第三話:鷲鼻の男

 刻は、おおよそ暮六ツ半午後七時頃

 それは、太陽が山々の陰に隠れ巷が夜の帳に覆われようとしている、まさにそんな時間帯のことであった。

 あたりが段々と薄暗くなるにつれて、行き交う人の影もまたぽつりぽつりと減っていく。

 文明の利器が夜暗い往来を、たとえその一角なれど打破できるようになるまでには、まだ数百年の月日が必要だった。

 そんな世の中においては、陽の光が途絶えるのにあわせてそのまま今日という日を終える者たちのほうが大多数を占めたに違いない。

 だが藩主金森家の膝元である高山の町ともなれば、この程度の時間帯に街並みから灯火が途絶えるようなことなど滅多になかった。

 ことに飛騨高山の象徴たる「高山城」、その城郭周囲の高台を占める武家屋敷群においては、そうした傾向がより一層強かった。

 行灯に用いる菜種油や魚油など、それなりに値の張る灯油ともしあぶらを贅沢に使用できる富裕層が、まさしく彼ら高級武士たちであったからだ。

 天正十四年、いまからおよそ百四年前に飛騨国の主となった越前大野城主・金森かなもり長近ながちかは、歴戦の戦国武将であると同時に高い教養を持ち茶の湯に親しむ文化人でもあった。

 彼は、かつての主君・織田信長が築いた安土城とその城下町を参考に、軍事施設としての意味合いをはるかに超えた優秀な城郭都市をこの飛騨国に作り上げたのである。

 長近は、国支配の中心である高山城周辺を主に家臣団が居住する武家屋敷群で固めて外の守りとする一方、その外縁によく整えられた商人街を設けることも忘れなかった。

 楽市楽座。

 すなわち、新興商工業者の育成による経済の活性化である。

 過酷な戦国時代を生き抜いてきた長近にとり、それら商工業者を介した流通経済の発展こそが国を富ませる何よりの主柱であることなど、もはや自明の理ですらあったのだろう。

 ただし、商家をその代表とする、支配階級に属さない一般大衆──のちに江戸文化の担い手となる「町人」たちは、この時点ではまだ世の中を左右するほどの影響力を発信していない。

 彼ら町人の時代が訪れるのはもういくばくかの年月を経たあとのことであり、少なくとも現状において、世の中の財、そのほとんどを有するのは権力者たる武家の者たちであった。


