第十四話:みだらし団子と膝枕

 美濃・太田宿にて中山道に出たケンタと葵は難所のひとつである木曽川を船で渡り、その日は対岸にある土田どた宿の旅籠で一泊。

 次の日は御嶽みたけ宿、細久手ほそくて宿を通過して大湫おおくて宿に泊まり、さらに翌日からは、大井宿手前の槙ヶ根追分で中山道と分かれる脇往還を一路名古屋目指して歩いていた。

 彼らの行く「善光寺道」と呼ばれる街道は尾張藩が管理する官道ではなく公の宿場を持たない私道に過ぎなかったが、土岐川に沿ったその道のりは平坦で名古屋城下までの距離も素直に中山道を利用するより短かった。

 追分から名古屋城下・伝馬町札の辻に至るまでは、およそ十五里約六十キロ

 何事もなければ二日、のんびり行っても三日あれば余裕で辿り着ける行程だった。

 もっとも、街道整備の責任を持つのが公でない以上、こうした私道の旅路ではこまごまとした問題が発生しがちとなるのもまたやむを得ないことではあった。

 それは、ちょうど太陽が真上に差しかかる時間帯のことだった。

 街道脇に一台の大八車が荷台を傾かせて停まっていた。

 路側を外れ脱輪しているのだ。

 昨晩遅くに降った雨が地盤を弛めていたのだろうか。

 荷馬と擦れ違おうと端に寄ったおり、重さに耐えきれなかった路肩の土が唐突に崩れ片側の車輪をずっぽりと飲み込んでしまったのである。

 その広い荷台には、野菜と米俵が所狭しと積まれていた。

 おそらく、その重量は二百キロ程度ではきくまい。

 少なくとも、引き手の男ひとりが尽力したところでどうにかなる重さだとは思えなかった。

 途方に暮れる引き手の男に、たまたま通りかかったひとりの旅人が親しく助力を申し出た。

 それは、文字どおり雲突くような大男だった。

 ただ身の丈が大きいというだけではない。

 筋骨隆々とした広い肩幅が殊更に目立つ、巌のごとき体躯の持ち主だった。

 古橋ケンタである。

 彼は引き手の男と二言三言交わしたのちに路肩へと降り、荷台の下に両の手をかけるや否や渾身の力を込めてそれを持ち上げようと試みた。

 気合とともにその全身を包む筋肉が盛り上がり、驚くべきことに土中にはまりこんだ木製の車輪がわずかずつだが浮き上がっていく。

 それまで、引き手の男がどれほど頑張ってもびくともしなかった車輪が、である。

 まさに尋常の腕力ではない。

 ほかの通行人たちが興味深そうに事態の推移を見守るなか、ついに大八車は街道上に復帰した。

 「たいしたもんだ」と、見物人たちが口々に歓声を上げる。

 深々と頭を下げ感謝の意を表す引き手の男に向け、ケンタは軽く右手を挙げることで別れを告げた。

 男が渡そうとした謝礼金を固辞して、時折こちらを振り返りつつ去っていくその姿を立ったまま見送る。

「お疲れでございました、古橋さま」

 そんな彼を、すぐ側に立つ葵が静かに労った。

 どことなくうれしさを隠しきれないといった口振りだった。

 次いで、「そこの木陰で少しお休みなされてはいかがでしょうか?」と提案してみせる。

 「お言葉に甘えます」と、ケンタは彼女に従った。

 日差しも強く、ちょうど喉も渇いてきた。

 人助けもしたことだし、自分へのご褒美も兼ねてここいらで一服しても罰は当たるまい。

 そんな風に思ったのだった。

 見ると道の脇に大きな柿の木が枝葉を広げて、いかにも居心地の良さそうな日陰をこしらえていた。

 その根元にできた柔らかな草地に腰を下ろし、ケンタは大きく伸びをうった。

 隣りに座った葵から差し出された竹水筒を感謝の言葉とともに受け取って、中身を喉に流し込む。

 かすかに含まれた竹の香が、思いの外に爽やかだった。

 あとは何か口に入れるものでもあればいいんだが、などと愚にもつかない思いを弄んでしまう。

 そんな時だった。

「古橋さま」

 不意に葵がケンタの名を呼び、おもむろに和紙の包みを取り出した。

 膝の上でそれを広げ、取り出したものを手に取る。

「このようなものを用意いたしましたので、よろしければ」

 それは俗に「みらし」と呼ばれる菓子の類だった。

 醤油で味付けした米粉の団子を火で炙り、焦げ目の付いたそれを五つごと串に刺したものである。

 高山城下では軽い食事代わりにもされていて、こちらの世界に来てからはケンタもよく嗜んでいる代物だった。

 当初は甘辛い葛飴をかけた「みらし団子」と勘違いしていた彼だったがいまではそれにも慣れてしまい、むしろそのシンプルな醤油味が好ましく感じられるようになっていた。

 それにしても、いつの間にこんなものを用意したのだろう。

 疑問に思ったケンタが、思わず葵に問いかけた。

 彼女は、さも当然と言わんばかりに答えを返す。

「道中かようなこともあるかと思い、密かに備えておいたのでございます」

 超能力者エスパーか、このは。

 葵の言葉を額面どおりに受け取って、ケンタは心底驚愕した。

 大きく目を見開いたまま、その信じられない洞察力に心からの感嘆を送る。

 本人は大真面目だったにしろ、それはいささか大袈裟に過ぎる反応だった。

 そんなケンタの反応を目の当たりにして、葵は小さく吹き出してしまった。

「冗談でございます」

 笑いながら彼女は告げた。

「実は、朝方寄った茶屋で出されていたみだらしがあまりにおいしそうだったので、道中口にいたそうと、つい」

「なんだ、そうだったんですか」

 つられてケンタも相好を崩した。

 照れ笑いを浮かべながら、ぼりぼりと頭を掻く。

「驚いて損しましたよ、まったく」

「申しわけございません」

 短く謝罪の言葉を述べつつも、葵は女性らしい笑みを絶やさなかった。

 そのまま、手に持った団子をケンタの眼前に差し出す。彼女は言った。

「ですが、ちょうど良い機会であったことに変わりなどありません。どうぞ」

「じゃあ遠慮なく」

 そう言いかけた時点で、ケンタは思わずたじろいだ。

 葵の手にある串の先が自分のほうを向いているからだ。

 状況が飲み込めず──いや、あえて飲み込むのを拒むようにして彼は尋ねた。

「あの……葵さん」

「はい」

「このままじゃ、お団子を受け取れないんですけど」

「そのままお口を開けていただければ、私のほうからお運びいたします」

 こともなげに彼女は答えた。

「何か不都合でも?」

「い、いや、不都合なんてほどのものでは……」

 狼狽するケンタの心情を知ってか知らずか、葵は「では、どうぞ」という言葉を添えて串先をわずかに口元へと近付けた。

 観念したケンタが最先端の一個をぱくりとくわえ、そのまま串から抜き取った。

 それを見た彼女の表情がはっきりと綻ぶ。

「おいしゅうございますか?」

「……うまいです」

 葵の確認にケンタはそう短く答えたが、正直な話、極度の緊張で団子の味などほとんどわからなかった。

 にもかかわらず、彼は葵が持参していた三本の串団子そのすべてを、きれいにひとりで平らげた。

 計十五個の団子。

 結構な量ではある。

「ごちそうさま」

「お粗末さまでございました」

 あぐらを組んだまま軽く一礼するケンタに向かい、葵はしずしずと三つ指をついてみせた。

 女性からこういった大仰な態度をとられることにケンタも男として悪い気分はしなかった。

 が、同時に「そこまでしなくても」と背筋にくすぐったさをも感じてしまう。

 時代と教育が違うと言えばまさしくそのとおりなのだが、ここはやはり慣れないものは慣れないのだと評するしかない。

「あの、葵さん」

 その気恥ずかしい感触を誤魔化すように、ケンタは会話の口火を切った。

「葵さんって、歳はいくつなんでしたっけ?」

「今年で十五になります」

 ケンタの問いに葵は答えた。

「それが何か?」

「いや、いまの葵さんを見てたら、つい『素敵なお嫁さんになれそうだな』なんて思ったりしたもんで。わははは」

 わざとらしい莫迦笑いを見せながら、軽口を叩くように彼は言った。

「でも十五才じゃ、さすがに結婚はまだ早すぎますね。お嫁さんって歳じゃないですよね」

「お母さまが私を産んだのは十五のおりでございましたから、早くはあっても早すぎるということはないと思います」

 ケンタのそれとは対称的に、至極真面目な顔付きで葵は応えた。

「それに、私がいつどなたのもとへ嫁ぐのか決めるのはお父さまでございます。私は秋山の娘ですから、お父さまの目に叶う御方の妻となり、その方の子を産み、育て、秋山の血を後世に伝えてゆくことこそが何よりの務めであります」

「結婚相手を先生が決めるって」

 思わずケンタは口走った。

「葵さんはそれでいいんですか?」

「父・弥兵衛の目に間違いはないと、私は信じておりますから。そのお父さまがまとめた縁談であれば、葵はよろこんでそのお話を受けましょう。ですが」

 まっすぐな瞳でケンタを見据えながら、物怖じすることなく葵は言った。

「強いてわがままを申せば、その御方が『大きく』『強く』『逞しく』、それでいて『驕らず』『猛らず』『清しい』心根を持つ仁であって欲しいと願っております。そして、そのような方に心よりお仕えし、生涯を仲良う添い遂げること。それこそが、いまの私にとって何よりも大切な『夢』なのでございます」

「そうかぁ……そうですね」

 齢十四の少女が語る真剣な回答に気圧されたものか、ケンタは思わず天を仰いだ。

 透きとおるような青空を白い雲がゆっくりと流れ、一羽の鳶がその下で華麗に円を描いている。

 そのままどさりと草地の上に身体を投げ出し、彼は葵を賞賛した。

 それは、あまりに唐突な発言だった。

「本当に凄いな、葵さんは」

 ケンタは言った。

「まだ全然若いのに、しっかりと現実を見据えて自分の人生を考えてる。ちゃんと自分の足で、この時代を歩いて行こうと決断してる。宙ぶらりんの俺なんかとはえらい違いだ」

「どうなさったのですか、古橋さま」

 発言の真意をくみ取れず、葵はきょとんとした表情を浮かべた。

「突然そのようなことを。なんだか、古橋さまらしくありません」

「うん、自分でもそう思います」

 ケンタは葵の指摘を肯定した。

 そのうえで「でもいまの葵さんを見て、俺、ピーンと来ちゃったんです」と返し、なおも言葉を続ける。

 彼は葵に尋ねた。

「葵さん。いまから何百年もあとの世界って想像したことありますか?」

「いいえ」

 小さく首を振り、彼女は答えた。

「それが、いったいどうしたというのですか?」

「その世界はですね、いまこの時代よりもずっとずっと便利で、もっともっと豊かで、病気や怪我で死ぬ人もほとんどいなくって、あたりまえみたいに昨日と同じ今日、今日と同じ明日が来るんです」

 両手を枕に天空を見上げながら、ケンタはとうとうと葵に語った。

「俺が生まれて育ったのは、そんな夢みたいな時代でした。葵さんには信じてもらえないかもしれないけど、実は俺、何百年も未来の世界から来た人間なんです」

「古橋さま?」

「まあそんな話をいきなり信じろって言うのも無理でしょうから、まずはしばらく俺の言うことを聞いててもらえませんか」

 少し間を置いてから彼は言った。

「葵さんと会ったあの日からずっと、この土地は俺にとって異世界そのものでした。白状すると、いまでもその認識は変わりません。はっきり言って、右も左もわからないことだらけです。葵さんの言うとおり俺をここに連れてきたのが穂高山の大天狗さまなら、一度会って恨み言のひとつもぶつけてやりたいと思ってるくらいです。

