恋患う狸の煩わしきこと

第13話 短いの、患う

 諸々の出来事より、七日前のことである。


 その日の朝方に、薄汚い雲水が小栞宿こじおりしゅくに現れた。

 汚れ放題な菅笠を目深にかぶり、擦り切れて垢染みた法衣をまとうありさま。どこからどう見ても、立派な乞食坊主である。


 坊主は西番所の木戸門までやってくると、西町からよく見とおせる場所を探して歩き回り、慎重に定めたあるところで宙返りを行なった。

 白煙が立ち込め、晴れた後にあったのは、坊主ではなく地蔵。色褪せた前掛け、所々苔が生す様など、見事な化けっぷりである。


 半刻ほど経ったころ、木戸門から十王橋じゅうおうばしを渡って、一人の娘が地蔵のほうへと歩いてきた。娘盛りに向かって花開く手前の、十代半ばにようやく差し掛かったころと見受けられる。

 身に着けているのは、一昔前では晴の日にさえ目にすることはなかったであろう、極彩色で花鳥をあしらったら羅甸織らてんおりの小袖。緩やかな広がりをみせる裾は、「朝顔作り」と呼ばれるものであろうか。当世、若い娘たちの間ではやっている「西様にしよう」の出で立ちに違いない。鬢を短く切って垂らし柔らかく結われた南蛮髷には、上等ではないが趣味の良い、水鳥の羽根をあしらった簪が揺れていた。

 いまだ幼さを残す顔立ちながら、長い睫毛にうち煙る目元と、小振りながら形の良い唇には、すでに色香の片鱗を窺い知ることができる。どこかの店で働いているのだろう、手には大きな桶を持ち、町外れの百姓家まで買出しにゆく風情であった。


 娘は道端に地蔵があるのを目にすると、「まあ、こんなところにお地蔵様が」と声を上げた。

 すぐさま木戸門の内へ取って返し、次に現れたときには、片手に竹の包みを持っていた。簪を揺らしながら駆けてきて、地蔵の前で息を弾ませつつ包みを開く。中には、うまそうな握り飯が三つ並んで湯気を立てていた。それを地蔵に供えたあと、娘はどこぞの畑に向かって猛然と駆け出していった。


 駆けてゆく娘の後ろ姿を見送ってから、地蔵は再び白煙に包まれ、僧形の男へと戻った。

 坊主は菅笠を上げて、娘が見えなくなった辺りに目を凝らす。色黒の顔の上で、墨で描いたように堂々たる太い眉が寄せられる。どんぐり目が一際大きく見開かれたせいで、歌舞伎役者を思わせる面構えになった。


「これまで、後ろめたいなどと思ったことはなかったが……」


 たとえば、木葉を金に替えて使ったことを封国鳥獣連ほうこくちょうじゅうれんに知られれば、鬼火責めか泥抱きの刑は免れまい。だがこの男の行ないは、鳥獣諸法度ちょうじゅうしょはっとにより禁じられているわけではない。

 それでも、まんまと朝餉をせしめたのを喜ぶ気になれないのはどうしてだろうと考える。


 乞食坊主は手の中の、握り固められた艶やかな米の固まりに目を落とす。

 この握り飯をこしらえたのは、あの娘なのだろうか。あの娘のたおやかな手が飯を握りかため――そう思ったとたん、男の顔色が妙な色合いに変わった。元々色黒なため、朱が差すとどうしてもどす黒い顔になるのである。


 鷲掴みした握り飯を一つ、三口でたいらげる。それから小走りになって、残りの二つを少々味わって食いながら、男は娘の後を追う。

 何かしら礼がしたくなったのだ。


 雲水が西様の娘に追いついたのは、とある百姓家にある厩の裏手であった。

 ところが、様子が穏やかではない。待ち伏せていた与太者二人が娘の前後を塞ぎ、絡んでいるではないか。


 乞食坊主はすかさず飛び出し、二人の与太者を片手でねじ伏せ……というわけにはゆかなかった。

 身に着けているものといえば、汚らしい法衣に黒ずんだ菅笠くらいのもの。与太者らがこれ見よがしに懐からちらつかせる匕首と渡り合うには心許ないうえ、これは本人の性分なのだが、切った張ったが大の苦手であったのだ。


 終いからいえば、僧形の男は娘を逃がすことはできた。大声をあげながら与太者二人へ掴みかかり、脱兎もかくやの速さで逃げ出したのである。

 この男、こう見えて、国元では名の知れた韋駄天であった。本気で尻を捲くったときの逃げっぷりといったら、飛脚も鮎担ぎも裸足で逃げ出すほどだという。

 このときも、乞食坊主の健脚は冴え渡った。


 よいところを邪魔立てされた与太者らが、頭に血を上らせたのはいうまでもない。手に匕首を抜いて追いかけてきた。あとはもう、雲水の思う壺だ。まいてしまっては意味がないので、ほどよいところで蹴つまづいたふりをして足を緩める。垢染みた襟を掴まれる瀬戸際で、再び疾く駆ける。これを繰り返して与太者二人を小栞宿から大きく引き離したうえでうずくまり、あとは野となれ山となれ。

 与太者らの気がすみ、高笑いで去っていったときには、元々みすぼらしかった坊主の身なりは襤褸布のようなありさまになっていた。


 ほとぼり冷めたころ、あの西様の娘が街道脇の草むらからまろび出てきた。涙声で礼を言い、小洒落た着物に血や泥がつくのも構わず、引きずるように乞食坊主を家に連れ帰ったのである。

 すっかりのびてしまった男は、そのまま裏口から娘の家に運び込まれ、煎餅布団に寝かされた。


 娘は汚らしい僧形の男の鼻血を拭いてやり痣に薬を塗りこんでやりと、甲斐甲斐しく世話をした。

 娘の家は料理屋を兼ねた宿を営んでおり、その日のうちに傷の癒えた乞食坊主は、店主が宿代は要らぬというのを固辞し、以来金を払って逗留している。

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