第23話 白いの、術をやぶられる
白髪を風が嬲るに任せ、
白い髪に白い肌、纏うは涼やかな狩衣……そして狐面。これで町中を歩いて目立たぬわけがない。若い娘はもちろんのこと、いい歳をしたどこぞの奥方やお歯黒を染めた老婆までもが、追儺の姿を目に映すや、横の知人の袖を引く。
しかしそれは、ただ歩いていればの話。そぞろ歩きもままならないというのは、よほどのことでなくば動じない追儺といえども閉口する。そこはさすがに仙狐の追儺、姿を消すなどという大掛かりなものではなく、人の目に留まらない方法をいくつか知っていた。
今使っているその方法は、狐にいわせれば術というほどのものではない。袖の中で、ただ人払いの印を結べばよいのだ。呪文を唱えたり道具を使ったりしなくてもよい分、効力は控えめであった。追儺を知る者はもちろん、狐の妖怪もしくは狩衣姿を探している者には通用しない。
もっと幅を広げていえば、竜笛を吹ける者や、そんじょそこらにはいない美男子を探している者があれば、見破られてしまうであろう。つまり、「追儺」に因む言霊を心に思い描く者には、力が及ばないというわけだ。
白い狩衣姿は
ややあって、追儺の眼前に広がっているのは、堀に囲まれて夕闇に赤々と輝く廓であった。
さかのぼること二十年、
さらに、廓そのものを美玉の直轄とし、新たに「郭奉行くるわぶぎょう」なる役職を設けた。郭奉行はすべて女で、遊郭に勤める遊女らが無体な扱いをされぬよう、厳しく目を光らせた。また、身を売る女――いわゆる遊女と、それ以外の芸妓や湯女を明確に分かち、互いがその領分を跨がぬよう気を配った。
合わせて私娼や岡場所を厳しく取り締まったため、その後一年を待たずして、飯盛女や湯女の類いはことごとく消え去った。店の種類にも幅をもたせ、きれいどころが酒の相手をするだけの「
竹薮を抜け、川を渡って廓にゆくかと思いきや、狩衣姿は風流な様子で裾を翻し、来た道を少し戻った。もう少し日が落ちればまず見落としてしまうであろう脇道に入り、坂とも石段ともつかぬ起伏だらけの道をゆく。
ほどなくしてふいに目の前が開けると、まず飛び込んでくるのは飾り気のない鳥居。そして小さな社だった。その両脇には、宝玉を咥えた狐の像が鎮座している。
物の怪の類は神や仏の領域に立ち入れぬというのは間違いではない。ただしこの場合はべつ。同じ狐の眷属ということで、受け入れられるのが常であった。
高く伸びた竹と豊かに茂ったその葉が頭上を覆い、日が高く昇っていてもすごしやすそうである。風が吹けば、木葉が奏でるのとは違う趣のざわめきが、心地よく耳を打つ。今宵はここで明かすのも悪くはない、追儺がそう思ったときである。
「まぁまぁまぁ」
前掛けをした女が、ころころと笑いながら鳥居を潜って近づく。美人ではないが、その優しげな笑顔を好ましく思わぬ者は少ないであろう。乳料理屋〈あわ雪〉のおかみ、お
追儺は振り返って面の下で薄く笑み、浅沓が砂利を踏む音ひとつさせずにお園へ歩み寄る。
「おやおや、見つかってしまったね。逢魔が時にこのような風体の者に声をかけるとは、豪気な人だ。悪しき物の怪だとは思わなかったのかい?」
「あら、そんなはずありませんよ。あたしゃてっきり、ここの神様のお使いかと思ったんです。そのお顔が」
言ってお園は、左右に並んだ狐の像を指差した。
当たらずとも遠からず、追儺は心中でそう呟き、笑うしかない。人払いの印を結んでいたその身を見出したのだから、それなりのわけ――多少なりとも追儺その人に関する――があるには違いないのだ。その赤い瞳がわずかに細く形を変えたが、狐面のその下で起こったこと。気づく者はいない。
「お稲荷さんのお使い、ね。よく言われるよ。修行中の身だから、俗世の人とは少し、違うかもしれないね」
お園はそれに笑みを返した。返したが、そのときにわずか、不安とも慄きともつかない心の揺らぎがあったのを、追儺は感じた。人の心の機微に聡い狐でなければ、決して気づかなかったであろう、ごく些細なものであった。
「なるほど、何か悩みを抱えているようだ」言って目を伏せれば、お園の帯にきつく締めこまれた金子が見えてくる。「ご息女のことかな」
「あら……」
口に手をやり、その後は続かない。お園は半歩後退って、張子細工の白い面をまじと見た。
「まろでよければ話を聞くけれど?」
すぐに胸の内を吐露しようはずのないことは元より承知。風が一頻りそよぎ、からすの一群が鳴き交わすほどの間があった。
「明日、一人娘が異国へ旅立つんで、旅の薬売に天狗様の妙薬を届けてもらうことになっていたんです。でも、届かなくて……。届け先を忘れちまったのかと町中の宿を当たったんですが、どうも町に着いていないみたいでねぇ」
帯に締めこまれた金子は、娘に持たせる薬を買うためであったか。天狗の妙薬といえば、効力絶大なことで広く知れ渡っている。手に入れたいと願う者は多いが、天狗もそうやすやすとは分けてくれぬようで、その数は少ない。人のみならず、妖物の中でも欲する者が後を絶たないという。
薬売はおそらく、小栞宿にたどり着く前に、山賊か化け物に襲われ、約束の品を奪われてしまったのだろう。それで妙薬の類いを工面できる者はいないかと捜し歩いていたのだとすれば、人払いの印を結んだ追儺の姿が見えたことも頷ける。
「わかった、それならば力になれそうだ。まろは見てのとおり、些か仙術を心得ている。天狗殿のものとそっくり同じというわけにはゆかないけれど、少々の霊薬ならば作れるよ。何に効く薬が欲しいの?」
「長い船旅になるんで、船酔いにならない薬を頼んでいたんです」
「ああ、それなら大丈夫。作れるよ」
追儺が請け負うと、お園は驚いた顔のあと微笑んで見せて「よろしくお願いします」と頭を下げたが、心の底に凝った影はいまだ晴れない。思いすごしであればよいが、この種の読みを己が決して過たないことを、狐はよく承知していた。
なにより、白月しらづきの里を出る前夜に母親が言っていたのを思い出す。「子を思う母の心は、百年のときを越え、千里の道を隔ててなお断てぬ、強きもの」。御簾越しにしか言葉を交わしたことのない母ではあるが、その心は等しいのだ。人も獣も妖も。お園の不安は、真実娘の身に迫った影を、母親の勘で察したと見て間違いなさそうである。
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