光を抱く者 2
目抜き通りを越え、劇場や見世物小屋の並ぶ界隈を走った。
「あそこです!」
ハンネが振り返らないまま叫ぶ。雑踏の流れに従い、逆らい、やっとのことで円形の建物に飛び込む。ゲルトが扉の脇に立っていた。
「坊主は上だ」
「一体どうしたんですか?」
「さっぱり分からん。いきなり走りはじめたんだ。追いかけたらここに着いた」
「何か言っていたか?」
リセアが尋ね、ゲルトが首を横に振る。
短い坂を登りきると視界が開けた。薄暗いすり鉢のような空間で、底に広がる舞台を囲んで客席が何段にも重なっている。人がひしめく上に窓が少なく、汗ばむ肌に湿り気のある熱がまとわりついた。
「これを見たかったわけじゃないと思いたいけど――」
足を止めないままハンネがつぶやく。高い柵越し、観客の注視する先に二頭の獣がいた。リセアはわずかに瞠目した。一方は足枷をはめられた大きな狼だった。ところどころ抜け落ちた黒い毛につやはなく、体はただ耐えるように細かく震えている。もう一頭は猫に似た姿で、狼よりも二回りほど大きい。悠然たるたたずまいとは裏腹に、眼光はすでに狼を穿っていた。
「お嬢さん!」
ゲルトとハンネが客席のさらに上方、建物を一周する廊下へと進んでいた。リセアは外套を翻して追いつく。
「あそこだ」
ゲルトが目で示す。リセアが頭をめぐらせるのと同時に、
「紳士に淑女、そしてろくでなしの皆々様!」
太い声が轟いた。客席で指笛が鳴り、煽る声が飛ぶ。舞台へせり出した一角に派手な衣装の男が立っていた。腹まで垂らした首飾りに緑色の石がはめ込まれている。
「此度はわたくし赤毛のバスイル、そしてリドガが務めさせていただきます。どうぞよしなに!」
歓声が再び闘技場を揺るがす。バスイルが小さく手を挙げると獣が長く吠えた。整った毛並みの間から、緑色の石のちりばめられた首輪がのぞく。
「今日の獲物はこの狼」
奇妙な抑揚をつけてバスイルが言う。
「西の村では牛五頭、そのまた西で馬十頭、さらに人の子五十人! 底なしの腹にぺろりと収めた比類なき大悪党でございます」
「殺れ!」
「はらわたを引きずり出せ!」
闘技場に怒号や指笛が満ち満ちる。
「酷いことを言うわ」
ハンネが口に手を当てた。――そのとおりだ。リセアは奥歯を強く噛んだ。なぜ彼がこのような仕打ちを受ける。あの男の文句は何一つ真実ではない。彼女が何度も話してくれたではないか。誰をいたずらに脅かすこともなく、森で慎ましく暮らしていたと。自分が繰り返しせがみ、そのたびに聞かせてくれたではないか――
「――彼女?」
景色が、音が、全ての感覚が遠ざかった。彼女とは誰のことだ。母ではない。他に心当たりはない。記憶違いなのか? ――魔術に長けた者は、記憶を消し飛ばしたり封じたりすることもできると聞きます。トルドノの像使いはそう言った。あの夜だけでない、彼女に関する記憶もが葬られたというのか。だとすれば誰が、
「なんのために、――!!」
床に転がっていた。背中を丸めては仰け反り、頭を抱え、何かを蹴ってのたうち回る。頭の中で巨大な鐘が鳴り、棘にまみれた音をまき散らす。誰かが肩をつかんで叫ぶ。眉間の奥で氷に小さな亀裂が走り、雫を一つ落とした。客がどよめいているのは幻聴か。
「狼が増えたぞ」
「おもしれえ!」
「助けが来たってのか?」
「リセアさん!」
「どうした、しっかりしろ!」
視界に色が灯り、全てが正しく像を結んだ。目の前にハンネとゲルトの顔があった。背中がじっとりと冷えている。
「大丈夫ですか? どこか痛くは――」
「ティズ」
うわ言のようにリセアはつぶやいた。
「ティズは」
「さっきまであそこに――」
ゲルトが怪訝そうに言う。リセアは立ち上がった。どよめきは幻ではなかった。繋がれた狼の隣にもう一頭、低く構えられた黒い頭がバスイルに向いている。
「なんだお前は」
バスイルが太い指で首飾りを弄ぶ。
「それの仲間か? 一緒に食われに出てきたか、うん?」
若い狼が唸り、繋がれた一頭を庇うように進み出た。巨獣は変わらず目を光らせている。
「まあいい、一匹増えたところで屁でもないからな。リドガ、行け!」
バスイルが片手を前に突き出した。首飾りと首輪の石が呼び合うようにどろりと濁り、巨獣が吠える。そしてその体が躍るより早く、客席の片隅に灯る小さな光があった。男が懐から出した〈明かり石〉だった。何かを憎み、そして何かに怯えるように歪んだ口が開く。
「宴です」
脳裏の氷が高く鳴る。七年前に見たあの顔だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます