第十八話:仏前の立ち会い
寺の本堂。
その広い板の間の面積は、優に
もとより古く、しかも手入れがおろそかになっていたとはいえ、黒ずんだ床板や壁面には寸分の抜けさえ見られない。
むしろ、建物の外見から来る印象を裏切るほどに荘厳だったと言ってよかった。
本尊である阿弥陀如来像から見て左右の壁際に、それぞれ十太夫たち侍衆と頭白たち寺の身内とが分かれて座る。
そして、それらの視線がことごとく注がれる先には、ふたりの巨漢が立ったまま身動ぎもせず対峙していた。
「友好」のためなどではなく、純粋な「闘争」のために。
古橋ケンタと男鹿直次郎。
彼らはともに、いまこの時を支配する絶対の「掟」を承認していた。
死力を尽くして戦おうとする者同士が否応なく背負い込む「それ」
退路のない戦場で眼前にいる敵を倒すこと。
そう、ただそれだけがおのれの存在価値とされるのだという「鉄の掟」を、だ。
みなぎる緊張感が、ケンタの頭からすべての雑念を追い払う。
やや荒れ気味だった鼓動と呼吸とが、見る見るうちに鎮まってきた。
視界に映るのは、ただ対戦相手の姿のみ。
直次郎の握る木太刀が正眼に構えられた。
それを受けたケンタがすっと静かに両手を上げる。
得物を
その有利不利は誰の目にも明らかだった。
だが、持たぬ者の口から不平の言葉は漏れ出ない。
なぜなら、それがおのれの選択だったからだ。
極あたりまえの
俺はプロレスラーだ。
真のプロレスラーは、断じて武器など用いない。
プロレスラーの武器は、おのが肉体、おのが魂──…
ぴんと場が張りつめ、見る者の息を飲む音すらがあたりの空気を振るわせる。
それは、あたかも限界まで引き絞られた弓のごとくだった。
「先に申したとおり、勝負はどちらかが気を失のうた時、もしくは動けなくなった時までだ」
審判を務める
だが、どちらの側もお互い
外のどこかで甲高くカラスが鳴き、まるでそれを合図としたかのように伊兵衛は叫んだ。
「始めい!」
開戦。
勢い良く吹き出した闘志が場の中央で激突し、互いの精神を真っ正面から圧迫する。
「やあっ!」と直次郎が威嚇の声を発した。
だが、ケンタの眼差しは揺るがない。
顔の高さに構えた両手の間から、その目はじっと直次郎の動きをうかがい続ける。
直次郎の持つ木太刀の先端もまた、ケンタの体軸に向けられたままびくともしない。
秋山道場屈指の使い手だった乾半三郎と、それはまったく異なる挙動であった。
いまの間合い、おそらく半三郎であれば一足をもって打ち込んできたことに疑いはない。
半三郎のそれは、俗に言う攻勢防御。
すなわち、間合いの機先を制することで相手を受け身の立場に置き続けるという戦法だった。
だが、直次郎はその戦い方を選ばなかった。
それは度を過ぎた慎重さのゆえか。
いや、むしろ力量のわからない敵を相手に闇雲な猪突をするほど莫迦ではないということの明確な表れだと言っていい。
手強い。
じりっと間合いを詰めながらケンタは思った。
この敵は、自分の手の内も得意とする距離も明らかにせぬまま、黙って必殺の一撃を与える機会をうかがっている。
それは半三郎のような剣士とは一線を画す、獰猛な肉食獣のごとき姿勢だ。
消耗戦の予感がよぎる。
読みがたい。
喰えない。
ならばいっそのこと、こちらから仕掛けるか。
よし!
わずかに頭を下げ、ケンタは半歩前に出た。
それは、見え見えの誘いだった。
打ち込んで来るにしろ突き込んで来るにしろ、その一撃に合わせ最短距離を踏み込んでいける突撃姿勢。
投げ付けた視線で、ケンタは相手に語りかける。
退きたいなら、退けばいいさ。
だが、退いたところでこの膠着した状況は打破できないだろ。
来いよ。
来い。
かかって来い!
