幕間 2
すがるように見上げてくる顔を蹴飛ばし、燭台を振り下ろすこと数度。老婆の目から光が絶えた。血にまみれた髪が白い額や頰に張りつき、おぞましい模様を描く。放り出した燭台が重く床を鳴らし、それきり狭い部屋は沈黙した。
忌々しい。その感情が男に巣食っていた。
忌々しい、何が? 行き倒れの自分を助けたこの老婆が? 男は自らの問いに首肯する。ではなぜ手にかけるまでに憎んだ? 答えを導こうとした頭を抱え、彼は亡骸の上に伏した。氷の棘を繰り返し刺されるような痛み。苦しみのまま叫び、床を転がり、椅子や棚を蹴りつける。痛みはしかし、とぐろを巻く憎悪の前に溶けて流れ去った。
「そうだ」
解放されたことへの喜びと昂揚を全身にみなぎらせ、男は部屋を悠然と眺めた。棚を埋める書物、まじないの書かれた壺、壁に立てかけられた杖。薄暮の光に照らされるそれらは全て、魔力を操るためのもの。
「殺さねばならなかったのだ――その力ゆえに」
欠片の情けも与えず消し去る。裁きよりも残酷に、かつて彼ら自身がしてみせたように――否、それよりも惨く。そのための刃を自分は手に入れたではないか。今となっては自分だけが振るうことのできる、力を凌ぐ力を。
男の脳裏に黒い渦がわき起こり、待ちわびていたかのようにうねりの只中へ誘う。この感覚さえも忘れていた。
「我が刃よ。久方ぶりの晩餐だ」
床に伸びた自らの影が立ちのぼり、形を成した。八つの赤い目に光が灯る。彼は天井に触れるほどの黒い体を見上げた。
「殺してまだ間もない。薄汚い肉だが食べるがいい」
――人よ。
夕日射す空気を震わせることなく、悪魔は言葉を発した。昂揚はあっけなく霧散した。男は思わず身をすくませる。
――貴様はあの女の力に囚われ、長い時をいたずらに費やした。身に刻みつけた恨みも忘れ、我への誓いも反故にした。よって罰を与える。
「罰だと?」
――貴様の名を我が名とする。我に貴様の名を捧げよ。
「し、しかし」
彼の踵が亡骸の腕に触れた。
「お前たちがこちらで名を持つことは――」
悪魔の体を覆う細かな毛が震えた。赤い目が炯々と、熱い毒を滴らせんばかりに輝く。男は亡骸を踏み、よろけながら後ずさりした。壁に背中をぶつけ、そのまま身を押しつける。
――今より貴様の名はイガンテ。我らが言葉で〈縛られる者〉。我は名を得たり。我が名はニオヴェ。
蜘蛛の姿をとった悪魔は高らかに告げた。男は震えながら何度もうなずいた。悪魔が上顎を閃かせ、亡骸の腹を裂く。臓物を口にすすり込み、肉にむさぼりつく。後には血だまりのみが残った。
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