第十五話:橋上の激突

 なんの前触れもなくいきなり立ちあがった葵の膝から、ケンタの頭が滑り落ちた。

 そのまま、すとんと草地の上に落下する。

 「痛っ!」と小さく声をあげ、ケンタの意識は瞬時に覚醒した。

 十分に状況を把握できていないままむっくりと上体を起こし、ぼんやりした目できょろきょろと周囲を見渡す。

 ようやくのことで焦点があった視線の先には、街道沿いを懸命に駆けていく葵の姿があった。

 いったい何があったのだろう?

 随分と慌てている様子だった。

 もう少しだけ視線の先を進めると、そこには土岐川の支流に架かる木橋があった。

 その橋上で何やら騒ぎが起きている状況を、即座にケンタは認識する。

 ここまで聞こえてくる喧噪は、どうやらそこが発生源のようだった。


 ◆◆◆


 近隣の田畑にとって大事な水源となっている緩やかな流れの上に架け渡されたその橋は、五間約九メートルほどの長さと二間約三.六メートルほどの幅、そして腰の高さほどの欄干を有していた。

 おそらくは、周辺に住む農家や彼らから作物を仕入れる商家あたりが資金と労働力を提供して作った木橋なのだろう。

 ひとたび街道の往来が便利となれば、それが彼らの懐を潤わす結果へ繋がることは必然だからだ。

 いわば、先行投資とも言える。

 それゆえか、橋はよく手入れが施されていて、民衆の共有財産として大切に扱われていることを無言のままに主張していた。

 そんな橋上において、いま身形の良い武士が三人、ひとりの少年に向かって狼藉を働いていた。

 明らかな喧嘩沙汰だった。

 いや、少し違う。

 それは、一方的な暴力だった。

 私刑にすら近い。

 暴行を受けている少年は、せいぜいとって十かそこらに見える。

 まだまだ子供と言っていい年頃だ。

 近場にある農家の息子なのだろうか。

 着ているものは、ところどころつぎはぎの入った筒袖の半着だ。

 少なくとも裕福そうな印象は受けない。

 それと比較して、武士たちのほうはかなり高い身分にあることが一目瞭然の出で立ちだった。

 ぴしりと染みひとつない紋付きの羽織袴。

 おそらくは尾張藩に仕える藩士、それも高禄の家柄にある者たちに相違なかった。

 そんな武士たちが、あろうことか年端もいかない子供に向かって理不尽な暴力を行使しているのだ。

 言うまでもなく、それはよほどの理由がなければ許されない行為だった。

 では、殴られている少年になんらかの非があったのかというと、どうもそうではないらしい。

「見世物ではないぞ!」

「散れ! 散れい!」

 そんな風に侍たちから威嚇されながら、なお遠巻きに彼らへと非難の声を浴びせ続けている通行人たちの反応が、その事実を如実に物語っていた。

「小僧、この程度の仕置きで済むと思うな」

 侍のひとりが、少年の胸倉を掴み上げつつそう凄んだ。

 鼻の左側に大きな黒子ほくろのある体格のいい男だ。

 残りの者たちに対する態度からして、三人の筆頭格だと思われた。

 口の端を吊り上げながら彼は言った。

「たかが百姓・町人の分際で、いやしくも武士たる者を竿でつという無礼を働いたのだ。断じて許すわけにはいかん。その報いはいまからたっぷりと味わわせてやるから、しかと覚悟しておくのだな」

「へん、何が『いやしくも武士たる者』だい。この木っ端侍が!」

 左のまぶたを真っ赤に腫らし切れた唇に血を滲ませながら、それでも少年は侍たちに向け堂々と啖呵を切った。

「おいらは、真っ昼間から大酒喰らって通りがかりの女の人に悪さするような連中に下げる頭なんて持ってないや! どうしても頭下げて欲しいってんなら、まずはその偉そうな態度を改めてからにしろってんだ!」

 この状況でなお心を折らずに自分の正義を口にできるとは、なかなか大した度胸である。

 もし秋山弥兵衛がこの場におれば、この者に剣の道へ進むよう進言したやもしれぬ。

 だが、それは同時にあまり賢いとは言えない発言でもあった。

 侍たちへの挑発以外の何物でもなかったからだ。

 案の定、黒子の侍が激高して怒鳴った。

「なんだと、この餓鬼」

 次の瞬間、がすっと鈍い音がして侍の拳が少年の頬を殴打した。

 怒りのためこめかみに太い血管を浮かべた黒子の侍は、繰り返し右の拳を叩き付けた。

 だが少年の眼光は衰えなかった。

 顔中を打痕で紫色に染め唇をさらに数カ所切りながら、それでもなお決しておのれを曲げようとしなかった。

 まるで自分の正しさを心から信じているかのごとく、その目は不屈の色を示し続けている。

 それを見知った黒子の侍は、ついに逆上した。

「黙って聞いておれば、言いたいことを……武士に非礼を働くだけに飽きたらず、あまつさえその舌で愚弄までしてくれるとは。子供だとて、もはや容赦ならぬ。この手で無礼討ちにしてくれるわ!」

 黒子の侍は、少年の身体を無造作に前へ突き飛ばすと、まるで周囲に見せつけるかのごとく腰の刀へ手をかけた。

 それを目の当たりにした通行人たちの顔が一斉に引きつる。

 この男が本気であることを、その醸し出す雰囲気から察したのだ。

 しかし、ほかのふたりの侍はこれににやにやと薄ら笑いを浮かべるだけで、その暴挙を止める素振りなど一向に見せようとしなかった。

 無礼討ち──公儀より正式に認められた武士たる者の特権。

 下々の者から侮辱された武家の者が、おのれの名誉を守るために刀を用いる実力行使のことだ。

 ただしそれは、無法な横暴が許されるほど容易く許される行為ではない。その正当性が上に認められなければ斬った武士の側が首をはねられることもある、

 極めて厳格な決まり事に則っているのだ。

 しかし、いまここにいる三人の武士たちは、どうもそういった現実が見えている者たちではなさそうだった。

 自分たちが無体な真似をしているという自覚が最初からないのである。

 よほど羽振りの良い家で思う存分甘やかされながら育ってきたのだろう。

 感情のおもむくまま武士の特権を主張はすれど、その責務を果たさんとする意志などは身体のどこを切ってみたところで見出すことなどできそうになかった。

「お止めください!」

 いまにも鯉口が切られる──それは、そんな刹那の出来事だった。

 ぱしっと弾けるひと言とともに、黒子の侍と少年との間にひとりの少女が割り込んできたのだった。

 藍色の着物と鳶色の帯。

 秋山葵だ。

 彼女はすかさず少年に駆け寄るとその容態を確認。

 小さく安堵の表情を浮かべると、次の瞬間には振り向きざま侍たちに向け抗議の言葉を投げ付けていた。

「大の大人が子供相手に三人がかりで無体を働くとは……それでも誇りある武士ですか! 恥を知りなさい!」

「娘、それは我らが尾張藩主・権大納言ごんだいなごん光友みつとも家人けにんと知っての言い草か?」

 侍のひとりが、にやにやと好色そうな笑いを浮かべつつそう言った。

 顔が酒の酔いで朱に染まっている。

 よく見るまでもなく、ほかのふたりも同様だ。

 さきほど口走った少年の言葉を、それは裏付けるあからさまな証拠だった。

 葵の両眼が鋭く光った。

「それが、いったいなんだというのです」

 すっくと立ちあがった彼女は、一歩も退くことなくこの男たちと対峙した。

 凛と背筋を伸ばし、真っ向から視線を合わせる。

 まるで上から見下ろすかのような彼らの態度に立腹したものか、全身で怒りをあらわにしている。

 小柄な身体を精一杯大きく膨らまして、葵はひと息に言い放った。

「尾張徳川さまと申せば将軍家に連なる立派な家柄。ですが、そのような御方に仕えているからといって、間違いを間違いとたしなめられたことに開き直ってみせるとは何事ですか。主家の名を安易に持ち出し威嚇することはそのまま御家の恥に繋がるのだと、なぜお気付きにならないのですか?」

「ふん」

 至近距離で葵と向かい合った黒子の侍が、莫迦にするかのごとく鼻を鳴らした。

「大方どこぞの藩士か足軽あたりの娘であろうが、我ら相手によくぞそこまで言い切った。その度胸は誉めてやらねばならぬ。無論、覚悟はできておるのだろうな」

「覚悟とは、いったいいかなる意味でありましょうや?」

「こういうことよ」

 黒子の侍が、勢い良く左腕を水平に払った。

 手甲を付けた左手が、葵の頬を激しく打つ。

 ぱしんと鋭い音が響き、彼女の身体は薙ぎ払われる葦の葉のように橋上へ打ち倒された。

 悲鳴を上げる暇すらなかった。

「お姉ちゃん!」

 少年が叫んだ。

 それは余りに唐突な出来事だったゆえ、葵は我が身に何が起きたのかをまったく理解できなかった。

 耳の奥で羽虫が唸る。

 呆然とした目でそっと口の端に手をやると、わずかだが指先に赤いものがついた。

 鮮血だった。

 そんな葵に、黒子の侍がのしのしと歩み寄った。

 手を伸ばし着物の襟を掴み取ると、強引にその身を立ちあがらせる。

 顔を間近に迫らせながら、黒子の侍は嫌らしく口元を歪めてみせた。

「食うには大分色気が足りぬが、それでも『おんな』には違いない」

 彼は言った。

「そこなわらしを無礼討ちするより、器量好しの小娘を思う存分嬲りつくしたほうが幾倍も楽しめそうだ」

 酒臭い息が葵の顔に吹き付けられた。

 彼女の背筋を怖気が走る。

 しかし、それでも葵は意を屈せず、きっと黒子の侍を睨み付けた。

 吐き捨てるように彼女は言った。

「外道! あなたがたは、武士の心はおろか、人としての良心すら持たぬのですか」

「この期に及んで、なお左様な強がりを口にできるとはな。気丈な娘よ。ますますもって面白い」

 黒子の侍が、笑いながらそれに応えた。

「だがその強情も、我ら三人がことごとく満足する頃には張り通せなくなるが必定。いかな辱めを受けるものか、いまから心しておくがいい」

 その余りに過ぎる物言いを耳にし、遠巻きに様子をうかがっていた通行人たちのなかから次々と激しい抗議が噴出した。

「いいかげんにしろ!」

「何様のつもりだ!」

「お役人に訴えてやる!」

 だが、黒子の侍がそれで怯むことはなかった。

 彼は、後ろに控えていたふたりの侍に向け「黙らせろ」と短く命じた。

 それを受け、彼らは腰の刀をつらりと抜いた。

 強い陽光を反射して、その剣先がきらりと輝く。

 刀を振り回しつつそれぞれ橋の両側へと向かう侍たちを目の当たりにして、通行人たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ惑った。

 あえて火中の栗を拾おうとする者は、誰ひとりとしていなかった。

 この侍たちなら他愛ない理由から罪なき民に刃を振るうこともためらわぬ。

 そのように察せられたからだった。

 それは、人としての良心がどうとか言う問題ではなかった。

 どの時代であっても、人が我が身の安全を人道や正義より優先することに変わりなどない。

 意図してそれに反しようとする変わり者は、極めて数少ないものだと思われた。

 しかし、いかに希少とはいえ、同時にそれは絶無の存在でありえたりもしなかった。

 それが、「人間」という生き物の摩訶不思議さを何よりも雄弁に物語っていた。

「待てえっ!」

 あたかも猿叫えんきょうのごとき発声が侍たちに叩き付けられたのは、まさしくその瞬間だった。

 およそ人の声とも思われぬ、怒気を含んだ凄まじき絶叫。

 周囲の空気が轟然と震え、聞く者の鼓膜を火山の鳴動のごとくに振動させた。

 刹那、肝を潰された侍たちは、一斉に声のした方向へ振り向いた。

 そして、同時に彼らは見た。

 文字どおり怒髪天を突くような形相を浮かべた巌のごとき大男の姿を。

 古橋ケンタだ。

「古橋さまっ!」

 歓喜の表情を浮かべて葵が叫ぶ。

 怒りを全身に漲らせ、ケンタは大きく前に出た。

 侍たちめがけて人差し指を突き付ける。

「おまえたち──」

 彼は言った。

「いま葵さんに何をしたっ!」

「無礼者っ! 我らをいったい誰だと心得──」

 ケンタから見てもっとも近くにいた侍が、刀を片手に声をあげる。それは、あからさまな威嚇だった。

 だが、その言葉は最後まで形になることを許されなかった。

 有無を言わせず突進してきたケンタの前蹴りビッグブーツが、侍の顔面をまともに捉えたからだ。

 草鞋の跡を深々と顔面に刻み付けられ、侍はもんどりうって宙に舞った。

 意識を持たぬ木偶人形のように、その身体が勢い良く横転する。

 白目を剥き口から泡を吹いた侍の頭部が、がくりと力なく橋上に落ちた。

 その有様を目の当たりにして、黒子の侍は瞬時にして震えあがった。

 よもや、この手のいざこざで実力行使の先手を取られるなどとは思ってもみなかったからだ。

 自分たちの持つ最良の武器──藩内における高い身分と腰に差した冷たい刃の双方は、いつだって相対した者たちの心根を怯ませ続けてきた。

 対立する者たちが心のどこかで損得というものを勘定している限り、それらは常に期待通りの威力を発揮し続けてきた。

 侍たちがこうした揉め事で主導権を得てきた理由は、何と言ってもそれに尽きた。

 相手を受け身に立たせてきたからこそ、彼らは理不尽な力の行使をためらわなかったのだ。

 ゆえに、暴力というものの使用はこれまでずっと彼らだけの特権だった。

 それがあたりまえだと思っていたし、事実その常識が覆されるようなことは一度もなかった。

 だが、その前提条件があっさりと崩れた。

 いま彼らの前に現れたこの大男は、口上による威嚇も刀による威圧もものともしない、純粋極まる「戦力」の行使者だった。

 黒子の侍は、おのれが図らずも真正面からの力比べに参加してしまったという事実を悟った。

 襲いかかる脅威から我が身を守るのは自身の力しかないという、想定したことのないこの状況。

 黒子の侍が葵の襟を掴んでいた利き手を腰の刀に回したのは、彼が武士として身に付けた最低限の覚悟であった。

 その手首を、ケンタのごつい左手がむんずと掴んだ。

 その指に力が込められるや否やみしみしと骨が軋み、激痛が侍の利き腕全体を稲妻のごとく走り抜けた。

 ただでさえ堅い林檎を豆腐のように粉砕するケンタの握力は、ここ三月に渡る愚直な雑巾仕事によって知らず知らずのうちに格段の向上を果たしていた。

 いかに武士の生まれとはいえ、さほど肉体を鍛えているとも思われぬ黒子の侍がその握撃に耐えられる道理などどこにもなかった。

 思わず「ぎゃっ!」と声を上げ、黒子の侍が顔をしかめた。

 刀の柄から手が離れ、指先が硬直して伸びる。

 胸板めがけ勢い良く手刀が叩き込まれたのは、その次の瞬間だった。

 逆水平チョップ。

 六十センチの周囲を誇るケンタの右腕が放つそれ、しかも日々繰り返された薪割り作業でさらに磨きをかけられたそれが無防備な肉体を正面から直撃したのだ。

 圧倒的な衝撃が人体でも屈指の防御力を持つ胸壁部分を貫通し、肺や心臓など重要器官が収まった胸腔内を文字どおり荒れ狂いながら背中へ抜けた。

 かっと血反吐を吐いた黒子の侍が、悶絶しながら後ろ向きに倒れ込んだ。

 海老のように身体を丸め、苦悶の表情を浮かべつつ七転八倒する。

 気を失わなかったのがある意味不幸であったとすら思える惨状だった。

「おのれっ!」

 残るひとりの侍が頭上に刀を大きく振り上げケンタの背後へ迫ってきたのは、その直後のことだった。

「古橋さまっ、後ろ!」

 咄嗟に放たれた葵からの警告でその事実を見知ったケンタは、落ち着き払ってその巨体を翻した。

 気合とともに振り下ろされた白刃が、寸前までケンタのいた場所を縦一文字に空しく切り裂く。

 その斬撃は、かつてケンタがその身体に痛みをもって刻み込んだ「乾半三郎」の放つそれと比べると何段階も劣る代物であった。

 児戯に等しいとまでは言わないが、いまのケンタからすれば十分余裕を持って避けうるだけの一撃に過ぎなかった。

 身を沈め斬撃をかわしたケンタの肉体が、つむじ風のごとく侍の背後に回り込んだ。

 秋山道場での日課とされた雑巾掛けは、踏み込みの要となる彼の爪先を徹底的に鍛えあげていた。

 ゆえにその迅雷な動きは当の本人ですら驚くほどのものとなり、この侍のごときには指先ひとつの反応をも許しなどしなかった。

 丸太のようなケンタの腕が、真後ろから侍の腰に回された。

 へそのあたりで、ごつい両手が握り合わされる。

 刹那ののち、侍の身体は勢い良く上方へ引っこ抜かれた。

 悲鳴を上げる暇もなかった。

 眼に映る景色が一斉に下方へ流れ、直後にはそれらの上下が視界の中で完全に入れ替わった。

 次の瞬間、奈落に吸い込まれるかのごとき感覚が容赦なく侍を襲った。

 すべての体液が根こそぎ足下めがけて急降下を始める。

 だが、それを彼の精神がまともに認識することはなかった。

 それよりも一瞬早く、おびただしい衝撃が侍の頭部を打ち据えて、その意識を木っ端微塵に粉砕してみせたからだった。

 ジャーマンスープレックス。

 レスリング競技における「後ろ反り投げ」をアレンジした、プロレスを象徴する大技のひとつだ。

 威力のほどは、改めて語るまでもなかろう。

 ましてや受け身に関しては素人同然の侍が、まともに技を喰らって無事で済もうはずなどなかった。

 後頭部から逆さまに突き刺さったその身体が、ぐらりと傾き地に伏せる。

 彼がその交戦能力を失い沈黙したことは、誰が見ても明らかだった。

「す……凄えや」

 美しく弧を描いたケンタの投げを至近距離で見せつけられた少年が、思わず感嘆の声を漏らした。

 左右の拳を握り締め、全身を小刻みに震わせる。

 だが、ケンタはそんな少年の様子にいっさいの注意を払わなかった。

 彼にはまだ、やらなくてはいけない大事なことが残されていたからだった。

 ケンタは身を捩らせて悶え苦しむ黒子の侍へ歩み寄ると、閻魔のような顔付きを崩さぬままその肉体を無理矢理に直立させた。

「謝れ」

 ぐいっと胸倉を掴み上げ、彼は黒子の侍に要求した。

「おまえたちがしたことを、そこの子と葵さんに謝るんだ!」

「ふ……ふざけるな」

 苦痛に顔全体を歪めながらも、なお黒子の侍は強がってみせた。

 彼は言う。

「我ら相手にこのような真似をして、ただで済むと思っているのか?」

「おまえたちが誰だろうと、そんなのは知ったことじゃない!」

 その台詞を、ケンタは文字どおり一刀両断した。

「俺が聞いているのは、おまえに謝る気があるのかどうかだ。謝る気がないのなら、力尽くでも謝らせる。それでもいいか?」

 脅しにも似たケンタの確認に、それでも黒子の侍は「やれるものならば、やってみるがいい」と強気に応えた。

 それは、悲しいほどの虚勢だった。

 だが、ケンタはそんな彼の発言を字面どおりに受け取った。

「それが結論だな。よくわかった」

 言うが早いか、ケンタは侍の首根っこを鷲掴みし、ずるずるとその身体を葵たちの目前まで引きずり出した。

 そしてその背後に身を置くや否や、立ったままおのが四肢を彼の全身に絡みつかせたのだった。

 コブラツイスト。

 背中・脇腹・腰・肩・首筋を万力のごとき力で締め上げられ、黒子の侍は聞くにたえない悲鳴を上げた。

 それはまさに、空腹の大蛇が哀れな獲物を絞殺するがごとき情景だった。

 渾身の力でもって技を極めながら、黒子の侍にケンタは促す。

「どうだ。これで少しは謝る気になったか? どうなんだ、言ってみろ」

 しかし、黒子の侍はなおもその言葉を受け入れようとしなかった。

 もはや過剰な自尊心以外に頼るものを持たないこの男は、凡俗の輩だと彼が信じる者たち相手に屈することを断固として拒否したのである。

 いまにも唾を吐きかけそうな口振りで彼は答えた。

「だっ……誰がきさまらごときに」

「そうか。だったらこうだ!」

 ケンタの動きが変化をみせた。

 首の後ろでクラッチしていた両手を離すと、それをもって侍の頭部を強引に押し下げ出したのだ。

 「拷問式」と呼ばれる派生技のひとつだった。

 侍の悲鳴がなお一層激しいものとなった。

 その身を嬲る苦痛が彼の自尊心を打ち砕くには、それからさほどの時間を要さなかった。

「我らが……悪かった……」

 侍は言った。

 虫の鳴くような囁きではあったが、それでも確かに発せられた謝罪を受けてケンタはすぐさま技を解いた。

 黒子の侍はしかしその場でどさりと崩れ落ち、死んだように身動きひとつしなかった。

 どうやら完全に気を失っている様子だった。

「申しわけありません、古橋さま」

 仕事を終えたケンタに向かって、葵はいささか神妙な面持ちで語りかけた。

「私が出しゃばった真似をしたばかりに、古橋さまにまでご迷惑をかけてしまい……その、なんと申せばよいのやら……」

「葵さんが謝る必要はないですよ。悪いのは全部こいつらのほうですから」

 そんな彼女を労るようにケンタは応じた。

「葵さんは、その子をこいつらから助けようとしたんでしょう? ほかの奴らがやろうとしなかったことをやったんだから、それって実に立派なことじゃあないですか。だから、自分を卑下するようなことは言わないで下さい。少なくとも、俺はそんな葵さんを尊敬してます」

 気恥ずかしいほどに持ち上げられ、葵は思わず赤面した。

 ただ考えなく先走ってしまっただけなのに、そこまで過大評価されてはかえって応じる言葉が出て来なくなる。

 俯きがちに感謝の言葉を口にするのがやっとだった。

 はにかみの表情を浮かべつつ彼女は言った。

「ありがとうございます。古橋さまにそう言っていただけて、葵は本当にうれしゅうございます」

 少年がふたりの世界に口を挟んできたのは、ちょうどそんなおりのことだった。

 言葉だけでなく身体そのものも互いの間に割り込ませながら、両者に向かって彼は告げた。

「そんなことはどうだっていいからさ。早くこの場を離れたほうがいいぜ」

 いささかませた口振りで少年は言った。

「この木っ端侍たちは、そこいらにいる不貞浪人なんかじゃなくって、たぶん相当名のある家柄の連中だよ。いつまでもこのあたりでうろうろしてたら、いつこいつらの仲間が仕返しに来るかわかったもんじゃないだろ? 違うかい?」

 それはまさしく正論だった。

 そして、その正論から導き出されるもうひとつの答えに、たちまち葵が思い至った。はっと表情を険しくして、彼女はケンタの顔を見上げて言った。

「古橋さま。もしこの子の言うとおりだとすれば、このまま素直に街道を行くのはよろしくないかもしれません」

「まあ、まず間違いなく連中は街道沿いに網を張るだろうし、何よりそこの兄ちゃんはとことん目立ちそうだからなあ」

 葵の発言に同調して少年が言った。

「なんなら、今晩の宿と裏道の案内はこのおいらが面倒見てやってもいいぜ。どうせ今回助けてもらったお礼もしなくちゃいけないしな」

 それは、どことなく軽薄そうな口調だった。

 申し出を聞いたケンタが思わずその身を屈め、「宿を? おまえがか?」と少年に確認の言葉を投げかけたほどに。

「莫迦にすんなよ。おいら、これでもちゃんと自分の食い扶持ぐらいは稼いでるんだ」

 そんなケンタに少年は答えた。

 不満そうに頬を膨らませているものの、本気で気分を害しているような顔色は見せていなかった。

 少年は、大きく胸を張りながら彼に告げた。

「それに、おいらには『鼓太郎こたろう』っていう立派な名前があるんだ。今度からは、きちんと名前で呼んでおくれよ」

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