8. 二〇三九年六月八日 一二時四二分

渋谷区神宮前四丁目 東急イン表参道

 四〇六号室


 監視を始めて三日目。

「ウーム」

 俺はモニターから目を上げると、思わず唸り声を漏らしながら右肩を回した。

 床に座ったまま長時間モニターを見つめすぎたせいか、目の調子が悪い。

 顔認識のアラームはどうしても信用できなかった。モニターを覗き込んでいないとどうにも落ち着かない。

 身体が強ばっている。

 肩を回すとゴキゴキと音がした。


 三人で二時間ほどで書き上げた作戦計画書はすぐに承認された。

 クレアに電子カモフラージュしてもらいながら社屋に正面から侵入し、レディ・グレイを昏倒させた後に各階に備えられた非常口から搬出する。

 この程度の規模の作戦であれば鈴木群司令の承認を仰ぐ必要はない。宮崎課長のGOだけでことは済む。

 極めて大雑把な計画だったが、宮崎課長は特に文句を言わなかった。

 侵入ルートと脱出ルートを押さえていたため、リスクは低いと判断されたのだろう。

 俺たちはレディ・グレイが現れるのは昼間と見込んで、それでも二十四時間体制の監視シフトを敷いていた。日中は俺とマレスとで交代、夜間はクレアに頼んである。

 人工知性体とは言え、クレアにも睡眠は必要だ。日中に収集した情報をクラウドに送り、インデックス化するための時間がどうしても必要なのだと富田は言う。一時記憶が増えすぎるとローカルでの演算に差支えがあるらしい。

 今クレアは、小高助手が運び込んだ睡眠ポッドの中で安らかに就寝していた。

 眠っているように見えるが、クレアのメインフレームとサブフレームでは今も忙しくデータ整理が行われているのだろう。

 だが、考えてみればこれは人間も同じだ。夢というものは短期記憶を長期記憶に送る際に見える情報の残像だという科学記事を読んだことがある。

 うまい具合にジェネラル・ナノ・インデックス社の向かいには大手チェーンのビジネスホテルが建っていた。

 俺たちはジェネラル・ナノ・インデックス社の正面玄関がよく見える三部屋を借り上げると、レディ・グレイが現れるのを待って監視を続けているというわけだ。

 ベッドを撤去した小さなビジネスホテルの室内は、向かいの社屋を監視するモニター群で埋め尽くされていた。床には3Dレーダーのホロ・スフィアが置かれ、窓際には三脚に乗った双眼鏡も二台並んでいる。装備管理課が置いていったものだが、これはほとんど使っていない。

「ただいまー」

 と、大きな袋を両手にぶらさげたマレスが部屋のドアを肩で押しながら飛び込んできた。

「和彦さんはローストビーフサンドウィッチでいいんですよね、ハラぺニョとアボカドトッピングで」

「ああ、ありがとう」

 手から下げたサブウェイの袋からサンドウィッチの包みをマレスが俺に渡す。

 続けてマレスからアイスティーを受け取ると、俺はモニターから目を離さないままストローを蓋に刺した。

「でも和彦さん、お肉ばっかりですね」

 昨日と同じ白いシャツにチノパンというラフな格好のマレスが俺の隣にぺたりと座り、さっそく自分のサンドウィッチを頬張りながら言う。

 見た感じ、ベジタブルサンドウィッチに海老とアボカドをトッピングしたもののようだ。

 だがサイズが違う。マレスのサブマリン・サンドウィッチは確実に俺のサンドウィッチの倍の長さがあった。しかもマレスの前にはこの他にも大量のフライドポテトとサラダ、それにチキンウィングがこんもりと盛られている。

「昨日はお昼がステーキ弁当で晩は牛丼、一昨日はお昼が牛丼で晩は照り焼き弁当、これじゃあ身体が酸化しちゃう」

「いいんだよ、食べたいものを食べるのが一番健康だ」

「そうかなあ」

 マレスが長いサンドウィッチを端から頬張りながらもぐもぐと答える。

「たまにはお野菜も食べたほうがいいですよ」

 マレスが厳しく指摘する。

「うむ、そうか」

 それにしても、と、背中からシャツの尻尾をだらしなく垂らしているマレスの姿を見ながら思わずため息が漏れる。

 これで原宿の街中を歩いてきたのか?

 俺も人のことは言えないが、マレスは服に気を使わな過ぎだ。

 こうやって三日ほど監視のために缶詰になって判ったのだが、普段着のマレスは服装に関してはかなり無頓着だ。気を使っている気配はあるのだが、どうにも油断が多すぎる。

 彼女が言うには、彼女の服装はもっぱらクリスがコーディネートしているのだという。おしゃれに見えていたのはもっぱらクリスの功績という訳だ。話を聞く限り、普段のマレスはどうやらずいぶんといいかげんな服を着ているらしい。

 これではせっかくの美貌がまったくの台無しだ。

 それに、極めて目に毒でもある。

「マレス、尻尾が出てるぞ」

「尻尾?」

 マレスが背中に手をやる。

「わあ」

 マレスが慌ててシャツの裾をぐしゃぐしゃとチノパンに押し込む。

 見る間に顔が赤くなる。

「和彦さん、そうじゃないんです」

 なおも背中を気にしながら、マレスは頬を膨らませた。

「今は和彦さんの食生活の話をしてるんです。和彦さんは絶対野菜不足です」

 マレスは俺がいつもクレアに言われていることを指摘した。

 確かに俺はほとんど野菜を食わない。

 だが、ここで反論するのはいかにも不利だ。仕方なく、俺はマレスの意見に迎合する。

「じゃあ、今晩の牛丼には漬物をつけるか」

「また牛丼?」

 マレスが嫌な顔をする。

「牛丼屋さんのお漬物って小さいじゃないですか。ダブルじゃないとダメだと思います」

「予算、超えるな」

「牛丼を小さくすればいいんだと思いますよ。あるいは卵やめるか」

「じゃあ、マレスの取り分をもう少し少なくしようか。マレスが特盛を一個にしてくれるだけで俺はゴボウサラダを二つは食える。レタスサラダすら狙えるかも知れん」

「それはダメ」

 マレスは右手をビシッと突き出した。

「動けなくなっちゃう。予算は半分こです。和彦さんは高いものを食べ過ぎなんです」

「いや、それは半分こじゃない。マレスは俺のぶんまで食ってるじゃないか」

「わたし、若いもん。沢山食べないと死んじゃいます」

「だいたい、そんなに食うんだったら自腹で食え。どう考えても俺が不利だ」

「それはダメです。それはズルだもん」

「どこがズル……」

 その時俺は、見覚えのある女性が白いクラウンに乗ってジェネラル・ナノ・インデックス社の地下駐車場へと降りていくのをモニターの中に認めた。

 クレアが防犯カメラを細工してくれたおかげで、ここからでも駐車場へ入っていく車の運転者の顔がすべて見える。

 同時に顔認識プログラムにアラート表示。

 反射的に右手を上げて、マレスを制する。

 ターミナルが短くアラーム音を鳴らす。

「おい」

 俺は食べかけのサンドウィッチを傍らに置くとモニターに見入った。

 防犯カメラの画像が静止し、自動的に拡大表示される。

 すぐに画像解析システムが起動。流し込んだ過去のレディ・グレイの画像との照合を始める。

 防犯カメラの画像のとなりで過去の画像が次々と切り替えられ、顔の特徴を示す緑色の補助線とドットが現れる。合致率が計算され、数値が目まぐるしく変化する。

「……来たぞ、レディ・グレイだ」

 合致率八十四.三パーセント。

「マレス、クレアを起こせ」

「はい」

 サンドウィッチの最後のかけらを頬張りながら、マレスが四つん這いでクレアの睡眠ポッドの赤い緊急覚醒ボタンを押す。

 バシュンッという小さな気密音を立て、クレアの睡眠ポッドの透明なキャノピーが開く。

「クレア姉さま? レディ・グレイが現れました」

「どこにいますか?」

 睡眠ポッドから降りながら、今まで寝ていたとは思えない鋭敏さでクレアが俺たちに訊ねる。

「今、自動車で地下に降りていきました」

「なるほど」

 索敵はまさにクレアの独壇場だ。これが彼女の専門領域なのだ。

 クレアは部屋の片隅に設置した小さな戦闘指揮ターミナル《CIC》に座ると、素早くキーボードとトラックボールを操作してジェネラル・ナノ・インデックス社のセキュリティカメラを乗っ取り始めた。

 見る間に四方から撮ったレディ・グレイの姿が目の前の画面を埋め尽くす。

「マーカーを打ちます。これでもう逃げられません」

 ターミナルを操作し、あらかじめ駐車場の各所に仕掛けておいた小型マーカーを起動。

 小さな発射機から撃ち出された小さな丸いマーカーが床面を転がり、狙いがたわずレディ・グレイに踏み潰される。レディ・グレイが通り過ぎた瞬間、別のマーカーマシンから霧状にナノマテリアルが噴出し、彼女に見えないアンテナを塗装する。

「よし」

 なぜかクレアの代わりにマレスが右肘を引いてガッツポーズを取る。

「さて、レディ・グレイ。あなたはどこに向かっているの?」

 モニターに映るレディ・グレイを冷たく見つめながら、低い声でクレアが話しかける。

 レディ・グレイは地下二階の駐車場から上階へと続くエレベーターのボタンを押した。

「……四階」

 右手でもう一台のターミナルを操作し、画面にビルの内部構造を表示させる。

 クレアの目前には上下二段、六枚のモニターが並べられていた。

 クレアだけならモニターはいらないのかも知れないが、クレアは俺たちのためにモニターに各種情報を表示してくれていた。

 レディ・グレイが移動するにつれクレアがカメラを切り替え、間断なくレディ・グレイを追尾する。

 今、右下のモニターにはエレベーターのセキュリティカメラが上から撮影したレディ・グレイの姿が映されていた。

 正面下段のモニターにはジェネラル・ナノ・インデックス社社屋の内部構造が表示されている。

 クレアが正面上段のモニターに四階の情報を展開する。

「四階は情報技術開発部のラボですね」

 レディ・グレイがエレベーターシャフトを移動していく。

 レディ・グレイを示す赤い輝点は四階でエレベーターを降りると、フロアの奥へと向かった。

「ここが居室のようです。やっと見つけた」

「よし、作戦開始だ」

 俺は狭いホテルの部屋のクロゼットを開くとダークグレーのスーツを取り出した。

「着替えてきまーす」

 その隣から取り出した白いスーツを掴み、マレスがぱたぱたと隣の部屋へと消えていく。

「そこで着替えてもいいんですよ、私は気にしませんから」

 クレアが俺に言う。

「俺が気にするんだよ」

 狭苦しいバスルームに入り、鏡を見ながら慣れないスーツを身に纏う。

 最後にネクタイを締めたのがいつなのかすら忘れてしまっていた。

 悪戦苦闘しながらようやく青いレジメンタルストライプのネクタイの剣の長さを整える。

「はい、これをかけてください」

 スーツのジャケットを羽織りながらバスルームから出てくると、山口がいつもかけているものによく似た細い眼鏡をクレアが差し出した。

『聞こえますか?』

 眼鏡をかけた途端、無線で話しかけてくるクレアの声が聞こえる。どうやら眼鏡の弦が骨伝導ヘッドセットになっているようだ。

「ああ、よく聞こえる」

 同時に右隅のモニターが点灯し、視界の片隅にジェネラル・ナノ・インデックス社のフロアプランが現れる。

「和彦、ネクタイが曲がっていますよ」

 ゆっくりと歩み寄ったクレアが俺のネクタイを直してくれる。

「ただいま戻りましたー」

 ドアを乱暴に開き、マレスが飛び込んでくる。

「マレスにはこれを」

 クレアは白いスーツを着て戻ってきたマレスに小さなヘッドセットを差し出した。耳に掛けるタイプだ。

『マレス、聞こえますか?』

 オープンチャンネルでクレアがマレスに声をかける。

「はい、感度良好です」

 マレスが細い親指を立てる。

「マレス、尻尾は大丈夫か?」

 俺はマイクテストも兼ねてマレスに訊ねた。

「出てませんッ」

 白いスーツは膝丈で、マレスはそこに大きなフリルのついた濃紺のブラウスと水色のリボンを合わせていた。

 OLというには少々派手だが、土地柄を考えるとこんなものなのかも知れない。どうせクリスの見立てだ。おそらく間違いはないだろう。

「では、行くか」

 俺はベレッタをホルスターに押し込むと、二人を連れてドアを開いた。


 俺たちはスケルツォに乗ってホテルの地下駐車場から表参道の裏通りに出た。

 ブロックを半周し、ジェネラル・ナノ・インデックス社の駐車場へと乗りつける。

「アクセスレベルは最高に設定してあります。これで開かないドアはないはずです。顔認識システムはすでに改竄済です」

 背後からクレアが白いカードを俺に差し出す。

 途中、社員証をかざすセキュリティゲートを抜けて地下二階に降りると、俺は先に運び込んでおいた脱出用のワンボックスのとなりにスケルツォを停めた。

 脱出用車両をレッカー移動される危険を冒す訳にはいかなかった。電子偽装されたワンボックスはジェネラル・ナノ・インデックス社のセキュリティシステムからは社用車に見えているはずだ。レディ・グレイの身柄を確保し次第、このワンボックスはクレアに遠隔運転されて非常口の脇に移動する。

 ワンボックスの荷室には車内を焼き尽くすのに十分なだけの焼夷爆弾が積み込まれていた。万が一の場合には積み込んだワンボックスごとレディ・グレイを爆殺する。

 停車とほとんど同時に、クレアはコンソールを操作してスケルツォの全周レーダーを展開した。

 屋根の上のエア・スポイラーが持ち上がり、静かに周回を始める。このレーダーは防衛庁の防衛装備庁A T L Aが作った特注品だ。これで見えないものはない。

 周囲の電子監視状態に満足し、ルームミラーの中のクレアが笑みを浮かべる。

「じゃあ、行ってくる。十分もかからないはずだ」

 俺は運転席から降りると、戦闘支援オペレーター席に残したクレアに声をかけた。

 彼女はここからいつもの様に俺たちの戦闘支援を行う。

「あ、和彦。これを」

 俺が背を向けようとしたその時、クレアは傍らから小さな四角い装置を取り出した。

「小高さんに作ってもらいました。この会社のネットワークはクローズド《閉鎖》・ネットワークになっている部分があるようです。これをレディ・グレイのラボのLANポートに差してください。そこから内部に侵入してレディ・グレイの情報を奪います。実体がここにある可能性は極めて低いのですが、少なくとも入口はあるはずです」

「判った」

 俺は装置を上着の左ポケットに収めると、トートバッグを左肩から下げたマレスを従えて駐車場のエレベーターへ向かった。

 行き先は四階。

 マレスの表情が堅い。

 狭いエレベーターの中で彼女は無言のまま両手で腕を抱くと、ブルッと身を震わせた。

「あのね、和彦さん」

 マレスは俺を見上げると口を開いた。

「わたし、我慢できる自信がない。レディ・グレイを殺しちゃうかも知れない」

「ああ、そうだな」

 俺は指を伸ばすと、ほつれたマレスの前髪をかき上げた。

「我慢できなかったら、無理だったら我慢しなくていい。マレスは自分の復讐を成せ」


+ + +


 ジェネラル・ナノ・インデックス社の四階はどうやら高セキュリティフロアのようだった。エレベーターが止まると同時に、閉じたドアの前でIDカードの提示を求められる。

『IDカードを、カードリーダーにかざしてください』

 妙に肉感的な電子音声。

 俺はポケットから出した白いカードをエレベーターのカードリーダーにかざし、エレベーターのドアを開けた。

 狭いエレベーターホールから左右に長い回廊が伸びている。

『和彦、左です』

「了解」

 そこは白い壁の殺風景な場所だった。

 派手な場所に建っているのに、中はまるで大学の研究棟のように何の飾り気もない。大学とは違ってさすがに廊下に雑多な物が積み上がっているようなことはなかったが、まるで人の気配を感じないこの場所はある種異様だった。

 誰もいない廊下を静かに歩く。

 マレスのタイトスカートの片側には深いスリットが入っていた。

 大股で歩くたびに白い太腿が覗く。動作に支障はなさそうだ。

『和彦、マレス、そこで一旦ストップ。左側のトイレのドアを開けてください。中に入って』

 骨伝導ヘッドセットからクレアの声がする。

 身障者用の多目的トイレのドアを閉めた途端、誰かが外を通る音がする。

 クレアの指示通り黙って待機。

 しばらくするとエレベーターの到着を告げる電子音が響き、再び人気は遠くなった。

『はい、もう出てきても大丈夫』

 クレアが俺たちに指示する。

「どっちだ?」

 俺はヘッドセット越しにクレアに尋ねた。

『左方向、直進。窓を右手に見ながら進んでください』

『次の左のドアを開けて』

『そのまま直進、正面のセキュリティドアを開けてください』

『隣の部屋に人がいます。静かに歩いて』

『そのドアはロックされていません。開けても大丈夫』

 次々にクレアが指示をくれる。俺たちの姿をセキュリティカメラで追跡トレースしながらナビゲートしてくれている。

 正面に大きなガラスのドアが見える。

『この先にレディ・グレイがいます。周囲に人はいません。今がチャンスです』

 カードリーダーに白いカードをかざし、気密されたガラスドアを抜ける。

 背後で静かにドアが閉まった瞬間、再びクレアが話しかけてきた。

『今この区画をブロックしました。これでもう誰も入れません。チェック王手です』


 入った部屋はまるで生物学か化学の実験室のようだった。

 四台の実験卓の上には大きなドラフトが備えられ、実験台の上にはフラスコやピペッター、酵素実験をするためのテストチューブが整然と並べられている。

 傍らにはバイオハザードマークが大きくペイントされ、BSL―3と書かれた大きなドアまである。奥には陰圧アイソレーターを備えた実験室があるようだ。

『手前の実験卓の足元にポートがあります。さっきの傍受機をセットしてください。レディ・グレイが気づかないうちに』

「判った」

 レディ・グレイに気づかれないようにしゃがみ、実験卓の横のLANポートに小高特製の小さな装置を差し込む。

 装置をセットし終わると、俺は黙って研究室の奥に居るレディ・グレイに歩み寄った。

「誰だい?」

 背中を向けたまま、窓際の大きなデスクからレディ・グレイが声をかける。

 姿は四十歳くらいに見えるのに、モニターを覗きながらキーボードを叩く女性の物言いはまるで老女だった。

「内閣安全保障局特務作戦群五課の沢渡だ。あんたを逮捕しに来たよ」

「へえ、それはそれは。ご苦労様」

 白衣の背中を見せたまま、レディ・グレイは呟いた。

 ヘッドセットからクレアの声がする

『侵入しました。今入口を探しています……二重に防壁されている区画があります……ここかも知れない』

『見つけたら全部吸い上げてアーカイブしろ』

 レディ・グレイに聞かれないように囁き声でクレアに言う。骨伝導で音を拾うからそれでもクレアには聞こえるはずだ。

『はい……突破しました……このアドレスは、パキスタン?』

 黙ってレディ・グレイはキーボードを叩き続けている。

 モニターの中でカプセル型の物体の3D画像が回転する。どうやら流体シミュレーターのようだ。カプセル型の物体の周囲に無数の矢印が流れている。

『実体データを外のサーバーに確保しているようです。行ってみます……ここね、ファイル発見……暗号化されたファイルをエクスカリバーに送信……復号成功……これは分散ファイル共有システムのシードだわ。レイドします……K2に電子支援要請。承認されました。実行します……見つけた……これがレディ・グレイのナノマシンの設計図……ダウンロードします』

 やがて、椅子ごと回るとレディ・グレイは俺を下から見つめた。

「こんにちは、沢渡ちゃん……初めまして、だね?」

 レディ・グレイの表情は若い。

 しかし、その瞳は老齢に濁っていた。

『和彦、このナノマシンはすごいです。遺伝子操作した菌に分子マシンを生産させて目的の場所に運んだ上で、相互に接続するという発想は見たことがありません……つまるところ、彼女のナノマシンは菌レベルのサイボーグなんです……すごい、鞭毛の形を変えて菌の推進力をブーストしている』

 興奮したクレアの声が骨伝導ヘッドセットから聞こえて来る。

 ふとレディ・グレイは視線を逸らすと素早くキーボードを操作し、このフロアの構造図を左側のモニターに表示させた。

 フロアのドアはすべて赤く点滅していた。

「ああ、なるほど、この部屋をブロックしたんだね。どうやら優秀なハッカーを連れているようだ。しかし、迂闊な子だねえ、何も言わずに撃てばいいものを。さして時間もないだろうになんで名乗るかねえ。武士もののふかいな」

『体液に乗って脳を目指したナノマシンは目的の場所の安定できるところに取り付いた後、近傍の同胞に腕を伸ばしてお互いに接続するようです……なるほど、一度アンカーしてしまえば以降、菌の本体は用済みなのね。即座にパージされるみたい……これで連続的に配線を形成するんだわ』

「そう思うか?」

「そうさ」

 レディ・グレイは椅子からマレスを見上げた。

「そこのきれいな娘は霧崎マレスだろう? 私の仇敵かたきだ。私がいきなり彼女を殺すとは思わないのかい?」

『すごい……冗長性も十分……これなら確実にネットワークが形成される』

「マレスは強い。あんたじゃあ敵わないよ」

「ほう、そうかね?」

 レディ・グレイがにこりと笑う。

「まあ、そうかも知れないねえ。確かに彼女の身体能力は高いわな。それはやめておこう」

『私、レディ・グレイと話をしてみたい』

『やめとけ、俺が代わりに話をする』

 俺はクレアに囁くと、レディ・グレイに話しかけた。

「あんたと少し話がしたくてね」

 俺はレディ・グレイに言った。

「なあ、あんた。何をしたかったんだ?」

「何って、なんのことだい? いい機会だ。答えられることならなんでも答えようじゃないか。せっかくここまで来てもらったんだ、特別授業だ」

「あんた、人々の記憶を次々自分に移植してるそうじゃないか、なにがしたい?」

『彼女の記憶バンクに到達しました。人々の記憶が整理・収集されています。百、二百……すごいコレクションです……』

「ああ、そのことかい」

 レディ・グレイはまるで大学の教授のように背中を椅子に預けた。

 黒いストッキングを履いた細い足を組み、膝の上に両手を乗せる。

「初めはね、私が大好きだった人を永遠に生かすために始めたんだ」

 レディ・グレイは話し始めた。

「彼女は、アジアの融和を望んでいたんだよ。一度国家という枠組みを破壊しなければアジアの融和は望めない、アジアに国境はいらないって彼女の考え方は間違っていない。でもどんなに高貴な人格でも脳が死んでしまえばそれはすぐに揮発してしまう。だから、私は彼女の寿命が訪れる前に彼女の脳に記憶チップを移植して、その人格を全て吸い出したんだ。彼女の記憶は今ではわたしの一部さ。今でも私の中で彼女は生きている」

「だから、レディ・グレイを名乗るのか?」

「そう」

 レディ・グレイは頷いた。

「私は二代目さ。でもねえ……記憶の移植ってのはクセになるんだよ」

 薄気味悪く、レディ・グレイが笑う。

「なにしろ他人の時間を頂けるんだ。仮想的にはもう私は二千年以上生きている計算になる。無駄も多かったけどね」

 レディ・グレイは何かを披露するかのように片腕を大きく広げた。

「研究ってのはね、時間がかかるんだよ。研究者の生涯は常に時間との競争なんだ。生きているあいだに研究が実る保証はない。ペンフィールドもエベンも品川教授もみんな志半ばで自説の正当性を証明しに天国に旅立っちまった……だけどね」

 椅子の背に身体をあずけたまま、骨ばった人差し指を立てる。

「他人の時間が頂けるんだったら、ひょっとしたら私は時間の制約を超越できるんだ」

「テロリストとは思えない発言だな」

 俺はレディ・グレイに言った。

「あは、私はテロリストじゃないよ。テロリストの厳密な定義に従えば、だけどね」

 レディ・グレイは笑った。

「私はあくまでも研究者さ」

「じゃあ、なぜJAL九二〇八便を落としたんだ。あれこそテロだろう」

 JAL九二〇八便と聞いて隣のマレスが身をこわばらせる。

「ああ、あれかい?」

 レディ・グレイは暗い笑みを浮かべた。

「私はあれを落としてはいない。浮かべたんだ」

 上に向けた手のひらを持ち上げるようなしぐさをする。

「同じことだろう。全員死んだんだ。なぜ、あのようなことをした?」

「そりゃあさ、暗殺だよ」

 レディ・グレイはこともなげに言った。

「あの飛行機にはなんでか日本の大脳生理学者やナノマシン技術者がたくさん乗っていたからね、私のライバルを始末するには実に便利だったんだ。……研究者は傲慢なんだよ」

 左手を椅子のアームに預け、雑然と積まれた資料の隙間に置かれた白いマグカップを傾ける。

「私の目標はね」

 レディ・グレイは組んだ足を解くと俺に言った。

「ナノマシンと記憶制御の世界で唯一無二絶対優位な技術を生み出すことなんだ。そうすれば彼女の理想を達成するための準備が整う。考えてもごらんよ、すべての人が同じことを考えていれば融和は簡単さ」 

 レディ・グレイは笑みを漏らした。

「もっとも実のところ、今となってはそっちは比較的どうでもいいんだがね……だが、私の邪魔をされるのは我慢がならない」

 レディ・グレイの瞳が鈍く光る。

「なにしろ彼らは私の技術に対する対抗技術を作ってしまいそうだったからね。申し訳ないけどお引取り願ったよ」

 レディ・グレイはため息を漏らすと、再びマグカップを傾けた。

「でもね沢渡ちゃん、いい技術だとは思わないかね? これがあればもうお勉強する必要はないんだよ。お注射一本で先人の知識を獲得できるんだ。実際、私には嫌がる理由が判らない」

 レディ・グレイはマグカップを置くと両手を広げた。

「だがねえ、どうやら世の中にはそういうのが嫌いな連中もいるのさ。霧崎雄二氏もそう。あの人は外部から記憶制御させないための技術の第一人者だったからねえ……彼は人の記憶を外部から制御することに反対だったんだ。なんの正義感かねえ。海馬体に定置したチップから取り出した人間の記憶にIDを与えて生体認証するって彼のアイディアは少々安直だったけど、紐付けと暗号化の仕組みが卓抜だった。DNA情報を使わずに、まさか二つの記憶の整合性を鍵に使うとは誰も思わないじゃないか。幸い、実らなかったけどね。そんなことをされたら記憶を外挿できなくなっちまう」

「なんて、なんてことを」

 マレスの瞳に激しい怒気が宿る。

「許せないッ」

 突然マレスはバッグからXMP34を抜き出すと間髪入れず発砲した。

 バンッ。

 銃撃が室内に残響する。

 レディ・グレイの薄い脇腹を貫通したフランジブル弾は開ききらないままメッシュ状の椅子の突き破ると、背後の窓に小さな弾痕を残して虚しく粉々に砕け散った。

「ウッ」

 レディ・グレイが衝撃にうめき声を漏らす。

「宙君も、ママも死んだのよ。なんでそんなひどいことができるのッ」

 まるで静電気でも帯びたかのように、マレスの栗色の髪が大きく逆立つ。

「さあて、なんでかね。でもそれは気の毒したね。ごめんねえ」

 激しい怒りに瞳を燃やすマレスに対し、レディ・グレイがじわりと出血の始まった脇腹を右手で押さえながら、反対側の手で軽薄に拝むような仕草をする。

「みんな、みんな死んじゃったのよ。なんで、なんで……」

 マレスが言葉を詰まらせる。

「さあて、なんでかねえ……」

 脇腹を押さえたまま、レディ・グレイはふらふらと立ち上がった。

「すべてはこの子らのためかね」

 左手で傍らに置かれた三角フラスコを振る。

 レディ・グレイの振るフラスコには白く濁った液体が入っていた。

「それが、脳内に回路を形成するとかいう妙なナノマシンなのか?」

 俺はレディ・グレイに尋ねた。

「ああ、第二世代のことかい?」

 脂汗の浮かんだレディ・グレイの顔にかすかに笑顔のようなものが浮かぶ。

「よく勉強しているねえ。でもあの子たちはもう引退。この子らは第三世代さ。まだ精度がイマイチなんだけどね、この子らバカだから……。でももう手を繋ぐ必要はないんだ。この子達は自分でメモリーを抱えているからね。分散ファイル共有と同じ理屈で、ネットワークを作らなくても情報を挿入できるんだよ。大量の断片情報を流してやれば、いずれ情報は完備する。記憶強度がまだらになるけど、どうやら問題はなさそうだ」

『和彦、マレス、気をつけてください。急激に社員が四階に集まって来ています。なにかが起きている』

 クレアが下から呼びかけてくる。

「ふむ、そろそろお別れの時間だよ。特別授業はお終いだ」

 レディ・グレイはふとモニターに目を落とすと、キーボードのエンターキーを押した。

「あんたら私を捕獲したつもりになってるみたいだけどね、爆砕ボルトって知ってるかい? あんたら十人程度ならあっというまに片付けちまうみたいだけどさ、さあて、百人だったら果たしてどうかね?」

 突然、レディ・グレイが素早い動作で身を翻した。

 そのまま、側面の非常ドアに滑り込む。

 ほとんど同時に反対側の気密ドアの周囲でオレンジ色の火花が閃き、小さな音を立ててガラスのドアが砕け散った。

「待てッ」

 おもわずレディ・グレイの背中に手を伸ばす。

 だが俺がレディ・グレイを追う前に、砕け散ったドアから雪崩のように若い社員の大群が飛び込んできた。


+ + +


 乱戦になった。

『和彦、マレス、気をつけてください。ここはレディ・グレイの巣です』

「判っている。これは、おそらく全員洗脳されたレディ・グレイの手下だ」

『ええ。でも全員一般市民です。できる限り殺さないで』

「判ってる」

 ワイシャツや作業衣姿の男たちが次々と廊下からなだれ込んでくる。

 一体、どんな記憶を与えればこんなことが可能なのか?

 二、三十人はいる。

 この人数に殺到されたら圧殺されてしまう。

 若いエンジニア達がじりじりと間合いを詰める。

 俺は右側の実験卓を右足で押し出し、二人で回れるだけの空間を確保した。

「マレス、装弾アモは足りるか?」

「バナナ三本、ちょっと足りないかも」

 マレスがマガジンを交換しながら俺に答える。

 拡張バナナマガジン三本で百八十発。俺もスタンブレットは六十発しか持っていない。

「自分の格闘戦空間を作れ。間合いをとるんだ」

 俺はマレスに声をかけた。

「判ってます、大丈夫」

「ウォー」

 ほとんど同時に作業衣姿のエンジニア達が雄叫びをあげながら俺たちに襲いかかってきた。

「マレス、下がれッ」

 俺はとっさにマレスを背後に庇うと、ホルスターから銃を抜こうとした。

 だが、それよりも速く数人のエンジニアが俺の手足に絡みつく。

 得物も何もない、極めて原始的な肉弾攻撃だ。

 周囲の実験器具が飛び散り、ガラスの割れる音が響く。

「クソッ」

 銃を抜くのを諦め、次々と絡みつく腕を振りほどく。

 さすがに一対五では分が悪い。

 暗い目をした男が俺の腕に噛み付き、他の女が緑色の長い爪で俺の顔を掻きむしる。

 バララララッ

 と、突然、軽い発砲音と共に俺に絡みついていた無数の腕から力が抜けた。

 マレスだ。

 マレスが俺の背後から発砲している。

「和彦さん、大丈夫?」

「ああ。助かった」

 俺は崩折れたエンジニア達を片足で押しやって足場を作った。

 そうこうする間にも第二波が実験卓を乗り越え、狂った目つきで殺到してくる。

 バララッ、バラランッ

 俺の後ろでマレスがXMP34を連射する。

 口径九ミリの銃弾が俺の周囲を次々と切り裂いていく。

 俺の肩口を飛び越え、あるいは脇腹をすり抜けながら、マレスの放つ弾頭が迫る群衆に殺到する。

 ほとんどスレスレの銃撃だ。

 だが、無数の銃弾に周囲を満たされているのにも関わらず、不思議と俺は不安を感じなかった。

 マレスの腕なら万が一にも俺を誤射する恐れはない。驚異的な命中精度を誇るXMP34とマレスの組み合わせは、ある意味最強最悪のコンビネーションだ。

 マレスの銃に装填された銃弾は亜音速サブ・ソニックで発射される十五万ボルトのスタンブレット《電撃弾》だ。一発で昏倒させることは難しいが、複数着弾すれば失神する。

 着弾すると共に青白い稲妻が閃き、被弾した敵が昏倒する。

 昏倒した男たちの身体を踏み越え、さらに新手が迫ってくる。

「ね、和彦さん、背中貸して?」

 ふと、マレスは背中を俺の背中にふわりと密着させた。

「わたしの動きに合わせて。できます?」

 マレスの肩甲骨が俺の右肩を押す。

「ああ」

 俺は右足を出して身体を半回転させた。

 それはまるでダンスを踊っているかのような感覚だった。

 マレスはひらりと身体を翻すと、回転しながら右側の敵に連射を浴びせた。

 床に転がった女がなおもマレスの足を掴もうとする。

 俺は開いた女の上半身にスタンブレットを叩き込んだ。

「和彦さん、手、貸して」

 着地したマレスが俺の方に左手を伸ばす。

 俺はマレスの手を取ると、彼女の身体を左に振った。

 実験卓を蹴ったマレスの身体が再び宙を舞い、空中で回転しながら銃弾を放つ。

 電撃が閃き、次々と敵を倒していく。


 マレスには天使と悪魔が同居している。

 ふだんはほわんとした女の子なのに、一旦スイッチが入ると途轍もなく恐ろしい。すべての攻撃が情け容赦のない必殺の一撃だ。

「屈んで」

 左側に降りたマレスが、屈んだ俺の背中の上で射撃を続けながら回転して反対側に戻る。

 マレスが俺たちのダンスをリードする。

 昔涼子に習ったダンスのステップ。トロット、ターン、ウィンドミル。全てはマレスの掌の上だ。

 マレスが俺の右側に占位。空になったマガジンをリリースし、空になったマガジンが床に落ちるよりも早く次のマガジンをXMP34のマガジンポートに叩き込む。

 俺は側面から抱きついてきた男に右の掌底を放つと、その背後にいた三人にスタンブレットを撃ち込んだ。

 白い電撃が閃き、まともに掌底を食らった男もろとも前衛の二人が床に転がる。

 すかさず背後で振り向いたマレスが俺の身体越しに残った敵を片付ける。

 倒すそばから次々と新手が現れる。

 これではきりがない。

『百人もいませんよ、和彦、マレス。レディ・グレイのブラフです。落ち着いて。持っている弾で十分足ります』

 クレアが地下から状況を知らせてくる。

『現在室内に十八人、外に十五人。上から四人降りてきます。増えても五十人ってところです』

「十分多いよ」

「ふふ」

 ふと、俺の背中でマレスが小さな笑い声を漏らした。

「なんだ? なぜ笑う?」

 首だけ振り向き、マレスを見る。

「だって、嬉しいんだもん」

 マレスが満面の笑みを浮かべている。

「マレス、人殺しをしてるんだ。笑ってる場合じゃあない」

 俺はマレスに言った。

 言いながら、接近してきた男に浴びせ蹴りを食らわせる。

 よろけた相手に下からの掌底。

「わたしね、ずうっと一人で戦ってきたの。誰もこんなことできなかったから。いつも、とっても寂しかったの」

 立ち上がる俺の背後に再び密着しながら振り返り、笑顔を浮かべながらマレスは言葉を続けた。

「誰かとこんなふうに戦えるのなんて初めてなんです。わたしについて来てくれたの、和彦さんが初めてなの。すごく嬉しい。こんなの、初めて」

「マレス、スタングレネードは持ってないのか?」

 左側にスタンブレットを放ちながら、俺はマレスに尋ねた。

「持ってないです、スニーキングでそんなもの必要になるとは思わないもの」

 見えないが、背後で敵を睨みながらマレスが口を尖らせているのが俺には判る。

「ま、そりゃそうだな」

 俺はため息を漏らすと、反対側に身体を捻って背後から殺到する連中に銃口を向けた。

 ほとんど同時にマレスが前後開脚して身を沈め、俺のために射線を開く。

 俺の装弾もサブ・ソニックのスタンブレットだ。だが口径が大きいため発電量が大きい。一撃で敵を昏倒できる。

 沈んだマレスの頭越しに射撃。

 青白い火花が閃き、次々と失神した社員の山が築かれる。

 前後開脚したまま、マレスが身体をひねって実験卓の隙間越しに遠くの敵を片付ける。

 針の眼を通すような精密射撃。実験卓の影で姿勢を低くしていた男が昏倒する。

 ホールドオープン。

 俺は空になってしまったマガジンを落としながら左側からタックルしてきた男を躱し、マレスに右肘を突き出した。

 肘に腕を通して立ち上がると同時にマレスが回転、たたらを踏む男の首筋にスタンブレットを叩き込む。

 これは、地獄で踊る天使のダンスだ。

 抱きついてきた男の後頭部を銃把で強打。失神した男が俺の足に絡みつきながら崩折れる。

 背後でマレスが上半身を沈め、ほとんど垂直に隣の男の顎を蹴り上げる。高く伸びた脚が振り下ろされ、怖気づいた女の意識を刈り落とす。すかさずマレスが高く跳躍し、俺の身体を飛び越えて反対側の敵に飛び蹴りを放つ。

 四階の社員、全員が俺たちの敵だ。

『エレベーターと階段をブロックしました。そこにいる人たちで全部です。残り二十人。落ち着いて』

 黙ったまま、再び密着した背中が俺を押す。

 俺が一歩前に出ると、背後の実験卓を飛び越えて目の前に二人の男が飛び込んできた。

 すかさずマレスが発砲。着弾した四発のスタンブレットが二人の男を昏倒させる。

 マレスが頭で俺の背中をこつんと叩く。

 身体を屈めると同時に俺の上で回転、右側に弾幕を張りながらマレスが俺の前に出る。

 今や言葉は不要だった。

 マレスがしたいことが手に取るように良く判る。俺はそれを埋めるだけでいい。

 俺は身体を閉じながら右側の男にスタンブレットを撃ち込んだ。

 同時にマレスが背後から迫る二人の男に連射を放つ。

「すごい、一人よりずっといい」

 マレスの声が背後から聞こえてくる。

 それは、俺も同じだった。

 二人のほうが一人よりもずっといい。

「ああ」

 左手で発砲を続けながら、俺は差し出されたマレスの左手を右手で取った。同時にスイング、マレスが周囲に濃密な弾幕を張り巡らせる。

「ふたりの方がずっといいな」

 弾幕を突き抜け正面に三人。すかさず発砲、突進する三人を昏倒させる。

 徐々に、だが確実に、周囲の敵の人数は減っていった。


+ + +


 ラボの中に失神したジェネラル・ナノ・インデックス社の社員たちが折り重なっている。

 マレスと俺は猛烈な勢いで敵を片付け続けた。

「ふう」

 戦闘が一段落した時、俺の背後でようやくマレスがため息をついた。

「あと二人」

 ついに増援も枯れたようだ。

 残ったのは見るからに戦闘能力の低そうな太った男たちだった。

 でっぷりと肉のついた白いワイシャツ姿の二人の男が実験スタンドを構え、左右からじりじりと近寄ってくる。

 どたどたと殴りかかってくる左側の男を身を引いて躱すと、俺は反対側から来る男の丸い腹部にスタンブレットを撃ち込んだ。

 だが、昏倒させるには至らない。

 脂肪が厚い。

 無様に倒れた二人はよろよろと立ち上がると、再び得物を目の前に構えた。

「まだ、やるの?」

 俺の背後から滑り出たマレスがXMP34を持ち上げ、あきらめ顔で二人の胸元に四発のスタンブレットを放つ。

 一瞬青い稲妻が瞬き、二人の男が膝から崩折れる。

 レディ・グレイの姿はすでにない。

「畜生、逃げられた」

 俺は思わず呻いた。

 油断した。奢りがあったのかも知れない。見た目に騙されて侮りすぎた。

『大丈夫、捕捉しています。彼女は今駐車場に降りました。車で逃走しようとしているようです』

 下からクレアが呼びかける。

「マレス、追うぞ」

「はい、和彦さん」

 その時、俺は突然強いめまいを感じて膝を突いた。

 横倒しに倒れてしまいそうになる。

 慌てて右手で身体を支える。

「ん?」

 身体がまともに動かない。

「あれ? どうしたの和彦さん……」

 XMP34をホルスターに収め、俺を支えようとしたマレスが凝固する。

 俺は膝を突いたままマレスを見上げた。

「う、うむ」

 口は動く。だが、身体が自由にならない。

「か、和彦さん、そ、それ……」

 マレスが両目を見開いて両手で口元を押さえている。

 震える右手で俺の胸元を指差す。

 マレスの視線を追い、俺は胸に小さな注射器が刺さっていることに気がついた。

 いつの間に?

