第3話 拘置スペース101
「出ぁせぇ! 出せってば! 出しやがれゴルアァァァァ!!」
ガン、ガン、と叫びに合わせて響く音はぴくりとも動きやがらないドアを蹴る音。
一旦足を降ろして、肩で息をした。
「っ……くっそ! 何なんだ、一体!」
悪態をついたところで、状況は変わらない。真っ白なドアを睨みつけてしばらく、大きく息を吐き出した。
「……よし、少し落ち着こう。ビークールだ、成海宝良。……あー、ビーグルって可愛いよね」
脳内で子犬サイズのやつがキャンキャンと嬉しそうに吠える。それをやっぱり脳内でわしゃわしゃ撫でまくる。
思考が思いっきりずれた。が、とりあえず気持ちは少し落ち着いたところで、ここまでの経緯を振り返ってみる。
「何故かわたしは気を失っていて、気がついたらこの建物の中にいた。出口を探して歩いてようやっと階段とエレベータを見つけた。ただしエレベータには呼び出し用のボタンがなかった。階段を使おうと思ったら銃を持った真っ白い連中に囲まれた。そのまま歩かされて、この中に押し込まれた……っと」
振り返ってみてもやっぱりさっぱり分からなかった。もう分かりきった事だったので、いちいち悩む事も落ち込む事もしない。
「階段、五階分くらい降りたよね。あそこ結構上の階だったんだなー」
呟きながら、一切反応しない目の前のドア兼壁に手をあてる。コンクリートの冷たさではなく、機械的な冷たさがてのひらから伝わってくる。
「手をかけられるところナシ、っと。やっぱ自動ドアだよね、これ。……開かないけど」
そもそも、わたしがこの部屋に押し込まれる際、わたしを囲んでいた連中はドアを開けるために何かの動作を取るという事はしなかった。つまりこれは何らかの条件によってオートで開くようになっているはずだ。
わたしがこうしてドアの真ん前に立っていても反応がないので、通常の自動ドアとは条件が違うのだろうが。あるいは遠隔操作。電車の扉のほうが近いのかもしれない。
「で、ここは何の部屋なんだろうなー」
手を壁に添えながら、慎重に歩く。ほんの少し歩けば角に突き当ってしまった。そのまま壁伝いに進み続けると、そんな事がもう三度続く。ドアの部分だけ少し凹んでいるので、指先が少し奥にずれた事で一周した事を知る。
「何これせっま!」
実際何畳あるのかなんて分からないが、少なくともわたしの部屋の半分もなさそうだ。
「手足伸ばして寝ころべるかも怪しいな……いや、こんなまぶしいとこじゃまともに寝れそうにないけど。あーもー目が疲れた! 明かりのスイッチもないとかどんだけー!」
一周する間に、慎重に壁を観察しては見たが、白くて真っ平らなだけだった。通路と違って、フラワーラインもない。ただひたすらに白い壁、白い天井、白い床、そして白い照明。
「……あ、そだ。傘使おう、傘」
一度はバッグにしまった折りたたみ傘を、もう一度取り出して開く。しゃがんで体を小さくして、小さな傘の下で目を閉じる。
「あーあぁ……ここはどこなの、何でわたしは閉じ込められてんの、どうしたら出られるの……」
言葉にするほど気持ちが滅入る。
おまけに、最初は存在しなかったピンチ感が足元から脳までひしひしと駆けあがってくる。
「普通じゃない、絶対普通じゃないってここ。突然銃口向けられるとか、なにそれSFかっつーの……まあ突然問答無用で撃たれるよりずっとマシなんだけどさ。そもそもわたしが何したってんだよ……不法侵入? 不法侵入なのか?」
しかしそれならそう言って出口まで連れて行ってくれればいいのに。何故にわたしは閉じ込められた。
「それにあいつら……ホント何なの」
閉じた視界に浮かぶのは、髪も肌も服も白い、銃を構えた集団。
「ここどこですかって聞いてみても、こっちを見もしやがらねえ。……まあそれはいいけど、いやよくないけど、とりあえずいいとして。仲間内ですら何にもしゃべんないし。アイコンタクトすらないし。……いやあいつら目隠れてたけど」
十人以上から成る集団。目を疑うほど、揃った足並み。彼らに囲まれて歩くのは、とてつもなく奇妙な気分だった。行進中の軍隊の中に紛れ込んだら、同じような気持ちになるかもしれない。
目が隠されていたせいだろうか。その役割を果たす機械的なカバーのせいだろうか。
「――人形、みたいだったな」
それが、かなり率直な感想だった。
人の形をした無機物。
人間に対して、そんな事を思うのは間違っている。分かっている。けれど、とっさに抱いた感想は、嘘をつかない。
「……呼吸、してたかな」
いまさら思い返してみても、分からない。呼吸なんて、当たり前すぎて気にしていなかった。
もしも彼らが呼吸をしない、なんらかのシステムによって動く人形やロボットだったとしても、わたしはそんなに驚かない気がする。
「……まっさかねえ」
そんなSFちっくな展開、あったらまず自分の頭を疑う事になりそうだ。
なんて考えていると、
――シュン、と短い音を立ててドアが開いた。
「……うな?」
ぽかんとしている目の前で、ドアは再び閉まってしまった。
しまったー! と心の底から叫びたくなった。それを胸の内だけに留めたのは、この狭いスペースに新たに入り込んできた、二人の存在があったからだ。
どちらも、やはり白い。短く切り揃えた白い髪で、同じデザインの白い服を着ている。もしかしなくても、これは彼らの制服のようなものなのだろうか。そしてやはり、目を隠すように機械的アイテムをセットしている。
体格から考えると、どちらも男。わたしよりずっと背が高いし、なにより胸の膨らみがない。いや、制服の一環なのか、ちょっと堅そうな、しかしそれほど重くもなさそうな胸当てらしきものをつけているから、そこだけでは断言できないのだが。腰回りなどにも、女性特有の丸みがないように見える。
というわけで、二人とも男決定。男ってことにするぞ、文句は聞かない。
一人は銃をわたしに向けたまま直立していて、もう一人はボードらしきものを手にしている。
どことなくピリッとした空気の中、ボードを持った男の口が動いた。
「識別番号を答えよ」
思ったよりも響きのいい低音が、狭い室内の空気を振動させた。
「……なんだ、しゃべれるんじゃん。てかイイ声してますねお兄さん」
あまりにみんなして無言だったから、もしかして会話っていう文化が失われているのかと思った。まあ冷静に考えれば、複数の人間が生活してる中でそんなトンデモ現象が発生するわけもない。
「識別番号を答えよ」
ボードの男が淡々と繰り返した。
……識別番号?
