第30話 方程式

 二カ所ある実習室はどちらでもよかったが、地下よりも窓があるほうがいいという理由で、八王子(はちおうじ)が会議室を選んだ。この選択が、実は大正解であった。


「八王子」


 正面に座るヤンキーコスプレの少年に、番長コスプレの少年――には見えないゾンビ野郎が遠慮がちに声を掛ける。

 間。

 反応がないためもう一度。


「おい、八王子」

「うるせー動くな。和泉(いずみ)が見えなくなるだろーが」

「え、和泉って……」


 相模(さがみ)が振り返ると、二つ向こうの机に女子のグループが固まっていた。彼は和泉というのが八王子の想い人であり、いつぞやは食堂で転んであわや大惨事になりかけた人物だったとまでは理解していたが、顔までは正確に把握していない。

 とにかく、あの一団に和泉がいるのだろうと理解する。


「オマエ、ジロジロ見てんじゃねーよ」

「ジロジロは見てないよ。たださ、勉強に集中しないと。試験の点が低かったら漫才できなくなって、その和泉にも想いを告げられないんだろ?」

「うっせー、みなまでゆーな」


 相模の肩越しに意中の人を見ながら、八王子は数学の教科書を乱暴に開いた。

 これまでろくに使われていなかったらしいその本は、何度開いてもかたくなに閉じようとするのをやめなかった。

 それにまた八王子がキレかける。

 仕方がないので、相模が机の向かい側から教科書を押さえつつレクチャーを開始した。


「まず数学は、公式を丸暗記する。試験直前にプリントが配られるまで、口の中で呪文みたいに唱えてていいから」

「――っていうけどよー、『ナントカの公式を書け』みてーな問題なんか、出ないじゃん」

「そりゃ出ないだろ。公式ってのは、言ってみれば電卓、計算機なんだから。試験で問われるのは、それを使って導き出される答えだよ」

「……っくっく……ゲハハハヒャヒャ!」


 突然、八王子に笑いの発作が起きて、周りの迷惑そうな視線が一斉に金髪赤シャツに突き刺さる。背後ゆえに相模には確認できないが、あの和泉とて愉快そうな表情はしていないだろうと予想できた。


「声デカい。笑わない。勉強しに来てるんだから」


 内緒話の声でたしなめると、


「だってよー、オマエ」八王子はもうひとしきり、押さえ気味に笑ってから小声で続けた。「そんな番長みてーなカッコしてんのに、言ってることは先生みてーじゃねーか」

「まあ、そのとおりだから何も言えないな」

「よしっ、こっからネタ膨らませられるぞ」


 言うが早いか、八王子はルーズリーフを引っ張り出して、汚い字で何事かをガリガリと書きつけている。


「もしもし八王子」

「黙れガキ」

「はい、スミマセン……」


 そこで「同級生なのにガキとは云々」とは言えない相模。おとなしく引き下がって、ルーズリーフに綴られる文字を読む。

 インテリ番長キャラ、実はケンカが弱いけど学年順位で番長に……などなど。

 数学の教科書を前にしていたときとは段違いに表情を輝かせる八王子を見ていると、相模は「まあいいか」という気になってくる。

 八王子という男が、惚れた女のために漫才をしようと思い立った――それは真実なのだろう。ただ、今はそれだけの理由で取り組んでいるとは思えなくなってきつつある。彼の今の顔つきが、相模の考えを裏づけていた。

 つまり八王子は、人を笑わせること、それについて知恵を絞ること自体に喜びを覚えるようになったのではないか――と。


「――よしっ、と。で、なに、公式?」

「そう」


 顔を上げたとたんにゲンナリした顔になる八王子に、相模は苦笑いで頷いた。


「試験開始ギリギリまで暗記し続けて、開始と同時に名前書くより先に、公式を書き写す。あとは、問題にある数を公式の記号に代入――当てはめて計算すれば、答えが出る」

「その計算がわかんねーよ」

「そこは練習あるのみだよ。大丈夫、十問も解けば何となく体で覚えるから」

「はぁ……マジで、なーんでこんなコトやんねーといけねーんだろうな」

「ある程度学歴がないと、就職の幅が狭まるからね。アルバイトだって、大卒が条件のところもあるし」


 常識的な優等生発言に、八王子は眉間にしわを寄せて八重歯を剥き出し、メンチを切るように相模を睨みつけた。


「スタントマンにも関係あんのかよ、学歴」

「他に優先される要素があるにしても、大学は行くよ。ただでさえ親がうるさいし。じゃあ、この練習問題を三つ、解いてみて」

「解けるわけねーだろ! 脳が溶けるわ」

「それじゃ、一項目ずつ分解して説明するから、見てて」

「おう」


 普通は端折ってしまう計算まで一行ずつ丁寧に改行しながら、相模が練習問題を解いて見せる。


「これで最初の式が解けた。で、これはいったん、横に置いておく。次にこっち側の式を解いてって……出た答えと、さっき置いといた答えをたした数が、問いの答え。わかった?」

「んー、わかった……ような? スルーしたボケを二十秒後に回収するって感じか」

「うん、それでいいと思う」

「あ、じゃあついでにネタに入れよう。ちょい、タンマな」


 八王子はもう一度書きかけのルーズリーフを引っ張り出してきて、本人以外解読不能な文字で何事かを書きつける。

 勉強六割脱線四割というこうした調子で、相模による八王子の個人授業は進んでいった。


 暗記科目は、相模が一本調子の変な歌に合わせて語呂合わせするのを聞いているだけで覚えた。お経みたいに聞こえるのが八王子にはツボで、笑いすぎるため会議室での自習には向かない。ただ、ほうっておいても脳内音声再生装置が勝手にエンドレスで流してくれるため、かつて赤いマーカーとグリーンの下敷きを駆使していた頃が嘘のように短期間かつ苦もなく覚えられた。


 そんなこんなで八王子の中間試験の順位は、なんと百八十四位であった。

 家では毎日のようにバラエティー番組を見ている息子及び弟に何が起きたのかと、八王子家の人々が騒然となったのは言うまでもない。

 かくして番長Sは成績順位による脱落を乗り越え、学園祭の参加資格を手に入れたのである。

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