そのてが汚れようとも

麻倉 ミツル

そのてが汚れようとも

 

 井崎 翔太いさき しょうたが出所して一年が経とうとしていた。

 二月の初旬、火曜日。勤務して六年目の不動産事務所で、昼間、経理の岡島 健一は休憩時間にパソコンの画面を見詰めていた。ことしで三十の岡島。百七十の身長に見合わせた黒色のスーツには少しの皺ができている。整髪されていないその短い頭髪には僅かな白髪が混じっている。そのことに岡島は目を向けない。マウスでカーソルをずらしては、虚ろな目で岡島はパソコンと向き合う。食事よりも、この日課と化した検索の方に岡島は時間を割いていた。

「岡島」

 聞き慣れた低い声に反応し、岡島は見ていたサイトを閉じ、そして振り向いた。目線の先には岡島の上司にあたる松田 忠広が立っている。オールバックの髪型に、常に柔和な表情の松田は、先月に五十歳を迎えていた。

「なにを見ていたんだ」

「いえ。特に何も」

「そうか。きょう仕事終わりに、どうだ、たまには飲みに行かないか」

「きょうは、ちょっと」用事が、と、岡島は言葉を濁す。仕事が終わったあとの用事など岡島にはなかった。そのことをきっと、松田も知っていた。

「分かった、また誘うよ」険のない松田の言葉にありがとうございます、と頭を下げた岡島。月に一回は先のような遣り取りが松田との間にあった。その度に岡島は断っていたが、松田は何も言わなかった。松田が去ったあと、岡島は再びパソコンにとりかかる。情報の海を前に、光なき双眸が見下ろしていた。


 よるの帳が降りた豊川市金屋町の道路で、岡島は白の軽自動車を運転していた。定時に退社し、帰宅の途中に寄った食事処で夕飯を摂った岡島は、そのまま自宅に向け車を走らせる。道中、交差点の信号に従いブレーキを踏みこむ。うっすらと輪郭を映した運転席の窓側、その向こうを見通す。見渡しの悪い交差点を、岡島は見ていた。

 信号が変わる。その見渡しの悪い交差点を通っては裏道に右折し、住宅街を走る。やがて二階建ての一軒家を前に速度を落とし、二台空きの駐車場に向け、車を停めた。通勤用の鞄を持って外に出たとき、一陣の冬の風が前髪を揺らし、岡島の皮膚に痛みを催す。岡島は、無表情でいた。

 車に鍵をかけたあと、ズボンのポケットから車の鍵と入れかえるようにして家の鍵を握っては、煉瓦積みの門柱を通り過ぎ、玄関に向かって歩む。

 ベージュの外壁をした一戸建ての家。玄関灯を頼りに持っていた鍵を挿しこみ、解錠し、無言で家の中に。岡島を迎えたのは、静寂と、仄暗い橙色の光。廊下の灯りは一日中、点けたままにしていた。

 革靴を脱ぎ、廊下にあがる。吐息が耳朶に届き、足音が交互に反響する。いつもと同じ、変わらない日を繰り返す。真っ暗な居間に辿り着き、まずは天井の照明を点け、つぎに食卓の上に置かれたノートパソコンの電源を入れる。鞄をパソコンの傍に置いた岡島が椅子に座ろうとしたそのとき、視界の端に岡島 源一郎の仏壇が映った。岡島の動きが止まる、が、僅かな時間を置いたあと、パソコンを操作しようとそのまま椅子に座る。静かな空間。一人分の呼吸に、キーボードの不規則な音。うつろな眼差しにブルーライトが差し、パソコンの画面には言葉が浮かび上がる。恰もその言葉は、岡島の目には海の上に浮かび上がった不法投棄のゴミと重なっていた。

 ISAKI @isaki 1551 いまから弘樹とカラオケー

 ISAKI @isaki 1551 外さむい。マジ冬きらい

 ISAKI @isaki 1551 プリクラも撮ってきた。弘樹の顔ウケる

 岡島は俯瞰する、腐臭漂う海面を。岡島は気付かない、自身の表情、その微かな変化に。

 

 水曜日の午前、仕事が休日の岡島は豊川市内の病院に足を運んでいた。

 不動産会社は基本、水曜日が休日となっている。その理由は契約が水に流れることを避けての験担ぎとも言われているが物件を探すひとは土曜日日曜日に集中しており平日の水曜日は集客が見こめない為、水曜日を定休日としている。その実、繁忙期の三月は水曜日でも営業している不動産会社は多い。

 正面玄関の自動ドアを通っては受け付けを済ませ、エレベーターを利用し岡島は七階の東病棟を目指す。町の喧騒とは離れた廊下を歩き、岡島と書かれた表札の前に立ち止まる。目の前の戸を引き、病室に踏みこむと、陽の光に満ちた部屋の隅に岡島の母は眠っていた。植物を連想させる幾つもの管が痩せ衰えた体にとりつけられ、口には一際大きな管がつっこまれていて、外れないよう口元には白いテープが貼られている。ベッドの横には機械が設置され無機質な音を発していた。

 両親は交通事故に遭った。父の源一郎は即死、母の恵美子は脳に障害を負い、五年間、眠ったまま。

 遷延性意識障害。岡島の母は所謂、植物状態だった。

 回復の見込みはないに等しいと、医師に宣告されていた岡島は衰弱した母を見下ろす。面影だけがあった、しかし、幾つもの管がその痩躯にとりつけられた母は、凡そ人間らしいすがたとは無縁だった。まるでそのさまは、水を与えないまま枯らしてしまった花と似ていた。呼びかけても当然、返事はしない、反応もない、ただ齢を無意味に重ね、痩せ衰え、このまま命を落とす。そうした不変の未来が、岡島には簡単に想像できた。それに、もしもの話があったとしても、母に明るい未来はなかった。父が死んだことを、母はまだ知らない。


 日没し、よるに移り変わった頃、事前に予約していたというイタリアンレストランへと岡島は横山 香織と足を運んでいた。白を基調とした外観。住宅街に建つ一軒家のレストランは洋館のような佇まいで、少し顔をあげれば、その真っ白な壁の上には黒い文字で店の名前が浮き彫りになっている。イタリア語で小旅行という意味合いだと以前、岡島は香織に教わっていた。

「寒いね」香織が小さな声をこぼし、そっと岡島の手に触れる。ひんやりとした互いの手を繋いだまま、玄関前の小さな庭を抜け入店する。駆け付けてきた女性店員を前に香織が自身の名前を告げ、席まで案内を受ける。高い天井、華やかなシャンデリア。漂う薫りは食欲を起こし、流れている洋楽は店内の雰囲気と調和していた。平日にも拘わらず二人が足を運んだときには既に満席に近かった。

 席についた二人。岡島は香織と同じ、魚料理がメインとなったコースを注文した。注文を終えたあと、笑みを口元に湛えた香織と些細な会話を交わす。それは、周囲の人達と何ら変わりのない普遍的な会話だ。仕事の調子は互いにどうなのか、最近あった出来事など、会えなかった分の時間を補うように互いの言葉に耳を傾ける。だが一方的に喋っていたのは香織で、岡島は香織と対照的な表情で相槌に徹していた。

 歳が二つ離れた横山 香織とは、大学生の頃に付き合い始めた岡島。ベージュのコートを背凭れに掛け、白のワンピースを着た香織の身長は岡島よりも一回り小さい。常に柔和な表情で、明るい声の香織は、岡島の境遇を知っていた、岡島の家族とも、付き合いがあった。ときどき、母の見舞いにも足を運んでくれる。

「ねえ、きょう何の日か覚えてる?」会話の流れで、そう訊いてきた香織の言葉に、岡島は考える。けれども、なにも思い浮かばなかった。というよりも、岡島は考えようとしなかった。かぶりを振る岡島に香織は少しだけ寂しそうな目をしたあと、誤魔化すように笑いかける。「もうっ、二人が付き合いはじめた日だよ、けんちゃん」

 岡島は間を置いて「ごめん」と言う。「来年は忘れないでね」と香織は笑う。その笑みを前に、岡島は少しだけ俯いた。


 香織と別れ、自宅に戻った岡島はインターネットを利用していた。延々と静かな居間、パソコンの画面に表示されていたのは六年も前の記事。愛知県豊川市金屋町で起きた交通事故で、当時未成年だった男が信号無視、及び、速度違反で起こした車同士の衝突事故。加害者は生存、被害者は二人の内一人は死亡、もう一人は意識不明の重体と記載されていて、カーソルを下にずらせば記事に対してのコメントがあった。だが数年以上、更新されていない。

 時間は移ろう。テレビを点ければ見知らぬ誰かが死んで、そこに憐憫の情を覚えたとして、翌日にはまた誰かが死んでの繰り返し。情報は風化する。見知らぬ誰かが昨日死んでも、きょう誰かが死ねば昨日のことは忘れてしまう。マスコミが騒ぎ、周囲が嘆き、それなのに一ヶ月が過ぎれば人は目移りし一年を迎えれば皆、忘れてしまう。カーソルを下にずらしたまま岡島はコメント覧を見る。そのコメント一つ一つがSNSとリンクしていた。

 ソーシャル・ネットワーキング・サービス。インターネット上の交流を主にしたその基本的な機能は、プロフィール、メッセージ送受信、ユーザー相互リンク及びユーザー検索機能などが挙げられる。プロフィールには利用者の出身地や誕生日などが記され、携帯電話で撮った写真などを載せることができ、他のユーザーとも遣り取りができる。ユーザー同士のメッセージの受け答えは、一般的に公開されたものや、非公開のものがある。

 マウスを動かす。画面のカーソルは、コメント一覧の上に記載されたアカウントを指していた。件のSNSを開いた岡島。ユーザー検索機能を使い、一つのアカウントが目に留まる。

 ISAKI @isaki 1551

 井崎 翔太。

 アカウントの下には幾つものコメントが記されていた。短い文章が大抵で、中には文字と共に写真が掲載されている。岡島は毎日毎晩このアカウントを見ていた。

 自身のアカウントを作ってはSNSに潜み、事件についての書きこみを岡島は無意識に求めていた。事件が起きた当時、加害者の出身地、学歴、交友関係、それらの情報はマスコミが否応なしに晒している。だからこそ、井崎の友達は簡単に特定できた。交通刑務所に足を運んだこと、井崎の出所まであと数日などの書きこみを、岡島は何年もの間、ずっと見ていた。

 そうして半年前に井崎 翔太はSNSのアカウントを作った。岡島には容易だった、井崎のアカウントを特定できたのは。ユーザー相互リンク、貼付された写真、アカウント同士のコミュニケーション、何よりもそのアカウント名が、井崎の特定に繋がった。