 それでも葵さんや秋山先生と暮らすようになって三ヶ月、ようやくこの土地での暮らしにも慣れてきました。やっとここの住人になれた。しっかりと地面に足を着くことができた。最近は、間違いなくそんな風に感じられるようなってきてたんです。少なくとも、俺自身はそう思ってました。そう信じてました。

 でも、違ってました。本当はそんなんじゃなかったんです。さっき葵さんの台詞を聞いて、俺、突然それに気付いてしまったんです」

 さっと涼しげな微風が吹き込み、草の葉を揺らした。上空を舞う鳶が、笛のように甲高い鳴き声を上げる。

「本当は俺、ただ諦めただけだったんです」

「諦めた?」

「そう、諦めちゃったんです。もとの時代に帰ることを」

 ケンタは言った。

「秋山道場で毎日を過ごしながら、初めのうち俺は、心のどこかで来た時みたくふっともといた世界に戻れるんじゃないかって期待してました。朝目が覚めたら、見覚えのある何百年後の自分の部屋にいるんじゃないかって、頭の片隅で思いながら床に就いてたんです。それを、いつのまにか諦めてた。俺、諦めることで自分を騙して、無理矢理前向きにこの土地で生きていく『振り』をしようとしてたんですね。

 で、さっき葵さんが『自分の思ったとおりの人と結婚するのが夢だ』って言った時、なぜだか俺、『いまの俺じゃあ駄目なんだ』って思ってしまったんです。そんな後ろ向きな考え方は『プロレスラー』がするもんじゃないって」

 葵はひと言も口を開かぬまま、じっとケンタの言葉を聞いていた。

 まるで学問の教えでも受けているかのごとく、真摯な眼差しを浮かべている。

 そんな葵にケンタは語る。

 それは、彼がまだ少年だった時の話であった。

「俺の時代は、子供が普通に大人になって、その大人も普通に年寄りになれる。努力しなくても、そうなってしまうのが当然な時代でした。だからってわけじゃないんでしょうけど、みんな中途半端に賢くなって、本当にやりたいことや成し遂げたいことがあっても、すぐにそれを諦めてしまう。俺には私には、所詮無理な話だったんだって。そしていつのまにか、見るからに無難な『夢みたいなもの』ばっかり追いかけるようになってしまう。

 子供の頃の俺もそうでした。

 子供らしく莫迦な『夢』を胸一杯に抱えて、でもそのことごとくを片っ端から潰されて。

 気付いたら、そういうのが賢い生き方なんだって信じるようになってました。

 そんな常識が俺の中でいっぺんに覆ったのは、あの日──そう、俺の暮らしてた街にプロレスの興行がやってきたあの日のことでした」

「興行、でございますか?」

「プロレスも、角力みたいにいろんな土地を巡業するんですよ」

 ケンタは続けた。

「親父に連れられて、まだ子供だった俺はその興行を見に行きました。人がいっぱいの広い会場。親父とはぐれてぴーぴー泣いてた俺を世話してくれたのは、年配のプロレスラーでした。ごつい身体に優しそうな顔貼り付けて、正直、とても強そうには思えない人でしたし、実際試合でも、その人が『強さ』を見せつける場面なんてほとんどありはしませんでした。

 その人の対戦相手は、牛みたいに大きい身体の外国人レスラー。そんなのを相手に莫迦正直にも真っ向から立ち向かったその人は、何度も叩き付けられて、投げ飛ばされて、踏みつけられて──もう一方的にやっつけられていたんです。勝ち目なんてどこにもないじゃないか。だったら、初めからおとなしく負けを認めちゃえばいいのに。その時、俺はそう思いました。

 でも、その人は決して勝利を諦めたりしませんでした。降り注ぐ観客の声援に応えて、何度も何度も、そう何度も何度も立ちあがってきたんです。ぼろぼろの身体を引きずって、必死の形相を浮かべて、それでもなお少しも闘志を失わずに。

 気が付いたら、俺もその人を応援してました。頑張れ! 負けるな!って大声出して。

 結果は、その人の大逆転勝利ですよ。震えました! 滾りました! 諦めなければ何があるか最後までわからない。そんなあたりまえのことを、俺はその人の戦いぶりから教わったんです。