 ◆◆◆


 高山城を仰ぎ見る位置に建ち並ぶ大小さまざまな武家屋敷。

 藩主・金森家に仕える家臣団が居住する地域だ。

 その奇妙な邸宅があったのは、それら武家屋敷群の中でも特に裕福な、つまり権力を持った層がその居を構える一角だった。

 広大な敷地を囲む真新しい土塀と見るからに頑丈そうな分厚い長屋門。

 それは、屋敷と言うよりもはやひとつの城塞と評するに相応しい佇まいだった。

 いかにも武家屋敷という周囲の建物と比較しても、ひときわ目立つ威容だ。

 その威風に満ちた邸宅を所有する者の名は、飛騨高山藩城代家老・姉倉あねくら玄蕃頭げんばのかみ重平しげひら

 すなわち、藩主・金森出雲守が江戸在勤中、その領地を預かる家臣団の筆頭とされる人物であった。

 そんな屋敷の中に設けられた一室に「彼ら」はいた。

 人数は五人。

 格段に立場が上だと見て取れる上座の男と、その脇に控えるひとりの侍。

 そして、彼らの前に並んで座する浪人風の男たちが三名だ。

 そこは、人数的には不釣り合いなほど広々とした座敷だった。

 青々とした真新しい畳表が、行灯によるほのかな明かりにも屈せず鮮やかな緑を映えさせている。

 一見して質素な造りであるが、あからさまに金の掛かった座敷であることは明白だった。

 手入れも隅々まで行き届いているのだろう。

 ぴんと張りつめた部屋の空気に舞うほこりの類など、ひと欠片も見出せなかった。

 座敷の上座に鎮座した男は、でっぷりと肥え、隆々とした鷲鼻を備えている人物だった。

 年齢は、およそ中年の峠を越えたあたりであろうか。

 ややつり上がった双眸が険しい。

 ある意味、魁偉とも言える形相である。

 身にまとう金糸を施した豪奢な羽織が眼に眩しかった。

 かなり高位の武士であることは、疑いようがなかった。

 その鷲鼻の男が、目の前で小さくなっている三人の浪人どもを一瞥した。

 ふんと小さく鼻を鳴らし、不愉快そうに身体を揺する。

「平九郎、不始末だな」

 男が怒気を含んだ言葉でそう告げるやいなや、三人の浪人どもはひと言も言い返すことなく一斉に平伏した。

 一拍置いたのち、「面目次第もございません」と口を揃えて返すのがやっとという有様だ。

 間違いなく、浪人どもはこの男を畏怖していた。

 それを見て取った鷲鼻の男はわずかにまなじりを鋭くし、なおも言を続ける。

 その言葉は、半ば叱責にすら近かった。

「大の男が三人がかりで、たかが小娘ひとりをかどわかすこともできんとはな……井川源三郎の推薦と聞き安心しておったが、とんだ見立違いであったわ」

「されど、御家老」

 三人のうち筆頭と思われるひとりがすかさず顔を上げ、これに弁明を試みた。

 おそらく、先に「平九郎」と呼ばれたのはこの男なのだろう。

 すがるような口振りで彼は語る。

「あの時、突如として現れ我らの邪魔をした大男、あれは只者ではありませぬ」

 弾かれるような口振りでそう言い切る「平九郎」と呼ばれた男の顔──それは紛れもなく、先刻、あの竹林にて秋山葵を襲った浪人どものひとりであった。

 そして残ったふたりも同様、あの場にて古橋ケンタと争った面々に相違なかった。

 平九郎の発言に、鷲鼻の男が反応を見せた。

 確かめるような言葉を彼に返す。

「大男、とな」

「はっ、左様に」

 鷲鼻の男がやや怒りを鎮めいささか興味深そうな視線を送ってきた瞬間を、この平九郎という男は見逃さなかった。

 時はいまとばかりに、畳みかけるがごとく口を動かす。

「身の丈六尺を優に越え、見るからに筋骨たくましき男でありました」

 平九郎は告げた。

「武家のものとも町人のものとも異なる奇妙な出で立ちをしたその男は、それがしの斬撃を容易くかいくぐったのみならず、そこな助内をわずか手刀の一撃をもって悶絶させたのでございます。あの者が手練れの武芸者であることに疑う余地はございませぬ」

 平九郎の言葉に合わせ、「助内」と呼ばれた浪人がこれに同意するよう小さく頭を上下させた。

 それは、ケンタから逆水平チョップを食らわされてのたうったあの哀れな浪人の顔であった。

「奇妙な出で立ち、のう」

 鷲鼻の男が平九郎に確認を入れた。

「して、その大男、腰に何か差しておったか?」

「いいえ」

 平九郎は短く答えた。

「およそ武家の者とは思えぬ身形で、まったくの無手でございました」

「そうか」

 鷲鼻の男は小さく唸り、次いで側に控える侍にはっきりと目配せをした。

 彼に仕えて長いのだろう。

 侍はそれだけで男の意図を明確に察し、すかさず浪人どもに退出を命じる。

「これからのことは追って沙汰する。そなたらの主、井川源三郎にもその旨伝えよ。下がってよい」

 「ははっ」と恐縮した浪人どもが逃げるようにこの場を去ったあと、鷲鼻の男──この屋敷の所有者である城代家老・姉倉玄蕃は眉間に深いしわを寄せ、呻くように口を開いた。

 脇に控える侍に向け問いかける。

「その大男、よもや水戸の隠密なのではあるまいな。どう思う? 数馬よ」

「あるいは」

 「数馬」と呼ばれたそのさむらい、姉倉家用人・生島いくしま数馬かずまは顔色ひとつ変えずにそう答えた。

 およそ三十路も半ばと思われる鋭い顔付きに、さらなる険しさが付け加えられる。

「水戸殿は、そもそも柳沢出羽守様とは反りが合わぬ御方ゆえ、此度の件にしても公方様に直接苦言なされたとうかがっております」

「さすれば、いささかやっかいなことよの」

 数馬のほうを顧みる素振りも見せず、姉倉玄蕃は口元をねじ曲げた。

「我らの謀が露見しかねん」

「いかにも」

 それを受けて数馬が言った。

「そうなれば、いかに出羽守様の後ろ盾があったとて、御家老を含め我ら一同そろって腹を切ることになりましょうな」

「こやつめ、言いにくいことをはっきりと言いよる」

 淡々と冷めた意見を口にする数馬の態度に、玄蕃は思わず苦笑した。

 用人として優秀なだけでなく、こういった耳に痛い内容を直言できるこの男を彼は高く評価していた。

 だからいささか無礼とも取れる彼の発言を軽く聞き流し、玄蕃は悠然と足を組み替えてみせた。

「だが、こちらから動くのは得策ではないな」

 彼は言った。

「いまは、一分の隙も見せぬよう慎重にことを進めるのが肝心だ。城の本丸に手をかけるには、それなりの辛抱が必要だからのう」

「御意」

 玄蕃の意見に数馬は短く同意した。

「そのためにも、件の大男とやらが果たして何者なのか、即刻確かめねばなりますまい。不安の種を取り除くにしろそうでないにしろ、不用意な策動は水面にさざ波を生じさせかねませぬゆえ」

 「何か手はあるのか?」と問いかける玄蕃に向けて、数馬は「あの者が秋山道場に宿を取ったことは、手の者よりすでに報告を受けてございます」と答えた。

「それがし、の道場にかねてより数匹の『犬』を飼っておりますゆえ、明日にでもそれらをけしかけてみる所存です」

 数馬は告げた。

「その結果、そやつが水戸の隠密でなければそれでよし。隠密であるなら、速やかに別の手を考えるだけでございます」

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