第二話:元禄三年、皐月の頃
奥深い山々に囲まれたこの地であっても、さすがに
何せ暦のうえでは「仲夏」、すなわち夏なのである。
神宿る峰──穂高の頂きにはまだまだ雪の名残がうかがえるものの、いったん人里まで降りてきてしまえば、そこにはもう、あのつらく厳しい雪世界の痕跡は欠片とて見つからない。
森の木々は瑞々しい新緑を芽吹かせ、雪解けの水をたっぷりと吸い込んだ豊潤な大地からはさまざまな生命が顔を出しつつある。
小鳥のさえずり。
小川のせせらぎ。
風にそよぐ木々の枝葉。
そのどれもこれもが、文字どおり「人間」という存在そのものにじわりと染みいる色合いを、濃厚なまでに携えていた。
なんか、凄くいいな、これ。
件の竹林をあとにして、葵に導かれるまま両脇に広葉樹が屹立する街道を歩いていたケンタは、生まれて初めて体感するその風情にいたく心を震わされた。
もちろん、自然の多い環境に足を踏み入れた経験がこれまでのケンタに皆無だったというわけではない。
しかしながら、彼が知っているそうした自然というものは、どこか人間の手で「支配」されているような、そんな歪な感触があるものだった。
整備された山の斜面や河岸などがそれに当たる。
機械的に舗装整備された道だってそうだ。
それらは、確かに人の住む環境を安全に整えるために必要なものだったのかもしれない。
だが、その反面で現代人というものの奢り──いわゆる「自然は人によって管理されるもの」という増上慢が匂い立つのも間違いなかった。
翻って、いま眼にしているこの風景はどうしたものだ。
人が暮らしやすいよう、できるかぎり手が入れられているという事実はどちらも同じだ。
ただし、こちらからは「自然」という偉大な存在に対する明白な敬意があからさまに感じられた。
土を踏み締めただけの街道は行き交う人々が余裕を持ってすれ違えるだけの幅を有しているが、決してそれ以上の浸食を自然界にもたらそうとはしていない。
人間主体の整備ではなく、どこか環境に対する「遠慮」が見受けられるのだ。
人以外のものを「征服」するのではなく、共に手を携えあって生きていく。
西洋文明にどっぷり浸かった二十一世紀の先進国から忘れられつつあった思想が、間違いなくそこにあった。
ひと筋の微風が、独特の臭気を運んできたのはそんなおりの出来事だった。
それは、ケンタの育った日本という国においては悪臭と評されかねない、あの一種独特な「田舎の匂い」だった。
やがて陽の光とともに木立の群れが割れ、今度は広々とした山間の田園地帯がその眼の前に広がった。
思わず感嘆の声を漏らすケンタ。
それは、彼が深層心理に抱いていた「日本人」としての記憶がもたらしたものだったのかもしれない。
小さく太鼓の音が聞こえる。
テンポの良い乾いた音色だ。
どこかの村で祭りでも催されているのだろうか。
いや、そうでないことはすぐにわかった。
それは水の張られた田の中で横一列に作業をする、笠を被った五月乙女たちの姿を認めたからだ。
田植えだった。
太鼓は彼女らの進むリズムを整えるために打たれているのである。
トントントンという太鼓の音に合わせるよう、五月乙女たちは青々とした苗を水田の泥に植えていく。
機械化が進んだ現代日本では見ることの叶わない光景だった。
のどか、というよりは、伝統のある祭事に似た空気すらが漂って感じられる。
「あれは、神田ですね」
興味深そうな顔で思わず立ち止まったケンタに向けて、葵が短く解説した。
「神さまに捧げるため、この村で最初に苗が植えられる田のことです」
「へぇ」
感心したようにケンタは言った。
「だから、田植えをしているのが女の人だけなのか」
「嫌ですわ、古橋さま」
クスリと笑って葵が告げた。
「もとより田植えは女の仕事です。『五月女に秋男』と申すではありませんか」
「えっ、そうなんですか? 俺はてっきり野良仕事は男がやるものだとばっかり」
「『田の神さま』は
まるで世間知らずの小坊主をたしなめるかのように、葵はゆっくりケンタに説いた。
「男衆が『初めて』を手に掛けて、神さまのご機嫌を損ねるわけにはいかないじゃないですか」
