日常の囲い

ふゆむしなつくさ

今日がまた終わる。

どうしてまだ生きているのだろうと、こんな歳になっても未だに考える。

 けれどそれは毎回碌な答えも出せずに終わる考えで、そんな想いで頭の中が覆われること事態がどうしようもなく無駄なんだと、最近になって俺はようやく気付き始めていた。

 疑問を抱かずルーチンワークをこなすように毎朝会社へ出向いて、疲れた足を引きずって帰路につく。それが出来る人が、幸福に限りなく近い場所に立っていられる人だと、よく思う。現状に上手く慣れることが出来るのは、慣れる努力が出来るのは、強い人で、尊敬を感じずにはいられない。俺にはそれが出来なかった。多分、これからも出来ないのだと思う。自分はそういう努力が出来ない人間だと、どうしてか、痛感している。多分俺は、どこまでいっても自分が立っている場所に納得が出来ないんだろう。意味のない意地だ。馬鹿馬鹿しいにも程がある。でも、俺のような人が少なからずいるということも、よくわかっている。だからといって救われる訳でもないけれど。

「3番線、電車が参ります。この電車は、中野以降各駅に停車致します。」

 ざわつくホームに、何時も通りのアナウンスが響いて、俺はマフラーを口元まで上げて、肩にかけたリュックを背負いなおす。

 乗降口に並ぶ人だかり。眼に染みるホームの明かり。剥き出しの手を直接撫でる遠慮のない冷気と、数分遅れで駅に着く電車。新鮮味のないあらゆる感覚が、まるで毒が溜まるように自分の奥へ沈んでいくのがわかる。息苦しさは、消えない。

 降りる人達が出切ったのを確認してから乗車する人だかりに続いて、車内へ足を踏み入れる。手に持ったままだった定期券をポケットに押し込んで、そのまま携帯電話を掴みながら、普段よりは少なめな気がする詰め込まれた人達の合間をぬって壁際まで移動した。殆どの人は手に持った携帯電話の画面を眺めていて、顔が正面を向いている人は少ない。それをぼうっと見渡して、何の気なしに、電源が切れたままの携帯電話の黒い画面に視線を落とした。

 窓から見える、どこまでいっても煌々と明かりの絶えない建物だらけの街並は、もう随分前から見たくないものになっていた。

 不意に、大学生だった頃、付き合っていた女性のことを思い出した。

『学校も、職業も、将来も、行きたいところとか、なりたいものを好きに目指せる世の中だっていうのは、凄いことだし、恵まれてるのはわかってるんだけど、でも、何だろうね…。』

 ――いくら自由でも、身体一つじゃ空は飛べないんだよね…。

 そんな風に、彼女は以前話していた。今日と同じような、冬の夜のことだ。

 多分、俺と彼女は、似たもの同士だったんだと思う。

 同じ方向を向いて重なっていられたのは、大学を卒業して彼女が地元へ戻るまでの、僅かな間だけだったけれど。

『暖かみがない部屋だねぇ』と俺の部屋を見て笑っていた彼女の姿が浮かんで、あぁ、あの頃は今よりまだ普通に生活ができていたんだな、と今更ながらに思った。

 自嘲じみた後悔が一瞬で広がって、何やってんだろうな俺は、と笑ってしまいそうになる。けれど、それは表面まで昇ってくることはなく、携帯電話の真っ暗な画面には、目元の隈が残ったままだろう表情の無い顔が、ただ無様に写っているだけだった。

 最後に笑った日がいつだったかも、最後に仕事以外の話をした日がいつだったのかも、思い出せそうになかった。


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