 いま現在。井崎の書きこみを見ていた岡島は無表情のまま、井崎のSNSの投稿を待っていた。井崎が書きこむ頻度は多いとき一日数十回にわたる。当然、書きこまない日もあった、が、二日三日も経てばコメントを残す。井崎の利用しているSNSの登録者は、その半数が一日に書きこみを行うという記事を以前、岡島は見ていた。このSNSの利用者の中には著名な政治家、芸能人が多数いて、その発言一つでニュースにとりあげられることもあった。微動だにせず、つぎのコメントを無心で待つ岡島。F5を押さずともSNSは自動的に更新され、リアルタイムで投稿が閲覧できた。きょうはまだ、井崎は一言もコメントを残していない。

 ふと視線を落とす。

 ひとりの、食卓。顔をあげれば広い空間があって、岡島以外、誰もいなかった。

 岡島は回想をする。その目には白黒の過去が映っていて、そこにはいつも二つの影があった。この町の、どこにいても、その影があった。やがて影は消え、少しずつ、白黒の風景に色がつきはじめる。現実に戻ったときには、井崎がコメントを残していた。

 ISAKI @isaki 1551 まゆが結婚してた。

 たった一行、それだけだった。井崎は書き残しておきたい言葉を短文で区切る、ということが多い。井崎に限った話ではない。このSNSには文字数に制限があった。

 何故パソコンの前でこのようなことをしているのかも分からないまま岡島は時間を費やす。画面を見れば間を空けず、井崎は投稿していた。

 ISAKI @isaki 1551 裕太もつい最近、結婚してた。なんかそういう報告を聞くと、いつも泣きそうになる

 井崎 翔太の言葉が目の前に映し出される。パソコンの画面に、井崎 翔太のすがたを見出だす。

 投稿は、続いた。

 ISAKI @isaki 1551 おめでとう、っていう気持ちも勿論ある。でも、やっぱり悔しい気持ちのほうが強い。みんなが幸せになっている間、俺はなにをしていたんだって考える

 ISAKI @isaki 1551 何回も、そういうふうに考える。ときどき、みんなとの間に距離を感じる。話をしているとき、ほんの少しだけ、違和感を覚える

 ISAKI @isaki 1551 それが何なのか分かってた。みんな、気を遣っていたんだ。俺がいない間に築いてきた思い出を、みんな、俺の前では話さないようにしてる。俺を傷つけないために言葉を選んでる

 ISAKI @isaki 1551 それなのに俺は素直に友達の結婚も祝福できない。みんな優しいのに、こんな俺を待っていてくれたのに

 ISAKI @isaki 1551 あんなことがなければ、俺もみんなと同じように笑っていられたのに

 ISAKI @isaki 1551 思い返すだけでも最悪だ。何回も何回も夢に見る

 ISAKI @isaki 1551 あんなところにいなければ

 ISAKI @isaki 1551 あんなところにいなければ良かったのに。俺の人生を滅茶苦茶にしやがって

 ISAKI @isaki 1551 どうせなら、死ねばよかったのに

 ISAKI @isaki 1551 最悪だ、もう

 ISAKI @isaki 1551 なんで俺だけ。いっぱいのひとがいて、どうして

 ISAKI @isaki 1551 死ね

 ISAKI @isaki 1551 時間を返してほしい

 ISAKI @isaki 1551 幸せになりたい

 それ以降、井崎の投稿はなかった。このとき、何故、毎日このようなことをしていたのか岡島は疑問を解する。期待していたのだと、結論に達した。井崎 翔太の人間性は、岡島の望み、そのものだった。

 いままで足首に枷がつけられていたのかと疑ってしまう程に、からだが軽いことを岡島は実感する。パソコンの電源を落とし、席を立った岡島は明日の準備をしようと行動を起こす。


 休日明け、岡島は松田に辞表届を出した。陽が沈み、他の社員が帰宅した頃に話を持ち出した岡島。松田はほんの一瞬、驚いた表情をし、そのあとに「そうか」と落ち着いた声を発した。蛍光灯が、ちかちかと音をたてる。事務所には二人しか残っていなかった。

「呑みに行かないか」辞表届を受けとった松田が言う。その言葉はいつもと違って、僅かな重みがあった。「たまには、二人で話をしよう」

 岡島が頷きを返す。岡島もまた、いつものように断ろうとは思わなかった。松田に続いて事務所をあとにし、会社の駐車場に車は置いたまま、暗い空の下、疎らな街灯の光に導かれるようにして二人は居酒屋に向かう。お互い、自宅と会社の距離は遠いものではなかった。松田の着ていたコートが風に靡いたとき、「寒いだろ」と、スーツの上に何も羽織っていない岡島に松田が声を掛ける。

「いえ、そんなことは」岡島の返事に嘘はなかった。岡島の前を歩いていた松田が振り向いて「大丈夫なら、良いんだ」と言う。「風邪はひかないようにな」

 それから二人は黙々と歩き、目的の場所に辿り着いた。道路沿いに建つ一軒の居酒屋、その看板を岡島は見知っていた。お世辞にも広いとは言えないこの場所で、入社当初、会社の皆で騒いだことをうっすらと思い出す。「久しいな」そんな一言をこぼして、率先して店の戸を引いた松田。醤油と砂糖の混ざったタレの匂いが岡島の鼻腔に届いた。店内に踏みこんだと同時に生き生きとした挨拶の声が飛び交う中、二人はカウンター席に着いた。意図してか、松田の選んだ席の周囲に客はいなかった。少しの間、松田が店主と会話を交わしたあと、二人は生ビールを頼む。時間を置かず、木製のカウンターにはジョッキが並び、互いに持って乾杯を交わす。その際、ジョッキの口の部分が上司の下になるよう岡島は注意していた。

