ツツカナと真夏の蜃気楼
カスタネットで たん、たん、た、たーん
第1話 少年ツツカナ。水たまりから登場
物語をどこから始めるべきなのか。それはいつだって、大問題だ。
正確さを求めるなら、それは主人公の出生にまでさかのぼらずにはいられず、もし主人公が主人公たる
だからと言って解りやすさを優先すると、せっかくの物語が薄っぺらくなってしまう危険をまとう事になる。
これから僕がつづる物語の主人公は、先に言ってしまうなら、僕ではない。
僕は複雑な樹系図のような家系とは無縁だし、両親はわが子を物語のヒーローにしようなどという考えとは無縁の平凡な二人だし、そもそも父親は単身赴任中で、僕は軽く放置されている
しいて言えば、3歳になる弟は、「モモジロウ」という、将来、悪の象徴でも退治しそうな予感のこもる名を贈られているものの、今の彼に出来るのは、おむつの中にしでかしたときに、小難しい顔で「ウンウン!」と言う事くらいだ。
一方、僕はと言えば、その名はハルオであり、兄弟の名前の一貫性のなさに、なにか依怙贔屓のようなものを感じないでもない。が、どちらの名が本人にとって幸いとなるのかは、その結果を知るには、まだ二人とも若すぎる。
名づけにおいて、一人目は無難に、二人目で大きな賭けに出るという父の小市民さは、ぼくという人間にしっかりと受けつがれている。僕が唯一両親から受け継いだ美点があるとすれば、'泳ぎ'であろうか。
両親とも高校時代に水泳部で、そこで二人は知り合い、好きあい、付き合い、その関係は社会人になるまで続き、とうとう結婚までしたというのだから、今時珍しい純愛ストーリーである。その二人の影響で、僕は、幼少から水泳に親しむ機会が多く、同年代との比較においては水泳が得意な方で、水泳部に所属していた。数日前までは。
僕が、水泳部「だった」ということは、この物語と無関係ではない。
脇役である僕を、脇役たらしめる結果となった家庭環境の要因は、水泳、である。
前口上を長々と並べ、さて、どこから物語を始めようか、と悩んだものの、結局、僕と主人公の出会いから始めるしかない。
何しろ、正確に血筋から話そうにも、僕は彼の過去を知らないし、過去に触れることもできない。だから僕の知っている事、僕が覚えている事、僕が感じた事だけをかたろうと思う。
中二の夏。放課後。雨上がり。帰宅途中。出会った時を表すならそういう説明になる。もちろんこれは僕から見た話、だ。
夏の日差しにこんがりと焼かれたアスファルトを通り雨がさっと濡らした後、いっとき、息継ぎをしたセミ達が再びやかましく鳴き始める。それを合図にするかのように、黒々とした路面から水分が湯気のように立ち上り、夏の匂いを蒸し返す。
大通りから一本入った車通りの少ないその道は、誰かが適当な仕事をしたせいで、でこぼこが多く、そこかしこに小さな水溜まりが出来ている。遠くで大型車が通るたび、水面が小さく波立ち、キラキラとした照り返しが揺れる。
彼はそのうちのひとつの前に立ち、小さく眉根を寄せて、ささやかに波立つ水面を見つめていた。
見慣れない、濃紺の詰襟を生真面目に一番上まで止め、その上に、育ちの良さそうな顔が乗っている。猛暑の間隙に御褒美のような涼しい風が吹くたび、髪がサラサラと音を立てるようにそよぐ。
年は同じくらいに見えるが、背は僕より、少し低い。つまりは、背の順に並ぶと前から数えた方が早いくらいということ。
一言で形容するなら、すごく、お坊ちゃんだ。傍らにロイド髭を蓄えた執事がいないのが、何か片手落ちに思えるくらいのおぼっちゃまぶりだ。
その彼が、膝だけをくっと曲げ、持っていたぴっちりと型押しされた学生カバンを地面に置くと、上着のポケットから水中メガネを取りだす。そして、詰襟とお揃いのような紺色の水中メガネをパチンと装着すると、両の手の人差し指をペロリと舐める、その指を耳の穴に入れる。
もはやマンガの中ですら見なくなった、耳に水が入らなくするおまじないのようなしぐさ。確か、唾液が耳に入って中耳炎になるから、むしろ止した方がいいという話を聞いたことがある。
それよりも、だ。
水中眼鏡。耳にツバで栓。で、真剣な目で水溜まりを見つめている。その一連の行動は、ある一つの結果を想像させたが、いやいや、それはさすがにないだろうと思ったら…
ありました。
坊っちゃんは、右手で鼻をつまむと、シンクロナイズドスイミングの女子選手のように、軽くジャンプすると、直立姿勢のまま、水たまりに飛び込んだ。
飛び込んだ拍子に水面から飛び散った水滴がキラキラとかがやく。少年は水たまりに消えた。
「え、えーー!?」
目の前で起きたことを処理しきれずに、あたりをキョロキョロと見回した。「い、今の見ました?彼、水たまりに飛び込みましたよね!ね!ね!あなたも見ましたよね!」
そう、誰かに同意を求めたかった。自分の見たものに自信が持てなかった。
「暑さのせいで幻でも見たかな、あ、は、は、は。」と声に出してみた。しかし、後に残された学生カバンが僕の視界の中で、どんどんと存在感を増す。まるで、
「今、見ましたよね?」
と僕が問われているかのようだった。その場を立ち去る事もできず、ただ阿呆のように水たまりの水面を凝視し続けるしかなかった。彼が再び、水たまりから這い上がってくるまで。
それから、どれだけ時間が経ったのかは解らない。すごく長く感じたが、後から思えば、わずか1、2分の事であった違いない。
なぜなら彼は水たまりに潜水をやってのける不思議な存在ではあったが、水中で息を止められる時間は、凡人の僕と、そう大差なく、はたして…
「ぶはっ、ぶはっ」と酸素を求めて、ほどなく顔を出した。地面に水面にそこからひょっこり飛び出す坊っちゃん顔。彼が飛び込む場面を見ていなければ、猟奇的な光景にも見えたかもしれない。そして、その生首めいたものと、
目が合った。
合ってしまった。さらに、目をそらすタイミングも逸した。
「そこの君」
彼が、鈴でも鳴らすような良く通る声で呼び掛けてきた。「タオルもってないかな」そう言いながら、地面に手をつけ、よいしょ、といった風で体を引き上げる。髪はぺったりと水で張り付き、制服からはポタポタと水滴が垂れている。
そして手に何か持っていた。キラキラと青く輝く細長い魚。あれはたぶん、サンマ、だ。
「夏だけど、濡れた服を着たままじゃ風邪をひくよね。ね、風邪ひくよね?」
ずぶ濡れで手にサンマを握った少年は、妙な同意を求める語りかけで、ぼくを呼び寄せようとする。
僕はその場を立ち去っても良かった。どう考えても普通な状況ではなかったし、何かに巻き込まれる予感に満ち満ちていた。でもそうしなかった。
好奇心に逆らえなかったから。
それが理由の一つ。
部活を辞めて、ふいに生まれた放課後の時間をもてあましていたから。
それもまた理由の一つ。
でも一番の理由は、どうしようもないもので、僕はその場にタオルを持っていたから、だ。
だって仕方ない。僕は数日前まで水泳部で、しかも未練たらしく道具一式を毎日持ち歩いていたのだ。
僕は黙って、ごそごそとスポーツバックをあさるとタオルを差し出した。
「やぁ、ありがとう。助かった。いいタオルだね。肌触りがいい。」
彼はさっさと上着とその下のワイシャツを脱ぐと上半身裸になり、抜けるような白い肌を、タオルでゴシゴシと拭いた。
「下もびっしょりだ」そういうと、更に、ためらいもせず、ズボンを脱ぐとトランクス一枚になった。トランクスの尻の所に「世界一」と書かれている。何の世界一なのだろうか。
「お、おい、下はまずいんじゃないか」
放っておくと全裸になりかねないほどのためらいの無さに僕は思わず言った。
「あ、そうだね。でも、濡れた服をもう一回着ると風邪ひくよね。夏でも風邪ひくよね」そういいながら彼はなぜか僕のスポーツバックを凝視していた。「ジャージとか着た方がいいよね」スポーツバックから視線を外さない
「ジャ、ジャージあるけど、貸そうか」
「うん!助かるよ」
妙なことになったと思いながら、相手のペースに巻き込まれっぱなしで、またバックの中をごそごそやる。そして学校指定の緑のジャージを手渡す。
「あ、このジャージ、綾南中学のだね。僕も明日から通うんだよ。今日転入の手続きをしたところさ」
そう言いながら、ジャージに袖を通す。サンマは手に持ったままだ。おい、魚のヌメヌメが付くじゃんか。
「サンマとってたの?」
最初にそれ聞くか!と思わず、心の中で突っ込みながらもヌメヌメに気が気でなく、言ってしまった。
「ただのサンマじゃない。危険なやつなんだ。」
彼はあらためて、手にした青身の魚を、スーパーで売ってるそれと何一つ違わないように見えるサンマを僕に見えるように差し出すと、
「こいつはジャージャーのペットだ。うっかり水たまりに嵌って、溺れようものなら、こいつにちょっとずつ食べられてしまうんだ。」といった。
「じゃーじゃー?」
「この町に居る"不思議"の名だよ。水の不思議だからジャージャー。聞いたことない?」
「いや、ない」
あるわけない。なんだ、不思議って。ジャージャーってなんだ。君の方がよっぽど不思議だ。
「ところで君、成田くんっていうんだね」ジャージの胸に張られた名札を手で引っ張りながら彼は言う。
「ありがとう成田くん。僕はツツカナっていうんだ。よろしくね」そう言うと彼はサンマを握っていない方の手を差し出した。下はまだトランクス一丁だ。
「よろしくね成田くん」未だ、状況をのみこめず、ボサッとしてる僕に念を押すかのように、さらに手を出し握手を求める。逆らうことも出来ず、うっかりその手を握ってしまった。
「成田くんは恩人だね。僕の風邪を阻止した恩人だね。」無垢な笑顔をした少年は何度も握った手を上下させる。聞きたい事が山とあったが、ただただ彼のペースに呑まれっぱなしで、混乱の極みで絞り出した言葉は
「サンマ、それ食べるの?」
だった。
これが僕とツツカナの出会いで、物語の始まりだった。
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