誘いに応じて直次郎が動いた。
木太刀の先端をゆっくりと前に出す。
だが、打ち込む姿勢でも突き込む姿勢でもそれはない。
文字どおり、無造作にその切っ先をケンタの眼前に差し出したのだ。
それは、まるで児戯のごとき行為だった。
端から見ていてもその行いがいったいいかなる意味を持つものなのか理解できず、傍観する葵の表情に怪訝な色が浮かんでは消えた。
当事者であるケンタもまた同様だった。
おもむろに対戦相手が取った、攻撃に移るでもその前提をこしらえるでもない、まったくもって意味不明な行動。
徒手格闘に例えるならば、それは打撃戦の最中にただゆっくりと拳を突き付けられたようなものだった。
斜め下からしずしずと伸びてきた木太刀を避けるように、ケンタの上体がわずかだけだが仰け反った。
大きく立ち位置を動かさなかったのは、ひとまず様子を見ようと考えたゆえの選択だ。
重心が、無意識のうちに後ろ足に寄る。
それを見た頭白が、目を見開き小さく叫んだ。
「いかん!」
「えっ?」と疑問符をともなった葵の視線が頭白のほうに向けられるのと、ケンタの身にその出来事が発生するのとはほとんど同時だった。
なんの前触れもなく、ケンタに突き付けられていた木太刀が視界の外へ消失した。
直次郎の意図によって切っ先が下げられたのではない。
それは支える手を失い、重力に引かれるがまま足下へ落ちたのだ。
本能的にケンタの目がその行方を追う。
カランという乾いた音が耳朶を打った。
いうまでもなく、落下した木太刀が床板に当たった音だ。
何が起こった?
ケンタの意識が刹那の間困惑する。
そして敵は、その一瞬を逃しはしなかった。
素早く延ばされた直次郎の手が、ケンタの左襟と右の袖とを瞬時にして把握した。
そのまま力強くおのれの側に引き付ける。
凄まじい力だった。
予想もしていなかった敵の行動に、ケンタの重心は為す術もなく崩された。
懐に潜り込んだ直次郎が体を捻る。
そして次の瞬間、振り上げられた右足がケンタの下半身を勢い良く刈り取った。
しまった!
床板を離れ宙に舞う自分の両脚を認識しながらケンタは悟った。
こいつ、柔道使いか。
払い腰。
いや、正確にはそれに類似した投げ技だった。
二十一世紀の競技柔道とは異なり、受け身を取れぬよう小さく鋭く真下へと叩き付ける。
明らかに相手を負傷させることを視野に入れた実戦的な投法だった。
バン、と破裂音に近い壮烈な響きがあたりの空気を震わせた。
悲鳴にも似た葵と鼓太郎の声が、そのすぐあとを追いかける。
「古橋さま!」
「ケンタ兄ちゃん!」
下は柔道場のような畳敷きでもプロレスのリングのようなマットでもない、板敷きの硬い床だ。
そんなところにまともに身体を叩き付けられれば、その衝撃は一般的な人体の許容限度を一瞬にして突破する。
しかし、プロレスラーとしてあらゆる角度から徹底的に受け身を鍛えたケンタにとって、それは耐えられる範囲のダメージに留まっていた。
脳天から真っ逆さまに落とされる危険なプロレス技と比べるなら、崩しに基づく柔道技の危険度など未成年の不純異性交遊のようなものだったからだ。
とはいえ、その不意打ちにも近い投げ技の行使は、ケンタの肉体にではなく精神に対し一時的な障害をもたらしていた。
わずか一秒。
そうわずか一秒ではあるが、その一投は受け身を終えたケンタから次に対応すべき貴重な時間を確実に奪い取ってみせたのだった。
背中から板床に激突し仰向けに寝転ぶケンタに、直次郎は容赦なく襲いかかった。
ケンタの腰を両脚で挟み込むようにして、素早くその腹の上に馬乗りとなる。
流れるような彼の動きは、明らかに喧嘩の成り行きで発生したものではなかった。
巧妙に術ぎ立ち、厳しい訓練によって会得された高等テクニックにほかならなかった。
直次郎は、そのままおのれの下にいるケンタめがけて右の拳を振り下ろした。
拳骨が鈍い音を立ててその顔面を直撃する。
鼻骨が歪み鼻血が吹き出た。
ケンタが慌てて防御を固めるまで、さらに二発の拳撃がその頭部へ抉り込まれた。
為す術もなく、ケンタはそれを受けるしかない。
それは、まさしく一方的な様相だった。
昨日、三人の侍たちに向けあれほど高い戦闘力を見せたケンタが、いま目の前で子供のように翻弄されている!
その信じられぬ光景を目の当たりにした鼓太郎が、目を見開いて絶叫した。
「なんだよあれ。あんなのありかよ!」
「騎馬の型だ」
鼓太郎の叫びに応じて頭白が言った。
「源平の頃より続く、武者同士の鎧組み討ち術から生まれた柔の技。それを知らぬ者があの型を脱するのはまず不可能……」
頭白の言った「騎馬の型」──それは後の世に「マウントポジション」と称される体勢だった。
二十世紀末あたりから勃興してきた
横になった相手の上に胴をまたぐ形で正対するというその体勢は、一見すると子供の喧嘩のようにさえ思える。
だが、それが持つ格闘時の優位性は、文字どおり圧倒的なものだった。
ひとたびこの形が確立した場合、下になった者はそこから脱出しない限り、上からの一方的な攻撃を甘受しなければならないからだ。
それは打撃技だけに留まらず、絞め技・関節技への移行についてもまったく同様。
一時期は、このポジションに入るかどうが実戦系格闘技において勝敗の分かれ目とまで評されていたほどだった。
だから、この時点で十太夫が勝利を確信したことも、その効力を知る者からすれば至極もっともなことだと言えた。
隣りに座る仲間に向け、ほくそ笑みつつ彼は告げる。
「勝ったな。あれこそは、起倒流柔術にて語られる絶対的な優位の型。直次郎があの型に持ち込んで敗れたことは、これまでに一度もない。あの古橋某とやらの武運ももはやここまで」
十太夫と同様の判断を、頭白もまた下していた。
彼とは異なり、淡々とした説明口調をもって彼は語る。
「寝技・位置取りの技というものは、剣術以上にその型を知ることが何よりの肝要。技のひとつひとつにふさわしい返しの型があり、ゆえにこそ、それを知らずば相手の攻めに応じることなどできぬのだ。おそらくあの技は起倒流の裏の技。それを学んでおらぬ者、知らぬ者が返せる道理などありはせぬ」
「じゃあ、頭白さまは兄ちゃんがあのまま負けるって言うのかよ!」
まるで他人事のように説く頭白の態度に、鼓太郎は思わず感情を炸裂させた。
静かに目をつぶり、その内容を無言のままに肯定する頭白。
ずっしりと重苦しい沈黙が、わずかの間周囲を漂う。
それを打破したのは、すっぱりと切り落とすような勢いで飛び出した葵のひと言だった。
「左様なことはございません!」
強い口調で彼女は言った。
「古橋さまはお勝ちになります。いまどれほど不利な立場におありとしても、あの方は必ずや私たちの期待にお応えくださるはずです。そう、私はあの方の『ふぁん』なのですから。その『ふぁん』である私が、あの方を信じずしていったいどうするというのです。例えこの世の誰もがあの方の勝利を信じなくとも、私は……私だけは古橋さまを信じます。信じずにおれましょうか」
それは、あたかも自分自身を叱咤しているかのごとき口上だった。
膝上に置かれた両の拳が、ぎゅっと握り締められているのがわかる。
鼓太郎は、それを見た頭白がほんの少しだけ頬を弛めたのを見て取った。
「頭白さま……」
向けられた眼差しに気付き、頭白は小さく頷いて返した。
鼓太郎を促すように、自らの視線を改めて戦場へと送る。
戦況は、ケンタにとって劣勢どころの騒ぎではなかった。直次郎の拳が顔面を守る両腕越しに次々と降り注いでくる。
右、左、右、左──体重を乗せた一撃一撃が、両腕の肉を貫き骨を軋ませる。
すでに痛いという感覚は通り過ぎ、しびれにも似た重量感がずっしりとその根幹に染み入ってきていた。
俺は、奴の攻撃をあと何発耐えられる。
ケンタは、妙に冷め切った頭の中で自問した。
十発か、二十発か。
いや、そもそもこれはそんな数字の問題じゃない。
それだけはわかる。
こいつは、いわゆる根性比べなんだ。
試されているのは肉体の耐久力じゃなく俺の心、俺の魂──そう、
負けるものかよ。
ちらりと葵の顔を思い浮かべて、ケンタはそうひとりごちた。
いまの俺には「ファン」がいる。
俺を、この俺だけを応援してくれる大事な大事な大事な「ファン」が。
だから俺は、絶対に相手の攻めから逃げない。
それがどんな危険な技であっても、必ず受けきってみせる。
なぜって? それは、この俺がプロレスラーだからだ。
ファンの夢を背負うプロレスラーは、断じて敵に背を向けてはならない。
それこそがプロレスラー。
それだからこそのプロレスラーなんだ!
文句あるかっ!
ケンタがそうやって自分自身を奮い立たせている間、直次郎もまた必死になっておのれの優位を信じ込もうとしていた。
理屈によって裏打ちされた必勝の体勢。
だが攻める当事者は、いまだその確証を得られずにいたのだった。
頭部を守る両腕の間からぎらりと光るケンタの双眸。
その奥に燃える明らかな戦意。
襲いかかる打撃に屈することを頑なに拒み、なお抵抗し続けようとする強靱な意志。
こいつ──それを見た直次郎は思った。
この状況で、まだ何かを企んでいるのか。
いままでこの体勢に持ち込まれた対戦者は、ひとり残らず心を折られ、絶望の淵でおのれの敗北を自ら認めた。
それは、奴らがこの技に抗う術を身に付けていなかったからだ。
ではなんだ。
こいつが、この古橋某とやらがこんな目の色をしているのは、騎馬の型に応じる技を持っているからとでもいうのか?
莫迦な。
そんなことはありえない。
ありえるはずがない!
そんな心の揺らぎが、この時の彼に不用意な即戦を強いた。
おのが左膝をぐっとケンタの脇に押し入れるや否や、直次郎は両手でもってその右手首を捕縛する。
腕ひしぎ十字固め。
掴んだ手首を胸元に抱え込み、直次郎は上体を後ろに反らせた。
背筋に力を込める。
このままケンタの肘が伸びきれば技は完成し、そうなればそこから脱出することは不可能に近い。
直次郎は、おのれの勝利を確信した。
寝技・
だが、ケンタの反応は直次郎の予想を裏切った。
彼は直次郎が背筋を伸ばそうとするのよりもはるかに早く、おのが左手と右手とをがっちりと握り合わせたのだ。
クラッチ。
それは、
なんだと。直次郎は驚愕した。
こやつ、
尋常ならざるケンタの膂力が、直次郎の背筋力に拮抗した。
直次郎はなおも懸命にケンタのクラッチを切ろうと試みたが、ついにはそれを断念。
素早く技を解いて距離を置き、改めて正面からケンタと向かい合った。
苦況から脱出したケンタの姿を見て、葵らの顔に喜色が浮かんだ。
ケンタにとって、直次郎が
実戦的な、というより総合格闘技的な戦術は、やはり典型的なプロレスラーである彼の得意とするところではない。
正直な話、あのマウントポジションからうまうまと脱出できる自分のビジョンがどうやっても想像できなかった。
思わず安堵の息がこぼれ落ちる。
しかしそんなケンタであっても、こと従来型のグラウンドテクニック──組み合いから始まる手足・関節の取り合いとなれば話は別だ。
時にオリンピック出場経験を持つ者とのスパーリングすらこなしてきた彼には、寝技で柔術家と渡り合えるだけの自信と経験との持ち合わせが十分にあった。
相手の手の内はわかった。
ぺろりと舌なめずりをしながら、ケンタは口元を綻ばせる。
ならば、こちらはそいつを受けて立ちつつ主導権を握るまでのことだ。
互いに前屈みの姿勢を維持しながら睨み合う両者。
がばっと諸肌を脱ぎ戦意も新たにするケンタとは対称的に、直次郎の表情には困惑の色が隠せなかった。
当然だ。
彼にとって、よもや敵が自分の技を知っていようなどとは思いも寄らないことだったからだ。
この男も、どこかで柔術を学んだのか。
直次郎の脳裏に疑念が浮かぶ。
それも、我が起倒流と同様、組み討ち術を主とした流派を。
いや、そんなはずはない。
古橋某などという柔術使いの名など、これまで一度たりとも聞いたことがない。
なれば、こやつはいったい何者だ。何者なんだ。
そんな直次郎の困惑に付け込んでか、ケンタが一気に間合いを詰めた。