「あてはあるのか」結構な量を飲んだ松田が言う。「辞めたあとのあては」

「大丈夫です」

 テーブル席の方から聞こえる騒ぎ声に掻き消されそうな声で岡島は応えた。岡島と松田は互いに目を合わせない。松田はジョッキを持ったまま、呷ることなく、口をつけないでいた。「何で、また急に」

 松田の問いに、岡島は応えなかった。頼んでいた焼き鳥が二人の前に置かれたとき、岡島が口を開いた。「前からずっと辞めようとは思っていました。ここ最近でやっと、決心がつきました。仕事は、辞めます」一息に淀みなし。どうしてこの言葉がさっさと言えなかったのか、と、岡島は自身を苛む。自身がいなければ松田の負担は減少できた、それなのに言えなかったのはどうしてかと、たいした時間も掛けずに岡島は自己分析を終える。

 甘えていたのだと。

「松田さんには、いろいろと迷惑を掛けました」何も手をつけずに、岡島は言葉を繋げる。「本当に、感謝しています」

 岡島は自覚していた。自身が職場にいる、ただそれだけで霧が覆うように暗いものが立ちこめていたことを。それは葬式の雰囲気と似ていた、誰もが皆、気を遣っていた。辞めようかと思った岡島をひき留めていたのは松田の優しさだ。松田はなにも言わなかった。その目は岡島のことを見守っていた。岡島は負担になると自覚していて尚、その優しさに甘えていた。そしてその被害は一人ではない。

「毎回、お酒の誘い、断ってごめんなさい」

「気にしていない。仕方ないことだ」

「何回も断ったのに、いまもまた、松田さんに誘ってもらった。疑問に思うんです。こんな、どうしようもない社員に、どうしてここまで」

 松田が口を閉ざしたのは、ほんの数秒。

「あの事故について、同情の気持ちがあった」と、暗い声。「でもそれ以前に、岡島のことは気に掛けていた。息子がいる、って話、したことあったか」

「歓迎会のときに」

「そうだった」

 松田の口元がゆるむ。その目は、どこか遠いところを見ていた。過去を見ていたのかもしれない。

「お前と同い年の息子が一人、俺にはいて、就職先は県外でな。お前がはいってきたときに息子は家からいなくなってた。正直、さみしいという気持ちはあった。でも、その日がいずれ訪れるって覚悟してたから平気だった」平気だった、つもりだったけどな、と松田が声を洩らす。「息子が出てから暫くすると、違和感を覚えるんだ。家の中で何をするにしてもそれは突然、やってくる。ご飯も風呂も掃除や洗濯も、一つ一つのことに、ちらついてな、息子のことが」おかしい話だろう、と松田が笑う。「別に、息子は死んだわけじゃない。電話をすればいつでも声は聞ける。でも、人生の半分近く、家族のために、子供のために仕事を頑張って、いつの間にか子供がいなくなってた。妻がいるのにも関わらず、これは、何なんだろうな、本当に」

 松田自身も困惑しているように岡島には見えた。

「きっと、さみしさ紛れに、お前とあいつを重ねていた。気持ち悪い上司だな、俺は」

 松田の自虐に対し、岡島はかぶりを振った。

「松田さんが上司で良かった」それに、と、岡島は間を置いた。上司にそんなことを言っていいのか岡島自身も理解できない。けれども言おうと決めたのは松田が本心を晒したことに、誠意を見せようと思ったが故に。

「松田さんは、俺にとって、本当のお父さんみたいでした」

 そんな言葉が出た。互いの目がやっと合う。松田はすぐ視線を逸らした。感謝していますと言った岡島が手をつけた焼き鳥は、少し冷めていた。


 辞表届を出した一ヶ月後に辞める、ということを松田と話し終わって、一週間が経とうとしていた。平日のよる。諏訪町に建つマンションの一階の扉を前に、岡島は足を止めていた。目の前の扉が開き、事前に連絡していた香織が顔を見せた。ここに来る前に二人の関係を断とうと、「別れよう」と岡島は電話で切り出していたが、それだけでは香織は納得しなかった。こうして二人は実際会うことになった。

「寒いね、きょうも相変わらず。ほら、入って話そう?」

 岡島は一瞬だけ迷ったが、香織の言葉に従い、中にはいった。廊下を通って居間に踏みこむ。綺麗に片付いた部屋、先にはいった香織が点いていたテレビを消して、カーペットの上に座る。テーブルを挟むかたちで、香織の向かい側に岡島は腰をおろす。暖房のかかったエアコンの音が聞こえる。

「別れよう、って、どうして急に」

 一週間前の松田と似たような表情の香織に、岡島はいつもと同じ表情で応える。

「これ以上、香織に迷惑は掛けられない」

「迷惑って、何が」

「あの事故があってから、香織には楽しい思いをさせていない。あれから何年も経ったのに、俺は、立ち直ろうとも思わなかった。ただ、香織に甘えていた」

「迷惑だなんて、思ってない」

 香織がそう言っても、岡島の表情に変化はない。岡島の反応を窺っていた香織が悲しむように、一度目を伏せる。

「けんちゃん、最近、いつ笑った?」と、目を開けては、芯が通った声で言う香織。覚えていないと応えようとした岡島の意志を遮ったのは、香織の向こう側、電話機の横に置かれた写真立てが視界の端に映ったが為。香織の隣りにいる男は確かに笑っていた。「覚えてる? 東京に行ったときの写真」

