雪ぐ炎 2

 大通りには人があふれていた。寝ぼけ眼の者も、背丈ほどある荷物を負う者も、一様に同じ方角へ流れていく。ぼそぼそと交わされる会話のほかに、赤子の泣き声や幼子の親を呼ぶ声がしきりと耳に届く。リセアはヤナの手を握りなおし、流れの合間に身を差し入れた。前方に学堂の白い壁がそびえている。門まで十分もかからないだろうと思った。少し歩いたところで腕を引かれるような感触に視線を落とす。ヤナが半歩後ろで足を重たそうに動かしていた。

「ヤナ」

 驚いたようにヤナが頭を上げる。頬がわずかに青白かった。

「少し休む」

 リセアはそう告げ、人の波を掻き分けて道の端にたどり着いた。壁に背中を預けて軽く目を閉じる。学堂に着いたらヤナを安全な場所に留まらせる。オルダの研究室であれば彼女も安心するだろう。自分はニオヴェの魔術の手がかりを探らねばならない。莫大な量の書物から目当てのもの探し当てるには何日を要するか知れない。それまでにまた襲撃があったら――よりによって学堂が狙われたら、今度はどこに身を隠すか。いや、そもそも身を隠すべきなのか。

「リセアさん」

 リセアは思考を止めた。ヤナの生気を取り戻した顔があった。

「わたし、もう大丈夫です」

「そうか」

「リセアさんは大丈夫ですか?」

「ああ」

 歩きかけ、リセアはふと目を細くした。前方で人の流れが滞っている――否、押し返されて揺れている。学堂から続々と人が出てきて、避難に押し寄せる人々と真っ向からぶつかっているようだった。止まるよう懇願し、痛いとわめく声が切れ切れに聞こえる。リセアの前を過ぎる女が、何かしら、と独りごち、ざわめきがさざ波のように広がった。

「ヤナ」

 ヤナがまっすぐにリセアを見た。

「この大通りを避けて叔父さまの家に戻れるか」

「はい」

「案内してほしい」

「分かりました」

 あそこを通りたいです、とヤナが指を差した。大通りの半分ほどの幅の、行き来のまばらな道だった。リセアは再び人混みを押しのけて進みはじめた。耳のそばで鳴る舌打ちを無視し、通りを横断し終えようとした時、男の叫びが耳に飛び込んだ。

「化け物だ」

 リセアは反射的に学堂の方角を見た。ヤナの手に力がこもった。

「学堂に化け物がいる!」

 人の流れが、まるで巨大な石を投じられたように乱れ、大波のようにうねった。なおも進もうとする者、立ち止まる者、恐慌を起こす者がない混ぜになる。レウァンツの闘技場が頭をよぎる。リセアは罵声を浴びながら道をこじ開けた。振り返ることもかなわないままヤナの名を叫ぶ。強く、痕が残りそうなほどに手を握られた。

 引っぱられて留め金の壊れそうになる外套を引っ張り返し、足をくじきかけては人を押し返して跳ねのける。リセアは転がるように大通りを脱し、根深い草を抜くようにヤナを引きずり出すと、その勢いで尻餅をついた。ヤナが座り込んで胸を大きく上下させる。髪を結んでいた紐が取れてなくなっていた。

 人いきれから一転して鋭い冷気がのどを刺す。リセアは咳き込みながら呼吸をなだめた。親子が二人を怪訝そうに見ながら歩いていき、大通りの様子に立ち尽くす。その横を強張った顔の何人かが過ぎていく。それを追うともなく追っていたリセアの視線が別の人影に行き当たり、釘づけになった。数軒先の窓の下に男がうずくまっている。リセアは脈が一つ大きく鳴るのを聞いた。糸で引き上げられるように立ち、歩みを進める。ヤナの足音が小走りにやって来て追いついた。

 男は熱病に冒されたように震えていた。リセアは男の前に立って口を開いた。

「ニオヴェ」

 男はどこかを見つめたまま歯を鳴らし続ける。リセアが再び呼ぶと、肩をびくつかせて顔を上げた。

「違う、俺はもう」

 リセアは男を見下ろす。審判を待つように怯えた表情だった。頬の肉が削げ、落ちくぼんだ眼窩の中で眼差しが揺れている。あるいは本当に病を得ているのかもしれなかった。

 眼差しがようやくリセアを捉えるや、

「お前」

男の顔に驚きが閃いた。

「まさかイゴルの娘か」

「あの化け物を止めろ」

 リセアは努めて声を静めた。

「仇を取りに来たか」

「止めろ。今すぐに」

「できない」

「お前の術だ」

「違う。今はもう、違う」

 男は何度も首を振った。

「どういうことだ」

「契約は破られた。あれは俺から名前を奪い、獲物から魔力を奪った――あれはもう自由だ。災いそのものが野放しになった」

「なら私が契約して従える」

「無理だ。契約するすべは失われた。それに、お前にはすでに力がある」

「力?」

「魔力だ。この力は魔力を持つ者を拒む」

 男の目に憎悪の光が灯る。

「これは魔術とは違う。俺とイゴルが生み出した、力に焦がれる者のための力だ」

 胸の奥が冷たくおののき、問い返すことも、呼吸さえも忘れていた。

「俺は魔術を叩きつぶせる力が欲しかった。あいつも魔術に代わる力を望んでいた。俺たちは長い時間を費やし、血反吐を吐くような思いをしてついに編み出した。ここではない世界の者を呼び寄せて従える――魔術にはない、魔術の達し得ない領域だ。だが、あいつがふざけたことを言いはじめた。この力を本当に操っていいものか、本当に操れるのかなどと。俺には分かった。俺を怖気づかせ、その間に力を独り占めするつもりだと。俺はあいつに先んじて契約した。俺に応えたのがあの怪物だった。俺はあれに憎しみを与え、あれは俺に力を貸すと誓った。そして――」

 男が息を吐いた。

「お前を取り逃がしたのはマリエラのせいだ。奴はお前を逃した上に俺の記憶を封じた。俺は力のことも、お前や奴のことも忘れ去った。だが、奴も代償を払ったらしい」

 男が唇を歪めて笑う。

「お前も奴のことを――」

 しわがれた声が途切れ、のどから笛のような音が鳴る。男の首に細いものが巻きついていた。男が首を掻きむしってもがく。その体が地面を離れ、ゆっくりと吊り上げられた。リセアは脈が速くなり、体が震えるのを感じた。暴れだしそうな憎しみのためか、恐怖のためかは分からなかった。建物の最上階近くに、男に絡みつく糸を操る何かが張りついている。何か、否、夜の闇をも圧倒する深い黒の巨躯。目をこらせば、八つの赤い目が地上を睥睨していた。

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