 その出来事は、俺が『プロレスラー』を目指した原点でした。

 プロレスラーは諦めちゃいけない。それがどんなに困難な道であっても、常に前向きでいなくちゃいけない。その姿勢が、見てくれている人に大きな『夢』を与えるからです。俺が入門した先の大師匠も、こう言ってました。『どれだけ強かろうとも、見てくれているお客さんに夢を与えられない者、その夢を背負えない者はプロレスラーとして失格だ』って。俺も、心からそう思います。

 そして俺は、プロレスラーとして生きている限り断じて後ろ向きであってはならなかった。仮にもといた時代に戻れないことを悟っても、その場合はこの時代を本気で生きていくって覚悟を決めなくちゃならなかった。もといた時代に戻れないから仕方なく、じゃなくって、そうなったからにはこの世界で前だけ見ていよう、じゃないといけなかったんです。前進を忘れた人間が、その生き方でひとを感動させることなんてできませんから。だから葵さん。ひとつお願い事があるんです」

 不意にがばっと起きあがり、ケンタは葵に懇願した。

「もし良かったら、俺の『ファン』になってくれませんか?」

「え? 『ふぁん』とはいったい──」

「応援してくれる人って意味です」

 彼は言った。

「プロレスラーはファンのために戦います。ファンに夢を与えるため、その声援に応えるために身体をはって技を振るうんです。ファンのいないプロレスラーなんて、具のない味噌汁、汁だけの鍋物と同じです。葵さんが俺のファンになってくれたら、俺、葵さんのために頑張ります。葵さんのためのプロレスラーになります。それをもって、俺がこの時代に生きる礎にしたいと思います」

 駄目でしょうか?、と疑問符で結んだケンタの言葉に葵は、一瞬思案する素振りを見せたのちに「承りました」と答えを返した。

「それが古橋さまにとって必要なことなのでしたら、葵は喜んでその『ふぁん』とやらになりましょう」

「ありがとう、葵さん!」

 ケンタは全身で感謝の意をあらわにした。

 ふたたび手足を広げて大の字に寝転ぶ。

 うれしそうに弛緩するその口元から、前向きな独り言が次々とこぼれ出てきた。

 そしてそんな彼の様子をたおやかに眺めながら、葵は不思議な高揚感に包まれる自分を認めていた。

 胸の奥にある塊が次第に熱を帯びてくるのを自覚する。

 彼女は思った。

 私の知らないはるか先の時代よりこちらへ参られた古橋さま。

 やはりあなたは、天狗さまが神隠しにてお連れ下さった方なのですね──葵のため、葵を守るために。

 ひとのえにしというものを、これほど深く感じたことはありません。

 気が付くと、いつのまにかケンタの呟きは静かな寝息に変わっていた。

 人の目などまったく気にしていない、まるで子供そのものといった無防備極まるその寝顔。

 それを見た葵は、くすりと小さく笑い声をもらした。

 なんとまあ武芸者とも思えぬ寝姿ですこと。

 半ば呆れにも似た好感を、心の奥底で弄ぶ。

 ふと悪戯心が湧き上がってきた。

 彼女はケンタを起こさないよう静かに場所を移動すると改めて彼の枕元へと座り直し、その頭を自分の膝上に優しく乗せた。

 膝枕。

 上からケンタの顔を覗き込む。両手でそっと彼の頬を包み込んだ。

『退屈ではないのか?』

 父・弥兵衛がかつて口にした言葉が葵の脳裏を穏やかによぎった。

 だが葵はその言葉に対し、心の中できっぱりと否の答えを返していた。

 好いた方のお顔を眺めるのに葵は幸せこそ感じますれど、退屈などということは決してございません。

 それは、声に出してこそいないが、彼女の抱く掛け値なしの本音だった。


 ◆◆◆


 葵の耳がどこかから流れ伝わってきた喧噪を捉えたのは、まさにそんなおりの出来事であった。

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