第十七話:悪侍、ふたたび

 翌日の朝、ここ最近では珍しくケンタは自力で目覚めることができなかった。

 やはり昨夜遅くまで頭白と語り合っていたことが原因なのだろうか。

 眠りの魔術は、葵の呼びかけがその意識を覚醒させるまで、彼を温もりあふれる牢獄に捕らえ続けて放さなかった。

「おはようございます、古橋さま。朝餉の用意が調いましたので、本堂のほうまでいらしてください」

 書院の襖戸が静かに開き、その向こうで膝を折った葵が一礼しながらそう告げた。

 乱れた着物もそのままにむっくりと起き上がったケンタが、欠伸に続いていかにもな生返事を口にする。

 それを見た葵は、心底呆れたような顔で彼に向かって苦言を呈した。

「寝起きから左様な心持ちでは、子供たちに笑われてしまいますよ。朝餉を取られる前に、裏手で湯浴みをなさってくださいませ」

「えっ、こんなぼろい寺に風呂なんてあったんですか?」

「きちんとしたものではございませんが、たらいに湯を満たして汗を流せるようにしてあります。私と子供たちはすでに朝湯を済ませておりますので、古橋さまはごゆるりとご利用なさってください。朝餉のほうは、古橋さまがお戻りになられるまで待たせていただきます」

「すいません。お手数かけます」

 本来なら十代前半の小娘に大の大人が叱られるなどみっともないにもほどがある光景なのだが、不思議なことに当のケンタは微塵もそう感じてなどいなかった。

 それは、生活不適合者半歩手前の自分より、ちゃんとした躾と教育とを受けてきた葵のほうがこうした日常生活の場においてはるかに先んじているのだと、彼自身が認めていたからにほかならなかった。

 いそいそと寝乱れた衣服を直して本堂の裏手に回ると、なるほど直径三尺約一メートルほどもある木製のたらいに中程まで湯が張ってある。

 その側には、手桶とともに大きめの水桶がふたつ置かれていた。

 片方の水桶には板で蓋がしてあり、そちらには継ぎ足し用の湯が入っているものと思われた。

 さっさと裸になり、ケンタはたらいの中であぐらを組んだ。

 手桶の縁にかけられてあった手ぬぐいを取って身体を拭う。

 じっとりと全身を覆っていた寝汗が洗われ、それと入れ替わるようにさっぱりとした涼しさが快感となって訪れてきた。

 やはり朝風呂とはいいものだと改めて感じ入り、ケンタはふうと天を仰いで息を吐いた。

 水桶から汲みなおした熱めの湯を肩の上から流す頃には寝起きで呆け気味だった気分も冴え、肉体が稼動状態となったことを自覚できるまでになっていた。

 両手でたらいの湯をすくい、ばしゃばしゃと数回に渡って顔を洗う。

 かすかな芳香が、ケンタの鼻孔を優しく甘く刺激した。

 なんだろう。

 さっきまで湯に花でも浮かべてあったのかな。

 そんな突拍子もないことを考えてしまうケンタだったが、しばらくするとさすがにその香りが葵たちの残り香であることに思い至った。

 見るも鮮やかに、萩原宿の風呂場で見た光景が彼の脳裏に浮かびあがる。

 それは、一糸まとわぬ葵の身体だった。

 細い首、なだらかな肩、小振りな胸、華奢な腰、すらりとした脚線──男としての本能が思わず反応しそうになって、ケンタは慌てて頭から湯を被った。

 勢い良く体表面を流れ落ちる熱さが、湧き上がる煩悩をかろうじていずこかへと流し去ってくれた。

 一応の目論見が成功したにもかかわらず、なおも彼はぶんぶんとかぶりを振る。

 「成長しないな、俺も」とぼやきながら、自分で自分を嫌悪した。

 つまらぬことで首をもたげる性欲が、なんとはなしに鬱陶しい。

 いっそのこと仏門に入って修行でもしてみようかと思ってしまうくらいだった。

 そんなケンタが寺に向かってやってくる複数の人影に気付いたのは、ちょうど彼が湯から上がろうとしたその時のことだった。

 遠目にも、皆が皆、腰に刀を差しているのを見て取れた。

 紛れもなく侍だ。

 人数はざっと七、八人といったところ。

 明らかに尋常な様子ではない。

 というより、尋常な理由で武士がこんな僻地に足を運ぶわけなどない。

 ケンタは慌てて着衣を済ませると、建物の陰に身を隠しながらそっと彼らの動きをうかがった。

 侍の集団は肩で風を切りながら門を潜り、止まることなく寺の敷地へ足を踏み入れた。

 世俗を離れた聖域に対する敬意など欠片も見られない足取りだった。

「誰かおらぬか」

 本堂前に至ったあたりで、侍のひとりがひと声高く呼ばわった。

 どこか高圧的なものが感じられる声だった。

 その不躾な呼び出しへの回答は、思いの外早くに訪れた。

「太刀を帯びた御武家衆が、かような古寺にいったい何用でござるか」

 そう言って本堂の奥から姿を見せたのは、藍色の僧衣に身を包んだ白髪の修行僧──頭白だった。

 物々しい雰囲気を隠そうともしない侍たちを嫌悪してか、その表情にはいささか厳しい色があった。

 放たれた言葉も、どこか非難めいてすらいる。

 だが、侍たちはそんな頭白の素振りなど一顧だにしなかった。

 あたかも傲慢を形にしたかのごとき態度でもって、侍のひとりは一方的な要求を口にする。

「昨日、我ら相手に無礼を働いた者どもがこの寺に匿われているはずだ。おとなしくそれらを引き渡してもらおう」

 それは真っ当な要求などではなく、紛うことなき脅迫だった。

 人数という勢威を背景とした他者への強要。

 無論、彼らの側に人として間違ったことをしているという意識は見られなかった。

 この侍たちにとって、身分低き者へのそれは、至極真っ当な権利として認識されているのだろう。

 そして、その腹立たしい放言を耳にしたケンタははたと気付いた。

 いま頭白と向かい合っている侍が、昨日この手で叩きのめした連中のひとりであることに、だ。

 鼻の脇にある大きな黒子。

 見間違えるはずもない。

 自分たちがここにいるのを彼らがどうやって知り得たのかはわからない。

 しかし、あの者たちが昨日の報復を求めてこの寺を訪れたのだけは間違いなかった。

 それも、ぞろぞろと助太刀となる仲間を引き連れて。

 卑怯千万。

 ケンタの腹腔で、灼熱の溶岩がふつふつとその容積を増してきた。

 自分たちの行いを棚に上げ、受けた制裁に対し理不尽な報復を企もうとするその態度。

 ケンタの予想が外れていなければ、それは逆恨み以外の何物でもない。

 心中で込み上がる激情が、ケンタの肉体を突き動かそうと蠢き始める。

 それをすんでのところで阻止したのは、いつのまにか彼の背後へと回り込んでいた葵と鼓太郎の存在だった。

 彼女らは、いままさに侍たちの前へ飛び出さんとしていたケンタの背に、小さくも鋭くひと声をかけた。

「葵さん、鼓太郎。どうしてここへ?」

 はっと振り向いたケンタが、思わずその目を丸くする。

 その疑問符に鼓太郎が答えた。

「頭白さまが仰ったんだ」

 彼は言った。

「もしあの侍たちが昨日の奴らなら自分がうまく誤魔化すから、おいらたちは絶対表に出て来るなって。ケンタ兄ちゃんや葵姉ちゃんと一緒になって隠れてろって」

 その言葉どおり、頭白は侍たちの要求に対し知らぬ存ぜぬを貫徹していた。

 苛立ちの余り次第に声を荒げてくる彼らに動じることもなく、ただ淡々と同じ返答を繰り返す。

「左様な御仁は当寺にはおりませぬな。そちらの勘違いではござらぬか?」

「黙れ坊主。とうに調べは付いておるのだ。なんなら我ら一同、力尽くでここを家捜ししてもいいのだぞ」

「御随意になされい」

 あからさまな威嚇を前にしても、なお平然と頭白は答えた。

「いかに身分高き御武家衆とはいえ、俗権及ばぬ寺の境内を勝手に荒らすは天下の御法度。御身に重き罰を受けるお覚悟があるのなら、家捜しでも何でも好きなようにされるがよかろう」

「そうか。あくまでも隠し立てをすると申すのだな」

 一歩も退かない頭白を前に、黒子の侍は口元を醜く歪めた。

 そのこめかみに血管が浮かび、ぴくぴくと脈動した。彼は言った。

「なれば、こちらにも考えがある。おのれが坊主であろうとも、ただで済むとは思うでないぞ。もう一度だけ言う。そちらが匿もうておる者どもを、黙って当方に引き渡せ」

 それは、まさしく最後通牒に等しかった。

 だが、頭白は微動だにしなかった。

 此度は口も開かない。

 ただ軽侮のこもった眼差しを、じっと発言者に向け送り続けるだけだった。

 黒子の侍の中で、何かが音を立てて弾け飛んだ。

 さっと小さく右手を挙げる。

 合図だった。

 それに呼応し、他の者どもが一斉に動く。

 有無を言わせず頭白に襲いかかった彼らは、腕ずくでその身を外へ引きずり出した。

 さしたる抵抗もできぬまま、石畳の上に転がされる頭白。

 暴行が始まったのは、その直後だった。

 倒れ臥した頭白の身体に、侍たちの足蹴が容赦なく降り注ぐ。

 罵詈雑言がそのあとに追従した。

 ケンタにとって、それは到底許される所行ではなかった。

 寺社境内が乱暴狼藉の禁じられる神聖な場所だから、というのが理由ではない。

 多数によって無抵抗な少数を蹂躙するという行為そのものが、余りに卑怯卑劣な行いに思えてならなかったからだ。

 ケンタは、それを黙って見ていることができなかった。

 例えそれが理に適わぬことだったとしても、彼の中にある正義はそんな理不尽に従うことを断じて許容しようとしなかったからだ。

 明らかな不正義を前にして、なおそれから目を背けるような卑劣漢になど絶対になりたくはなかった。

 そんな自分になる道など、断じて選びたくはなかった。

「葵さん、鼓太郎」

 ぎゅっと唇を噛み締めながら、ふたりに向かってケンタは告げた。

「俺は行く。ふたりはどこか安全なところに隠れていてくれ」

「古橋さま!」

「ケンタ兄ちゃん!」

「ふたりの言いたいことはわかってる」

 驚きの表情を浮かべる葵と鼓太郎を目で制し、諭すように彼は言った。

「いま俺があいつらの前に出て行ったら、身を張って俺たちを庇ってくれてる頭白さんの思いが無駄になる。それはわかってるんだ。でも、それでも俺は、あの人があんな目にあっているのを見過ごすことなんてできない。あの人を犠牲にして自分だけが安全地帯にいるなんて真似、俺には絶対にできない!」

 そう言い終えるや否や、ふたりを置き去りにしてケンタは物陰から飛び出した。

 頭白を囲む侍どもに向け、勢い良く制止の声を投げ付けた。

 それを耳にした侍たちは、加害の手を止め一斉に顔を上げた。

 人数から来る余裕がそうさせているものか、肩を怒らせ険しい目付きを隠そうともしないケンタを目の当たりにしながら、なお不敵な笑いを浮かべてこれに応じる。

「なんだ。やはりおるではないか」

 わざと足下の頭白に聞こえるよう、黒子の侍は皮肉っぽくそう言った。

「そこの者、俺の顔を見忘れたとは言うまいな。名は何という?」

「人に名前を聞く時は、先にそっちが名乗るものじゃないのか」

「確かにそのとおりだ」

 ケンタが投げ返してきた正論を、素直に彼は受け入れた。

「俺は、尾張藩主・徳川権大納言光友が家人、加藤かとう十太夫じゅうだゆう。改めて尋ねる。おぬしの名は何という?」

「古橋ケンタ」

「奇妙な響きの名前よな。およそ武芸者のものとも思えぬわ」

 加藤十太夫と名乗った黒子の侍は、そう言ってケンタの名前を嘲笑った。

「いかに名を持つ身であっても、しょせんは武士ならぬ下々の輩。我らのごとく三河累々の家系と比べるのもおこがましいということか。まあいい。古橋とやら。あの時おぬしと一緒にいた娘と小僧はどうした?」

「ふたりはもうここにはいない」

 十太夫の問いかけに、ケンタは頑としてしらを切るつもりだった。

 間髪入れずに反応し、疑問の余地も入らないほどはっきりとそう言い放つ。

 いや、言い放とうとした。

 だがその発言を、突如として第三者の声が遮った。

 台詞は完成することを許されず、ケンタの後ろから放たれた別の言葉がその後半部分を引き継いだ。

「ここにおります!」

 それは、葵の放った口上だった。

 ケンタが驚いて振り向いた先には、凛と立つ彼女と並んで鼓太郎の姿もあった。

 予想外の展開に目を丸くする彼に向かい、まるで母親が子供を叱咤するかのごとくに葵は告げた。

「見損なってもらっては困ります、古橋さま。葵は、これでも武士の娘でございます。恩人が身をもって悪行に立ち向かおうとなさるを尻目に、ただ我と我が身の安全のみを図るなど、毛頭する気はございません」

「ぶ、武士じゃないけど……おいらだってそうだ!」

 鼓太郎もまた、叫ぶようにして彼女の言葉に追従する。

 その心強い後押しを受けた葵は、ケンタを差し置いて数歩前に進み出るや否や十太夫以下の侍どもへ見事なまでの啖呵を切った。

「さあ、私どもは逃げも隠れもいたしません。あなた方の望むがままをなされてはいかがですか」

「小娘の分際で、よく言う」

 十太夫が口の端を吊り上げた。

 おもしろいものを見たとでも言いたげな表情を形作る。

 彼は言った。

「だが、そう身構えることはない。我らはそこの男、古橋とやらに正式な立ち合いを申し込みに来たのだ」

「立ち合いだと」

「そうだ」

 ケンタからの確認を受け、不敵に笑って十太夫は答えた。

「真剣は用いぬ。だが、正々堂々一対一の立ち合いだ。我らとて、無用な殺生で腹切らねばならぬのは不本意ゆえな。勝ち負けを問わず、この立ち合いにて昨日の無礼は水に流そう」

 唇を真一文字に引き締め、ケンタは十太夫の双眸を凝視した。

 この申し出を受けなければ理不尽な暴力でもってそれに応える、とその目の色が主張していた。

 小さく眉間にしわを寄せ、再度ケンタは確認の言葉を放った。

「いまの言葉に嘘はないな」

「ここにいる者すべてが証人だ」

「わかった。受けよう」

 ケンタは言った。

「俺の相手はあんたがするのか?」

「まさか」

 十太夫が答えた。

「おぬしの相手はこの者がする。おい」

 彼の呼び声に合わせて、後ろからひとりの侍がケンタの前に進み出た。身の丈は、ざっと六尺約百八十センチ近くある。

 ケンタほど肉体に厚みはないが、それでもかなりの大男だ。

 ぎょろりとした団栗眼どんぐりまなこをぎらつかせ、威嚇するように睨め付けてくる。

「拙者、男鹿おが直次郎なおじろうと申す」

 ふてくされたような口調で大男は名乗った。 

 浮かべているのは、友好的な空気など寸分も感じさせない形相だ。下唇を突き出し、許されるものならいますぐにでも殴りかかってきそうなほど旺盛な戦意をその全身にみなぎらせている。

 喧嘩腰とは、まさにこのことであった。

 強者だ。

 本能的にケンタは察した。

 精神よりも肉体が先にそれを悟り、背筋にぞくりと寒気が走る。

 過去、王座ベルトのかかった選手権試合にてリング上での死も覚悟したことのあるケンタだが、この感覚はいわばそれに近いものがあった。

 彼は確信した。

 こいつ、間違いなく「持っている」奴だ。

「立ち会いの場所は、この寺の本堂が良かろう。仏の御前で男同士が技を比べ合うというのも、時には乙なものよ」

 額から血を流しいまだ地面に突っ伏したままの頭白をちらりと見遣ってから、十太夫はケンタに告げた。

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