3 咲む雫
咲む雫 1
トルドノで合流した街道と川は離れつつ西へ伸び、アズリッツァで再びまみえる。アズリッツァは青い家をさす古い言葉を冠した港都だ。海鳥の飛ぶ下、この地方によく見られる大らかな印象の顔もいれば、西の大陸に多い気難しげな顔も少なからず交ざっている。
「しょっぱい匂いがするな」
ティズが鼻をひくつかせ、それから顔を引きつらせる。
「なあ、ほんとに船に乗らなきゃいけないのか?」
「そうだ。何度も聞くな」
「リセアは怖くないのか? 船から落っこちたら死んじゃうんだぞ?」
「海を渡らなければ叔父さまに会えない」
ニオヴェやあの夜のことについて知りうる唯一の存在が、父の弟であるオルダだった。父やベノシュから何がしかの便りを受けていた可能性がある。
「それに今を逃すと春先まで船がなくなる」
ティズが肩を落とした。
路地を縫って小さな広場に出た。中心には海の女神の彫像が白く映え、その周りで曲芸や手品が披露されている。人だかりから拍手やかけ声が起こった。
「リセア」
「なんだ?」
ティズが十歩ほど前方を指差した。男が人々を前に口上を述べている。
「あの人、匂うぞ。魔法の匂い」
リセアはさりげなく男に目をやった。台に登っているのだろう、観客越しに肩の辺りから上がのぞいている。三十を過ぎた頃かという容貌。淀みなく話す口元には、穏やかでありながら自信をうかがわせる笑みが浮かぶ。
その時、
「そこのお嬢さん」
男が長い指をリセアに向けた。朗らかな興奮に染まった視線が、一斉にリセアに向けられる。心の中で眉をひそめた時には、男が観客の間をすり抜けてきていた。
「そうです、あなたですよ。さあこちらへ」
男が恭しくリセアの手をとり、元いた場所へと戻る。ティズもまた期待に目を輝かせていた。
「アズリッツァに人多しと言えど、こんな素敵なお嬢さんにはそうそうお目にかかれません。出会った記念に何か差し上げたいのですが……そうだ、花なんかいかがでしょう。こんなところに咲いているわけがない? 何を困ることがありましょうか。今からこの瓶の中から花を出してご覧にいれます」
男がベルトに吊るしていた瓶の一つをつかんだ。なんの変哲もないガラス瓶と中身の水が、陽光を受けて輝く。
「ここから花が飛び出しますからね、お嬢さん、上手に受け止めてください。なあに、簡単です。手で器をつくっていただけますか? ――そうです、ありがとうございます。ご心配なく、服がびしょ濡れなんてことはありませんからね。
それでは皆さん、よろしいですか? 一瞬ですからお見逃しのないように。行きますよ――一、二の、三!」
男が瓶を勢いよく振り上げた。飛び出た水がいくつもの玉となって弧を描く。そしてリセアの手のひらに落ちた途端、蕾のように開き、薄く丸い花弁を連ねて咲き乱れた。リセアの近くで見守っていた人々が歓声をあげる。ついで男が観客の頭上に水を振りまいた。空中で雫が花開き、驚きや歓声が膨れ上がる。
水の花は男が一つ指を鳴らすと形を失い、リセアや観客の手から滴り落ちた。男が恭しくお辞儀をしてみせる。拍手や口笛が響き、男の足元へ硬貨が飛んだ。
× × ×
船は中型の商船に手を加えたものだった。船員が顎をしゃくって示した部屋は、十人ほどで窮屈になる大きさで、すでに何組かが荷物を広げていた。ティズがあぐらをかき、リセアも腰を下ろす。
「すごかったな、水の魔法。リセアもできるのか?」
「いや。水を操る術は珍しい。魔術の心得がある者でも大抵ものにならない。天賦の才だろう。得意かどうかは血筋で決まるとされているが例外も多い」
「へえ。詳しいんだな」
ティズがあくびをこぼし、同時に鐘が打ち鳴らされた。船が大きくゆるやかに揺れる。少年がはしゃぎ、母親にたしなめられる。
順調に進めば二月足らずで目的の港に着くという。リセアは壁にもたれた。ティズが再びあくびをする。少し日焼けした顔から血の気がひいていた。
「風を浴びてこい」
リセアが言うと、ティズは力なく唸りながら船室を出ていった。
窓がないため外の様子は分からなかった。絶え間ない話し声を聞き過ごすうち、リセアは揺れのなかに意識を手放していた。うららかな芽吹きの季節だった。誰かに手を引かれて森を歩いてゆく。柔らかな地面を踏み、日の光と混ざり合う土の香りを吸い込む。
名前を呼ぶ声がした。振り向けば、両親がゆったりとした歩調で少し後ろをついてきていた。リセアは手を振って応え、ついで隣の顔を見上げようとした。その時、つないでいた手に冷たい衝撃が走った。とっさに手を引く。しかしそこにふりほどくべき指先は残っていなかった。辺りを見回すが人影もない。風が一つ木々を揺らして去ってゆく。
うなだれていた顔を起こした。ティズが隣に座っていた。覚めきらない頭に船の軋む音が響く。リセアは軽く首を振った。
「外を見たらちょっと元気になったぞ。港がぐんぐん遠くなるんだ。海も意外と楽しいな」
ティズが歯を見せて笑う。リセアは右手の甲を唇に当てた。冷たさの名残りはなかった。
「夢を見た」
「夢?」
「家の近くの森で、知らない人と二人で歩いていた。顔を見ようとした時には相手は消えていた」
「ふうん。よく分かんないけど、怖い話じゃなくてよかったな」
リセアは短く応え、それから身を強張らせた。ふと落とした視線の先で黒い点が這っていた。細い脚をせわしなく動かし、板の隙間に潜ったかと思うと再び現れる。
「どうしたんだ?」
ティズが床に手をついてのぞき込む。
「あ、蜘蛛か。毒がないやつだと思うけど……大丈夫か?」
うなずきつつ、リセアは速い脈をなだめた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます