屋へ向かう旅路のおりはそうだった。

 やはり疲労した女子供を抱えては、この程度が限界といったところなのだろう。

 やむを得ない結果ではあった。

「暗い峠道を女子供連れで行くのは、いかに古橋殿がお強いとしてもやはり危のうございます」

 それを理由にいったんは旅の道ずれを申し出た光右衛門一行三人だったが、彼らは結局飛騨一ノ宮水無神社の門前に見世を構える「しもた屋」という旅籠で今日の草鞋を脱ぐことに決めた。

 時刻はとっくに宵五ツ午後八時頃を回っている。

 本日の旅程はもうこれまでと彼らが定めたことも、まずもっともだと考えられる時間帯だった。

「葵さんのお気持ちはわからぬでもありませんが、やはり今宵は無理をせずここで休まれてはいかがかの?」

 光右衛門はこの時、葵にも自分たちと同じ選択をするよう優しい言葉で進言した。

「物事とは、いくら焦ってみたところでそうそう結末が変わるものではありませんぞ」

「ご配慮感謝いたします」

 その心遣いに丁寧な謝意で応じつつも、葵は老爺の提案をきっぱりと固辞した。

 強い意志をもって彼女は告げる。

「ですが、兵は拙速を尊ぶとも申します。仮にこの地でひと息吐こうとも、いまこのような心境では、私、床についても眠れませぬ。やはり無理にでも、今宵のうちに我が家へ帰り着こうと思います」

「左様か」

 いささか心配そうな顔色を見せながら、光右衛門はそれ以上葵の意向に口を挟もうとはしなかった。

 しかし同時に、次のような配慮をこの気丈な少女に送ることも忘れたりはしなかった。

 彼は言った。

「されど、もし何か困ったことが起きたのなら、深夜であっても構わぬゆえ遠慮なく私のもとを訪ねて来なさい。私たちはしばらくこの宿に逗留することといたしますゆえ」

「重ね重ねのお気遣い、誠にありがとうございます」

 葵はぺこりと頭を下げ、その足でふたたび街道の旅人へと姿を変えた。

 一ノ宮で光右衛門らとわかれた葵たちが秋山道場へ到着したのは、それからさらに半刻約一時間余りのち。

 刻は宵五ツ午後九時頃を大きく回った頃だった。

 ちょっとした庄屋の屋敷にも見える弥兵衛の剣術道場だが、このような時間帯に改めてその様子を眺めると醸し出す荒涼感が何か曰くありげにさえに思えてくるから不思議だ。

 本来そこにあるべき「生活の気配」というものが決定的に欠けている、ただそれだけのことで夜の民家とはこれほどまでに不気味なのだという現実を、ケンタは生まれて初めて実感した。

 そっと壁越しに中の様子をうかがっても誰かがそこにいる空気はなかったので、一行はそのまま正面の冠木門かぶきもんを潜り堂々と玄関に上がった。

 大声で帰宅を告げるも返事はない。

 草鞋を脱ぎ、真っ暗な中、建物の方々を手分けして回ってみたがやはり人影などどこにも見当たらない。

 それどころか、ここ数日は無人であったことを思わせる気配すらが所々に散見された。

 父が道場を閉めたというのは本当のことなのだろうか。

 それも自分にひと言の相談もなく、亡き母やいろいろな人々との思い出の詰まったこの道場を──…

 縁側に面した畳敷きの部屋で、葵は座したまま呆然と空の一点を見詰めていた。

 その表情からはあの凜とした生気がすっかり消え失せ、まるで生きたまま人形にでもなってしまったかのような趣すらある。

 無論、長旅から来る疲労もその原因のひとつではあったのだろう。

 しかし、いまの彼女にずしりとのしかかっているものの正体が、心から信頼していた父親の、娘への裏切りともとれる行為であることに間違いはなかった。

 葵にとって父・弥兵衛がおのれの道場を捨てたという事実は、まさにそれほどの重みを持っていたのである。

 片隅に置かれた行灯に小さく明かりが点されても、その重々しい空気が払拭されることは寸分もなかった。

 こんな時、おとこって生き物は完全に無力だ。

 並んで胡座をかきながら、ケンタと鼓太郎は互いの顔を見つめ合いつつ無言で同じ思いを抱いていた。

 なんとかこの場を盛り上げたい。

 そうすれば葵の心も少しは前向きな方向に動くだろう。

 いまの彼女は心身の疲労と相まって、悪い方向へ悪い方向へと自分の考えを追いやってしまってる。

 それじゃあ駄目だ。

 そんなことじゃ、本当のことをぽろりと見落としかねないし、第一精神衛生上極めてよろしくない。

 そう、自分にとって状況が悪いときにこそ、せめて頭の中だけは積極的に都合の良いことを詰め込んでいかなくちゃならないんだ。

 たとえそれが無理矢理であっても。

 そうじゃないと、自分自身で積み重ねた不安の目方で心のほうが現実より先に根をあげてしまう。

 ひとたび心が折れてしまっては、物事に立ち向かう気力・勇気などがその身に湧き出てくるはずないじゃないか。

 鼓太郎のほうはともかく、ケンタのほうはおのれの戦場たるプロレスのリングでその事実を骨身に染みるほど学んでいた。

 だが、わかっていることと明確な打開策を提案できることとはまた別物だ。

 なんら有効な手立てが思いつかない以上、それはわかっていないのとさほどに差があるものとは言えなかった。

 そんな雰囲気を一気に和ませてくれたのが、葵と同じ性を持つ下女のおみつのひと言だった。

 彼女はいつの間にか支度を済ませていた夕餉の膳を持ち込みながら、問題事などどこ吹く風といった様相でのんびりにこやかに皆へと告げる。

「お嬢さま、古橋さま、鼓太郎坊。飯ができましたで、一緒にいただきましょうよう」

 都合四つの膳に乗った夕餉の献立は、ちょうどあった食材を用いておみつが巧みにこしらえた、簡素だがなかなかに食欲をそそる品々だった。

 三割ほど雑穀を加えた炊きたての玄米御飯との味噌汁。

 干し大根の漬け物が数切れに加え、熱々の飯にかけるべくたっぷりと用意された自然薯のとろろ汁。

 後者は久々野の裏山で採れた新鮮な芋を、今宵おみつがわざわざ持参してきたものだ。

 手間をかけて皮ごと丹念にすり潰した自然薯に冷ました味噌汁を加えることで、そのままではまるで餅のような粘り気を持つとろろ芋を御飯にかけて食べやすいだけの滑らかさに整えてある。

 薬味として添えられているのは、つんと刺激臭が鼻を突くおろしたての山葵わさびだ。

 ケンタも鼓太郎も、そして深淵に半ばはまり込みそうになっていた葵でさえも、耐えがたい空腹感に駆り立てられいそいそと並べられた食膳の前に座り直す。

 それを見たおみつがふわりと微笑みを浮かべ、頃合いを見計らって上座に座る葵に食事の合図いただきますを促した。

「いただきます」

 ややためらいがちにそう告げた彼女の言葉を皮切りとして、一同は一斉に箸を持った。

 本来なれば一同と食を共にすることの許されない奉公人のおみつであったが、この時はごく自然に団欒の中へと加わった。

 好奇心に駆られたケンタが彼女から聞くところによれば、家長の弥兵衛が留守をしているおりなどは葵のほうからそのことを望むのだという。

 そういえば、高山では武士の娘らしくきちんと立場の上下をわきまえた言動に徹していた彼女も、自分との旅の最中は随分とまあフランクなさまを見せてくれてたっけ。

 ケンタはふとそんな葵の二面性を思い浮かべて、思わず好意的な苦笑いを浮かべて見せた。

「お嬢さま」

 不意におみつが口を開いたのは、各々が目の前の献立に箸を付けだしてからすぐのことだった。

 半ば断言するような口振りで彼女は言った。

「先生が道場を閉められたことについては、そう心配することもないと思いますよう」

「どうしてそのように言えるのです?」

 発せられたおみつの言葉は葵の逆鱗をわずかにかすめたようだった。

 軽く怒りの感情を乗せて彼女は問う。

「お父さまがこのような真似をなされたことは、私の知る限りにおいてこれまで一度もありませんでした。おみつ、あなたは何を理由にそのような見え透いた気休めを口になさるのですか?」

「実はですねえ」

 その質問におみつは答えた。

「さっきくりやを見てましたら、米も味噌も塩も、瓜も大根も豆も、かまどにくべる薪なんかもそのまんまになってたんですよう」

「それがいったいどうしたというのです」

「お嬢さま。先生が日々の暮らしに必要なそれらをそのまんまにしていかれたってことは、つまり、近いうちにこのお屋敷へ戻ってこられるおつもりがあるってことですよう。おわかりになりませんか?」

 言われてみれば至極あたりまえに過ぎるおみつの洞察を聞かされて、葵は思わず声を上げた。

 その頬が見る見るうちに朱の色へと染まっていく。

 おそらくは自分の「早とちり」その他を振り返り、込み上げてきた激しい羞恥心にその胸中を焼かれたのだろう。

 まことに子供らしい短慮と軽率。

 数えの十三をもって「大人」の仲間入りを果たした彼女にとって、それはある意味決して認めたくないおのが若さゆえの過ちだった。

「俺もおみつさんの言うとおりだと思います」

 そんな葵に、横からケンタが追い打ちをかけた。

「よくよく考えれば、あの秋山先生がこれまで大事にしてきたこの道場をいきなり閉めるだなんて、全然あり得ない話ですから。ちょっと頭を絞ればすぐわかることだったのに、なんであんなに心配してしまったんでしょうね。きっと何か突然の用事があって、しばらくここを留守になさってるだけに違いないです。あの先生のことだから、今夜遅くにでもひょっこりここへ帰ってみえられるんじゃないですかね、ははは」

 ケンタが何気なく口にした「よくよく考えれば」とか「ちょっと頭を絞れば」とかのくだりにぐさぐさと心中を貫かれながら、それでも葵は年頃の少女らしいはにかみでもってそれらに応えた。

 当初は重苦しかった夕餉の場が、たちまち和やかな宴の場へと変貌を遂げた。

 ケンタや葵、鼓太郎が道中で経験したさまざまな事象を時には誇張まで加えつつ披露すると、まるで誘発されたかようにほかの面々から楽しげな笑い声が飛びだしてくる。

 葵が弥兵衛の出奔についておみつの推測したものと異なるもうひとつの理由──すなわち、「彼が食材その他をそのままにして屋敷を出たのは、もう生きてこの場所へ戻るつもりがないからだ」というそれに気付かなかったことは、考えようによってはまことに幸運な出来事なのかもしれなかった。

 旅の疲れを忘れさせる快い時間が、のんびりと一同の間を過ぎていく。

 一般的には、会話が弾めば弾むほどそれに乗じて箸も進むというのは極めて自然な成り行きだ。

 ことにただでさえ大飯喰らいのケンタや成長期の盛りと言える鼓太郎が晒したそれは、これまでにそんなふたりを散々見てきた葵や実家で上下に男兄弟を持つおみつでさえもが思わず呆れかえるほどの勢いだった。

「鼓太郎、おまえな。弟子の分際で師匠の取り分にまで手を付けるってのは一体全体どういう性分なんだ? 葵さんちに居候確定なんだから、少しは遠慮しようって気は起こさないのか?」

「居候はそっちだって同じだろ。だいたい師匠こそ、かわいい弟子に最後の一膳を譲ってやろうって気は起きないのかよ」

「残念ながら起きないな。俺は断固権利を主張するぞ」

「この薄情者! 莫迦師匠!」

 おひつに残った最後の飯を巡って、ケンタと鼓太郎が俄然にらみ合う。

 だが、葵もおみつもあえて双方を止めようとはしなかった。

 それは、この一触即発のように見えるやりとりが同時に濃厚な微笑ましさの上に成り立っているのだという事実を、この時のふたりがはっきり認識していたからにほかならなかった。

 外壁の向こう側から突如彼らに向かって声が掛けられたのは、ちょうどそんなおりの出来事だった。

 いや、その声量は掛け声と言うよりは叫びに近い。

「葵! 古橋殿!」

 それは、鼓太郎以外の皆にとって聞き覚えのある男性の声だった。

 残念ながら、発言者の姿形は暗闇ゆえに判然としない。

 しかし、葵やケンタ、それにおみつにとって、その声はおよそ聞き間違いようのない声でもあった。

「お父さま!」

 なんとも行儀が悪いことに直接壁を乗り越えて庭先へと躍り込んできたその者を認め、葵の表情がぱっと鮮やかに輝いた。

 すかさず姿勢を正した彼女は、その人物に対し座したままで一礼する。

「葵、ただいま戻りました」

 そう葵が告げた相手は、紛れもなく彼女の父・秋山弥兵衛その人だった。

 状況を飲み込めずぽかんとしている鼓太郎を尻目に、ケンタとおみつもまた葵に続いて頭を下げた。

 だが、弥兵衛はそんな彼らの行為に一瞥すらもしなかった。

 あたかも血を吐くような勢いでもって、愛娘に向け彼は告げる。

「葵、そなたはこれよりすぐさま尾張名古屋へ引き返し、その足で国境を越えよ。そして、二度とふたたび飛騨国へと戻ってはならぬ。急ぐのだ!」

 あまりにも唐突に発せられたその口上に葵は一瞬言葉を失い、次いで激しく困惑した。

「お父さま、いったい何をおっしゃって──」

「詮索は無用だ。古橋殿、おみつ。突然のことだが我が娘のことをよろしく頼む。これは、この秋山弥兵衛一生の願いぞ!」

 この時、弥兵衛が何を言っているのか、何を言わんとしているのか、当人より名指しで伝えられた葵を始め、話を振られたケンタやおみつもまたさっぱり理解することができずにいた。

