ディア・ハント~Deer hunt~

芳川南海

Opening Phase~追跡者たち~

 ワンボックスカーに偽装した兵員輸送車輌がS県とY県の県境の峠道に差し掛かる頃には、朝から広がっていた曇天は色と重みを増し、パラパラと雨粒をこぼしていた。

 スライドドアの窓ガラスに雨粒が当たり、斜めの線を引く。後部座席の硬いシートに背中を預けたまま、高脚蟹カルキノスは本日何度目かの舌打ちをした。

 一九〇センチ強の、ひょろりとした体躯。腕も脚も他人と比べれば長い方だろう。

 この恵まれた身長と手足の長さを活かした変幻自在のナイフさばきが彼の特技だったし、それを可能とする特別なチカラを彼は有していた。

 それ故に彼には自負があった。

 ただの人間を殺すのに、その自由を奪う必要など無い。壁の隙間、扉の陰、テーブルの下――日常に存在する、誰しも知っている死角から襲いかかるだけでいい。大抵の人間は悲鳴を上げるよりも前に「えっ?」とか「はっ?」といった気の抜けるような声を漏らして、それからようやく絶叫する。

 標的が唖然とした顔で胸に突き立てられた刃を見下ろし、掻きむしられた弦楽器のように痛みと恐怖と混乱が混ぜ合わさった悲鳴を上げる。その表情と悲鳴を聞くのが、カルキノスにとって最高の娯楽だった。

 あの日は、その楽しみを少しでも多く味わおうとした。だが、それが失敗だった。

「ご機嫌斜めだねぇ、カルキノス」

 舌打ちが聞こえていたのだろう。隣の席に座る小柄な金髪の男が、茶化すように笑った。安物の脱色剤ブリーチを使っているためか、髪は野良犬の毛並みのように荒れている。また、生え際の黒も目立ち始めているため、カラメルソースを乗せたプリンのようになっていた。

 男は、乱杭歯の隙間から淀んだ空気が漏れたような笑い声をあげて、カルキノスを挑発する。

「ザマぁねえな。オーヴァードならいざ知らず、ただの人間に顔を見られた挙句、取り逃がしちまうなんてよォ?」

「うるせえぞ、羚羊鬼デルゲット

 カルキノスは殺意すら込めて睨みつけるが、デルゲットと呼ばれた男はたじろぎもしない。

「ヒヒヒヒ。激おこ、ってツラかよカルキノス。てめえのヘマの尻拭いで、こんな山奥くんだりまで連れてかれる俺様の方がムカついてんだよ! そのクソ腹立たしい舌打ちを今すぐヤメろ。でねえと、女の前にてめえをブチ殺しちまいそうで仕方ねえんだよッ!」

「ンだと、てめぇ……」

 明確な怒気と殺意。カルキノスはデルゲットを睨み返しながら、その挙動すべてに注視する。この距離は、互いに間合いだ。

「ヒヒヒ! 抜くか? 抜くかァッ? 抜いてみせろやゴラァッ! てめえの玩具ナイフより、俺の爪の方が速えってことを教えてやるからよォッ!」

 デルゲットの右拳が、ぞぶり、という奇怪な音を立てて変形する。それは自然界ではあり得ない生命体の形状をしていた。

 浅黒く盛り上がる肉。魚鱗とも爬虫類の鱗とも異なる皮膚。鮫の歯のように幾重に重なる鋭利な爪。物を掴むためでもなく、狩りのためでもない。ただ破壊するためだけの、歪な爪。

「……それくらいにしておけ、二人とも」

 激高するデルゲットと、反射的に腰のナイフに手をやったカルキノスを制したのは運転席の男だ。

 白髪の混じった黒髪をオールバックにした彼は、バックミラー越しに二人を見やる。

「お前たちの仕事は、この先の山荘に隠れている目標の確保だ。UGNの連中に嗅ぎつけられる前に目標を拉致し、戸籍も痕跡も存在も『焼却』なかったことにすることだ。殺しあうのは後にしろ」

「ヒヒヒ。冗談――冗談ですよ、焼却炉インシナレイターの旦那。こいつと本気でやり合おうなんざ、考えちゃいませんさ」

 デルゲットは下卑た笑いを浮かべながら右手を引っ込める。カルキノスもデルゲットの右拳が元に戻るのを見届けてから、ナイフの柄を手放した。

「申し訳ありません。インシナレイター」

「カルキノス。焦るのも分からんでもないが、お前が苛ついたところで過去は変えられん。ならば我らがやるべきことは1つしかない。任務の完遂だ」

 インシナレイターは淡々と言った。誰かがプレーヤーの再生ボタンを押したのではないかと思うような、抑揚のない声だ。後部座席の二人からは、ミラーに映る彼の表情の一部しか見えなかったが、インシナレイターの顔は能面かデスマスクのように感情が読み取れない。

 次の言葉をインシナレイターが発したのは、ワイパーがフロントガラスを三往復する程度の間を置いた後だった。

「不安要素は絶対に排除しなければならない。そのため、今回の任務では傭兵を雇っている」

「……俺たちだけでは不安だというのですか?」

「そうではない。上からのご指示だ」

 インシナレイターは鉄面皮を鏡に映したまま、不満気に声を上げたカルキノスへ視線を合わせようともしない。

 もっとも、これが彼の平常運行なのだ。長い付き合いのあるカルキノスやデルゲットでさえ、彼が破顔するところを見た記憶がない。

「お前たちが暗殺と戦闘に優れたエージェントだということは、俺がよく知っている。だが、今回の任務は暗殺でも戦闘でもない。情報の抹消だ。逃げた女が、どれほどの情報を握り、誰に伝え、どこに残したかを全て調べあげる必要がある。だから、情報の取り扱いに長けた傭兵を雇った。それだけだ」

「そりゃあ頼もしい。そこの蟹野郎よりマシな奴が来ることを祈ってますぜ」

 小さな身体を揺すって大げさに笑うデルゲットを尻目に、やはり淡々とした口調でインシナレイターは告げた。


「扱いやすさで言えばお前らの方が、ずっとマシだろう。あの腹話術師ベントリロクエストという女は――最悪だ」

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