両手を真ん前に突き出し、がっぷり四つの組み合いを挑む。
小癪なとばかりに、直次郎もそれを受けて立った。
双方の肉体が真っ向から激突した。
直次郎は上半身裸の相手を速やかに捉えられず、ケンタがおのれの背後へ回り込むのを許してしまう。
ケンタの腕が首に回った。
直次郎が投げで返す。
寝技に移行。
回転してケンタが
両者はふたたび向き合い、またしても正面から組み合う。
直次郎、体落とし。
投げられたケンタが、足を取って引き倒す。
アキレス腱固めからヒールホールド。
直次郎、顔面に蹴り。
技が解ける。
三度対峙する両者。
組み合う。
寝技。
手足を取り合う。
ミリ単位の攻防。
肉が唸り、骨が軋む。
文字どおり息をも吐かせぬせめぎ合いが、ぴんと張りつめた空気の中、延々と繰り広げられる。
「葵殿……」
まるで信じられぬものでも見たかのごとくに目を見開いた頭白が、ぶるぶると身を震わせながら葵に尋ねた。
「これは……これは、いったいなんでござるか。古橋殿の身に付けたこの闘技とは、いったいなんというものなのでござるか?」
「『ぷろれす』です」
歓喜に弾んだ声をもって葵は答えた。
「これこそが古橋さまの学ばれた武芸、『ぷろれす』でございます!」
「ぷろれす……とな」
呆然とした面持ちで頭白は呟く。
「これは、なんと激しく……そして美しい」
一方、直次郎の勝利を確信していた十太夫たち侍衆にとって、戦況の推移は焦りをもたらすものでしかなかった。
彼らは、最初から「この立ち合いが終わればすべてを水に流す」という約定を反故にする気だった。
要は、自分たちが報復する際に邪魔となる古橋ケンタをうまく無力化できればそれでよかったのだ。
立ち合いという形式を選んだのは、武芸者同士の戦いではどちらかに死者が出てもお構いなしとなるからで、実のところ武士たる者の体面などは気にも留めていなかった。
予定どおり直次郎がケンタを倒せばあとは傷付いた彼とその他の者を殺害し、女がいればそれを思う存分嬲り尽くす。
十太夫も彼とともに来た侍たちも、心底からそれを楽しみとしている者たちだった。
だが、その目論見が、たったいま歪んだ。
ありえない現実だった。
よもや名古屋城下にその人ありと知られた柔術使い・男鹿直次郎が、名も知らぬ力自慢の武芸者ごときと五分の戦いを強いられるとは。
「直次郎!」
収まりきらぬ焦りの念が、言葉となって十太夫の口から飛び出した。
「そなたには、これまでさんざん目をかけてきてやったのだ。そのような輩に敗れることなど断じて許さぬぞ!」
余りにも身勝手な叱咤が直次郎の耳を痛打した。
胃の奥に、鉛のような不快感が出現する。
それは、心理的重圧以外の何物でもなかった。
男鹿直次郎は、尾張徳川六十一万九千石に仕える身分低き家臣のひとり息子だ。
幼少の頃より身体が大きく、長じてからは自ら望んで武芸の道に脚を踏み込んだ。
その後ろ盾となったのが加藤家の先代、すなわち十太夫の父親だったことが彼の行く先を明確に定めた。
いまの直次郎にとり、十太夫は直接の主に等しい。
その主からの感情的な叱責は、嫌が応にも彼の思考から冷静な判断力を奪う結果と相成った。
何としても勝たねばならぬ。
そんな強迫観念にも似た思いが、直次郎の脳裏を次第次第に埋め尽くしていく。
立ち上がり、改めてケンタと向き合う直次郎。
その呼吸は激しく乱れ、額からはしとどに汗が流れ落ちている。
典型的な消耗戦の流れだった。
それは間違いなく彼の望んだ展開だったが、その当人もまさかこれほど体力を削り合う羽目になろうとまでは思っていなかった。
おのれの限界が間近であることを直次郎は迅速に察した。
こうなれば、まだ余力のあるうちに雌雄を決するほかはない。
何、こちらが苦しい時は相手だって苦しいのだ。
あやつが何者であろうとも、無尽蔵な体力を持っているわけではない。
これまでの修行を思い出せ。
決められる。
そう、俺ならば決められるはずだ。
心理的な憔悴と直面する現実とにせっつかれ、彼は挫けそうになる戦意に鞭を打った。
脇を締め、それまでのものと構えを一転させる。
打撃戦の構えだった。
変わることなく正面から踏み込んできたケンタの顔面を、直次郎は小刻みな拳撃で迎え撃った。
左の二発。
どちらもがまともに目標を捉え、前進してきたケンタの巨体がその場で止まる。
大きく前に出て追い討ちの右。
だがその一撃は完全にブロックされ、入れ替わるようにケンタの反撃が直次郎を襲う。
逆水平チョップ。
丸太のような右腕が唸りを上げる。
深く身を沈めてこれをかわす直次郎。
がら空きになったケンタの胴が脚が、彼の眼前に無防備な状態でさらけ出された。
絵に描いたような垂涎の機会。
直次郎は本能的に床板を蹴る。
踏み出したケンタの左膝に組み付き、これを押し倒すべく目方をかけた。
してやったり、と直次郎はほくそ笑む。
狙うのはまたしても騎馬の型だ。
それも此度は背後からのもの。
斜め後ろに転倒させたケンタの背中へ素早く回り、手加減なしの絞め技をもって一気に落とす。
それが直次郎の思い描いた勝利への青写真だった。
どれほど強靱な肉体を持つ者であっても、頸動脈圧迫による失神からは逃れられない。
勝った!
そう心中で叫んだ彼の延髄を強力な一撃が襲ったのは、まさしくその刹那の出来事だった。
頭上から振り下ろされたケンタの両手が、低い姿勢で突っ込んできた直次郎の首筋を狙いすまして撃ち抜いたのだ。
罠だと。
こやつ、俺が懐に入り込むのを狙っていたのか。
直次郎がケンタの術策に気付いた時にはもう手遅れだった。
叩き付けられた衝撃が激しく脳幹を揺さ振り、彼の中で刻まれるべき時が一瞬にしてその歩みを停める。
がくっと膝が折れ、上半身が前のめりに崩れた。
まさしく絶好のチャンスだった。
そのわずかな隙を利用して、ケンタは直次郎の背後に回り込む。
ためらうことなく相手の股に左腕を差し入れ、雄叫びとともにその身体を上方へとすくい上げた。
両脚にかかっていた体重が消失し、視界が縦方向に走った。
そのことを直次郎が察した直後、今度は彼の眼に映るすべての光景が真っ逆さまになって雪崩落ちる。
バックドロップ。
肩と後頭部とが硬い床板に叩き付けられ、直次郎の眼前に超新星の火花が散った。
意識が飛ぶ。
必死になって習いおぼえた受け身など、およそものの役には立たなかった。
それは、常人であれば身動きひとつできないほどのダメージであったろう。
ひとつ間違えば、生命にすら関わったかもしれない。
しかし直次郎は、いや武芸者としての男鹿直次郎の肉体は、そんな道理をものともせず懸命に立ちあがろうとした。
立ってなお、おのれの戦いを継続しようと試みた。
「男鹿ぁっ!」
そんな彼の背後から大音量の呼びかけがなされたのは、その時だった。
五感が粉砕され、いまや幽鬼のごとく立ちすくむだけの直次郎がゆらりと振り向く。
刹那ののち、その胸元に津波のごとき激震が真正面から押し寄せた。
古橋ケンタの代名詞、剛腕ラリアット。
