第19話 ロッキー

 九月も半ばを過ぎた頃。

 八王子(はちおうじ)と相模(さがみ)は、Tシャツにハーパンで学校の周囲をジョギングしながらネタについて話していた。


「とりあえず……さ、二カ所……くらい……オマエ……反撃、しよう……して……さ、か……カウンター……」


 うんうんとうなずきながらきまじめな顔で走る相模の横で、八王子はバテバテだった。

 彼は運動部の助っ人として重宝される存在であったが、恵まれた速さと跳躍力と引き替えに、体力は非常に心許ないという弱点を持っていた。

 そのため、普通の漫才ならばいざ知らず、ガチのドツキ漫才を通してやろうとすると、後半は息が上がってしまい、まともにツッコミができない。それどころか満足に喋れもしないという現実に直面したのだ。


 これはイカンということで、急遽持久力の特訓を行なっているわけである。


「あー、もう……ちょっとタンマ」

「こらこら、急に立ち止まるんじゃない。痔になるぞ」

「なんだー……それー。初めて、聞いたわ」

「そうか? 中学のとき、先輩が毎回言ってた」


 それでも痔にはなりたくないのか、八王子は足を動かす。

 校舎を三周した段階だが、相模はまったく息が上がっておらず、涼しい顔だった。


「チクショー……なんなんだ、オマエ」

「へへへ」

「笑ってんじゃねーよ、こっちゃ……死にかけてるっつーに」わき腹を押さえながら、絞り出すように言う。「なんかやってんのか? 長距離走とか」

「ジムに通ってるから、ロードワークはまあ、習慣というか」


 歩調を緩めるととたんに噴き出てくる汗を拭い、今や相方となった大男を頭のてっぺんからつま先までを見倒す。


「あー、格闘技とか言ってたな。ボクシングとかそーゆー系?」

「まあ、そんな感じ」

「なんなんだよ、モジモジすんな気色わりー」

「ほら、親の金で行かせてもらってるから、なんか照れくさくて」

「まじめだなーオイ」


 ロードワークと言えば、ロッキー。八王子の脳内では、そのテーマ曲がエンドレスで流れ始めた。


 もう一周しても、相模はバテていない。

 八王子だけが顔を真っ赤にして必死に酸素を求めている有様。そんな現状を、この男が面白いと思うはずがない。

 しばらく歩きで呼吸を整えてから、いたずらを思いついた顔で相模に尋ねた。


「ジムでさ、殴られ慣れてるから平気なん?」

「それもあるけれど、元々痛覚が鈍いらしくて」

「なんじゃそれ? じゃあこないだお試しで漫才やってたとき、アレ我慢してんじゃなくて、普通に痛くなかったのか?」

「うーん、痛くはなかったな」

「じゃーさ、どれくらいまでオッケーなのか、殴ってみていい? 今後のためにもさ」

「いいよ」


 相変わらず、返しがおかしい。

 目を輝かせて物騒なことを言ってくる悪童に、ローテンションの朴念仁はいとも簡単にうなずいた。

 そこで八王子、ここぞとばかりにジョギングを止めて、相模と向き合った。


「なーなー、顔いってもいい?」

「おお、くればいいじゃない」


 相模はニヤリとして、右の頬すら殴られていないのに両方の頬を差し出した。

 神の教えの先をゆく男か、と八王子は声に出さずにツッコむ。


「じゃー、遠慮なく」


 身長差を考慮してか心持ち屈んで突き出された相模の右頬に、左ストレートをたたき込んだ。予想していたよりも重く、別にスカッとするわけでもなかった。なんというか、木を殴りつけたような感じだ。人の顔をぶん殴るというのは、思っているより簡単ではないと実感する。


「んー、悪くはないけれど、体重が乗っていないかな」


 うめくでも「痛い」でもなく、なぜか笑顔でパンチについて評論するゾンビ野郎。

 他人の痛みなぞどうとも思っていない悪魔も、リアクションに困る。


「いやいやいや……。なんかこう、他にあるだろー」

「あー、すまん。吹っ飛ぶの忘れてた」

「そうじゃなくてー。まあ、いいや。ホントに平気なんだなー」

「ああ、うん。理想はこう、脳が揺れるパンチな」


 言いながら、シャドーボクシングをして見せる。

 確かに、自分のパンチとは速さも迫力も違うと八王子は納得した。


「フツーにうめーな」

「一応、ジムでは一番上手いって言われているけれどね」

「おぉん? なんだ、自慢か? 年下のくせに生意気だぞ」

「いやスミマセン。一番上手いの後に、でも一番弱いって続くんですよ」


 急に始まる年の差コント。

 お互いに声を掛け合うわけでもないのに、八王子はふんぞり返り、相模は背中を丸めるので、雰囲気だけは出る。ただし、ここは昼下がりの住宅街、観客はいない。


「弱いってコトはねーだろ。こんだけ打たれ強いんだからよ」

「闘争心が一ミリもないって、ジムの親父さんに言われたよ。殴られても殴り返してやろうと思わない奴に、格闘技は無理だって」

「え、じゃあマジで全然腹立たねーの、殴られて? スパーリングとかすると、ボコボコにされるじゃん。どう思って打たれてんの?」


 難しい質問だったようで、相模は腕を組んで首をひねってから答えた。


「いいパンチだな、とかは思いますけれど。あとは、ああ自分は生きてるんだな、って」

「それは、パンチが効いた痛みで生を実感してる――みたいなこと?」

「そう……かも?」八王子がうまく翻訳してくれたので、相模はヘラリと笑った。「子供のころからこうだから。場が騒然となるような転び方や落ち方しても、『あれ?』みたいなノリで。だからリングの上での『油断したらヤバいことになる』って緊張感が好きなんですよ」


 それを聞いて、八王子は妙に納得した。


「あー、だからオマエ、いつもフワッフワしてんのかー」

「え? 俺フワフワなんかしてます?」

「フワフワじゃねー、フワッフワ。フワフワがアレ、怪我を消毒する綿だとすると、フワッフワはダウンジャケットから出てくる羽毛な」


 傾げていた首をさらに傾ける相模。どうも喩えにピンとこなかったようである。


「ま、いいわ、この話は」

「そうだった。じゃああともう一周」

「おいぃ、まだやんのかよー」

「来月までに、五分間フルで動ける体力つけなきゃいけないんだろ?」


 相模がタメグチに戻ったが、八王子は無言で走り始めた。

 そうだ。和泉(いずみ)のためなのだから、やらないという選択はないのだ。

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