 ましてや、完全な部外者としてこれを傍観することしか許されていない少年──鼓太郎であるならなおさらだった。

 ただかろうじて全員が受け止め得たことは、いまこの瞬間にもなんらかの切羽詰まった出来事が葵の身に迫りつつあるという一点だけだった。

 少なくとも、目の前の弥兵衛が悪質な冗談を言っているようには見えないだけに、それはまず間違いないことと思われた。

 だとしたら、言われたとおり一刻も早くこの場を離れるべきだろう。

 そう短絡的な結論に至ったのは、利発な葵や実直なケンタ、木訥なおみつなどではなく、子供特有の単細胞的一面をもった鼓太郎が最初だった。

「何ぼーっとしてるんだよ師匠! 葵姉ちゃん! おみつ姉ちゃん!」

 少年は、事態の変化に対応できずに唖然としている年長の三人を飛び跳ねるように立ち上がりつつ叱りつけた。

 まるでのんびりと草を食み動こうとしない駄馬をぴしゃりと鞭打つがごとくに、駆け引きなく強い言葉を叩き付ける。

「わけなんてあとからいくらでも聞けばいいじゃん。いまはとにかくここから出よう。なんか物凄くやばそうな感じじゃないか!」

「そ、そうだな」

 その勢いに押されるようにケンタが応えて腰を上げる。

 脇に置いていた道中差を腰に差し、「先生がおっしゃられているように、いったんここから離れましょう」と、まだ惚けたように動かないふたりの女性に進言した。

 ケンタの言葉にふたりは頷き、彼を追って立ち上がろうと腰を浮かせる。

 だが次の刹那、急速な状況の変化が彼らの行動を完全に捕捉した。

 布で顔を隠した複数の剣客たちが次々と屋敷の壁を乗り越え、秋山邸の庭先へ侵入してきたからである。

「秋山弥兵衛!」

 剣客のひとりがそう叫ぶやいなや、庭内に降り立った侵入者ども全員がつらりと刀を抜き放った。

 座敷から漏れ出すわずかな明かりを反射させ、その鋭刃が怪しく煌めく。

 弥兵衛が身体ごと振り向くのとそれら剣客たちが一斉に斬りかかってきたのは、ほとんど同じタイミングだった。

 先頭を最短距離で突き進んできたひとりの剣客の持つ刀が、弥兵衛の頭上より縦一文字に襲いかかる。

 次の瞬間、腰のひねりに合わせて鞘走った弥兵衛の愛刀がその白刃を軽々とはじき飛ばした。

 ぎん、という鋭い金属音とともに切りつけてきた剣客の足下が後ろに揺らぐ。

 切っ先が翻った。

 刀を握ったままの剣客の利き手が、音を立てて地面に落ちる。

 鮮血が飛び散り、下腕部を半ばから切断された剣客の口から意味不明の叫び声がほとばしった。

 苦悶のあまり転倒し、虫のように地面の上をのたうちまわる。

 急展開に動転し無言でただわなないていたばかりの葵とおみつが、あたかもそれをきっかけとしたかのごとく甲高い悲鳴を上げた。

 仲間の惨状を目の当たりにして、後続する剣客たちが明らかに怯んだ。

 だが弥兵衛は、彼らのそれに乗じようとしなかった。

 兼定の名刀を手堅く中段に構えたまま、じわりと後退り間合いを維持する。

 その行為の意図するところは誰の目にも明らかだった。

 時間稼ぎだ。

 そう、ケンタや葵たちが無事この場から逃げおおせるための──…

「先生!」

「お父さま!」

 そのことを察したケンタと葵が口々に弥兵衛を呼ぶ。

 その背中が雄弁に語る「逃げろ」という彼のメッセージ。

 しかし、ふたりにとって黙ってその意に従うことなど到底でき得る相談ではなかった。

 戦いに加勢せんと欲したケンタの肉体が、無意識のうちに弥兵衛の側へと半歩踏み出す。

 彼らの背後から新たな足音が近付いてきたのはその時だった。

 襖で隔てられた隣室の向こう。

 複数だ。

 それは、屋敷の裏手から回り込んできた別の襲い手のものに相違なかった。

 ひと呼吸置いて襖戸が勢いよく引き開けられ、やはり布で顔を隠したふたりの剣客が抜き身を片手に姿を現す。

 むき出しの敵意が熱風のように座敷内へと吹き込んできた。

 これに対するケンタの反応は素早かった。

 咄嗟に足下へと手を伸ばした彼は、ためらうことなくそこに置いてあった鉄鍋を男たちめがけて投げつけたのだ。

 鉄鍋の中には、熱を帯びた味噌汁がまだ十分な量残されていた。

 一歩先んじて飛び込んできた剣客が頭からまともにそれを浴びた。

 男の口から金切り声が噴出する。

 握った刀を振るうことも忘れ、剣客は熱い汁を含んだ布を顔から取り払おうと必死になって身をよじった。

 そんな彼の土手っ腹にケンタの前蹴りが叩き込まれた。

 つま先にみぞおちを直撃され、剣客は苦悶の声を漏らしつつ身体を屈して悶絶する。

 振り上げた右足を戻す動きを利用して、身体ごと大きく前へと踏み込むケンタ。

 もうひとりの剣客が相方のさまを見て思わずたじろいでしまったことは、この時の彼に決定的なフリーハンドをもたらした。

 ケンタの右手が剣客の左手首を鷲掴みにした。

 そのままおのれ自身を軸にして、独楽のごとく相手を大きく振り回す。

 百九十センチに迫る巨漢の彼にとって、百六十前後しかない小兵の剣客をそんな風に扱うのはさほど難しいことではなかった。

 一回転、二回転……遠心力に負けて男の両足が宙に浮く。

 そして続く三回転目、ケンタは剣客の身体を手近な柱めがけ渾身の力で叩き付けた。

 バットをフルスイングする要領だ。

 どかんという凄まじい衝撃音が屋敷中に轟き渡り、天井から細かい塵が雪のように舞い落ちる。

 真正面から柱と激突した剣客の肉体が、そのままずるりと床に崩れた。

 彼が意識を喪失していることは確実だった。

 弛緩した右手から、保持していた刀が力なくこぼれ落ちる。

「先生!」

 当面の敵を始末したことを確信し、改めてケンタは弥兵衛のほうを顧みた。

 愛刀・兼定を手に、殺気を帯びた複数の剣客たちとたったひとりで対峙する痩身の剣士。

 その勇姿を目にした瞬間、ケンタの胸に重ねて「彼を手助けしたい」という熱情が湧き上がってきた。

 いま自分が弥兵衛に助太刀したならば、このまま襲撃者どもをうまうまと撃退し得るのではないか──そんな希望的観測を段々と押さえきれなくなってくる。

 いや、やっぱり駄目だ、とケンタは心中に浮かぶ強烈な願望を鋼の意思で一蹴した。

 いま目の前にいる剣客たちが屋敷を襲ってきた敵の総力であるという保証はどこにもない。

 むしろ、そうでない可能性のほうがずっと高いだろう。

 まだ近くに仲間が潜んでいることは十分に考えられる。

 というより、そう考えないほうがずっと危険だ。

 だとしたら、その連中が新たに介入してきた場合、自分と弥兵衛の四本の手だけで葵や鼓太郎、それにおみつの身を無事守り抜けるのか?

 とてもじゃないけど不可能だ。

 どうやっても手が回りそうにない。

 守らなくてはならない人数が、襲ってくる敵の数に比べて多すぎる。

 じゃあどうすればいい?

 この俺は、古橋ケンタは、秋山弥兵衛との約定を一体全体どうやって守ればいい?

 結論はすぐに出た。

 一瞬だけ唇をかみ締め、ケンタは苦渋の顔付きで決断する。

「鼓太郎!」

 きっぱりと、まるでまとわりつく何かを振り払うような口振りで、ケンタは年若い弟子に向かって指示を下した。

「葵さんとおみつさんを連れて先に行け。俺もすぐあとを追う」

「古橋さまっ!」

 そのひと言をもって彼の意を悟り、葵は非難めいた叫びを放った。

 当然だろう。

 戦う父をひとり置き去りにして自分だけがのうのうと戦場いくさばより逃げ落ちるなど、武士たる家に生まれた娘にとってまさしく許されざる行為にほかならなかったのだから。

 だが、ケンタの意志を素早く汲んだ鼓太郎とおみつは、そんな少女の抵抗を力尽くで抑え込んだ。

 ふたりがかりで押し込むように無理矢理葵を裏手のほうへと連れていく。

 それが極めて無礼な行いであることに疑いはなかった。

 ことに、秋山家に仕える立場のおみつにとってはなおさらのことだ。

 しかし、ふたりはあえてその行為を看過した。

 まさにいまというこの刻が理念ではなく行動のみを要求する非常時だということを、本能的に彼らが察していたからだった。

 「お父さま!」という葵の悲痛な叫喚を耳にしながら、ケンタはゆっくり二回だけ深呼吸をした。

 鼻から大きく息を吸い、深々と口から吐く。

 もう一度、鼻から大きく息を吸い、深々と口から吐く。

 自分自身の感情を律しておのれを理性に従わせるには、およそそれだけの時間が必要だった。

「秋山先生」

 それでもなお引かれる後ろ髪を強引に断ち切って、ケンタは告げた。

「ご武運を」

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