付喪の憑世
七織
朝方の夢
覚えているのは、夜空に浮かぶ丸い月。
それが余りに綺麗で、ふと手を伸ばすと祖父に笑われた。
盆に日本酒を置いて縁側で。
カカと笑う祖父は寝巻き替わりの作務衣を纏い、それが古めかしい日本家屋に溶け込んでいた。
祖父と、その背後から覗く月と夜空。それを囲う障子の枠。
それが部屋の中から見えた別世界。私の脳にだけ残された写真。
手招きされ横に座って一緒に月を見た。
リン、リンと虫の音が世界を彩る。
それは不思議と暑い夜で、祖父は扇子を片手に風を仰いでいた。
酷くこじゃれた、それでいて古風で目を引く扇子。
闇夜に溶け込むそれはするりと子供であった私の心の奥底に入り、気づけば手を伸ばしていた。
やはり祖父はカカと笑い、そんな私の手を閉じた扇子で叩いた。
――欲しいか? だが、これはオレのだそぉ坊。まあ、少しは貸してやる
思ったよりも重く、ずっしりとした感覚だった。
硬い骨、パッと貼った丈夫な紙の皮。褪せた木の漆の色が、積もった年月を無言で教えてくれた。
不思議と手に吸い付き馴染むそれが欲しかった。途方も無い宝物に私には見えたのだ。そんな私から祖父は扇子を取り上げてバッと開いた。
――オレのだと言ったろう。こいつはな、オレの飲み友達何だよ
祖父はお猪口を傾け、静かに雫を飲み干す。
私には祖父の言葉の意味がわからなかった。
けれど心を射抜いてやまないそれを諦めきれず、ゆらりゆらりと揺れ風を送るそれをじっと見つめ続けた。
――そんなに欲しいか。良い目だな。まあ、ちょくちょく触らせてやるよ。それで我慢しろ
そして、ポツリ、と祖父は言った。
――けど、こいつも飲み相手が居なくなったら悲しむだろうな。寂しがり屋だからさ
――だからよ、そぉ坊。もしオレが死んで、こいつの事をまだ覚えていたらくれてやる。こいつだけと言わず、皆をな。大事にしてやってくれ
――いつか、お前も交えて飲みてぇな
それが、祖父との思い出の一つ。
他の誰ひとりとして知らない、二人だけの約束。
遠い昔の夢と消えた、色あせた誓いだ。
祖父が死んだ。
その訃報が届き私――式守霜月(しきもりそうげつ)は葬儀の為に祖父の家へと足を運んでいた。
祖父の家は今では珍しい日本家屋だ。屋根は瓦敷きで外は雨戸。家の中は畳と障子と襖。
なんでも親からの代の物らしく、二階はなく部屋数も多い。トイレや風呂などのリフォームを除き、昔からそのままだという。
都市開発から僅かに場所を逃れた郊外の家。子供たちは離れた都市の方へと移り住み、祖父は祖母と二人で暮らしていた。祖母に先立たれてからは一人で暮らしていたという。
小さな頃、霜月は両親に連れられて良く遊びに来ていた。豪快な性格の祖父はよく構ってくれた。遊ばれていた、と言ってもいいかもしれない。
祖父はどこからか集めた骨董品も持っていた。それを見るのが好きで、霜月は祖父の家に行くのが楽しみだった。
懐かしさを感じながら、霜月は家の中を見る。
既に葬儀は終わった。広い部屋の中、夕焼けに照らされた静かな世界が酷く淋しい。こんな家に一人でいて、祖父はどう感じていたのだろう。
近くに住む人は、祖父は楽しげにしていたと言った。一人のはずなのに、まるで誰かがいるような気配を感じることもあったと言われた。
それが本当かどうであれ、霜月には嬉しかった。
記憶の中、いつも笑っていた祖父の寂しげな背中など、想像したくもなかった。
「約束、果たせなかったな」
一緒に酒を飲むという約束。終ぞ、祖父と酒を飲むことはなかった。酒好きだった祖父は、きっと楽しみにしていただろう。
偶然、あの日の夢を見たせいだろう。霜月は酷く、後ろめたい気持ちだった。
聞いた話では祖父は縁側で死んでいたらしい。
横に盆と日本酒、服は作務衣。あの時と同じ。
酒を飲んで温まった体のまま、ふらりと寝た姿で。
その手に扇子が有ったかどうか、それを霜月は知らない。
贖罪、というわけではない。けれど何故か、霜月は酒が飲みたくなった。
どこで買ったのか分からないほどの数の酒が置かれた祖父の蔵を漁り、あの日飲んでいた酒を出す。
祖父の遺影の前にお猪口を置いて注ぎ、自分の分も静かに注いで霜月は口を付ける。
離れた部屋では親たちが集まっている。だが、そっちに行く気にはなれなかった。ちびり、ちびりと霜月は酒を飲んでいく。
ああ、こんな美味い、こんな辛いのが酒の味なのか。
「おい、霜(ソウ)。何してる」
「お酒だよ。こっちの方が爺ちゃん喜ぶと思って」
喪服を着た父が部屋に入ってくる。
実の親が死んで泣き、今日また改めて涙を流した父は、少し目元が赤い。霜月から酒の入った瓶を呆れたように取り上げる。
「確かにそうだな。だが、ほどほどにしろよ。オヤジ、酒が原因何だから」
「かも、でしょ。爺ちゃんが酒で倒れないよ。倒れてもきっと、満足してたと思う」
呆れたように父は嘆息し、霜月から伸びる手を払って瓶を脇に抱える。
どうやらこの一杯が最後。霜月は味わうようにちびちびと飲む。
死んでから初めて実現したこの飲みを、祖父はどう思うのか。霜月はそれが気になった。
「霜、ここに移るのか? オヤジ死んで一人だけどよ」
「……出来れば、そうしたい。決めていたことだから」
霜月は近くにある大学に通っている。少し前までは家から通っていた。
だが近く、親が転勤する。
そこまで離れているわけではないが、かと言って今まで通りに通える近さではない。
父と母、そして今年高校に上がったばかりの妹は高校の位置も幸し、そちらに移る。
そして距離が空く為、霜月は祖父の家に住む話になっていた。
一人にはこの家は広い。祖父がいた為に容易く許可されていた事だが、祖父がいなくなり両親は心配し始めた。だが、霜月にそれを変える意志はない。
質を求めないのなら、一通りの家事を霜月は出来る。それにいざとなれば二、三時間で両親とも会える距離。
そう心配することはない。そう、霜月は両親に告げる。
「ならいいけど……一応、母さんとも話せ」
「分かっているよ」
飲みきったお猪口を持ち、霜月は立ち上がる。慣れていない酒は体に周り、僅かにだが足元がふらつく。
いつも飲んでいた祖父はどれだけ酒に強かったのだろう。
きっと一緒に飲んでいたなら、こんなザマを笑われたろうと霜月は小さく笑う。
「あ、そうそう。オヤジの趣味の骨董品あったよな? あれ、いくつかは俺が引き取るけど、叔父の佳祐さんも気に入ったらしくて、扇子とかいくつか――」
「駄目だ!!」
思わず、自分でも驚く程の大きな声を霜月は上げていた。
丸い目で驚く父に、霜月はそれだけは許さないと口調を荒げる。
「あれは俺のだ。昔、俺が七つの時に約束したんだ。爺ちゃんが死んだら、貰うって。俺が死んだらくれてやると、言われたんだ」
「お前……」
「ロクに爺ちゃんの家に来なかった人が、爺ちゃんの友達を取るなんて、そんな認められない。俺は許せない。流石に全部とは言わない。でも、あの扇子は。爺ちゃんの飲み友達は、俺が貰う。約束したんだ、大事にするって。この誓いだけは、守らなきゃ」
祖父が友達といったそれを、霜月は欲しかった。あの日の面影を、形として残しておきたかった。
祖父の実の息子である父ならわかる。自分を連れて、何度もここへ来た。
だけど、この家にロクに来なかった人間の手に渡る。それが、霜月には許せない。
語気を荒げる霜月を父は困ったように見つめる。そんな父に、霜月は告げる。
「駄目だって言うなら、叔父さんを殴ってくる。殴って、諦めさせる」
「……はぁ。そんなことになったら大惨事だバカ。年考えて喋れ。――だから、俺が話を通しておくよ」
任せろ。そう言って父は霜月の肩を叩く。
「そこまで思い入れがあるなら、お前にやったほうがオヤジも喜ぶ」
「父さん……」
「だから暴れるなよ。そんなことになったら面倒だ。オヤジと約束したんだろ? なら、大切にしてやってくれよ」
強く、霜月は頷く。そんな霜月を見て父は呆れたように笑う。笑い、ポケットから出した鍵を霜月に向けて投げる。
受け取った鍵は古めかしい、ゴツゴツとした小さな鍵が二つ。
「オヤジの部屋の棚の戸と、倉庫の鍵のスペアだ。扇子は部屋にあったはず。今日でも明日でも、好きに持っていけ」
「悪い、ありがとう」
「気にするな。オヤジが友達って言ってた物を大事にされるのは、俺にとっても嬉しいさ」
祖父の言葉。それを親も知っていたのだと霜月は驚く。
そんな霜月に得意げに笑い、父は部屋の戸を開ける。
「まあ、あれだ。礼がしたきゃ、いつか俺とも酒飲もう。生きてるうちにな。それでいい」
「まだまだ何十年もある。直ぐにでも、礼をするよ」
「お前より長生きしてやるよ。じゃあな、ちゃんと寝ろよ」
出ていった父を見て、再度祖父の遺影を見る。手の中にある鍵を見て、祖父の部屋に向かう。
祖父の部屋は時が止まっていた。まるで昨日まで生きていたように。
また、日が登れば時が動き出しそうな空間。
リモコンの位置が、椅子の角度が、座布団の折れ目が、祖父の痕跡を残していた。
外に面した障子を開ける。空にある月は、あの日と同じように丸い。
寂れた縁側に、祖父の姿が霜月には見えた気がした。
棚は直ぐに見つかった。
色の深まった、桐の棚。並ぶと戸と鍵穴。その一つだと直ぐにわかった。
手を伸ばし、触れた鍵口にある微かな埃が、止まった時間の長さと悲しさを霜月に伝えた。
カチ――コトン。
持ち主を無くした扇子を取り出すと、心が埋まった気がした。
なんともなしにふと、縁側に座る。
扇子を広げて仰ぎ、霜月は空を見上げる。風が、髪を揺らした。
それは、満月の夜の下。
虫の音が響き始めた、不思議と暑い春の夜。
時の移り変わった、夢の残骸の日の出来事だ。
だからこそ、これからの話もきっと、その続きなのだろう。
陽炎が見せた一時の幻。祖父が話した、あの日の夢の続きだ。
扇子を懐に、霜月は屋敷の一室で布団に入っていた。
霜月が行う棺の付添は番が終わった。既に風呂にも入っている。
衣服はいつもの寝巻きがわりに作務衣を着た。
何となく、着てみようと思ったからだ。
肉体的にも、精神的にも霜月は疲れていた。だから特に何かをするでなくそのまま布団に入った。
部屋は屋敷の端。近くに人の気配は無く、静寂が周囲を包んでいる。
祖父がしていたように扇子を懐にいれ、明りを消して布団を被る。
眠気は直ぐにやってきた。
落ちてくる瞼に、段々と小さくなっていく思考。視界も滲んでいく。
既に夢現の気分で寝返りをうち、闇の中大きく一度、霜月は瞬きをする。
だから、霜月はそれを幻覚だと思った。
「なんじゃお主。あのバカみたいな格好をしよって」
闇のような美少女が目の前にいた。
最初に見えたのは、闇に交じる濡れ羽色の長い髪。
次に見えたのはまるで時代劇から出てきたかの様な絢爛な装飾の大きな衣。
ベッドの横、少女が僅かに屈んだだけで顔の高さが合う。そこから察せることができる背丈は少女のそれ。身に纏う衣に埋もれそのラインは隠されている。
霜月を見るのは大きく、確かな意志を湛えた瞳。
闇に浮かぶ白い肌。小さな口。
幼さを残しながら芸術品のように整った、吸い込まれそうな美貌。
事態できず、呆然としている霜月の胸元を、整った小さな指が触れる。
触れ、爪を立てる。
その痛みが、これが現実なのだと霜月に告げる。
「新たな主がこれとはのぅ。まあ、良い。ヌシのことは覚えておるぞ。そぉ坊と呼ばれていた小僧じゃな。何度となくあやつに頼み、儂に触れておったわ」
「な……」
「生まれてから幾星霜。この姿に慣れてまだ僅かじゃ。あのバカが笑っておったお主なら期待できる」
ふと、懐から重さが無くなっていることに霜月は気づく。
少女の衣のそれは、まるであの和紙の絵柄。
そしてその気づきを知ったように少女は笑う。まるで、当たりだとでも言うように。
そして言うのだ。長い年月を経た物には命が宿る。そう、聞いたことはないかと。
「君は、まさか。いや、そんな」
「そのまさか、じゃよ。何度も儂に触れたではないか。それとも、昔話でもしたのうがいいかの。月の下、水面に浮かんだ月を酒で飲むかや」
それは、祖父が好んだ酒の飲み方。だから、霜月のそれは、疑惑から確信へと変わる。
かかか、と。まるで祖父のように少女が笑う。
そしての懐から出した扇子をバッと開き、口元を隠す。見える目元だけが、妖艶に霜月を見る。
少女が霜月に近づく。
祖父の部屋の、あの枯れ草の懐かしい匂いが、どこからかふわりと香る。
身を乗り出し、霜月の顔を真上から覗き込む少女。その瞳が、すぐ傍に。
覆い被さり、髪が垂れ視界を覆う。扇子を狭間に少女と二人だけで閉じ込められた錯覚。
心を捕まれ、隙間にするりと入り込まれる。その闇に吸い込まれそうに。
あと少しで、触れ合いそうなほど。
「これから頼むぞ、主様。約束通り大事にしてもらうからのぅ」
祖父の飲み友達。扇子の付喪神である少女はそう、楽しそうに笑った。
夢が、始まる。終わらない、夢の残骸の続き。
暑さが霞をかけた、うたた寝の誘う先。
虫の音はもう届かない。少女の笑い声が、その幕を開いた。
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