マジュリカ・リピンコットの世界を紡ぐ星
Lis Sucre
星図家の奇妙な予告状(1)
「知っていることを全部話せ。そうしたら、命だけは助けてやる」
軍人のひとりが言った。暗い坑道で教授に短銃を向けている。
教授は言葉を返さなかった。ただ、ひどく悲し気な瞳を男に対して向けていた。カチリと安全装置の外される音がして、銃声が鳴り響く。教授の体は赤い血飛沫とともに後方に跳ね飛んだ。
世界の音を消し去ってしまう低い轟音。空の彼方から姿を現した軍用機。青茶色のボディに黒い十字の紋章とオフホワイトの線がニ本入っていることから、それがベルクト・ランガー二型複葉機であることがわかる。
草原に寝転がって古びた手帳に視線を落としていた僕は、太陽の眩しさに右手を翳しながら、上半身だけ起こして上空を仰ぎ見た。短い緋色の髪が頬を撫で、読みかけのページが草とともに風に揺れる。
「スカー! スカー!」
高度を上げた軍用機が紺碧の空に帯状の雲を残して遠ざかっていくと、世界の音は取り戻され、風に乗ったマジュリカさんの声が耳に届いた。僕は手帳を閉じてゆっくりと立ち上がり、丘の天辺にそびえ建つリピンコットの館へと歩いて行った。
星図家のマジュリカ・リピンコットは、両の手を後ろで組んで姿勢良く自室の窓辺に立っていた。硬く糊付けされた白い襟以外、服の色味や小物使いは奇抜でやたらと装飾的だ。金の総がついたベルベットのカーテンといい、細やかな刺繍の施された天蓋つきのベッドといい、部屋の趣味も服に負けじと派手だった。けれども、それは山のように積み重ねられた分厚い蔵書や丸められた天球図によって、不憫なほどに覆い隠されてしまっている。いつも僕が訪れるたびに、雑然とした部屋の中では古地図がどこかしらで音をたてて雪崩を起こす有様だった。
「一体どこへ行っていたんだ? また草原かい?」
マジュリカさんは細い鎖がついた右目の片眼鏡(モノクル)を中指で持ち上げた。柔らかな金髪から覗く左の瞳は透き通るような碧眼だが、片眼鏡(モノクル)の奥に潜む右の瞳はどんよりとして濁っていた。
果たしてそれが何であったのか詳しく聞いたことはないけれど、空軍に従事していた頃、マジュリカさんは任務遂行のため『見てはいけないもの』を見させられたそうだ。そこにはとても古い呪いがかけられており、彼は右目の視力をほとんど失い、『呪い持ち』となって軍を名誉除隊した。
「ああ、その顰め面! まったくおまえは愛想のない助手だ。シザーリアス・ヴァイレンの言うことを素直に聞いておけばよかった。おまえみたいなヤツを拾ってきたのがそもそもの間違いだったんだ」
マジュリカさんはわざと大袈裟な身振りで後悔の色を顕にした。
僕はますます無愛想に口を開く。「それなら、契約を破棄して、今すぐにでも僕のことを解放したらどうですか?」
するとマジュリカさんは僕の右手を取り、掌に刻まれた『星の契約』の印を親指の先で軽くなぞった。蝋燭の炎が揺らめくように、魔法の数式が星型に淡い光を放って消える。これとまったく同じ印を、彼は左の掌に持っていた。それは失われし時代の古い魔法だった。契約により僕はマジュリカさんの『星』となり、僕たち二人は見えない力によって繋がれているのだった。
マジュリカさんは自らの掌を僕の掌に重ね合わせ、曇った瞳をこちらに向けた。
「契約を解いたら私はひとりぼっちになってしまう。おまえという星なしで生きていくなんて寂しすぎる」
僕はその言葉が嘘であることを知っていた。出会ってからたった三ヶ月程度の付き合いなのに、そこまで情が湧くはずもない。
「いつも『もうすぐ死ぬ』と豪語している割には、なんだか長生きしようとしてますね」
「いや、私の命はそう長くは無い。しかし、おまえ、その言い方はいかにも私に早く死んで欲しいみたいじゃないか? 残念ながら今はまだ死ねないよ。やり残していることがあるからね。リピンコット星図を仕上げなければならないし、それが終わったらアズ・モンテの暦柱を探す旅に出たい。幻といわれているカラカラ砂漠の星の湖も見てみたいな。そうそう、それから、死ぬ前に一度占星魔術師のミス・キルスティンをぎゃふんと言わせてやらなければ。あの女、ことあるごとに私に文句をつけてくる。もしかして、私のことが好きであれは愛情表現の裏返しか何かなのかな?」
真顔で問われ、僕はこのくだらぬ会話に終止符を打とうと試みた。
「ねえマジュリカさん、あなたの助手はあなたから頼まれたトレキア書の解読で忙しいんです。好事家の世迷言につき合っている暇はありません。用があるならエイセルにでも頼んでください。こういう時のための秘書でしょう?」
「エイセルはポートグロフへ使いに出している。昨日から屋敷を留守にしているが、おまえは知らなかったのかい?」
驚くべきことに、言われて初めてエイセルの姿がないことに気がついた。確かに彼女は普段から物静かだったけれど、いくらなんでも不在にすら気がつかないだなんて、僕はよっぽどトレキア書の解読にのめり込んでいたようだ。
その昔、東の大陸に住んでいたと伝えられる魔法人トレキアの民。魔法文明の衰退と同時に彼らの血筋も途絶えてしまったが、どうやらこの手帳に書かれていることが事実だとすれば、トレキア人は天体観測に有効な『魔法の目』を持っており、非常に高度な天体研究がなされていたようだ。多くの天文学者は未だにトレキア天文学を単なる古典的な擬似宗教のひとつとしか捉えていなかったが、マジュリカさんは作成中の星図のためにこれを活用しようとしているらしい。
東の大陸で育った僕は、特殊なトレキア文字の端々を読み取ることが出来たので、トレキア書の解読はここ最近の僕の仕事のひとつとなっていた。そのほかはほとんどが雑用で、星図家の助手と言えば聞こえはいいが、毎日が古文書や古い天球図などの整理整頓ばかりだった。
「宝石コレクターのスフィニア・メイルドに手紙を届けて欲しいのだ」
ようやく本題に入る気になったらしい。マジュリカさんは胸元から一通の手紙を取り出すと――きちんとスフィニア本人に手渡すようにと念を押しながら――僕の目の前に差し出してきた。リピンコット家の『L』の蝋印が押された封筒には、差出人のところに流れるような書体で『マージー』とマジュリカさんの愛称が記されている。そして、その隣にはくっきりとした赤い唇の型がついていた。
僕が理解不能な表情を浮かべてその花弁のような印を凝視していると、マジュリカさんは笑いながら、胸元のポケットから一本の口紅を取り出した。
「私の愛の証だよ。エイセルの化粧品をちょっと拝借させてもらった」
そう言って、彼は自らの唇に口紅を塗るふりをしてみせる。大の男が艶々とした赤い唇で手紙に口付けるところを想像し、思わず呻き声を上げそうになってしまった。まるでラブレターみたいだと指摘すると、「考えようによってはそうかもしれないな」とマジュリカさんは意味ありげに微笑んだ。おかげで僕はすっかりやる気を失った。助手にラブレターを届けさせるだなんて、まったくこの人は何を考えているのだろう?
僕は小さな溜め息をつき、机の上に無造作に転がる鈍色の名誉除隊勲章に目を泳がせた。マジュリカさんが退役した理由は『精神異常』で充分だ。
「スカーレット」
肩を落として踵を返したところで、マジュリカさんに呼び止められた。僕は眉間に皺を寄せ、あからさまに不機嫌な表情で振り返る。「その名前で呼ばないで下さい」
「ああ、悪かったよ『スカー』。しかし、私のつけた名がそんなに気に入らないのかい?」
「気に入らないもなにも、スカーレットだなんてまるで女の子みたいじゃないですか」
「仕方あるまい。おまえは女の子なのだから」
お決まりの屈辱に対し、声を荒げて反論する。「僕は女なんかじゃない!」
すると、思いもよらずマジュリカさんの口から信じがたい言葉が飛び出した。
「おまえの体にはあるべき場所に男の印がついていなかったように記憶する」
堂々と言い放たれ、僕は真っ赤になってうろたえた。
「なんですって? あなたは、僕の裸を見たんですか?」
「いや、直接的にではないが。初めて会ったとき、気絶したおまえを介抱した際に、なんとなく、いろいろわかったというか……」
やり場のない憤りをどこへぶつけたらよいかわからずに、僕は顔を蒸気させたまま複雑な面持ちで黙り込んだ。
マジュリカさんは近くに置かれていた木製台座の地球儀に手で触れて、それを意味も無く回転させながら言った。
「まあ、私の記憶違いということも充分にありえるな。お世辞にも胸は大きくなかったし、おまえが自分を男だと主張するのであれば、そのように扱ってやろう。だがね、スカー。私はおまえの緋色の髪を見て、男であろうが女であろうが、どっちにしろ『スカーレット』と名づけることに決めていたのだ」
マジュリカさんは回転を続ける地球儀に一層強い力を加えた。すると、海に散っていたはずのいくつかの島々が、まるでひとつの巨大な大陸であるかのように僕の瞳に映りこんだ。
世界は昔こんな風に繋がっていたのだと、教授が言っていたことを思い出した。夜空にきらめく星々が今以上に輝いていた時代。世の中にあたりまえのように魔法が溢れかえっていた時代。
『世界ってやつは、私たちが思っている以上に広いんだ。そして、おまえはいつか必ずそいつを知ることになるだろう』
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