6章 雪ぐ炎
雪ぐ炎 1
「あの鳥はチオイユキといって、背中だけが真っ赤なんですよ」
マリエラが細い指を掲げた。木立を見上げれば、すぐそこの梢で白い小さな頭が動いている。リセアは背伸びし、体を傾けるが、見えるのは頭と腹ばかり。マリエラが掲げていた手を差し招く。すると梢がお辞儀のようにしなり、鳥が二人の目の前まで降りてきた。
「すごい、本当に真っ赤!」
リセアは息を呑む。鳥が跳ねて梢を行き戻りする。
「遥か昔、戦が続いていた頃、敵に囲まれた将軍が、愛する者に最期の言葉を届けようとしました。そこに通りかかったのは真っ白な鳥。将軍は鳥を呼び止めて伝言を託しました。鳥は伝言を聞き、行くべき町の方角を聞き、一言一句違えずに繰り返しました。なんと頼もしく賢い鳥か――将軍は血のついた手で鳥の背中をなでました」
「だから背中が赤いのね!」
リセアは密やかに声を弾ませた。マリエラが目を細め、リセアの頬に触れる。
「将軍は敵に命を奪われました。鳥は町をめざして飛びましたが、将軍との約束を果たせたかは分かりません」
「分からないの? どうして?」
「うんと昔のことですから」
「将軍と鳥が約束したことは、今もこうして伝わってるのに」
「そうですね。きっと皆、いつか忘れてしまったのでしょう」
リセアはなおも続けようとし、けたたましい鐘の音に遮られた。梢が揺れる。白い羽ばたきが森を抜け、家の屋根を通り越して去っていく。リセアは目を覚ました。近くの鎧戸を細く開ける。外はまだ暗かった。窓から顔を突き出して通りをうかがう者、道で隣人と言葉を交わす者がちらほらといる。物音に部屋を振り返ると、オルダとヤナがそろって起き上がったところだった。
「この鐘は」
「避難の合図だよ」
オルダが答えた。
「これが鳴ったら学堂に行くことになっているんだ」
「わたしたちも行きますか?」
ヤナが顔をくしゃくしゃにしてあくびを噛み殺す。
「そうした方がいいね。カミーロのところに寄ってからにしよう」
スープの残りを温めないまま飲み、三人は家を出た。大通りに出ると、学堂の方角へと人の流れが生まれはじめていた。警吏や揃いのローブの魔術師がそこここに立って、周囲を油断なく見渡し、あるいは光や灯火を掲げている。
「近くにいるんだよ」
オルダがヤナの手を握った。ヤナがリセアを見上げ、もう片方の手を差し出した。リセアは手を握る。細く、しかし思っていたよりも大きかった。
警吏から訝しげな視線を受けつつ、人の流れに逆らう。ゆうべ蜥蜴の現れた場所を過ぎた。石畳の黒い点が血痕にも凹凸の生む影にも見えた。魔術師を迫害し、己が魔術師でないと叫んだ男。その言葉が嘘でなければ、男はなぜ蜥蜴に食われたのか。蜥蜴の、ニオヴェの狙いが魔術師であるという推測は間違っていたのか。
大通りを外れて小さな住居が集まる一角に入った。人気はなく、地面に埋められた〈明かり石〉だけがぼんやりと光っている。リセアは拳ほどの大きさの灯火をつくってオルダに渡した。
「カミーロさん、もう学堂にいるかもしれないです」
ヤナが言った。
「そうだね。それなら私らも安心して避難できる。向こうで会えるといいんだけど」
オルダが応え、やがて足を止めた。二人で住むにも窮屈そうな家だった。
「カミーロ」
たっぷり一呼吸を待った後、オルダが扉に手をかける。蝶番が軋んで扉が開いた。暖炉には火が入り、蝋燭も灯されていて、狭い居間が不自由なく見渡せた。机には本が開かれたまま置いてある。
「カミーロ、いるかい」
オルダが奥の寝室へ入っていく。リセアが一歩動いた時、細く甲高い声があがった。机に置かれた小さな檻で、鼠に似た生き物が鳴いていた。
「トッピノっていう名前です。怖がってます」
ヤナが生き物をのぞき込む。トッピノは茶色い毛を逆立て、せわしなく走っては鳴き続ける。
寝室から出てきたオルダが首を振った。
「やっぱり、もう避難してるみたいだ。私らも行こう」
浮かない顔で檻を一瞥し、ヤナがオルダの背中を追う。リセアも踵を返した。椅子の背もたれに見覚えのある防寒着がかかっていた。
リセアが外に出ると、オルダが軒先に立って一点を見ていた。戻るべき道とは逆の方向だった。リセアは地面に点々と埋め込まれた〈明かり石〉を目でたどる。十歩も進めば行き止まりのようで、木の輪郭がおぼろげに立っていた。
「先生?」
応えぬまま、オルダが意を決したように踏み出した。リセアは歩きだしながら、新たに一つ灯火をつくり、顔の高さに浮かばせる。ヤナがリセアの腕に身を寄せた。
足音と鐘の音だけが聞こえていた。一歩ずつ進む。乾いていた足音が行き止まりの手前で、ざり、と湿り気を帯びた。オルダがしゃがみ、灯火を持つ手を伸ばす。ヤナが息を呑む細い音がした。血だまりの中で木にもたれて座る男がいた。胸から腹にかけてを深く裂かれ、傷をのぞくように頭を垂れている。
「カミーロ」
静かで虚ろな響きだった。オルダがカミーロの口元に手をかざし、胸に耳を押し当てる。そして身を離すと、震える指で頬に触れる。瞬間、リセアは後ろへよろめいた。目の前を風が横切った。ヤナの悲鳴が響く。蜥蜴がオルダの脇腹を鉤爪で貫き、煉瓦の壁に縫い止めていた。黒い足が動き、鉤爪が深くねじ込まれる。オルダの口から血が飛び散った。
「やめて!」
ヤナが懐から何かをばらまいた。
「走って! 速く――!」
角ばった灰色の小石が蜥蜴にぶつかる。乾いた音を立てて鱗に弾かれ、それきりだった。ヤナがオルダに向かって駆けだす。すると、緩慢に揺れていた蜥蜴の尾が獰猛にしなった。リセアがヤナの外套をつかみ、二人そろって倒れ込む。尾はヤナのいた場所を鋭く薙いだ。
蜥蜴が赤い目でオルダを見つめ、ゆっくりと頭を傾けた。鉤爪がさらに深く刺さり、肋の間がこじ開けられる。オルダが泡混じりの血を吐いた。顔の鱗にかかった飛沫を舌が舐めて取る。
「リセア」
吐息と紛うような声だった。
「ヤナを頼むよ」
ヤナがオルダに駆け寄ろうとする。リセアはそれを後ろから抱きしめるようにして押さえた。蜥蜴が涎の滴る口を開け、庇うように出された右腕に噛みついた。何度も食らいつき、引きちぎろうとしてふいにとどまる。まるで風向きの変化に気づいたかのように。リセアは脂汗にまみれたオルダの顔を見た。オルダは蜥蜴を見据え、青ざめた唇を開いた。
「鎮まれ――硬く、もろともに」
言葉が終わるや否や、蜥蜴が金切り声を発した。オルダの右腕が解き放たれてだらりと垂れる。蜥蜴は胴をくねらせ、頭と尾を振り乱すが、壁にまで刺さった鉤爪は容易に抜けない。その鉤爪が沈んだ灰色に塗り替えられた。鉤爪から足、胴から尾の先までをことごとく灰色が覆い、鱗もざらついた表面に変わる。天に向かって口を開けたまま蜥蜴が硬直した。オルダが安堵の色の微笑を浮かべる。ヤナがのどから引きつった声をあげた。オルダの肌や服、髪が、蜥蜴と同じ灰色に移ろっていく。つやのない硬さを帯び、やがて凍ったように動かなくなる。ヤナがいつの間にかリセアの腕をすり抜け、オルダにしがみついていた。
「ヤナ」
反応はない。リセアはもう一度呼びかけた。ヤナが泣き濡れた顔で振り返る。
「行けるか」
ヤナは何も言わずオルダに向き直る。少ししてから腰を上げた。
「あったかかった」
リセアはヤナを見下ろした。
「先生、硬いけどあったかかったです。きっとまだ生きてます。助けたい。助けなきゃ、わたしが」
リセアは手を伸べる。ヤナが目を拭ってから背筋を伸ばし、リセアの手をとった。
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