「えーっと……何ですか、ソレ」
「識別番号を答えよ」
「あの、ちょっと心当たりないですね。ていうか識別番号って何ですか」
「識別番号を答えよ」
わたしが何かを言う度に、男はひたすら同じ言葉を繰り返す。
……前言撤回。やっぱりこいつらロボットなのかもしれない。
「なんっだこれ……番号答えなきゃ他のセリフ言わないってか? ノベルゲーの選択肢じゃあるまいし。てか選択肢が見える分ゲームって親切!」
「識別番号を答えよ」
「えー? んじゃ、二十三番」
とっさに出たのは、自分の出席番号だった。言ってから携帯電話の番号なんかも浮かんだけれど、一番に浮かんだのはこれだった。識別というからには唯一の番号だろうから、毎年ころころ変わってしまう出席番号よりも携帯電話の番号のほうがよほど適切だったかもしれない、いやいや個人情報うんちゃらの問題もあるだろう、などと考えていると、
「――照合結果、エラー。その識別番号は存在しない」
「ですよね!」
むしろ出席番号が通ってしまったら、そっちの方が驚きだ。
「識別番号を答えよ」
振り出しに戻った。さてどうするか。
少し遅れて、個人番号なんてものもあったことを思い出した。これなら確かに、「個人を識別する番号」だろう。
しかしわたしは、人間を表す番号を識別番号などと読んでいる人間に出会ったことがない。
少し前からマイナンバー制とか言って国から個人に番号が付けられた。両親から「届いたよ」と言われただけで、そういえばまともに確認もしていなかった。これがわたしを表す唯一の番号と言えばたしかにそうなのだが、確かあまり他人に教えていいようなものではないはずだ。それこそ、携帯電話の番号よりずっとヤバイ。
もっとも、答えようにも知らないんだけど、番号。ちらっと見ただけじゃ記憶に引っかかりもしない。そもそもしっかり見ていたところで、あんな長ったらしくて意味のない数字の羅列、覚えていられるほど記憶力良好ではございません。もしそれができたら暗記系科目の成績もっとよかっただろうに。
「……はー、無理。ないです、ないでいいですーう」
半ば投げやりに答えた。
これでもまたループしたらどうしようか、と考える。そんなわたしの目の前で、男はボードの上に手を滑らせた。
「対象、アンノウンと確定。暫定番号、IR‐1を付与」
「……はいぃ!?」
わけが分からず声を上げるわたしにはちらりとも目を向けず、二人の男は並んで部屋を出て行った。あまりの展開に、思考が十秒ほどフリーズ。
「――っておぉおい!? それだけ!? それだけかよちょっと!? もうちょっとこう、こっちの情報引き出すとかないわけ!? ないのか! 何しに来たんだよあいつら! つかあいつらにはあっさり開きやがってこの腐れドア! 特別なセンサーでもついてんのかこんにゃろう!!」
立ち上がって、最後にどげしっとドアを蹴りつけた。金属質の高い音がして、足の裏から微妙な痺れを感じた。
どんなに文句を吐き出しても、相手は物言わぬドア。うんうん酷いねと同調してくれる声も、まあちょっと落ち着こうかとなだめてくれる声もない。
肩で息をして十秒。再びその場にしゃがみ込んで両手で頭を抱えた。今はため息を吐く心的余裕もない。
「……まいった。どうすりゃいいんだ、これ……」
出た声は、自分でも分かるほど弱り切っていた。
色々想定外すぎる。
「しかも何だ、《アンノウン》て……いや、分かるよ? 正体不明って事だよねきっと。バトルものなんかでは所属分かんない敵対する存在に使うよね、そうだよね。わたしの名前も出身も聞かなかったくせにっていうかわたしが何したってんだよー!!」
泣きたい。というかすでに目尻には涙が浮いている。それを感じ取って、ぐしぐしと目尻をこすった。
「……落ち着け、落ち着け成海宝良。そうだ、ビーグルで癒されるんだ」
想像上のだけど。実物ここにいませんから。
キャワキャワと楽しげに駆け回る想像上のビーグルに和んで、ほうっと一息つく。
頭から手を離し、浮いていた腰を床に落ち着ける。膝に額を当てて、目を閉じる。
「よく考えろ……考えるんだ。今、わたしが一番しなくちゃいけないことは……」
いや、考えるまでもなかった。
「――『ここから出ること』」
出なきゃいけない。激しくそんな気がする。
ここがどこなのかなどの疑問は、すべて後回しにすべきだ。この場所も、あいつらも、わたしが置かれている立場も、すべてが普通じゃない。
「むしろ色々ヤバ気でゲスはい……」
よし、方向性は決まった。
「問題は、どうやってここを出るか、だな……」
目を開き、顔を上げ、わたしには一切反応しない自動ドアを睨む。
狭い部屋の中。出入り口はあの自動ドア一つと見ていいだろう。しかし、肝心のドアはわたしの存在を拒絶するかのように反応しない。
「……ならぶっ壊せばよくね?」
我ながら不穏な言葉が口から飛び出した。
「しょーがない。それ以外になさそうだし」
立ち上がり、折りたたみ傘をまたバッグの中にしまう。
とはいえ、この案もなかなかに難しい。わたしはすでに何度もあのドアを蹴りまくっているが、びくともしていない。普通に考えれば、普通の女子高生の脚力でどうにかなるものではない。
「……だからって諦めて大人しくしてるような宝良さんではないのだよ!」
ふはははは、と無理やり高笑い。
できるかどうかなんて分からない。というか不安しかない。ドアを壊す前に、無茶な蹴り方をすればわたしの足が壊れる事も考えられる。
それでも、やる。
「やらなきゃおしまい。やれば事態は変わるかもしれない。……どんな結果になるにしろ、やれるだけの事はやっとかないと、後悔してもしきれないもんね! うっし! ファイトだ、成海宝良!」
両手で拳を握り、気持ちを鼓舞する。スクールバッグには肩紐が二つついている。バッグを背中側に回し、左右の肩に一本ずつ肩紐を引っかけリュックのように背負って、ドアとは反対側の奥の壁に寄る。狭い空間だから大して助走もできないが、ないよりは勢いがつくかもしれない。
白い光に負けずに目を凝らしてドアの位置を確認し、一息ついて体勢を整える。痛みを想像して、覚悟する。
「せぇ……のっ!」
自分を奮い立たせるためのかけ声を合図に床を蹴飛ばし、
――シュン、と開いたドアに驚いて足がもつれた。
「ふべっ!?」
無様なまでに顔面からすっ転んで声を上げる。
「は、はにゃぶった……!」
床に倒れたまま鼻を押さえ、手をすぐさま確認。血は付いていない。鼻血まで流すという間抜けは犯さなかったらしい。いや、顔面から床に突っ込むのも十分間抜けだが。
「いやそれより! 何事じゃー!?」
先程閉じたばかりで、わたしには一切反応しないはずのドアが開いたのだ。驚かないわけがない。
倒れた体をがばりと音がするくらい勢いよく起こし、最初の目標だったドアを見る。
白いドアはすでに元通り閉じていて、その真正面には、一人の男が立っていた。
先程の二人と同じように短く切り揃えられている髪の毛。あの二人とも、わたしをここに押し込んだ連中とも違った。
まず、目が隠れていない。外気にさらされている瞳は、わたしからしてみると色素が薄すぎて色がないようにも見える。あえて色の名前をあげるならグレーか。しかし強い照明の影響で白くも見える。ていうか、よくこんなぎらぎら眩しい場所で平然としていられるものだ。
髪の毛も瞳と似たような色をしている。先程までここにいた二人も髪の毛は同じ色だった。あの二人の瞳もやっぱり同じような色なのかもしれない。
そして、服装。色が白という点は変わらないが、デザインがこれまでの連中のもとは違うようだ。見たところ銃器類は持っていないようだし。代わりになのか何なのかは分からないが、腰には先程の連中のものよりも大きめのポーチがくっついている。
手を覆っているのは、スマートなグローブだ。他の連中もグローブははめていたが、やつらのは殴られたら痛そうな、手甲としても機能しそうなものだった。
顔のつくりは綺麗だし、全体的にすらっとしたラインで、バランスはよさそう。一言で表現するなら、美形だ。異国風美形だ。
それにしても、白い。
頭のてっぺんから足の先まで真っ白だ。白づくめ。黒づくめならよく聞くが、白づくめなんて初めて見た。そもそも日本人は髪の毛が基本黒だし、肌の色もこんなに白くないので、白づくめの格好をするとどうしても違和感が生まれる。目の前の彼に関して言えば、髪も瞳も、おまけに肌も白めなので、違和感ゼロ。むしろ無駄に似合う。
彼は立った状態で、床に座り込んでいるわたしを見下ろしていた。
うっかり彼の姿をまじまじと観察してしまったけど、どうも彼のほうもまじまじとわたしのことを観察しているようで、視線があっちへこっちへと動いている。
「え、いや、え、ちょ……そういやわたし今すっ転んだんだったー! マジ恥ずかしい、何これホント恥ずかしい! あとじろじろ見ちゃってごめんなさいもうしません!」
まあ鼻血を出さなかっただけマシだった、と思う事にする。
それはともかくとして。わたしが恥ずかしさにうろたえてみても、目の前の彼は相変わらずわたしを観察している。
「……あの、ちょっと……?」
「…………」
「ぜ、全力無視ですかコノヤロー! もーいい加減にしてよ、声かけてんだからちょっと何か返事でもしたらどーなのさ!?」
ここに来てから、蓄積した不満が爆発する。
気を失い、気がついたら一人きり。突然無言で銃を突きつけられるし、狭い部屋に閉じ込められるし、先程の二人とは会話も成立しない。不安と心細さが、限界間近だ。
神様のボケナス、わたしが何をしたって言うんだハゲ。
じんわりとまた目尻に涙が浮かび始め、
「――了解した」
低く澄んだ声が、耳を打った。
思わず、きょとんとして目の前に立つ彼を見上げる。当然ながら、彼はすでに口を閉じている。
「……今、『了解した』っつったの、アンタ?」
「アンタとは、私の事か」
「それ以外に何があるのさ……」
「初めて聞く言葉だ。――返事をしろ、と言われたので、返事をした。何か問題があるか」
「……や、ないけども」
正直、喚いたところで彼が反応してくれるなんて、露ほどにしか思っていなかった。
彼の口調は淡々としていて、冷たい。けれど、それでもよかった。
ここに来て初めてできたまともな会話に、心が満たされるのを感じる。こんな程度で、なんて安上がりと自分でも思わなくもないが、ここまでの惨状を思えば仕方がない気がする。
「……わたし、宝良っていいます」
「……タカラ」
とりあえず、初対面の定番で自己紹介。彼はわたしの名前をを静かに繰り返して、
「タカラ……変わった識別番号だな。いや、そもそも番号が含まれていない。それは識別番号ではないな。識別番号は何だ」
「アンタもかこんにゃろう!!」
一瞬にして、先程まで感じていたあたたかな感覚は消え失せました。結局識別番号か。
いやいや、挫けるな、ここで挫けてはいけない、成海宝良。これはチャンスだ。今までの連中と違い、彼とはどうにか会話が成立しそうな雰囲気だ。ここで諦めたら、わたしの道は閉ざされる。多分。
そう考え、返す言葉を探してみた。
「……。そういうあなたの識別番号は何でしょうか?」
「私はAD‐O‐78402-7‐J‐46108だ」
「へえぇー、識別番号ってそういう感じなんだー」
思わず感心して、
「……ないわ」
笑おうにも笑えなかった。
「えぇっと……AD……O……なんだって?」
「AD‐O‐78402‐J‐46108。別に記憶する必要はない」
「うな? そなの?」
「個体識別に必要なだけだ」
「や、それは確かにそうなんでしょうけどもね」
まあ、識別番号というのはあくまで番号のようだし。普通そういった情報はコンピュータに保存されていて、必要な時はそこの情報と照合するのだろう。
そもそも、本人が記憶しておく必要性もあまりない気がする。少々複雑なようだし、長いし。わたしに発行されているはずのマイナンバーでもそうだが、こういうのは口頭で伝達するものではなくIDカードのような媒体を利用するのが常道ではないだろうか。もっとSFっぽく考えるなら、カードに番号が書かれているのではなく内蔵のチップとかそういうものに記録されているとか。
彼がすらすら暗唱してしまったのは非常に不思議な事だ。しかし、さほど重要な事でもないだろうと思った。
「じゃあ名前は?」
「…………」
「…………」
「…………」
返事がない。
聞こえなかったのかと首を傾げて、もう一度尋ねてみる。
「名前は?」
「何の話だ」
彼は真顔でそう返してきた。わたしの方は嫌な汗だらだらだ。
「……ちょ、え? 名前だよ、名前! あなたの名前!」
「私に名前はない」
そう、彼は至極あっさりと、さして重要でもない事のように答える。もちろんわたしはそれに仰天する他ない。
「んな馬鹿な!? じゃあ普段なんて呼ばれてんの!?」
「《マザー》は識別番号を使う。《マザー》以外私を呼ぶものはない」
「は? マザー……って、お母さん?」
「何だそれは」
そう言う彼は、やっぱり真顔だった。嫌な汗は止まらない。
「何って……お母さんだよ、お母さん。アンタを生んだひと」
「……『オカアサン』も『ウンダヒト』も、初めて聞く言葉だ。それは何を指している」
「……え、何それ新手の冗談?」
「『アラテノジョウダン』とは何だ」
「わたし泣いていいかな、ねえ泣いていいかな!!」
小さな子供が疑問にぶつかり、そして答えを大人に求めているような純粋すぎる問いかけのまなざしに、気が遠くなったような気がした。
対する彼は、またも純粋な様子で、
「『ナイテイイカナ』とは何だ」
「どうしようどっからツッコミ入れていいか分かんない!」
「『ツッコミ』とは、」
「ちょっと口閉じてもらっていいかな!?」
「…………」
彼は開いていた口をぱたん、と閉じた。それでも、視線はわたしにいろいろ問いかけている。そんな目を向けないでほしい、むしろわたしがいろいろ聞きたいくらいだ。
名前がない。『お母さん』も『生んだ人』も分からない。存在を知らないのではなく、言葉自体が分からないらしい。かと言って、まったく言葉が通じていないわけでもない。おそらく、彼の持っている知識が不思議な具合に穴ぼこだらけになっているのだろう。
そのあたりはひとまず隅に寄せて、まず解決すべきは呼び名だ。会話をしようと思うなら、呼び名は不可欠だ。……名前があるって素晴らしい。いやない方がおかしいだろ、常識的に。
「……ごめん、もう一回識別番号とやら教えてもらえないかな……」
「…………」
彼の視線が物言いたげな色を濃くした。黙ったままの彼に首を傾げたが、すぐにその原因が自分であると気づく。
「もう口開いていいから!」
「……了解した。識別番号はAD‐O‐78402‐J‐46108」
「AD‐O‐784……ダメだ、無理、覚えらんない」
「記憶する必要はない」
それはさっきも聞いた。確かにそうかもしれないし、そうでありたい。
しかしだ。
「名前がないんじゃ、その番号で呼ぶしかないじゃん!」
それ以外に彼を表すものがないと言うのでは、仕方がない。
それにしたって、長い。覚えたとしても絶対言いづらい。呼びづらい名前なんてナンセンスだ。識別番号であって名前ではないのだから、これも仕方がないのかもしれないが。
「……待てよ? 番号?」
番号というのは基本的に数字によって構成される。実際、彼から聞きだした識別番号も、アルファベッドがまざってはいるが量的にメインは数字の方だ。
「そうだ、語呂合わせ!」
「ゴロアワセとは何だ」
説明めんどいからとりあえず無視する。
「ごめん、もう一回識別番号教えて!」
「……AD‐O‐78402‐J‐46108」
数字を聞きもらさないよう集中していると、末尾三桁が意識に引っかかった。
「末尾108? 108で合ってる?」
「そうだ」
「よしキター! ――《トウヤ》!!」
ビシッ、と人差し指を、彼に突きつける。彼は無表情のまま、しかしどことなくきょとんとしているような雰囲気が感じ取れた。わたしより年上に見えるが、その様子は何だか可愛い気がした。ちょっと機嫌が上昇する。
「名前がないならつけちゃえ! ってことで、アンタは《トウヤ》! わたしはトウヤって呼ぶからね。勝手に呼ぶだけだけど。わたしがトウヤって呼んだらアンタを呼んだって事! いい?」
「……了解した」
「んで、わたしは《タカラ》ね。タカラって呼ぶこと」
「了解した。……《タカラ》は識別番号ではなく名前なのか」
「その通り!」
「理解した」
とりあえず、コミュニケーションの第一歩、互いの呼び名は決定できた。やっぱり会話する以上は、「アンタ」とかではなく名前で呼び合いたい。
それにしても、名前がないというのはどういう事だろうか。人間が集団で暮らしている場所では、名前は必須中の必須事項のはずだ。名前がなければ個々を区別できない。いや、できない事はないかもしれないが、非常に回りくどくて面倒くさい表現になりかねない。識別番号という長くて覚えきれそうにないものがそれを物語っている。
そもそも、日本全国探したって名前がない場所なんて――、
「……あれ? そもそもここって日本?」
「『ニホン』とは何だ」
「言うと思ったよちくしょう!」
ショックは、ある。しかし今は、思ったほど取り乱していない。そこそこ冷静な気持ちでトウヤの疑問を受け止められた。
何せトウヤが、日本人に見えない。
わたしよりずっと白い肌。白に近いグレーの髪と瞳。光の加減でシルバーにも見える。絶対ない、と断言できるものは案外少ない世の中らしいので、日本人ではありえない、とは言わないが。もしかすると、「ここは日本です」と断言された方が驚いたかもしれない。
しかしここが日本ではない可能性も、また信じがたい。
「言葉通じてるもんなあ。つか外国だとして、いつの間に連れて来られたんだよ……わたし一般人だしなあ、拉致誘拐される理由が思い当らない……いや待てよ、トウヤが国の名前知らないって可能性もあるのか。うーん……トウヤ、ジャパンって単語も聞いた事ない?」
「ない」
即答だった。
名前がなかったり、お母さんを知らなかったりと奇妙なところがあるトウヤだ。あまり深くは考えない事にする。
「じゃあ、ここなんていう国か知ってる?」
「《ルーデル・ポリス》だ」
「……はいぃ?」
正直、「知らない」と返されるくらいの事は予想していたのだが。こちらが聞いた事もない単語が飛び出して来たので、思わず素っ頓狂な声が出た。
そう、聞いた事がないのだ。もちろん、世界の全国家の名前を記憶しているわけではない。が、とにかく聞いた覚えがない。だいたい今時、ポリスの名前を冠している国なんてあっただろうか。
どうすれば地元に戻れるかな、と少し逃避気味に考えながら、確認してみる。
「で、トウヤには名前がない、と」
「ない」
「『お母さん』って言葉を聞いた事がない」
「ない」
「『お父さん』、は?」
「それもない」
「……『家族』、は?」
「それもない。……これはタカラにとって有益な情報となり得るのか」
「……とりあえずわたしの中の前提条件がまるっとくるっとどんがらがっしゃーん!」
「何を言っている」
「何なんだよもう! 世界常識どこ行ったよ! 誰か連れて来いやあ!!」
そんな事、誰にもできやしない。しかしそれでも、言いたくもなる。
思い切り無視したトウヤを、改めて見る。無視された不満を見せもしない、温度のない視線が向けられている。
がっくり肩を落として、少し落ち着く事にする。
ここは日本ではない可能性が高い。また、トウヤからは普通に考えて知っていなければおかしい知識や情報が大きく欠け落ちている事がうかがえる。たとえここが日本でないにしても、おかしすぎるレベルで。
「……言い忘れてたけど。わたしにはその識別番号ってやつは、ないから」
とりあえず、マイナンバーとは違うはずだから、『ない』で確定でいいと思う。少なくともわたしの周辺にそんなスラスラ番号言える人間いないわ。
「……ない?」
「ないよ」
「そんなはずはない。カプセルの中で叩き込まれたはずだ」
「は? カプセル、の中?」
「我々は最低でも最初の一年をカプセルの中で過ごし、その期間に必要な知識を与えられる。識別番号もそうした知識のうちだ。ないはずがない」
「何の話だー!!」
真顔のセリフに本気ツッコミ。
つまりトウヤの言うカプセルというのは、わたしが慣れ親しんでいる薬のカプセル剤などではなく、人体を突っ込んであれやこれやするための装置的なものらしい。
どこのSFだ。
「…………」
「…………」
「……………………」
「……あの、さ。なんかいまいち伝わってない気がするんで、はっきり言わせていただきますが……」
「何だ」
「わたしはその、《ルーデル・ポリス》? とかって国の生まれじゃないんで、カプセルとか識別番号とか言われてもわけが分からんですよ」
「意味が分からない。この国のものでなければどこのものだというんだ」
「どこって、そりゃこの国以外の国でしょ」
わたしからしてみれば当たり前すぎる結論なのだが、トウヤはこの答えを聞くや否や、目を丸くした。
――なんだ、ちゃんと人間じゃないか。
トウヤは他の連中と違ってよくしゃべる。いろいろおかしい部分はあるが、言葉のキャッチボールはなんとかできている。目もちゃんと合わせてくれる。しかし、彼の言葉はすべてが淡々としていて、抑揚もない。感情が見えない。表情も視線も同様で、どこか冷たい雰囲気があった。だから、他の連中とは違うと思いつつも、やはりどこか人形のように感じられた。
しかし今、トウヤの表情が動いた。驚きを見せた。唐突に、彼が人形ではなく、人間に見えるようになった。
その事にそっと安堵の息をこぼした。
「……この国、以外……」
「そっ。ていうかこの国の周辺にある国の名前とか分かる? 知ってる名前ないかなあ」
しかし、トウヤはこの質問には答えてくれなかった。
「……どこからこの国に入った」
「へ?」
「どこから入った。門の開閉許可は《管理パーツ》か《武装パーツ》にしかおりないはずだ」
「いやどこからも何も目が覚めたらこの建物の中だったし」
「どこから入った」
「話を聞け! てか落ち着け! 無表情近づけんな恐いわ!!」
無表情のプレッシャーすごい。知りたくなかったそんな事。
わたしの出所がよっぽど気になるのか、トウヤはわたしの声なんて聞こえていない様子で、目線を合わせるように床に膝をついてずいずいと顔を突き出してくる。
「ちょ、近い、マジで近い! そのまんまいったらちゅーしちゃうぞ!? わたしは美形とちゅーできて役得って思えてもそっちはそうはいかんでしょ!? ……あ、いや待ってやっぱヤだ! ファーストキスは好きな人とがいいな!」
似合わないとか言うなし。乙女度マイナス評価のわたしだって花の女子高生だ。そのくらいの夢見てたっていいだろう。
「チューとは何だ」
「口と口がくっつく事だよ、この場合はわたしの口とトウヤの口がくっつく事!」
「理解した。問題ない」
「大有りじゃボケええぇぇぇえぇぇ――――――っ!!」
ますます身を乗り出してくるトウヤ。このままだと本当に口と口が接触しかねない。
わたしは素早くトウヤの口に右手を押し付け、左手でトウヤの肩を掴み、渾身の力でその体を遠ざけた。ようやく開いた空間に、安堵が胸に広がる。
「距離感大事! 近づきすぎ厳禁!」
「……何を言っているか分からない」
「極端に顔を近づけすぎるなって事! 話するにしてもこの距離で十分でしょーが!」
「……了解した」
わたしが手を当てたままなので、トウヤの言葉がもごもごしている。てのひらにトウヤの唇が当たってくすぐったい。
とりあえず納得してくれたらしいと見て、ようやく彼の口と肩を解放する。
「とりあえず、トウヤん中の前提がいろいろおかしい気がします! 今からわたしがここにいる理由の話するから、大人しく聞く事!」
「……了解した」
「よし」
それにしてもトウヤ、「了解した」言いすぎじゃないだろうか。これで何回目だ。
「――まず、わたしの出身は日本って国なの。日本では、そこで暮らすひとにADなんちゃらなんて番号振ったりしないんだよ」
「……」
相槌はない。質問もないようなので、続ける。
「わたしはそこで、学校に通ってて……そういや、学校って分かる?」
「……分からない」
「マジか」
少し不安になって聞いたのだが、どうやらその選択は正解だったらしい。
「えっとだな……学校ってのは、同じくらいの年齢の子が集まって一緒に勉強したり遊んだりする場所、かな?」
どうせ細かく難しい話をしたところでトウヤには通じないだろうと決めつけ、簡潔に説明しようとしたらこうなった。間違いなく勉強する場だし、友達やクラスメートと交流して社交性や協調性というものを育む場、だと思うのだが……。なんだかこの説明だと微妙に違うもののような気がする。
これでトウヤが理解できるだろうかと少し不安にもなるが、ひとまず次の段階へ進む事にする。トウヤに学校を理解させる事が重要なのではないのだから、無視していいはずだ。
「そんで、わたしは今日、学校から家に帰る前に友達と一緒に寄り道したんだよね。寄り道っていうのは、目的地に真っ直ぐ向かわないで、関係ない場所に立ち寄る事ね。……で、その途中から記憶がぶっつり途切れてんだよねー。何かあったんだろうとは思うんだけど、ホントに何も思い出せなくて。ここがどこなのかも分かんないしさ。そんな状態で銃なんか突きつけられちゃって混乱二割増しってなもんですよ。……そういや、トウヤは銃持ってないの?」
「……《管理パーツ》はシステムのメンテナンスが役目なのだから、携帯する必要がない」
「へぇー……ん? パーツ?」
首を傾げた。
パーツとは、部品の意。それは分かる。しかし今、部品の話などしていただろうか。そういえば、さっき「どこから入ったのか」と問い詰められたときにもそんな単語が飛び出していたような。
「パーツって、どれが?」
「私だ」
「……はっ?」
空耳かな。今、とてつもなく信じがたい言葉が聞こえた気がする。
「……パーツって、どれが?」
「私だ」
聞き直しても同じだった。
「……パーツ、っスか」
「パーツだ」
「……人間、では、なくて?」
「パーツだ。……『ニンゲン』とは何だ」
「ガチ泣きすんぞこんちきしょう!!」
真剣に、真面目に、冗談抜きで聞いてくるその純粋な瞳が恐ろしい。
いろいろと話が聞けるのはありがたい。が、これは完全に予想外だ。本当に何なんだ、ここは。
「……人間っていうのはね、頭があって首があって肩があって腕があって手があって胸があってお腹があって腰があってお尻があって脚があって言葉が喋れて理解できる生き物の事。一部例外はあるけど基本大多数はそういうものなんです」
別に言語中枢などに障害持ってしまったひとを人間じゃないと言っているわけではない。断じてない。これは単に大多数の話だ。これ大事。
「まるでパーツのような生き物だな」
「てゆーかそのものだから」
「いや、私はパーツだ」
「わたしには人間にしか見えん」
「パーツだ」
「堂々巡りかッ!」
これではキリがない。
到底納得はできそうにない。トウヤがパーツだなんて、意味不明にも程がある。が、わたしにとって重要なのはそこではない。本人がこう言い張っているわけだし、わたし個人としては彼の認識に非常に大きな引っかかりを覚えるが、この際それはゴミ箱にポイ、だ。
今わたしがすべきなのは、トウヤに自分が人間であると納得させる事ではなく、この奇妙な環境に関する情報をできるだけ多く引き出す事だ。
逃げるにしても、ここがどういう場所なのか分からなければ、何かあった時に正しい判断ができない。ただでさえ難しい事なのに。
「……もーいい、分かった。トウヤはパーツ、と。で? 何のパーツ?」
「《管理パーツ》だ」
「……えーっと、そうでなくて……。パーツって事は、何か大本のシステムがあるんだよね? 大きな装置みたいなものがあるのかな……。《管理パーツ》っていうのは、トウヤのパーツとしての役割でしょ? じゃあ、トウヤを含むすべてのパーツは、何のためにいるの?」
「目的を達成するためだ」
「目的? どんな目的?」
「《花を創る》事だ」
「……はな?」
思わず自分の鼻を押さえてから、いやいやこれは違うだろうと口の中でツッコミを入れる。
ここで、《花》が思い浮かぶ。花壇や野原に咲いた光景ではなく、この部屋に押し込まれるまでにさんざん眺めた、
「……通路に飾ってあるような?」
「そうだ。あれらはこれまで、この国で創った花だ」
あれで間違いないらしい。
創った花をカプセルみたいなのに入れて一種類ずつ並べてるという事は、まさかの標本扱いなのだろうか。あり得る。
それはともかくとして。
「へえ……うん、目的自体は悪くなさそうだな」
なんというか、きれいな目的だ。花はいい。きれいで、りんと咲き誇る姿は自然と気持ちを和ませる。
しかし、わざわざ創る、というところが理解できない。花は創らなくてもそこら中に咲いている。小さな野花だって、十分きれいだし可愛いと思う。いやでも、新種の花を開発する団体もあるらしいし。不可能の代名詞だった青いバラも、現在は開発可能となっている。そういう、特定の花を創るというのなら分からなくもない。……が、パーツなんて使うような事か、それ。
「どんな花を創るの?」
「どんな……」
「えーっと……種類とか、色とか……?」
「ない」
「……うな? ない?」
「新しい花を創る。創り尽くす。それがこの国の目的であり、パーツはそれを成しえるために作られるものだ」
「……はあああぁぁぁ!?」
あまりの事に言葉が出ない。探すけど、見つからない。結局出たのは、驚きを表すだけの無意味な声だけだった。
花を創る。その目的はとても美しく、崇高なものに思える。花はよく平和や幸せの象徴して扱われるものだし、大して関心のないわたしでも花畑を目の前にすれば何とも言えない感動を覚える。花自体に、ひとの心に訴えかける何かがあるのではないかと思うくらいだ。
しかし、新しい花を創るなんて。……創り尽くすなんて。
詳しくは知らないが、新しい花を創るという事は、既存の花々が土台になるはずだ。ぱっと思いつく方法は、とある花Aととある花Bの種子をかけ合わせるという方法。つまり、花の数だけ可能性はあり、新たに花が創られればさらに広がって行く。可能性は広がり続ける。限りなく無限に近い有限。
そこに終わりはあると言えるのだろうか。
「……トウヤは、管理パーツ、だっけ?」
「そうだ」
「管理パーツって、何すんの?」
「《マザー》のメンテナンスだ」
「マザー……そういやさっきも言ってたね、それ」
マザーと言えば、母親の事。だが、トウヤの中にはどうも《母親》という概念がない。おまけに、メンテナンスときた。彼の言う《マザー》も、彼同様の《パーツ》なのか。
……あるいは、トウヤよりもっとメインシステムに近いもの。
大規模システムの中核を担うコンピューターをマザーコンピューターと称する漫画や映画を見た覚えがある。もしかするとそういう意味の《マザー》なのかもしれない。
そうなら、マザーはただのシステムという事になる。わたしの中の重要度はいくらか低い位置づけになりそうだ。
「……じゃあとにかく、トウヤは新しい花を創るためにいて……それは他の人……パーツもそうなんだね?」
「そうだ。実際に新しい花を創るのは開発担当のパーツだが、花の世話をするパーツ、パーツを維持するために必要なものを製造するパーツなど、種類は様々だ」
「……この国、パーツ以外に活動してるひとはいないの?」
「この国はパーツとマザーと花で構成されている」
「……なるへそー、そうきたかー」
つまりここでは、パーツが国民という事になるのか。
「……んな国があってたまるか」
国民が国のために生きるというスタイルを、否定する気はない。国あっての国民、国民あっての国。そんな問答はどちらでもいい。というか、そんな難しい事はわたしには分からないのだ。
しかし、これはない。
ここは国ではない。こんなの、実体を持っているだけで、ただの《システム》だ。
トウヤが持っている知識にあり得ない穴がぼこぼこある事にも納得だ。彼の中には人権という言葉がない。人間がどういうものかも知らない。
パーツだから。ただの部品だから。
必要ないから。
真面目に考えると頭の中で怒りがふつふつと煮え立ってくる。
「ったく、どこのどいつだよ、こんな馬鹿みたいなシステム作り上げたのは! ちょっとトウヤ、このまんまでいいの!?」
「どういう意味だ」
このまんま、パーツとして役割を果たすだけの人生で満足なのか。そんな人生があっていいのか。わたしなら絶対嫌だ。
しかしトウヤは、何とも思っていない様子で聞き返して来た。
……まあ、本人が現状を苦に思わず、疑問も感じていないのなら、部外者なわたしが口を出す事ではない。
ものすごく釈然としないが。
「この国については、まあ分かった」
理解にはほど遠いが、少なくともわたしの常識がこれっぽっちも通用しない場所だという事は飲み込めた。それだけでも十分な収穫だと思う事にする。
次に気にかかるのは自分が置かれた状況だ。つまり、何故わたしはこんなところに閉じ込められてしまったのか。
「この部屋は何? めっちゃ狭いんですけども」
「ここは拘置エリアだ」
「うっわあ、不穏な単語来やがった……」
頬が引きつらせたが、トウヤはわたしの反応に構わず続ける。
「主に《イレギュラー》を拘束するために使用する。私も内部に入るのは初めてだ」
「イレギュラー?」
それは、耳慣れないというほど不思議な言葉ではなかった。日常的に使う事はないが、不規則やら変則やら、つまり一般的な範囲からはずれてしまった事を意味する単語だったと思う。
おそらく、この場合には何かしら特別な意味を持つ固有名詞、という事になるのだろう。トウヤの続きを待った。
「イレギュラーとは、素体の異常以外の何らかの理由でパーツの役目を果たさなくなったものの事だ。これは素体に異常が発生したパーツも含まれるが、つまり、国にとって不必要なもの、あるいは不良品という事になる」
「ふ、……!?」
わたし、絶句。
確かに、この国においてトウヤたちはパーツ、つまり《モノ》らしいので、何かしらの不都合が発生すれば《不良品》と呼ぶ事に間違いはないのだろう。理屈で考えれば。
「ってそんなのハイソウデスカって納得できるわけないしー! 不良品レッテルとか人権踏みつぶしもいいとこだわ! ああ人権ないのかここ!!」
「ジンケンとは何だ」
人間すら知らなかったトウヤに人権について説明したところで、理解できないだろう事は明白だ。そもそもわたしも詳しいわけじゃない。申し訳ないが無視する事にした。
「そしてこの部屋に入れられたって事はわたしも不良品かいっ……まあそうなんだろうけどさ! この国には不要なものだよね! 必要とされたくもないけどなんっか腹立つー!!」
決めた。わたし、逃げる。もう何がなんでも逃げる。ここに押し込まれた時点で逃げる気満々だったが、その気持ちがさらに強く固まる。
問題は方法だ。この部屋からはトウヤと一緒に出る事もできそうだが、その先はどうすべきか。当然、わたしはこの建物の外がどうなっているか知らない。国全体の様子も分からない。つまるところ、道が分からないのだ。かと言ってやみくもに歩き回るのは危険だ。どうしたものか。
「……以前、一度、イレギュラーが廃棄されるところを見た事がある。映像でだが」
トウヤは唐突にそう言うと、わたしに手を伸ばし、胸倉を掴んだ。その手つきは乱暴だったが、ただ無造作に行われただけなんだろうと思う。相手を気遣うという意識は、持っていないだろうから。
ぐいっと引き寄せられ、わたしは驚いて目を丸くする。
端正な顔が必然的に近づき、感情の見えないグレーの瞳がまっすぐに私の目を見た。透きとおるようなそれに、息が詰まる。
「ちょっ……だ、だから近いってば!」
文句を言って、トウヤを引き剥がそうとした。しかしそれより先に、彼の冷たい指先がわたしの目尻に触れる。少しくすぐったい。
「ここだ。ここから水を流していた」
「み、みず……?」
「あれは何だ」
トウヤの指は、わたしの目尻から離れない。引き剥がそうと触れたはずの手に、力がこもらない。おそらく、彼の瞳の中に、切羽詰まったようなものを感じ取ったからだろう。
わたしはそのままの体勢で、トウヤの言葉を反芻する。
「目尻から水って……涙の事?」
「『ナミダ』……」
「そう。んで、涙を流す事を、『泣く』って言うんだよ」
「『ナク』……」
トウヤは新しい知識を、ただ繰り返した。
ぼんやり予想はできていたが、どうやらこの国では住人に涙だとか、感情に由来するものを教えていないらしい。この調子なら笑顔も知らないだろう。もちろん、感情なんて《モノ》には不要なものなのだから、この国のルールで言えば当然なのだろう。
理屈では分かっていても眉間に深いシワを刻まずにはいられない。
「……消えない」
どこか息苦しそうに、ぽつんとこぼされた小さな声。言葉は捕まえられたが、その意味を理解する事ができなくて、少しだけ首を傾けた。
トウヤはガラス玉みたいなきれいな瞳を、まっすぐにわたしに注ぎ込んでくる。
「消えない。何度も再生される。あの時の映像が。行動が。顔が。ナミダが。その度に何かが溜まっていく。とても重たいものが。腹部の奥底から、どんどん積み上がって、次第に呼吸がままならなくなる。このままでは作業に支障をきたしてしまう。役目を果たせなくなる。知らない。分からない。消えない。常に再生されるわけではない。しかし再生頻度は非常に高い」
浮かぶままに言葉にしているのだろう。彼の中にある限られた語彙で、堅いのにどこか拙い言葉たち。きっと彼自身、どう表現するのが適切なのか分からなくて困っているのだろう。わたしも、上手くは説明できない。けれどなんとなく、彼が言いたいのがどういう事なのかは、分かる気がした。
「これは何なんだ。どうすればなくなる。どうすれば消える。どうすれば、……お前なら、《イレギュラー》なら、知っているのか」
自分が感じているものに名前を付けることもできなくて。その空欄に埋めるべき答えを求めているのだ。切実に。強く、とても強く。
「……ぴっこーん、てか」
思わず声に出たのは、思いつきを表すものだった。
その思いつきは、おそらく、あまりいいものではない。むしろ最低だ。最悪だ。ダメどころかダメダメだ。
しかし、自分のために、背に腹は代えられない、と行動に移す。
申し訳なさを前面に出した顔で、
「……ごめん。わたしは、トウヤに答えをあげられない。その答えを出せるのは、トウヤ本人だけだと思う」
「……分からない」
「今のトウヤには分かんないだろうね。でも、未来のトウヤになら分かるもしれない」
「『ミライ』とは何だ」
「明日、明後日、明々後日……ずっとずっと先の時間に存在するトウヤだよ」
「……分からない」
「ですよねー。……うん、今は分からなくてもいいんじゃないかな。ただ……このままこの国にいたら、トウヤは絶対に答えを得る事はできないって、わたしは思う」
「…………」
トウヤは口を閉ざした。何かを考えているようだった。
勝負だ、とわたしが先に口を開く。
「そこで提案。一緒に外に行かない?」
「……外?」
「そう、この国の外。わたしはここを出たい。一人でも行くつもり。んで、トウヤがどうしても答えが欲しいと思うんなら、外に行くべきだと思うんだよね」
「……国の、外……」
トウヤの声が揺れた。本人に自覚はないだろうが、戸惑って、躊躇って、けどその奥には確かな期待がちらついている。
わたしが思いついた事。
――このひとを、巻き込む事。
ここから逃げるにあたって、一番問題になるのはこの国に関する情報だ。パーツの行動や、国内の道など、わたしには分からない事が多い。できるなら、この国の事情に通じている協力者が欲しい。
その意味で、トウヤの存在は最適だった。知識が圧倒的に足りないにしても、これまで会った誰よりも話が通じるし。国内についてもよく知っているようだし。おまけに、国の外に少しでも興味を持っている。
彼を懐柔できれば、とても心強い。
そんな勝手な思いつきで、わたしはこのひとを巻き込むと決めた。必死に……おそらく必死に、この国のパーツであろうとしているこのひとの意志をひん曲げて、捩れさせて、気持ちを完全に外へ向かわせようとしている。一度飛び出してしまえば、絶対に戻ってこれないだろう事が予想できていて。
罪悪感がないわけではない。けれど、わたしだって必死だ。何としてでも、無事にここから出て行きたい。
自己嫌悪でも何でもドンと来い。懺悔なら後で腐るほどしてやる。
だから、今はここから出る方法だけを考える。
じっと黙ってトウヤの答えを待っていると、ふいに、濁った警報のような音が小空間に響いた。あまり大きな音ではないと思ったが、トウヤがうるさそうに顔をしかめた。それから、左耳に左手を添える。左耳には、インカムを更に小さくしたような白い機器が装着されている。
「何の音……?」
「……警告だ。マザーから指示が来た。『拘置スペース101を出ろ』と」
急激に、体温がざーっと音を立てて下がったような気がした。
けれど、トウヤさんは立ち上がる気配さえ見せなかった。じっと。迷うように、じっと。決断するように、じっと。静かな表情で、じっと。
「こ、拘置スペース101って……ここの、事?」
「そうだ」
「……い、行かなくていいの?」
「…………」
逃避行のお誘いをしておきながら情けない話ですが。
ビビった。
先程の警告とやらで思いっきりビビって、一気に頭が冷えた。何だかわたし、とんでもない事をしようとしていたような気がする。
しばらく落ち着いていた心臓が、バクバクと大きく振動して、居心地が悪い。
「……ち、ちなみに……その指示に従わなかった場合、どうなんの?」
「マザーの指示に従わなかった場合、イレギュラーと認定され、《武装パーツ》により拘束される」
また物騒な単語が出てきた。《武装パーツ》。その名称からして武器……銃器類や刃物類などを所持しているに違いない。
「って、それわたしをここまで連れてきた連中か! そうだよね、わたしもイレギュラーだもんね!」
遅れて気付いて声を上げるが、今の問題はそこではない。
「そ、その後は?」
「廃棄処分となる」
廃棄。そうだ、廃棄。確かイレギュラーについて説明してくれたときも、廃棄がどうとか言っていた。とてつもなく不穏な単語だ。というか、人間に対して使う言葉ではない。いや、この国ではパーツであって《モノ》なんだから間違ってはいないのだろうが。
「……つまり、具体的に言うとどうなるわけ?」
「素体における全活動を停止。その後は養分として扱われる」
「よ、……!?」
素体の活動、それはすなわちいわゆる生命活動一般という事だろう。それをすべて停止するという事は、当然その……死ぬ、という事であって。それは、単語のイメージからなんとなく想像できていた、が。
「養分!? 養分って何!? そりゃ燃やすのはエコじゃないですけども! エコ関係ないよね、うん!」
「『エコ』とは何だ?」
トウヤを無視して、視線を落とす。いつの間にか握った拳を見つめながら、決めた。
前言撤回。
意気地なし上等。誰かに指差されて笑われたって構わない。
これはヤバイ。とにかくヤバイ。なんかもう色々ヤバイ。思った以上にわたしの立場は危険を伴っているらしい。そこに、この国のひとを巻き込む? 無理だ。できるわけないし、できてもやってはいけない事だ。
下手を打てば、わたしより危機意識が低いだろうトウヤの方が危険になる。もしそのせいで、トウヤが殺されでもしてしまったら? その責任は、ただの女子高生でしかないわたしには重すぎる。
「っ……トウヤ! とりあえず出よう! このままだとトウヤまでイレギュラー扱いになっちゃう!」
そうしようとしていたくせに、我ながら勝手だ。
この状況で、無関係のひとを巻き込もうなんて、真剣にどうかしていた。自分さえどうなるか分からないのに、赤の他人の身の安全なんて保証できない。そして、彼の命を踏み台にするような思いきりもない。
選択するものを間違えた。
口から出た言葉をなかった事にはできないが、どうにかここから方向修正するしかない。
部屋を出る事自体は不可能じゃない。ここにトウヤがいる。トウヤが部屋を出るついでに飛び出せばいい。その先の事は、また後で考えればいい。
今すべきは、トウヤをこの部屋から出す事。
トウヤとは会ったばかりだが、それでも出会った事に違いはない。そして、このわけの分からない国で初めて、まともに言葉を交わした相手だ。突然見知らぬ場所に放り出されてひとりきりになって、寂しさと不安に軋んでいた心に、彼の存在はただあたたかった。
その彼が廃棄処分になるなんて、絶対に嫌だ。
立ち上がり、トウヤの手を引っ張って立ち上がるように促す。トウヤはそれに逆らうことなく立ち上がった。しかし、手を離そうとしたわたしの手を逆に捕らえる。
「ト、トウヤ……?」
「……外には、何がある」
「え、いや、えっと……さあ……? ここが世界のどのへんにあるのか分かんないし。でもまあ、何かはあると思うけど」
「……何か」
トウヤの瞳に、光が見えた気がした。わたしは瞬時に、馬鹿正直に質問に答えた自分を呪う。
「その何かを知る事で、答えを知る事ができるなら……」
「そ、そんな事よりトウヤ! 早くこの部屋から、」
「外へ、行く」
……やっち、まった。
利己的思考が暴走した結果が、これだ。後悔先に立たず。ドンと来いと言ったって、実際問題、自己嫌悪に襲われるというのは結構きつい。
グレーの瞳がまっすぐにわたしを射抜く。そこにはもう、先程まで確かにあったはずの迷いも躊躇いもなかった。あるのはただ、純粋な期待からの熱。
――視点を変えてみよう。
わたしが思うに、彼はたぶん、とっくに手遅れだったのだ。
わたしと話をする前から自分の中に生まれた正体不明の何かに疑問を抱いていた。その答えを探していた。わたしが現れなければ、彼はいずれ記憶に焼きついているらしいイレギュラーと同じ道を辿っていたはずだ。
彼がイレギュラーになってしまったのは、わたしのせいじゃない。このままなら、彼はそう遠くない未来に廃棄処分になる運命にあったはずで、わたしが存在した事で生き延びるチャンスを手に入れたのだ、と。そう考えれば、少しは気が楽に――
「なるわけないだろ、こんちきしょーが!!」
突然の大声に驚いたのか、トウヤの体がビクリと揺れた。
もしもこうだったら、という仮定の話には意味なんかない。現実はすでにたったひとつの過去なのだ。
このひとはわたしと話をし、わたしに唆され、この国の外に興味を持ち、この国の外に出て行く事を決めたのだ。……わたしが決めさせたも同然だ。
ゲームと違って、リアルにはキャンセルボタンなんて存在しない。時間が巻き戻る事はない。取り消しはきかない。
後戻りはできない。
彼は《イレギュラー》になってしまった。その原因の一端は、わたしにある。どんな言い訳を並べようと、どれほど巧みに自己弁護をしようと、それは変わらない。
「――やるしかない、ってか」
彼が戻る道を失ったように、わたしも足を止めている場合ではないのだ。
わたしは、外へ行く。そして、
「……トウヤ。誘っておいてなんだけど、かなり危険だと思うよ。もしかしたら途中で武装パーツとやらに捕まって、そのまま廃棄処分になっちゃうかもしれない。それでも、わたしと一緒に外に行きたい?」
「行く」
即、断言。無知ゆえなのかもしれないが、そこにトウヤの決意を見た気がした。
最終確認終了。トウヤに引く気はないし、引かせる説得も思い浮かばない。
腹をくくれ、成海宝良。
「……分かった。じゃあ、今からわたしたちは運命共同体ね」
「ウンメイ……」
「理解できなくていいよ」
このひとを死なせたくない。けれど、もし、願いも努力もむなしいものとなるのなら、わたしも一緒にいこう。一緒にいよう。
生きるときは一緒。死ぬときも、一緒だ。
ものすっごくチープ感が漂うけど、それが、ただの女子高生でしかないわたしの、巻き込んでしまった彼に対しての、精一杯。
「こうなると名前がないのは本格的にメンドイな。つけ方適当だったけど、もうトウヤのままでいい?」
「問題ない」
「ん。そんじゃ、ま……これからよろしく、トウヤ!」
とりあえず、死にたくないので、一緒に生き延びられるようにがんばります。
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