それは、二十一世紀の女性であれば「常識ですよ」とでも付け足したであろう口振りだった。
思わずこぼれる愛想笑いもそのままに、ケンタはおのれの後頭部に手をやった。
いよいよ認めなくちゃいけないみたいだな。
彼は、心中に湧いた諦観を深々と飲み込みながら、自らに言い聞かせるよう呟いた。
それは、自分が時間と空間を飛び越えはるか過去の時代へ飛ばされてきたのだというれっきとした事実について、であった。
タイムスリップ。
なんらかの超自然現象を皮切りに時の流れを跳躍すること。
それは、過去幾多の空想世界で語られてきた人類の夢、そのひとつであった。
ただし、決して荒唐無稽な話というわけではないようだ。
最新の物理学によれば、あくまでも理論上ではあるが、一応実現可能な技術らしい。
しかしながら、そのために必要とされるハードルはあまりにも高く、結局のところそれは、いまの人類にとって手が届く代物でありはしなかった。
だが、なんの因果か、その「現実的には手が届くはずのない」出来事が、いまケンタの身に降りかかっていた。
自然というものは、時として矮小な人間の想像など及びもしない現象を引き起こすことがあった。
それを一般的に「奇跡」と呼ぶ。
これもまた、そんな「奇跡」のひとつなのであろうか。
あるいは、気紛れな神の采配とでも言うべきか。
直接的な原因は、あのトラックとの衝突事故に間違いはあるまい。
それは、ケンタにとっても想像するに難くない事実だ。
とはいえ、あの一件がどのような経緯をもって自分自身に時を越えさせたのかまでは、その道の専門家ではない彼に判別がつけられようはずもなかった。
もっとも、いまのケンタの立場では、そんなことなどある意味「どうでもいい」話であったかもしれない。
彼にとって真に重要なことは、自身がなぜどのような理由によって過去に来てしまったのか、ではなく、過去に来てしまった自分が今後どのような身の振り方をすればいいのか、という至極現実的な問題であったからだ。
不幸中の幸いと言えるのは、意志に反して飛ばされてきた先が、とりあえず「日本」であったことだった。
おそらくは相当の過去であることに間違いはなかったが、とにもかくにも言葉が通じるという事実は、ケンタにとってまことにありがたい話であった。
何はともあれ、現地の人間とコミュニケートが取れる。
それは、彼の心理にある程度の安心感をもたらした。
右も左もわからない異世界と異なり、江戸時代までの「日本」であるなら、ケンタとて時代劇などを通して、なんとなくだがその雰囲気に親近感がある。
タイムスリップなどという常識外れのトラブルに遭遇し、なおパニックを起こさずに済んだのは、そんな心情を持てたことが一因だったと断言できた。
目が覚めたところがアラビアやアフリカのどこかだったとしたら、いかに暢気な彼であっても、いまのような心理的余裕は保てなかったことだろう。
余裕と言えば、もうひとつケンタの支えとなったのが、彼の数歩前で微笑んでくれている少女、秋山葵の存在であった。
この好奇心旺盛で人見知りしない娘がいてくれなかったなら、ケンタは見知らぬ世界で最初の一歩を踏み出すことができなかったはずだ。
彼は、あの竹林で彼女と交わしたやり取りを思い浮かべ、改めて自身の幸運に感謝した。
◆◆◆
「ここはいったい、どこなんでしょう?」
ケンタから率直にそう問いかけられた時、葵と名乗ったその少女は大きな瞳をくりくりと動かしながら驚いたような声でこれに応じた。
「それは、いったいどのような意味なのでしょう?」
彼女が質問に質問で応えたことも、ちょっと考えればもっともな話であろう。
道に迷ったとかそういうことでもない限り、普通ならそんな質問が口にされることなど滅多にないからだ。
実際にその言葉を口にしたケンタのほうも、そんなことは重々承知していた。
だから彼は、訥々と、わかりやすく言葉を選びながら、それでも可能な限りまっすぐに自らの置かれた状況を説明した。
葵は、そんなケンタを興味深そうに見詰めながら、真摯にそれを聞いていた。
時折、その眼が好奇心に煌めくのがわかる。