 シリンジは空だった。

 薬液はすでにすべて俺の身体の中に打ち込まれてしまっていた。

 見れば腿にも注射器が刺さっている。

 ふいに、強烈なめまいと耳鳴りが襲いかかってきた。

「ウッ……」

 猛烈なめまいに右手で頭を押さえたまま、音を立てて俺は床に倒れ込んだ。


 これはいけない。

 意識が何かに乗っ取られて行く。

 俺が追うべき標的が、マレスの顔をしたテロリストであるという偽の記憶が刷り込まれていく。

 フラッシュバックのように偽の記憶と元の記憶が交錯する。

 断片的な画像が徐々に繋がり、やがて確かな感情を、マレスに対する憎悪を掻き立てる。

 こいつが、この女が涼子を殺した。

 内面を蠢く不気味な感情をなんとか理性で押し止める。

「こ、これは、なんだ?」

『和彦、しっかりしなさい、和彦。何を打たれたんです』

 骨伝導ヘッドセットからクレアの声がする。

「判らん。だが、たぶんナノマシンだ。記憶がおかしい」

 再び大波のように憎悪が襲いかかる。

 殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ……

 そいつが、敵だ。涼子を殺した、そいつが真の首謀者だ。

「待っててくれ、クレア。すぐにこいつを殺して下に降りる」

 俺はめまいを感じつつ、立ち上がろうとした。

 だがすぐに膝が砕け、再び床に転がる。

『こいつって誰です? レディ・グレイの反応は消えています』

「こいつに決まっているだろう、フリーランスの若い傭兵の女だ。いや、違う。それはおかしい。マレスは俺の相棒のはずだ」

 記憶が混乱する。

 マレスとは誰だ? 目の前にいるこの女は誰なんだ?

『和彦、しっかりしなさい。和彦、フリーランスの傭兵って誰のことです? マレスは味方です。マレスは私のかわいい妹です』

 元ある記憶がどんどん遠くに押しやられていくのが自分でも判る。

「う、ぐぅ……」

 両手で頭を押さえ、俺は下からマレスを見つめた。

 愛情と憎悪が交互に感情を支配する。

 マレスとの記憶を塗り潰すようにして、憎むべき女の行状が次々に俺の脳裏に刷り込まれていく。

『マレス、今すぐ逃げなさい。今の和彦は危険です。そばにいない方がいい』

──和彦さん? 和彦さん……

 遠くで少女が何かを呼びかけている。

 まるで霧に包まれているかのようだ。

 何もかもが曖昧で、なにもかもが不確かだ。

 こんな少女に何ができるのだ。なぜこの子が俺の敵になる?

 必死にマレスの記憶を手繰り寄せる。

 だが、その記憶はすぐに偽の記憶に洗い流された。

「逃がさん」

 俺は、立ち上がりながらホールドオープンしているベレッタのマガジンを落とすと、サーモバリック弾のマガジンをポートに押し込んだ。

 スライドリリースボタンを押し、初弾を装填。


 やめろ。


 もう一人の自分がそれを押しとどめる。

 愛らしいマレスの姿が脳内に充満する。

 バーベキューを頬張るマレス。

 歩きながら上目遣いで俺の顔を覗き込むマレス。

 俺の腕を掴み、なにかを必死に訴えるマレス。

 大きなサンドウィッチを無邪気に頬張るマレス。

「か、和彦さん?」

 よせ、それはマレスだ。

 だが、その記憶はすぐに黒い大波に押し流された。

 仲間を殺し、組織を壊滅させたのはこいつだ。

 情け容赦なくトリガーを絞り、涼子を殺したのはこの女だ。

 マレスと過ごした楽しい記憶が、人工の黒い憎悪に塗り潰される。

 だが、涼子は爆死したはずだ。

 そもそも仲間とは誰だ。

 記憶が矛盾している。

『マレス、どうしたんです、マレス。行きなさい《Move》!』

 目の前の敵を抹殺しなければならない。


 殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ……


 脅迫観念が脳内に充満する。

──殺せ。それが任務だ

「あれは、マレスだ。霧崎マレス。俺の仲間、俺のバディだ」

 囁くもう一人の俺に俺は反駁した。

 だが、仲間とは誰だ?

 俺に仲間はいない。

 俺の仲間バディはマレスとクレア、二人だけだ。

──早く殺せ

 抵抗すると、さらに強い強度で偽の記憶が襲いかかる。

「……ッ」

 俺の任務は、この女、フリーランスの傭兵を排除すること。霧崎マレスを排除するために日本政府から送られて来たのがこの俺だ。

 この女が涼子を殺した。涼子を銃撃し、そして殺した。

「ち、違う。霧崎マレスは、俺のバディだ。マレスは特務作戦群の一員だ」

 俺は声に出して自分に言い聞かせようとした。

 このままでは俺はマレスを殺してしまう。

 マレスが恐怖のあまり口元を押さえて俺を見つめている。

「なんで? どうして?」

 クソ、なんとかしなければ。あんなに怖がっているじゃないか。

 俺はマレスを護ると決めたんじゃないか。

 マレスを護れ。怖がらせてどうするんだ。

「クソッ」

 だが、俺の抵抗は所詮無力だった。

 個々の画像は単なるエピソードだ。だが、それが繋がった時、俺の脳裏にストーリーと憎悪が刷り込まれていく。


 マレスが、マレスでなくなっていく。


 俺は必死にマレスをマレスにつなぎ止めようとした。

 マレスの姿が溶けていく。

 この女が、こいつが俺の仲間を殺した。憎むべき敵。フリーランスの傭兵。

 俺の意識が融解する。


 気づいたとき、俺の人差し指はベレッタのトリガーを絞っていた。

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