 岡島の視線に気付いた香織が、あたたかい声で言う。「京都に行ったときのことも、覚えてる? 電車の中で、お母さんに抱きかかえられた赤ちゃんがけんちゃんに手を振ってて。けんちゃん、笑顔でずっと手ふってた」

 岡島は回想しない。してしまえば躊躇うと、そう感じた。

「些細なことで、けんちゃん、笑ってた。いつ、あの頃のけんちゃんに戻るんだろう、って、ずっと考えてた。でも、思いつかなかった」香織の声に、震えが伴う。

 芯など、最初から通っていなかった。

 見せかけが崩れる。その瓦解していくさまを見て、岡島の胸中に積み上げられていくは罪悪感以外の何物でもなかった。

「けんちゃん、わたしのこと、きらい?」

 岡島は無言でいた。

「まだ、すき?」

「ごめん」と、言葉を返し、岡島はその場をあとにした。ありがとう、そう言って、香織とは別れたかった岡島。そんな都合のいいことが叶うわけないと岡島自身、半ば諦めていた。冬のよるに、路肩に停めていた車に向け歩き出す。雪が堆く地面に降り積もっているわけでもないというのに、岡島の足取りはやけに重かった。それでも前を見て歩き出す。


 歩き出す、ひとり。


 金屋小学校と、その向かい側に建つ自動車運転免許センターが先に見える昼下がり。棚引く雲の隙間から時折、陽射しが降り注ぎ、春の訪れを感じさせた。交通安全と書かれたのぼりが風で揺らめく。香織との連絡が途絶えて一ヶ月が経った、仕事も既に辞めていた。金屋小学校の校門を視界の端に捉えたとき、岡島の目には、白黒の風景が映っていた。その目に並ぶ二つの人影。ランドセルを背負った小さな子供とその母が仲良く手を繋いでいて、岡島の目の前を通り過ぎる。いつの間にか彩りがついた視界、立ち止まっていた足を前に動かす。小学校と免許センターを過ぎると、突き当たりの自衛隊官舎から野太い声が聞こえた。右折し、自衛隊官舎を過ぎればデパートが見える。その入口付近に岡島は先と同じ母と子供を見掛ける。子供の左側には、いつの間にか父親が並んでいた。父と母が子供を挟んで、手を繋ぎ、デパートの中へと消える。岡島はそのあとを追った。気付けば、岡島を取り囲む風景の色が一つずつ剥がれ落ちていくかのように、また失われていく。擦れ違う皆が皆、顔が鉛筆で掻き消されたかのようなあとをしていて、そんな人混みの中、岡島は自然と二階行きのエスカレーターに向かう。主に衣類が置かれた二階には、玩具売り場があって、子供は其処にいた。両親と一緒に笑って買い物をしている。健一、と、自身の名前が聞こえた。そちらの方に岡島は振り返る。そこには少しだけ皺の増えた母と背が高い子供が立っている。子供は中学生だろうか、母と距離をとって卒業式用のカーディガンを選んでいた。玩具売り場のほうを見れば、そこにはもう誰もいなかった。中学生の子供は買い物を済ませ、エスカレーターで一階に降りる。岡島もそのあとを尾いた、が、すがたを見失ってしまう。岡島はデパートを出た。白黒の街中、四角形の辺をなぞるように岡島は右折し、通っていた高校を前にする。友達と並んで歩いていた高校生の自分と擦れ違う。なんでもないような会話を交わし、岡島とその友達は笑いあっていた。久しぶりに岡島は自身の笑い声というものを聞いた。高校を過ぎ暫く歩いていると、いつの間にかまた、家族三人のすがたが岡島の視界に。右折した家族のあとを追って、辿り着いた場所は自宅だった。先程まで目で追いかけていたはずなのに、両親はそこにはいなかった。いたのはただひとり。子供は、大人になっていた。見知った通勤用の鞄を持って、ただいまと気怠い声を出し、扉を開け、おかえりと家族に迎えられる。岡島も続いて、ただいまと声を発し、自宅にもどる。

 静寂。

 色づいた現実に、立ち返る。

 そこには、岡島の呼吸しかなかった。靴を適当に脱ぎ、廊下にあがった岡島。カーテンが閉じられた薄暗い居間には岡島 源一郎の遺影があった。時間が止まったかのように立ち尽くす。どれだけの時間そうしていたのか定かではない、岡島は何もなかったかのように緩慢と歩き出す。岡島は印鑑、通帳などが収まった引き出しの中から、一枚の用紙をとり出す。それは事故が遭ったあの日、食卓の上に置かれた母の書き置きだった。時間の経過と共に汚れが増し、白が茶色に移り変わった紙を眺める。買い物に行ってきます、もし雨が降ったら外に干してある洗濯物を中にお願いと、そう書かれていた。母の字は特徴的だと岡島は思う。その一つを挙げれば、ひらがなの〝こ〟が〝て〟に見えた。母の字を、岡島の指先がなぞる。もう、母は、此処にはいない。どれだけ願っても意味が無い、母は、もう既に母の魂は、父親の傍に在るのではないかと岡島は考える。それならば、母が目を醒まさないことにも納得できた。きょうも岡島はパソコンを前に座る。SNSにアクセスし、新たに投稿された文章に添付された写真を眺める。この画面の向こう側で確かに井崎は生きている、そのことを実感し、岡島は安堵した。

