夜桜の腕(よざくらのかいな)

吉野茉莉

夜桜の腕(よざくらのかいな)

「私、もうじき桜になるの。あの満開の桜みたいに」


 彼女は、私の前でそう言った。たぶん、微笑んでいたのだと思う。

 その真意を掴めずに、掴もうとすることから逃げ、私は昨日みたいな曖昧な顔で頷いた。


 それが気に障ったのか、彼女は目を細めて、融けるような夜の闇に手を伸ばした。私と同じ群青色の服の袖がするりと下がり、折れそうな腕が覗く。円を描いて白皙の指を持て余している。スカートの下からは、ほっそりとした足が伸びていた。


「ほら、こんなに、きれい」


 彼女が指すその言葉が彼女自身なのか、それとも花弁を無遠慮にまき散らす桜なのか、またも私は判別できず、立ち尽くすしかなかった。


 もうこうして二人きりで一時間は立っている。私は、彼女が準備をするのをただじっと見ているだけだった。彼女は丁寧に、一つ一つの動作が神聖なものであることを示すように作業している。彼女と私にとっては、これは儀式そのものだった。鞄に忍ばせていた麻縄を捻ったり捩ったりして、強度を確かめている。十分に確認したあとで、一際太い枝に縄を括りつけた。どこにそんな力があるのだろうかと不思議に思ってしまうほどに、彼女は淀みなく易々と準備を整えていく。


 彼女が動くたび透き通る肌に花弁がまとわりつき、彼女を媒介としなければ、重力にさえ従うことができないかのように、音もなく回転して落ちていく。彼女の言うように、その細い腕が桜の枝になったかのようだった。しわのない、真っ白な腕は、むしろ本物よりも似合っていて、私は途方もない痛みを胸に感じていた。


 月と星が私たちと桜を照らしている。


 空々に浮かぶ彼らも、今この場所ではただの照明でしかない。瓦斯灯はすでに沈黙し、辺りからは人気もなくなっていた。私たちを非難するものは誰もいない。静かに、ただ見守っているだけだ。


 本当にこれでいいのだろうか。


 何度目かの疑問とも問いかけともとれない思いが浮かぶ。


 私と彼女は宿直の教師に咎められるまで教室で過ごし、最後の門を出てから、通学路を少し離れた場所にある桜並木へと来ていた。

 並木といっても散歩道として日中通る人がいるくらいで、もとより活気のある通りではない。現に、ここにきてからの間、数人すれ違っただけだった。彼らはこんな時間まで制服を着て出歩いている私たちを訝しげに見るも、何も言わず関わりたくないと通り過ぎていった。


「本当に?」


 私の質問に彼女は肯定も否定もしない。鴉色の艶やかな髪が風に揺れていた。そこにいるだけで一枚の絵になってしまいそうで、私は溜息を漏らしてしまう。


 今さら彼女の決心が変わるとは私も思っていない。また、実際には彼女は決心と呼べるほど思いつめてもいないのだろう。


 誰それのお父さんが戦地で亡くなったとか、どこそこの地域が空襲で壊滅状態であるとか、新聞が伝える成果とかかけ離れている話が、私たちの周りでも伝えられてきていた。そのたびに、私たちに閉塞感がひしひしと押し寄せてきたのだ。


 得体の知れない焦燥感。


 それが、学校中を澱のように支配していたのは事実だけれど、彼女の行動の直接の原因になったわけではもちろんないだろう。彼女は、昔からこんな危うい気質を抱えていた。


 主な発言や行動に可笑しなところがあったわけではない。だからこそ、日常生活を送れていたのだろう。級友たちも、彼女に対して特に不審に思っていた様子はなかった。少し無口な深窓の令嬢として距離を置いていたとしても、直接的に忌避するようなことはなかった。それゆえに、私のように深入りすれば、細かな異常さが目につく。薄らとした寒気はどうしたって取り除くことはできない。彼女の言葉の端々から、死について語るときの妙に熱を帯びた口調や、体を寄せ合うときの申し訳なさそうな乱暴さから、拭いきれない狂気を孕んでいるのを私は感じていた。


 それをわかっていたのは、他でもない私自身だけだ、と半ばうぬぼれていた。


 そして、それに私が惹かれていたのは間違いない。それが恋と呼べるものなのか、私にはわからない。今日で、永遠にわからなくなってしまうだろう。


 ただ、彼女を独り占めしたい、と願っていた。そう思う分だけ、私は現実から目を背けようとしていたのかもしれない。


「本当よ、私、もう桜みたいだわ。あなたもそう思うでしょう?」


「そうじゃなくて……」


 そうじゃないとしたら、一体何なのだろう。私は彼女がこれから為そうとしていることに大手を振って賛成したわけではないけれど、ただ共感はしていた。それも選択の一つだと、私は思っていた。だから、誰にもこのことは言わなかったし、私自身が立ち合おうと決めたのだ。


 桜が私たちを包み込むように、根を下ろしている。私たちの背丈の何倍もあるその桜は、この桜並木のなかでも群を抜いていた。物言わぬそれは、私が想像できるよりも遠い昔から、この場所にいるのだろう。他とは明らかに違う、異質をまとって、私の胴ほどもある枝を何本もしならせ、まるでここだけを世界を切り離すために囲いを作っているかのようだった。


 爬虫類のような生温い風が吹くたびに、桜は身を削り、時おり私と彼女の間に絶対的な距離を作るために薄紅色の幕を張る。


 だから、私は彼女に触れることができない。


 彼女の体温を、感じることができない。


 私には、許されていない。


 彼女は、すでに桜のものだった。


「だけど」


 私は精いっぱいの勇気を振り絞って、彼女を呼び止める。


 そうしなければ、今にも彼女は花弁にくるまれて、私の目の前から永遠に離れてしまいそうだった。吸い込まれて、見えなくなってしまいそうだった。


 私の、大切な人。


 私が嫌いだった私の栗色のはねっ毛を、とても綺麗だと笑ってくれた人。


 どこかで、私はまだ躊躇をしている。彼女がここに、この世界に留まってくれることを期待している。


 そして、彼女も躊躇している、と思いたい私がいた。


「だけど、それで、いいの」


 彼女は、私の言葉なんて無意味であることを、幼子に諭すように、優しい声で紡ぐ。


 わかっていたことだったのに、わかろうとしていたのに、彼女の唇は、私に真っ直ぐに絶望を与える。


「そんな、でも」


 悪あがきだってわかっている。


「だいじょうぶだから、もう」


 彼女は揺るぎない。


 ああ、もうだめだ。


 彼女は、桜に囚われてしまった。


 体だけでなく、心までも、桜と繋がってしまった。その硬い枝の中に鮮やかな花弁を内包している木のように、彼女の細い体の芯にもびっしりと花弁が詰まっていて、窮屈そうにしているそれは今にも溢れだしてしまいそうなのだ。


 繋がれた無骨な縄のように、桜は彼女と同化しているのだ。


 つぶれてしまいそうな痛みを押しのけて、私が手を伸ばす。


「あなたも」


 彼女は、差し出した手を掴み、絡める。もはや温度のない彼女は、私を見据える。


「ほんとうは、こんな世界、なくなっちゃえばいいと思っていたじゃない」


 彼女は、笑っていた。


 私の知らない笑い方で。


 それは、まさしく、桜の魅力そのものである、妖艶さでもって。


 紅潮した頬が、彼女の無垢な瞳を一層際立たせて、私をかき乱す。


 彼女は、もう彼女ではない。


 だけど、身悶えするほど美しいのは、彼女が桜の化身になってしまったからだ。


 確かに、いつかの自分はそれを望んでいただろう。彼女に共感していただけかもしれないと言われればそれまでだとしても、今でも心の奥底で望んでいないと言えば、きっと嘘になってしまう。


 それなのに、それを、私は認められない。


「だから」


 彼女が絡めた指を弱々しくしっかりと繋ぎ、一気に引き寄せる。


 冗談めいた、昨日のふざけ合いの続きみたいに、彼女の吐息が私の髪にかかる。


「いまならまだ」


 彼女の指が私の腕を遡り、私の耳を塞ぐ。


「間に合うから」


 頭を寄せられ、彼女の唇に触れる。柔らかい彼女の唇が、同じものとは思えない私のかさついたものから離れ、耳元まで這う。ぬめりとした感触がくすぐったかった。


「ほら、あなたも、桜に」


 ざわざわと、彼女の言葉が全身を駆け巡る。


 蔦が浸食していくように、ゆっくりと、ゆっくりと、つつ、と指を滑らせて、私の首を押さえる。


「あ、ああ」


 真綿を絞める手つきで、愛おしいものを撫でる仕草で、彼女は首を絞める。出口を防がれて、胸に息が溜まる。


 彼女が望んだ。


 私を道連れにすることを。


 幸せなことに。


「桜に、なりましょう」


 夢中で彼女を受け入れようと目をぎゅっと閉じる。彼女と同じ、桜の枝になれるのなら、それはきっと幸せなことだ。ただ、順番が違っていただけ。彼女と一緒にいれば、遅かれ早かれ、こうなる運命だったのだ。


 そう、覚悟をしたのに、私の体は、あっさりと裏切り、彼女の慈悲を拒絶した。


 咳き込み、口元を抑え、彼女の腕をはねのけ、無意識に一歩、二歩、あとずさる。


 彼女は、私をじっと見つめる。


 失望の色を明々と瞳に浮かべ、無言で非難のまなざしを向けた。


 違う、違う、と声に出せず、声にならないのは喉が詰まっているから、と弁解しようとするも、それも私の体が邪魔をする。


 本当は。


 あなたと、一緒に。


 信じて。


 彼女はゆっくりと口を開け、今や虚空となった喉の奥を鳴らした。


 風がざわざわと、彼女の代弁をする。



 私は急に何もかもが怖くなって、彼女に背を向け、その場から走り去る。


 次の彼女の言葉を聞くのが、堪らなく怖かった。


 土を蹴る音だけが、響く。服がひらひらするのも構わず、一心不乱に足元だけに集中する。


 乱れる呼吸の中に、甘い匂いのする、桜の花弁がするりと忍び込む。彼女の唇のような、とけてしまいそうな甘さに、唾を飲み込む。彼女が、おいでおいでをしているみたいだった。私は振り返らず、花弁を噛みしめて、逃げる。


 彼女は、もう彼女ではない。


 あれは、ただの魔物だ。


 そう言い聞かせて、何度も言い聞かせて、納得させて、距離を取る。それでも、背後に彼女が立っていて、あの細く白い枝で、私を抱きかかえてしまいそうな感覚からは抜け出せなかった。


 どれだけの時間と距離を費やしたのか、私は一人になり、深く、肺の中身を全て吐き出して、この罪悪感から逃れるような深呼吸をした。


 ゼエゼエと、醜い呼吸が、私がまだ生きていることを思い知らせる。


 甘い香りは、もうしなかった。



 そして、彼女は正真正銘、桜になった。


 あれ以来、私があの桜並木を歩くことはない。それどころか、桜でさえも避けて通り、春が来るたび憂鬱に囚われる。

 

 それは、いつでも彼女の温かい呼吸を、甘い唇を、白い腕を感じてしまいそうだからだ。


 夢の中で、ときどき彼女が私に問いかけることがある。


「私についてくるべきではなかったのか」


 と。


 そのたび、私は憔悴し、苦笑いをし、拳を握りしめ、甘い花弁を口一杯に詰め込み、逃げ出す。夢だとわかっていながら、目が覚めて、いつも安堵し、そして、彼女の存在自体が実は夢の産物で、彼女なんて存在しないのではないかと空想し、刻まれた首筋の痣に触れ現実に打ちのめされ、一人嗚咽を漏らす。


 彼女は桜となり、一人で、今でも私を待っているような気がするのだ。


 それを確かめる術は、今の私にはない。


 ただ、その時は近づいているだろう。


 夢の中で逃げ出すとき、決まって彼女のとろけそうな最後の言葉が聞こえ、耳の奥でじんじんと嫌らしく、されども心地良く残るのだ。それが徐々に、確かに、重く、優しく、甘くなっていくのを感じているのだ。


 決して離さない、と彼女が美しく囁く。




「いくじなし」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夜桜の腕(よざくらのかいな) 吉野茉莉 @stalemate

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