第24話

 月曜日の朝、わたしは早めに出社した。

 三月になった。そして、今日は人事異動の日だった。

 営業担当者にとっては、一年のうちで一番落ち着かない日。わたしは営業事務なので異動はないが、朝礼の時間が始まるまで、落ち着くことができなかった。

 始業時間が過ぎても、鈴木さんは、やってこなかった。

 会議室に入ったきり、課長は出てこない。わたしは会議室に向かい、その扉をノックをした。部屋に入ると、課長はわたしの表情を見上げた。すこし、疲れている様子だった。

「鈴木さんは、もう会社に来ないんですか」

 課長は、黙ったまま、わたしをじっと見つめ、

「どうして知っているんだ」と言った。

 そして、鈴木さんを罵倒し始めた。

「元々、三月末で退職予定だったんだ。人事異動発表の日に、併せて課員に発表するつもりだったが、まさか今日から会社に来ないなんて言ってくるとはね。信じられるかい? 彼はもう、借り上げの社宅からも引っ越しを済ませているんだよ。こんなに無責任な人だとは思っていなかった」

「元々って、どういうことですか?」

「君が着任する前から決まっていたということだよ。今年度いっぱいで辞めさせてくれと、彼から言われていたんだ。さすがに、営業事務に異動したから居づらさを感じたんだろうね」

「じゃあ、もう一年近く前にですか」

 課長はわたしの顔をのぞき込んだ。

「君は、どうして退職することを知っていたんだ? 鈴木くんから何か聞いていたのか?」

 わたしは、しばらく黙った後、「いいえ、なにも」と答え、頭を下げて会議室を後にした。


 わたしは定時で会社を後にした。駅前広場の宝くじ売り場を横切る。わたしの歩くスピードは速い。

 鈴木さんは、あのライターに、すがっていたわけじゃない。

 自分の意思で、あの場所に立ち続けていた。

 わたしに会う前から、会社から立ち去り、ヒロコさんを追いかけるつもりだったのだろう。

 ――、自分の存在の小ささに、やるせなさが募る。この悲しみのぶつける先が、わからない。

 

 わたしはマスターのいる店に着き、一番奥のカウンターの席に座り、うずくまった。

 突っ伏して、ひっそりと泣くことしかできなった。その姿に、マスターは何も言わなかった。

 誰かが来ては、帰っていく。笑い声がやってきては、また過ぎ去っていく。

 誰もいなくなり、静かになったとき、わたしの名前を呼ぶ声がした。

 わたしは顔をすこしだけあげる。マスターはロックグラスを片手に、

 独り言だけどね、と言った。

 独り言だから、聞くのは自由だからと言い、マスターは鈴木さんとヒロコさんのことを語りだした。

 

 鈴木さんとヒロコさんは二十年前に知り合った。鈴木さんの最初に配属した街で。まだ、鈴木さんが二十代前半の頃だ。

 付き合い始めてからすぐに、ヒロコさんは子どもを身ごもった。

ヒロコさんの判断で、子どもは産まないことになった。鈴木さんは、全ての事実を、後から聞かされたそうだ。

 もちろん鈴木さんはショックを隠せなかったが、さらに傷ついていたのはヒロコさんの方だったらしい。それから、二人は別々の道を歩んだ。

 しばらくして、二人は再開した。偶然、この場所で。

 お互い、まだ結婚をしていなかった。これが、五年前の話。

 それから二人は、再び一緒に暮らすようになった。去年の二月頃、再開を果たした五年目の記念日に、二人は籍を入れることになった。それを、鈴木さんは、あの駅前広場の宝くじ売り場の横で待っていた。二人の名前の書かれた婚姻届を片手に。

 しかし、ヒロコさんは、現れなかった。

 鈴木さんはどうしていいかわからずに、それからしばらくのあいだ、あの場所で彼女を待ち続けていた。

 自分の記憶の中から、ヒロコさんがいなくなっていく。

 それを恐怖する日々の中で、あのライターを渡された。四月一日のエイプリルフールの日に。

 ずっと探していた待ち人に会うことができる。そして、その待ち人に火を灯してあげれば、その人を幸せにしてあげることができるというライターを。

 鈴木さんは決心したそうだ。ヒロコさんを待ち続けようと。

 彼は、その決心を確かめるように、あそこに立ち続けていた――。


 マスターの言葉を聞きながら、わたしはなんだか現実世界の出来事とは思えないような感覚に包まれた。いままで近くにいたはずの鈴木さんが、遠くの世界の存在であるかのような。

「その話は、いつ鈴木さんから聞いたんですか?」

「一年近く前かな」と答えた後、「会社を辞めるというのは、さっきだけどね」とマスターは言葉を重ねた。

 わたしは、身体を完全に起こした。

「さっき?」

「電話があってね。最後にお礼を言わせてくれって、連絡が来たんだよ。もちろん、君がいることも伝えたんだけどね」

 わたしは、心臓が握り締められるような気持ちになった。

 それでも、どうしても、聞かずにはいられない。

「鈴木さんは、わたしについて何か言っていましたか」

 そのわたしの言葉に、マスターは、小さく微笑んだ。

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