突進してきた彼の右腕、周囲六十センチの太さを持つ筋肉の塊が水平に振り抜かれる。
そんな代物をまともに受けた直次郎の身体は、突風に薙ぎ払われる枯れ木のように勢い良く打ち倒された。
まさに駄目押し、いやむしろ介錯とさえ言っていい「会心の一撃」だった。
だが、審判を務める金子伊兵衛は戦いの終わりを宣告しようとしなかった。
予想を覆す展開を目の当たりにし、呆けたように立ちすくんでいるだけだ。
審判が止めない限り、この戦いは終わりを告げない。
ゆえにこそ、ケンタはなおも動きを止めなかった。
彼は思った。
だから最後の瞬間まで一切の手を抜かない。
例え相手が死に体の身となっていても、だ。
それが「古橋ケンタ」の「礼儀」だった。
それが「古橋ケンタ」の「美学」だった。
大の字に寝転ぶ直次郎めがけて、怒濤のようにケンタは襲いかかった。
その両脚を変則的に交差させつつ抱え込み、力任せにステップオーバー。
そのままおのれの背筋力を利して、無理矢理に後方へと反り上げた。
テキサスクローバーホールド。
変形式の逆エビ固めだ。
ロープブレークのような救済ルールがない以上、いったん極まったこの手の技を返すことはよほどの体力差がない限り不可能だった。
「それまでっ!」
不意に制止の声が響き渡った。
ただし、それは審判たる金子伊兵衛のものではない。
頭白の口から放たれた一声だった。やにわに立ち上がりつつ彼は言った。
「すでに気を失うておる。勝負ありだ」
慌てた伊兵衛が確認を入れるまでもなく、直次郎の意識は完全に失われていた。
白目を剥き、口の端から泡まで吹いている。
正式に立ち合いの終わりを告げられ、ケンタもゆるりと技を解く。
緊張感が一気に途切れて、両膝からごっそりと力が抜けた。
おのれの体重を支えきれなくなって、思わず尻餅をついてしまう。
駆け寄ってきた葵や子供たちにも、力のない笑顔を見せるのがやっとという有様だった。
葵は、そんなケンタの目の前にひざまづくと、取り出した懐紙を彼の顔に刻まれた生傷へ献身的に這わせていった。
滲んだ血が、みるみるうちに白い懐紙を赤く汚す。
「よくぞ……よくぞご無事で」
どこか振り絞っているかのような声で彼女は言った。
その面持ちはまず満面の笑みといっていいものだったが、よく見ると両眼の端には大粒の涙が浮かんでいた。
葵さんも一緒に戦っていてくれたんだ。
この立ち合いのさなか、ぎりぎりの緊張を強いられていたのが自分だけでないことを悟らされ、ケンタは急に照れ臭くなった。
ああ、やっぱり「ファン」の存在っていいものなんだな。
そんな他愛のない感傷が、一服の清涼剤のごとくじわりと身体に染み込んでくる。
おのれのすべてがいまゆっくりと弛緩し始めたことを、彼ははっきりと自覚した。
しかし、そんな穏やかな空気もさして長続きはしなかった。
激しい怒号が突如として巻き起こり、それらをひと息に吹き飛ばしてしまったからだ。
「ふざけるな坊主。左様な真似、我ら武士たる者ができるとでも思うてかっ!」
仁王立ちする加藤十太夫が、眼前に座する頭白めがけて、感情のおもむくままに怒鳴り散らしたのだ。
「『約定に従い退け』だと。たかが貧乏寺の法師ごときが武士に向かって命令するとは、増長するのも大概にいたせ!」
「断じて増長ではござらぬ」
しらっとした表情で頭白は応えた。
「立ち合いが終われば、その勝敗を問わず過去の遺恨は水に流す。この言は、そちらが口になされたことではござらぬか。武士たる者の体面をどうこう言われるのであれば、まずおのれの発言に責を持たれることこそが筋というものでござろう」