 時間は移ろう。

 白色の花弁が散った、春先の出来事。愛知県豊橋市駅前の人混みの中で悲鳴があがった。岡島 健一の足元には、井崎 翔太が転がっていて、胸元を中心に井崎の衣服が赤色に染まっていた。岡島の右手には凶器が握られ陽射しで輝いた血液が滴っている。大半の国民が知っている番号に岡島は初めて電話を掛ける。すると、電話は即座に繋がった。「もしもし」と抑揚のない話し方をした岡島。「ひとを殺しました」と言い、つぎに住所を告げた。


 殺人容疑の疑いで逮捕された岡島は、取調室で警察官の質問に対し、すらすらと淀みなしに応える。何故、井崎を殺したのか動機を訊ねられ、岡島は殺害に至った理由を機械的に話しはじめる。警察官は口を挟まず、岡島の話に耳を傾ける。

 岡島はあの当時を思い返し、真情を吐露する。

 非は完全に井崎 翔太にあった、それは世間と警察が認めていた。信号無視及びスピード違反を犯した井崎の自動車が、父親を殺し、そして、母親を殺したようなものだ。父親の遺体と、痛々しい母のすがたを見た岡島は、ただ呆然としていた。霊安室にて、遺体となった父親を前に、医師の言葉が耳に木霊する。「怖い、痛いと思うよりも先に、お父さんは亡くなったかと」

「怖かったに決まっているだろう」と、医師に言葉を返した岡島。全身が覆い隠された父親をうつろな目で岡島は見下ろす。「痛かったに決まっているだろう」

 父の死を悼む暇さえ与えられず、岡島は母の延命治療の決断を迫られた。一度、延命を選んだが最後、装置のとり外しはできない。だが意識をとり戻すことはないに等しいと判断されても、岡島は母が目覚めることを待ち続ける。その選択に迷いはなかった。父親の葬儀を終えた頃、世間が事件についてどのように思っているのかを知りたいが故に岡島はインターネットに没頭しはじめる。インターネットに掲載されていた記事、そこに寄せられた井崎の批判を見て岡島の気持ちはやすらいだ。そして、SNSに目が留まったのはこのときだったと岡島は言う。 記事のコメントがSNSとリンクしていたのが理由の一つで、もう一つは井崎 翔太の交友関係を知って、井崎についての情報が一つでもあればそれで良かったと岡島は言う。つい最近まで、そんなことを知ってどうしたかったのかと岡島自身、理解できなかったと胸中を洩らす。岡島がSNSを利用し僅か一時間、井崎の同級生は簡単に見付かった。思っていた通り井崎についての書きこみがそこにはあった、井崎に対しての批判が多い中、井崎の同級生は擁護していた、同情していた。それからSNSで毎日毎晩、井崎の同級生の発言を眺めていた。時間が経つほどに事件に対して世間の関心は薄れ、両親が交通事故に遭ったことなどまるでなかったかのような扱いだったと他人事のように岡島は語る。ついでのように岡島は裁判の結果についても触れた。

 判決は井崎に優しかった、年齢と初犯という理由がそうさせた。岡島はそれに納得ができなかったことを淡淡と話す。井崎の両親は、一度謝罪しに岡島宅に訪れ、それきりだった。どうでもよかった、井崎 翔太の両親など。きっと、井崎 翔太に少しでも反省の気持ちがあれば、たとえそれが見せかけだとしても、岡島は赦していたと口にする。だが、そうはならなかった。

 井崎 翔太殺害のきっかけは、いま尚、残っているSNSの書きこみだと岡島は説明した。SNSが関連した事件は現代に於いて、そう不思議な話ではない。SNSの書きこみを見て激情に駆られ起きた事件は現に幾つもある。

 殺害場所について警官に説明を求められた岡島。井崎が投稿していた写真に映っている看板や、店の名前をインターネットで調べ、場所を特定したと岡島は応える。車で足を運び、適当にホテルの一室を借りては、SNSで井崎のアカウントを見ては四六時中動向を確認していた。そうして場所を特定しては井崎当人を見付け、持ち歩いていた刃物で人混みの中、殺害した。

 岡島の話が落ち着いたところで、警察官は息を吐く間もなく「両親は、こんなことを望んでいないぞ」と、断固とした口調で言う。死んだひとはなにも思わない、というよりも、思うことができない。そう伝えようとしたが、疲れたとでも言うように岡島は息をつき、なにも言葉を発しなかった。自身の掌を見ては、赤児のような所作で岡島は手を握る。井崎を殺した感覚がまだ残っていた。


 ここと自宅の居間は然程、変わりないと留置場の隅で座っていた岡島は思う。光と人気のない場所で何をすることもなく虚空を見続ける。翌日も事情聴取を受けては、じきに地方検察庁に押送され、公判の日をただ待つだけ。井崎もまた自身と同じように、ここにいたという事実を岡島は無心で受け容れていた。