「古橋さまのおっしゃる『とらっく』とか『ばす』とか『こうつうじこ』とかいうものについては、いささかわかりかねますが」
おおよその説明が終わる頃、彼女は確認するようケンタに言った。
「要するに、『お仲間と旅をしておられる最中、予期せぬ災い事が降りかかり、気が付いたらこの場におられた』ということでよろしいのでしょうか?」
「平たく言えば」
ケンタは葵の言葉に頷いた。
現代でしか通用しない単語を用いたことを、少しだけだが反省する。
葵の瞳がいち段と輝きを増したのは、その瞬間だった。
「それは、きっと天狗さまの仕業ですわ」
胸の前ではたと両手を打ち合わせ、彼女はそうきっぱりと言い切った。
「大天狗さまの手で神隠しに遭い、はるか異国の地に運ばれた商人の話を、私、子供の頃、耳にしたことがございます。おそらく古橋さまも、天狗さまが気紛れで当地へお連れなされたに相違ありませぬ」
「はぁ、天狗さま、ですか」
気の抜けた炭酸飲料のような声でケンタは応じた。
物質文明華やかりし二十一世紀の世では、思いもつかない発想だ。
沼と池の違いを語るにおいて、河童が棲んでいるかいないかによって判断するような、そんな違和感が胸の奥を直撃する。
しかしながら、それを完全否定できるだけの材料をいまのケンタは懐に持ち合わせてなどいなかった。
結局のところ、自分が何か説明のできない超自然的な現象に巻き込まれたことだけは確かであったからだった。
それを神のいたずらと捉えるか天狗の気紛れと捉えるかは、語る人の好きずきと言って差し支えなかった。
どのみち、それが人の知恵を越えている事実に変わりはないのだから。
時は元禄三年。仲夏、皐月の頃。
ところは飛騨高山藩、三万八千石の城下。
藩主は、六代・金森出雲守頼時。
葵の口から次々と語られるそんな説明も、日本史に詳しくないケンタにとってはまさしくチンプンカンプンの内容だった。
せいぜい理解できたのは、「飛騨高山」という地名ぐらいのものであろうか。
それにしたところで、日本地図の一角を「このあたり」とかろうじて指差しできる程度の知識でしかない。
ケンタにとって心底渡りに船と言えたのは、葵が持ちかけてきたひとつの提案であった。
「古橋さま」
嬉々とした表情で彼女はケンタに申し出た。
「もし差し支えないようでしたら、しばらく当家にてご逗留なされてはいかがでしょうか?」
葵の提案とは、要約すればこんな感じの内容だった。
すなわち、我が身を無頼の輩から救ってくれた謝礼として、見知らぬ地で行く当てもないケンタの衣食住を彼女の実家である秋山家が面倒見るということだ。
無論、ケンタに嫌があるわけではない。
というよりは、そんなことを言える立場ではない。
すぐさまふたつ返事で受け入れたいのが、紛うことなき本音であった。
にもかかわらず、それに同意することをひとたびケンタが躊躇してみせたのは、彼の持って生まれた性格からくるものだった。
「いいんですか?」と大柄な身体を小さくして尋ねるケンタに、葵は「もちろんです」と言い切った。
おそらくは、家の当主にこの一件を了承させるだけの自信があるのだろう。
そうまで言われては、ケンタもそれ以上迷ったりしなかった。
「お言葉に甘えます」と、深々と腰を折りながら一礼する。
「いえいえ」
葵もあわせて頭を下げ、ケンタの態度に応じてみせた。
彼女は言った。
「古橋さまほどの武芸者にご逗留していただけるのは、当家にとっても名誉なこと。何卒、ごゆるりとご滞在なさってください」
「武芸者ですか?」
自分を指差しケンタが尋ねた。
「この俺が?」
「ご謙遜なさらずとも、私にはわかります」
透きとおるような声で彼女は答えた。
「刀を持った三人の浪人を相手に無手でもって応じ、これを打ち払われたのですから。なまなかの手練ではございませぬ。これは、きっと名のある御方に相違ない。そう、葵はお見受けいたしました」
◆◆◆
俺は「武芸者」なんかじゃなく「プロレスラー」なんだけどな。
ふたたび、しずしずと歩き出した少女の背中を眺めつつ、ケンタはそんなことをひとりごちた。
