5. 二〇三九年六月一日 一七時三五分

防衛省市ヶ谷地区 内閣安全保障局本部

地下二十階 特務作戦群管理部


 簡単な警察の事情聴取の後、俺たちは再び宮崎課長の居室へと舞い戻っていた。

 発砲は仕方がなかったという点を念入りに強調しつつ、宮崎課長に起きてしまったことを説明する。

「まあ、いいでしょう」

 黙って俺の報告を聞いた宮崎課長はそれまで瞑っていた目を開けると俺に言った。

 灰色の頭を右手のボールペンでガリガリと掻きながらしばらく黙りこむ。

「……沢渡君、君も相当な頭痛の種だが、霧崎君もなかなかのようですね。頼もしい限りだ。やりがいがある。霧崎君、その調子で続けなさい」

 本気で言っているのか、あるいは皮肉か。表情のない宮崎課長の顔からはその本心が読み取れない。

「……はい」

 俺の隣でマレスが小さく身を縮こませる。絆創膏の上からも青く変色し始めていることが判る頬骨が痛々しい。

 返り血を浴びて真っ赤に染まってしまった服を捨て、マレスは警察から借りた制服のスカートとブラウスを着ていた。

 野暮ったいデザインの服だが、なぜかマレスが着ると様になる。シャワーを浴びた髪はまだ完全には乾いていないようで、いつもよりも重い感じだ。

「幸い、相手は死んで当然のクズだったようです。警察も感謝状を寄越すことはあっても文句を言うことはないでしょう。下がってよろしい。後は私の方で処理しておきます」

「あ、ありがとうございます」

 マレスがぼそぼそと小声で礼を言う。

「いや、礼には及びません。世の中からゴミが二人ほど減ったんだ、喜ばしい限り。それよりも殉職してしまわないように気を付けなさい」

 宮崎課長が鷹揚に右手を振る。

「しかし、素手で戦闘サイボーグを解体してしまうとはねえ。……沢渡君、少々怒りすぎじゃあないかね」

 呆れたように俺に言う。

 課長室を辞そうとドアに手をかけたとき、

「ああ、霧崎君?」

 と宮崎課長が後ろから声をかけた。

「はい?」

 マレスが恐る恐る振り返る。

「霧崎君、今後は人前で殺さなければならない時は誰にも判らないように殺るように。局内や警察関係は上からガツンでなんとでもなるんだが、マスコミがね。ちょっと後始末が面倒なんですよ。できれば痕跡を一切残さずに殺ってもらえると助かります」


+ + +


「宮崎課長って案外優しい人ですね。わたし、もっと怒られるかと思っていました」

 クレアが待つ特務作戦五課のブリーフィングルームに向かう途中、マレスは俺にそう話しかけると「んーっ」と声を漏らしながら組んだ両手で大きく伸びをした。

「あ、痛た」

 どこかが痛むのか、伸びた途端に悲鳴を漏らす。

 だがマレスはなぜか陽気だった。

「でも、人前で誰にも判らないように殺すって無茶ですよねえ」

 不自然なくらい快活に俺に話しかける。

「まあ、バカスカ殺すなってことだろうよ」

 明るいマレスとは反対に、俺の声はどうしても不機嫌になる。

「超長距離からの狙撃っていっても、アンチマテリアルライフルはいつも持ってないですものね」

「いや、任務でもないのにそこまで無理して殺すことはない」

「でも沢渡一尉、あのパドルスイッチいいですね、スマートガンユニットを解除できるのは便利そう。わたしもつけてもらおうかな」

「霧崎君、あのな、人の話を聞け」

 俺は足を止めるとマレスに向き直った。

「あまり殺すな。目立ってもいいことは何もない。犯人を殺してしまったら手がかりがなくなる。いいか、むやみに殺すな」

 にわかにマレスの表情が硬くなる。

 瞳が暗く、冷たい光を帯びる。

「……それは、ムリです」

 マレスの言葉は氷のように冷たく、硬かった。

「あのとき、あのふたりを殺さなかったらたぶんあの子は死んでいました。あの局面で、わたしはあの子を救う他の方法を知らない」 

 黙って足元を見つめている。唇を噛んでいる。

「わたしは、本当に他の方法を知らないんです。わたしに人は救えない。わたしに出来ることは殺すことだけ。だから、誰かを護れるんだったら、それで誰かが死なないんだったら、わたしはいくらでも殺します」

 マレスの瞳に涙が滲む。

「必要なら、わたしが必要だと思ったら誰でも躊躇なく殺します。わかってもらえるとは思わない。けど、だけど、だって、他のやり方が判らないんだもの……でも、沢渡一尉なら判ってくれると思ってた」

 自分に出来ることは殺すことだけ。それ以外の方法を自分は知らない。

 それは、とても悲しい言葉だった。

 誰にも理解されないと思い込み、自分を理解してもらうことを諦めた者の諦観の言葉。

 孤独な言葉。

「殺すな、とは言っていない。敵の排除が俺たちの仕事だからな。だが派手にやるな。わざわざ騒動を探しに行くな。殺せる相手を探すようになったらそれはもう仕事じゃない、殺人狂シリアル・キラーだ」

「わかりました、沢渡一尉」

 マレスが不承不承という感じで頷く。

 マレスは黙ったまま俺を追い抜き、俯いたまま先に歩き出した。

 無言のまま、無人の通路を二人で歩く。

 マレスはつまらなそうに顔を伏せたままだ。

 俺の前を、時折何かをつま先で蹴るようにして歩いている。

 寂しげなその仕草。

 その背中はとてもか細く、弱々しく見えた。

 その時、ようやく俺は気がついた。

 帝国ホテルで見たマレスの暗い瞳。

 あれは、毎朝鏡の中から俺を見つめる、俺の瞳の色だ。

 血に塗れた兵士の瞳。何かを捨てて、戦うことだけに人生を捧げた者の瞳。

 俺と、同じだ。

 彼女はとても不器用で、殺す以外の方法を知らない。

 マレスもまた俺と同じ、人殺ししかできない不器用者なのだ。

 あの言葉は、なにか大切なものを失い、そして復讐を成すだけのために何かを捨てた少女の悲痛な叫びだ。


 彼女は、それを俺に伝えるためにどれだけ努力したのだろう。

 なぜ、彼女は俺にそれを伝えようとしたのだろう。


 マレスはきっと、今までもこうやってたった一人で戦ってきたのだ。

 きっと誰にも理解されるとは思わず、孤独に、たった一人で。

 かすかにウェーブのかかった栗色の髪がマレスの背中で柔らかく揺れている。

「まあ、俺もずっとそう言われているんだけどな……昔、まったく同じことを山口に言われたよ。霧崎君、俺たちはたぶん似てる」

 堪えきれず、俺はマレスの細い背中に向けて再び口を開いた。

「え?」

 マレスは驚いたように足を止めると、俺の方を振り向いた。

「似てる?」

 びっくりした表情で俺を見つめている。

「ああ。似てる、と思う」

 変なことを言ってしまったか。

 だが、もう引き返せない。

「俺たちはたぶん、思考回路が一緒なんだ。霧崎君、君はあそこで『ちょっと殺してくる』って言ったろう?」

「あ、はい」

 わけが判らないという表情でマレスが頷く。

 俺は話を続けた。

「昔、俺もまったく同じことを言ったことがあるんだ、山口の前でな。あれは新宿の駅前の立ち食いそばの店だったかな……俺たちは似たもの同士なんだと思う」

「そうなの?」

「ああ」

 俺は首を縦に振った。

「俺もあの時は山口にこっぴどく怒られたよ。『殺人狂はいらないんだ』とか言ってな。だが、他に方法が判らなかったんだ。あいつを生かしておいたらいずれ誰かが、それも子供たちが沢山殺される可能性があった。だから、殺した……霧崎君、俺も同じなんだよ。俺も、殺す以外の方法を知らないんだ」

 マレスが息を呑み、両手を口元に添えて俺を見つめる。

「だがな霧崎君、その……俺は君に同じことをして欲しくはないんだ。だからな……むやみに殺すな」

 瞳が明るく、碧色に輝く。マレスの表情がみるみる明るくなる。

 マレスの顔が一気に赤くなる。耳まで赤い。

 赤くなった頬を両手で隠しながら。マレスは再び口を開いた。

「似てる、の? わたしが、沢渡一尉に? 同じ、なの?」

 今のマレスの瞳に、影はなかった。

「ああ。似てる、と思う」

 不本意ながらも頷いてみせる。

「気味が悪いほどにな」

「そうなんだ……そっか、似てるんだ、わたしたち」

 マレスの口元が綻んだ。

「ああ。たぶん、俺たちは同類だ」

 不承不承、もう一度頷く。

 俺と同類扱いされて喜ぶ奴はそうそういない。

 だが、マレスの機嫌は何故かこの一言で持ち直したようだった。

「えへへ、そうなんだ。そっか、似たもの同士なんだ、わたしたち」

 マレスの顔に含羞んだような笑みが浮かぶ。

 堪えられないかのようにマレスの笑みが大きくなる。

「それとな、霧崎君。俺たちの仕事はなんだ?」

「なにって、敵を殺す、こと?」

 マレスが困惑した表情を浮かべる。

「そうじゃない。俺たちの仕事は治安維持だ。敵を排除し、治安を維持するのが俺たちの仕事だ。だから、俺たちは絶対に負けられない」

 これも、山口の受け売りだった。

 だが、これだけはマレスに理解して欲しかった。

「勝つだけじゃあ、ダメだなんだ。勝って、敵を排除して、そして生きて帰る。それで初めて任務完了だ。途中で死んだら、ダメなんだ」

 妙に真剣な瞳でマレスが俺を見上げる。

「だからな、霧崎君……もう少し自分を大切にしろ」

 マレスが驚いたような表情を浮かべる。

 だが、その表情はすぐに明るい笑顔にかき消された。

「……うん。判りました。気をつけます」

 頬を紅潮させたまま、マレスが子供のように頷く。

 俺は再びマレスと並んで歩き始めた。

 以前よりも距離が近い。肩がぶつかりそうだ。

「ところで沢渡一尉、あの時わたしのことを『マレス』って呼んでくれたでしょ?」

 ふいにマレスが俺に話しかけてきた。

 見ればまたマレスの顔が赤くなっている。

「……ああ、呼んだ、かもな」

 俺はあのサイボーグとの死闘を思い出しながら答えて言った。

「あのね、あの呼び方とっても嬉しかったの」

 マレスが照れ笑いのような笑みを浮かべる。

「だから、もしよければですけど」

 マレスは俯いてもじもじした。

「あの、もしよければこれからわたしのことは『マレス』って呼んで下さらないかしら」

 足を止め、俺の正面から上目遣いに俺を見つめる。

「ダメ?」

「いや、ダメってことはないが……」

 確かに、ダメってことはない。ダメってことはないが……

「わかった。じゃあこれから君のことはマレスって呼ぶよ」

 仕方なく俺はうなずいた。

「ほんと? 嬉しい!」

 マレスの笑みが大きくなった。

「でね、もう一つお願いがあるんです」

「今度はなんだ?」

 もうどうとでもなれという気分だった。

「あのね、わたしなんとなく「沢渡一尉」って呼びたくない気分なんです」

「じゃあなんて呼ぶんだ?」

 沢渡一尉って呼びたくない? じゃあどう呼ぶつもりなんだ?

「そうかといっても、沢渡さんっていうのもよそよそしいですしねえ。うーん……」

 腕組みをしてマレスが考え込む。

 と、何か思い付いたのか、急にマレスの表情が明るくなった。頬が興奮に紅潮している。

「『和彦さん』じゃ、ダメ、ですか?」

『和彦さん』? うわ、やめてくれよ。

 とは言え、マレスの真剣な表情を見ていると断れない。

「わかった。構わんぞ」

 最終的に俺は頷いて見せた。

「嬉しい。ありがとう、和彦さん!」

 ふいに、まるで照れ隠しでもするかのようにマレスは背中を向けると、基幹エレベーターに向けて駆け出した。

「急ぎましょ、和彦さん。クレアさんが待ちくたびれちゃう」

「おい、通路は走るな」

「和彦さん、早くー」

 さっそく新しい呼び名を使いながら、基幹エレベーターに繋がる通路の向こうで振り返ったマレスが片手を降る。

 俺はマレスの背を追うようにしてエレベーターホールへと向かった。


+ + +


 クレアと合流したのち、俺たちは車でマレスのホテルに向かった。借り物の服ではやはり居心地が悪いのか、マレスが着替えを取りに戻りたがったのだ。

 この車はホンダの大型スポーツカー、スケルツォをベースに装備開発部の車両技術課が改造した特別製の高速戦闘指揮車両だ。もともと一基だったマイクロガスタービンエンジンを強引に二基に増設した直列式ハイブリッドエンジンは八百馬力を遥かに超える出力を叩き出す。

 走行に使われる高出力超伝導モーターは全部で八基、それぞれのタイヤに二つずつモーターが配置されているため加速性能は強烈だ。2バイ2のリアシートは取り外され、横向きレイアウトで戦闘支援オペレーター席がなかば無理やり押し込まれている。