 井崎と岡島は違う。井崎には帰りを待っているひとがいて、岡島には、ただいまというひとがいなかった。井崎を殺せば、ある程度は満たされる、岡島はそう思っていた。だがなにもない、想像が現実になっても、なにも在りはしない。もはや、生きる、ということに岡島は興味がなかった。恩寵にも似た朝陽をこの身に浴びようとも曾ての幸福は訪れず、地上に向け這おうと思う精神もない。ここは地獄だ。平等など何処に在る、そんなもの、この蒼いほしの何処にも存在はしない。岡島は目を閉じる。現実と、この暗闇に、何の違いがあるというのか。なにもみえはしない、なにも在りはしない、岡島にはもう、なにもなかった。そうして、どれほどの時間が過ぎさったというのか。地検に移ってはどうでもいい取り調べの繰り返し。検事に起訴されては初公判の日が決まり、その間、弁護士との面会を適当にしたのち伯父や香織、松田との面会も岡島はすませていた。岡島を見る皆の表情はどれも同じだった。岡島は特に話したいこともなかった、が、訊きたいことがひとつあった。それを香織に訊ねたが、返事は当然、岡島の予想と同じだった。

 やがて、名古屋地方裁判所で公判の日が訪れる。被告側に座っていた岡島が面をあげれば、真正面には原告側の検察官が並んでいた。左側には傍聴人。そこには叔父と香織、井崎の遺族が椅子にすわっていて、当然、見知らぬ人間も腰をおろしていた。三人の裁判官が入室したところで、起立と声があがる。その場にいる全員が立ち上がっては、裁判官に倣って一礼し、再び席につく。岡島は裁判官の言葉に従い、証言台の前に立つ。当人であるかどうかを確認するため名前を問われ、岡島は、はっきりと通る声で「岡島 健一です」と答える。検察官が起訴状朗読し、つぎに「被告人には黙秘権があります」と真ん中に座る裁判長に言われたのち、検察官が読み上げた起訴状に間違いはないかと問われ、岡島は「間違いありません」と言う。

「井崎 翔太を殺したのは、わたしです。間違いありません」

 迷いのない声が、通る。


 冒頭手続は終わって、岡島は裁判官に案内を受け席に座る。

 つぎに検察官は、裁判官に冒頭陳述を求められ、証拠調手続にはいる。被告人の経歴、及び、犯行に至った経緯などを仔細に検察官は語る。弁護人からの同意を得、犯罪事実に関する立証として、犯行に使用した凶器、岡島が電話口で自白したときの音声、SNSで井崎がどのような書きこみをしていたかという記録を提示し、岡島に確認する。岡島は検察官の質問に対し肯定を、機械のように繰り返す。自白事件、というのはたいていが第一回の公判で結審し、第二回で判決のみというのが原則となっている。順調に事が運んでいたように思われたが、岡島に対し、検察官がSNSの書きこみについて問う。井崎の一連の書きこみを見て、殺害に踏み切ったかどうかをいま一度、確認される。おそらく、と、岡島は先の展開を予測した。井崎のあの一連の書きこみには、固有名詞が記されていない。そのことについて検察官は触れると。

「わたしが井崎 翔太を殺そうとそう思ったのはSNSの書きこみが切っ掛けでした。ですが、それ以前に、井崎 翔太に対しての殺意はありました」

 検察官の意図を、岡島が尊重することはなかった。話が脱線する。

「井崎 翔太は、わたしの両親を殺したからです」

 そのとき、傍聴人席から大きな音が聞こえたと同時に「わざと殺したわけじゃない!」と怒声が飛ぶ。岡島がそちらの方に視線を向ければ、憎悪に満ちた眼差しがそこにはあった。井崎 翔太の母親だ。裁判官が「静かに」と注意する。だが、その制止を井崎の母は振り切る。

「翔太はわざと殺したわけじゃない。翔太は事故を起こしたあと、ずっとずっと後悔してた」

 裁判官の声が飛ぶ前に、岡島が静かに応える。目を合わさず、一体どこを見ているのかも分からないような、からっぽの目がほんの一瞬、揺れる。

「井崎 翔太が一言でも謝罪しに来たのであれば、きっと、赦していました。井崎が更正したのであれば、わたしは殺さなかった」

「謝罪って、そんなの、あなたが不快に思うだけでしょう」

 悲鳴に近い声を発していた井崎の母が席から無理矢理外される。「四年も翔太は耐えたのに、どうしてこんなことになるのよ」と、その悲鳴が最後だった。再び静まったあとに「被告人」と声が飛ぶ。その声で、まるで何か悪い夢から醒めたかのように、岡島の意識がはっきりとした。検察官の方に、岡島は顔を向ける。

「あなたは先程、両親は井崎 翔太に殺されたと口にしましたが、亡くなったのは源一郎さん一人で、お母さんは亡くなっていません」

「五年間」

 いままで空虚だったその声に、五年という歳月と同等の重みが伴う。

「母が目を醒ます、そのことを信じて、病院に通いつづけました」 

 病院の入り口を通る場面を頭の中で繰り返す、何度も。その場面は、どれだけの種類があっただろう。晴れ、曇り、雨、四季の変化、同じ日は一度としてなかった。 

「わたしが母さんと呼んだら、なあに、健一と、わたしの名前を呼び返してくれることを、期待していました」

「裁判官、被告人の話が脱線しています」

「被告人、続けてください」

「一日一日、わたしは、祈っていました。けれども、季節が移ろうたびに、こう思うようにもなりました。植物のように幾つもの管がつけられては痩せ衰えていく母さんを見下ろして、ああ、母はもう、既に父の隣りにいるのではないかと」なら、と、言葉を繋げる。「母は死んだも同然です。どれだけ祈っても母は返事をしません。どれだけ想っても、父が蘇らないように、母は目をさまさない」