頭白は、十太夫以下の侍衆に寺からの退去を求めたのだった。
その要求の根拠となったものは、先だって十太夫自らが口にした聞く者すべてを証人とする明確な約定だ。
だからこそ、頭白の発言は完全無欠に正当だった。
約束を守ること。
世を問わず、それは人として第一に履行しなければならない普遍的な社会常識のひとつだからだ。
だが、十太夫は「黙れ」のひと言でもって頭白の言葉をはねつけた。
ぶるぶると怒りにその身を震わせつつ、血相を変えて彼は叫ぶ。
「者ども、遠慮は要らぬ。こやつと、そこの古橋某とやらを斬れっ! 手負いの武芸者と坊主がひとり。何をか恐れることがある」
それはまるで、癇癪を起こした子供のごとき様相だった。
そんな十太夫を目の当たりにした頭白の瞳から、人の目の持つ輝きが見る見るうちに消えていく。
代わって現れ出でたのは、氷のような冷たさを秘めた無機質な眼差しだ。
そんな代物をまるで鋭利な刃物のように突き出した彼は、感情のこもらない口調でもって十太夫に告げた。
「……曲がりなりにも一己の武士と思うたゆえ、せめてその面目を潰さぬよう振る舞ってきたつもりでござったが、どうやらこれはそれがしが誤っていたようでござるな。そなたらはただの子供、いやただの
「貴様、我らを愚弄するつもりかっ!」
「愚弄されるような真似をなされておるのはそちらでござろう。腰に二本を差してはいるが、しょせんは無抵抗な据え物しか斬ること叶わぬ惰弱な心根。どれ、ひとまずこの愚僧を斬ってみてはいかがかな。もっとも、刀構えて腰がふらつくようなそこもとらの腕で斬ることができればの話でござるが」
「おのれっ」
十太夫の左右にいた侍が、それぞれすらりと刀を抜いた。
あからさまな頭白の挑発を受け、その顔は完全に紅潮しきっていた。
白々しいまでの殺意が、鈍く光る剣先に禍々しく宿っている。
彼らの中で、吹き上がる激情が理性を圧倒したのだけは素人目にも明らかだった。
「頭白さんっ!」
激変した状況を受け、ケンタは疲れた身体に鞭打って跳ね上がるように立ち上がった。
つい先ほど侍衆を相手にいいように遊ばれていた頭白が、本気になった彼らの剣撃から身を守れるなどとは到底思えなかったからだ。
叫び声を上げながら、侍衆めがけて勢い良く駆け出す。
ひと足早く白刃が煌めき、ケンタの目の前でそれが頭白の頭上に振り下ろされた。
確実に訪れる惨劇の予感。
葵や子供たちは顔を背けて悲鳴を上げた。
だが次の瞬間、ケンタはおよそ信じられない光景を目撃した。
落下した二本の刀が頭白の身体をすり抜けるように床板を打つのと前後して、ふたりの侍があたかも糸の切れた操り人形のごとくどさりと真下に崩れ落ちたのだ。
ふたりに挟まれるような位置に座っていたはずの頭白はいつのまにか立ち上がり、いま十太夫と指一本分ほどの間合いをもって対峙していた。
まさしく、目にも留まらぬ早業とはこのことだった。
頭白の双眸から放たれる冷気が、十太夫の胸を前後に貫く。
それは、殺意などという言葉が生温く感じられるほどの気迫だった。
まるで死神に心臓を鷲掴みされたかのようなその感覚。
怖気が背筋を走り抜け、知らぬ間にがちがちと歯の根が鳴っていた。
「莫迦な」
顔色を失った十太夫は、もはやそれだけ言うのが精一杯だった。
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