それは「武芸者」を「格闘家」と置き換えれば、これまでも彼がテレビやなんかで口にしていた台詞とほとんど同じ内容だった。
ケンタにとって「プロレス」とは、鍛えあげたおのれ自身を根こそぎ使って対戦相手のそれと比べ合うこと、それ以上でもそれ以下でもなかった。
勝敗とはその結果として付いてくるだけで、純粋に勝つための方策などこれまで考えたこともなかった。
対戦相手というキャンパスの上に、敬意を込めて自分自身を描きあげる行為。
ファンやマスコミを相手に、そんな風な説明をしたこともある。
ただ対象を破壊し、すべてを勝利の二文字を得るために費やす「格闘技」とはそこいらへんが違っていると、ケンタは心の底から信じていた。
のどかな田舎の街道を、ただひたすらに歩いていく葵とケンタ。
身形のいい少女の後ろを筋骨逞しい大男が付き従うよう続くのは、どことなく滑稽な光景ですらある。
おそらくは百四十半ば程度しかない葵と百九十に迫るケンタとを比較すると、その身長差は四十センチに達することが明白だった。
文字どおりの「大人と子供」だ。
しかも両者の服装からして、微塵も反りの合う部分がない。
藍の着物をぴしりと着こなし、質素な鶯色の帯姿も凛々しく感じさせる葵と、使い古した紺のジャージをまさしく身に付けただけといったケンタの風情とでは、住む世界が根本から異なっていると評されても仕方のない印象を醸し出していた。
強引に共通点を探し出すとするなら、それは双方とも「派手ではない」という一点ぐらいのものであろうか。
本当のお姫さまってのは、こんな感じなのかもしれないな。
凛と背筋を伸ばしながら前を行く葵の姿に、ケンタはそんな愚にも付かない思いを抱いてしまった。
そしてそれは、実に率直な感想でもあった。
なるほど確かに。
この秋山葵という少女は、ケンタがこれまで接したことのない雰囲気をまとった娘ではある。
例えるなら、折り目ひとつ入っていない純白の紙に近いものだと言えるだろうか。
少なくとも、それは二十一世紀に生きる女性たちからは、まず感じられない代物だ。
ケンタが知る現代女性という生き物は、自分自身をさまざまな色彩で染め上げることに熱心であっても、資質そのものの美しさを練り上げることには執着しない。
女性としてその姿勢が果たして良いことなのか悪いことなのか。
プロレスひと筋の汗臭い人生を歩んできたケンタがそれを判断することなど、できるわけもない。
だが、どちらにより大きな魅力を感じるかと言えば、彼は葵の発する純粋な「白」、処女雪の白さにも似たそれにこそ軍配をあげることだろう。
正直な話、現代女性が身に付けた多彩な色合いを、ケンタはあまり好きになれなかった。
それは、技術の粋を尽くして調理された高級フレンチより質素な家庭料理を好んで食す感覚と類似するものだったかもしれない。
そんな白さが、なぜだかケンタに「プリンセス」という単語を連想させた。
この娘が「
白銀の甲冑を身につけ白馬にまたがった自分の姿を想像し、思わずケンタは口元を綻ばせた。
うむ、似合わないにもほどがある。
しかしまあ、さっき悪人からお助けした実績もあるし、いまならそれぐらい格好付けてもいいかもしれない。
妄想をもてあそびつつ、ケンタは思った。
無論、自分が騎士なんてがらじゃないことぐらい、百も承知ではあるが。
「随分歩きましたね」
内心に湧き出てきた可笑しさをかみ砕くため、唐突にケンタは葵に向かって問いかけた。
「まだしばらくかかるんでしょうか?」
「あと一刻半といったところです」
肩越しに振り向き、こともなげに葵は答えた。
「一刻半……って、三時間!」
驚きの声を上げるケンタ。
「まだ、そんなに歩くんですか!」
「驚くほどのことではないと思いますが」
ケンタの反応が理解できないと言わんばかりの表情で、きょとんとしたまま葵は言った。
「飛騨の国では使いに出る時、普通に二刻は歩きますよ。古橋さまの生国では違うのですか?」
聞けば、武家の娘である葵がこんな辺鄙な土地まで足を運んだ理由は、このあたりに住む腕の良い薬師から打撲傷に良く効く生薬を買い求めるためなのだという。
「いつもなら下男の茂助を使いに遣らせるのですが、今日に限って別の用事を持っておりまして、仕方なく私がその役を引き受けた次第にございます」
それを聞いたケンタは、もう心底仰天するしかなかった。
片道で二刻、すなわち四時間ということは往復で八時間も歩くということだ。
それは、一日のほとんどをただの移動に費やすのと同義語となる。
一日の間にそれだけ歩くことのできる体力もそうなのだが、ケンタは葵と自分の時間感覚がまるで違っていることに驚きを隠せなかった。
改めて彼は、「いまの自分は『異世界』にいるんだ」という現実を思い知った。
ここは「日本」であって、やはり「日本」ではない。
言葉が通じたりはするが、根本的に異なる文化と風習が支配する未知なる土地なのだと。
揺らぐ気持ちが顔に出てしまったのだろうか。
見上げるようにケンタの表情をうかがっていた葵がくすりと相好を崩してみせた。
「面白い方」
そう呟いて、楽しげに笑う。
そんな彼女が急に体勢を崩したのは、その直後だった。
改めて歩き出そうとした彼女は、何かに足でも取られたのだろうか、あっと小さく声を上げるとともにぐらりとその身を傾かせた。
「危ない!」
慌ててケンタが手を差し伸べ、葵の腰を掴んで支える。
「大丈夫ですか?」
「あ、ありがとうございます」
なんとか自分で均衡を取り戻した彼女が、はにかみながら礼を言った。
「
葵の足下に目をやると、確かに右の草履からは切れた緒の部分が見て取れる。
簡単に手直しができる切れ方ではないようだ。
藁で作られた草履は、いわゆる消耗品の類だ。
現代人の感覚からすれば、いささか早すぎる時点で耐久限界を迎えるのも、あるいは仕方のないことなのだろう。
とはいえ、まこと厄介なところで壊れてくれたものだ、と恨み言のひとつも言いたくなるタイミングではある。
終点が近間であるならば、素足で行くこともやむを得ないと思われる状況だ。
だが、その行程はまだ半ばにも差しかかっていない。
舗装路でもない荒れた街道を一刻半も歩けば、たとえ白足袋を履いていたとしても、足裏がどうにかなるのは必然だった。
「ちょっと失礼します」
そんな困り果てた葵の様子を見るに見かねて、ケンタは一計を案じた。
ひと言断りを入れたのち、小柄な彼女をひょいと抱え上げた彼はその身を自分の右肩に乗せたのだ。
このままあなたを目的地まで運びます。
あえて言葉にしないまでも、それが彼なりの問題解決策だということは明白だった。
突然のことにうろたえた葵が、思わずケンタの名を呼んだ。
だが、その中に非難めいた響きは欠片もない。
そんな葵の当惑を知ってか知らずか、ケンタは軽く顔を上げて彼女に向かって微笑みかけた。
「これなら大丈夫でしょう」
抵抗がないのを承諾の証と受け取って、ケンタはさらりとそう告げた。
「少し揺れるかもしれないんで、しっかりと掴まっていてください」
「は、はい」
自らの腰回りより太いケンタの右腕で身体を保持された葵が、顔中を真っ赤にしながら短く答えた。
こんなにも無遠慮に男性と接触した経験を、これまでの彼女は持っていなかったのだろう。
ケンタの衣服を握り締めつつ、もじもじと顔を伏せてみせる。
もちろん、ケンタはそんな葵の変化などどこ吹く風だ。
間を置かず、のしのしと牛のように歩を進めていった。
葵にとって、揺れるケンタの肩上から見る景色は、いままでの記憶にないものだった。
もう幾度も行き来した道なのに、おぼえている風景とはまるで違ったものに見える。
それは、葵にとって間違いなく「異世界」の風景だった。
無意識の内に周りを見渡し、感嘆の声を上げてしまう。
「古橋さま」
そんな眺めに心奪われながら、葵は囁くように呟いた。
「あるいは、古橋さまこそがまことの天狗さまなのかもしれませんね」
◆◆◆
やがて、ふたりの前に整然とした街並みが姿を現した。
街道を行く人々の数も次第次第に増していく。
飛騨の国を治める金森家六代の城下町「高山」にケンタと葵が到着したのは、夕七ツ刻。
現代の時間にして午後四時を回った頃のことであった。
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