 静まり返った法廷で、検察官がなにかを言おうとしたそのときに、裁判長が時計を確認しては第一回の公判、その閉廷を宣言した。第一回公判は終了し、岡島は警察官に引き連れられて、退室する。

 第二回の公判は二週間後。その間、岡島はまた、留置場に居座ることになった。

 狭い室内、人間が生活する上で最低限の物しか置かれていない部屋で、岡島は判決を待つ。じっと虚空を見据えては、抗えない時間の流れに身をまかせる。消灯し、暗闇に満ちた室内で、あの双眸を思い出す。憎悪に満ちたあの眼差しを。

 井崎 翔太を殺すこと。

 ただそれだけを考えていた岡島には、想像がつかなかった。殺せば怨まれる、そのことを岡島は誰よりも知っていたというのに。井崎の両親など、岡島にとって、どうでもよかった。だが、あの悲鳴を聞いて、愛したひとを失った、あの悲痛な声を聞いて、岡島の気持ちは微かに揺らいだ。気付けば、片手が頭を支えていた。岡島は、ほんの、ほんの少しだけ惑う。正しいことをした、そう思っていた、いや、いまでもそう思っている。それなのに、なぜ、胸中の底にあった澱は除かれないというのか。自身の心境が理解し得ないまま、初公判が終わって、一週間が過ぎ去った頃、岡島は香織と面会する。香織を突き放そうと心に決めていた岡島はこの日、彼女の話に耳を傾ける。

 そして第二回の公判が訪れる。前回と違い、傍聴人席は空いていない。岡島が法廷に現れたとき、表情を窺うような、幾つもの視線が注がれた。岡島は顔をあげない、俯いたまま、被告人席に腰をおろす。やがて、裁判長と裁判官が法廷に現れ、第一回公判と同じように皆が一礼した。弁論手続の流れで岡島は証言台の前に立ち、最終陳述の機会を与えられる。誰もが中心の岡島に視線を寄せ、静かに言葉を待つ。俯いていた岡島は面をあげ、裁判長を見詰めることなく、いつものように虚空を見据える。表情の変化に乏しい岡島の顔は、きょうという日もまた、いつもと同じように見えた。

「わたしが井崎 翔太を殺したのは、父と、母を想ってのことでした」

 常に静かな法廷では、マイクがあろうとなかろうと声は通った。誰もが岡島の言葉に耳を傾ける。

「父は、やさしいひとでした。幼いころ、友達を連れて父と一緒に昆虫を捕りに行ったとき、お前の父さんはやさしい、うらやましい、と言われたのをよく覚えています。父の職場のひとが、家に来たときも、お父さんを大切にしろよと、笑顔で言われたのを、よく覚えています。父は、いろいろなひとに慕われていました。わたしにとって、父は、自慢の父親でした」

 一息が、響いた。それは穴蔵で反響したかのようだった。その実、法廷はひかりに満ちあふれていたが、岡島の目に、ひかりはなかった。

「母は、寛容なひとでした。なにをしても怒鳴ることはなく、反抗しても、温かい言葉で物事を教えてくれます」

 ここで、岡島が言葉につまる。

 少しの間、咳をしていた。

「両親は、わたしの誇りでした。だからこそ、わたしは井崎 翔太を殺しました。死ねばよかった。井崎 翔太のその言葉が、どうしても、わたしは赦せなかった。一日が経つたびに母が痩せ衰えていく中、井崎は家族のもとへと帰り、友達と遊んでいる、元通りの日々を送っていました。でも、わたしは、わたしたちは違う。父は死んで、五年経ったいまも、母は目を醒まさない。わたしが家に帰っても、おかえりなさいと迎えてくれるひとは、だれもいません」

 でも、と、岡島が言葉を紡ぐ。

 その先の言葉は、その場にいる誰もが想像できた。

「一週間前の面会で、わたしは聞きました。母が、目を醒ましたと。脳に酸素がしっかりと行き届き、わたしの名前と、父の名前を、しきりに呼んでいたそうです」

 岡島は呼吸をする。

 けれども、生きていることを実感できなかった。

「母はもう、父が死んだことを、知ったことでしょう。そして、いずれは」

 いずれは、と。同じ一言を繰り返した岡島は、このとき一度だけ、自身の掌を見詰める。そうしたところで、ひとを刺した感覚は消えなかった。

 長い沈黙が訪れる。

「わたしは」

 面をあげた岡島は声を発する。

「わたしは」

 その声に温度はなく。  

「わたしは、いったい、なにをして」

 行き場のないむなしさだけが、法廷に残った。

 岡島が口を噤むと同時に、傍聴人席から啜り泣きが聞こえた。岡島がそちらの方に目を向ければ、見知らぬひとが口に手をあてて、泣いていた。香織や叔父と目が合う。二人は目を腫らしていた。奥の方にいた松田を見れば、口に手をあてることもなく、目元を拭うこともなく、一筋の涙を流していた。静まり返った法廷で、岡島は思う。ああ、自分の代わりに泣いてくれているのだと。岡島は呆けた表情で、いつものように、虚空を見詰めていた。そこに一つの影を映して。

「母さん」

 母さん。母さんは赦してくれるだろうか。こんな、どうしようもないことを、母さんは。

 そして、被告人席に戻った岡島。嗚咽の中、裁判長は判決宣告期日について口を開いた。

 裁判長の声は、少し掠れていた。

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そのてが汚れようとも 麻倉 ミツル @asakura214

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