 スケルツォのコクピットはまるで戦闘機のキャノピーのようにフロントグラスが頭上近くまで迫っているため、特に運転席と助手席は視界が広い。

 靖国通りを西進し、右手に歌舞伎町の雑然とした街並みを見ながら新宿のダウンタウンを抜ける高架道路を走る。助手席側に遠く、重層化された新宿駅の巨大な構造物が見える。

「しばらく見ないうちにまた大きくなってる……」

 助手席に座るマレスがぼんやりと外を眺めながら、夕暮れの藤色の雲の中に浮かぶ新宿駅の巨大なシルエットを指さして言った。

 忙しげに資材を上げたり首を振ったりしているクレーンの影絵が駅の左右に小さく見える。

「ああ。無計画にどんどん拡張しているからな」

 新宿駅の重層化は長年混雑に悩まされていたJRと区が打ち出した新宿駅再開発の切り札だった。

 まるでクリスマスツリーのように派手な外見と相まって、この巨大な建造物は今では東京の新しい観光名所になっていた。しかも空中権を獲得し、日照権を解決できれば拡張は思いのままとあって、この空中テラスは年々拡大を続けている。

 ビルの谷間から覗く新宿駅の空中テラス群は、まるで装飾過剰のデコレーションケーキのように見える。

 複雑に重なり合った高さ百五十メートル、差し渡し七百メートルにも及ぶこの巨大建造物はまさに旧市街を覆い隠すためのゴミ箱の蓋だ。

 夜になればライトアップされたきらびやかな姿を見せるのだろうが、夕方のまだ明るい光の中ではただ巨大で醜いだけだ。

そら君と行きたかったな」

 左側に見える新宿の街を眺めながらマレスはぽつりと呟いた。

「宙君、楽しいことなんにもしないうちに死んじゃった」

 俺はスケルツォを運転しながら黙って隣のマレスに目をやった。

 仕事以外で新宿や渋谷に行かなくなって久しい。

 涼子と二人で楽しい時を過ごした場所を一人で訪れるのは辛かった。

「マレスさん? そんなふうに考えてはいけないわ」

 その時、後ろからクレアがマレスに話しかけてきた。

「楽しいことがなかったなんて思ったら宙君がかわいそうですよ、マレスさん」

「そう、でしょうか?」

 マレスが肩ごしにクレアの方を振り向く。

「そうですよ。確かにマレスさんの弟さんの人生は不当に短かったかも知れないけど、それで楽しいことがなかったなんてことはないはずなんです。それよりもマレスさんは自分のことを考えないと。宙君が心配しますよ」

「そう、なのかなあ。宙君を心配させるのは嫌だなあ」

 気がつくと、マレスの口調はすっかりくだけていた。

 まるで大輪の薔薇が花開くがごとく、マレスは俺たちに心を開いたようだ。

「マレスさんは、自分の人生を歩まないと。その方が宙君だって嬉しいはずです……」

 俺は二人の会話を背後に聞きながらスケルツォを緩やかに減速させると、新宿大ガードの架線を跨ぐバンクを回った。


+ + +


 十分で戻るというマレスをホテルの玄関先で降ろすと、俺はベルキャプテンの誘導に従って地下駐車場入口の横に作られた車止めの片隅にスケルツォを停車させた。

 エンジンを切り、背中をバケットシートに預ける。

 マレスは変わった。

 ぼんやりと彼女の変化を考える。

 以前は、あんなに親しげな女性ではなかった、気がする。帝国ホテルで初めて会った時、市谷での出来事、そして通路での会話。

 急激に接近してくるマレスに正直俺は戸惑っていた。

 背後で冷機運転を続けるタービンエンジンのファンの音が心地よい。

 微かな唸り声を上げながら、サーボモーターが車体側面に備えられたインテグラルエアインテークのフィンを動かす。

「和彦」

 ふいに、背後のオペレーター席からクレアが俺に声をかけた。

「ん?」

 首を巡らし、左側のクレアの方を振り返る。

 背後のオペレーター席のモニターに下から照らされ、クレアの顔が青白く浮き上がって見える。

「和彦は彼女のことをどう思っているんです?」

「マレスのことか?」

「はい」

 クレアは頷いた。

「そうだな」

 少し考える。

「なんかアンバランスな子だな。戦っている姿はキリング・マシーンそのものなのに、貴族みたいに見えることもある。そうかと思って話せばまるで小娘みたいじゃないか。不思議な子だ」

「いいえ、和彦。私が聞いているのはそんなことではないんですよ。本当に鈍い人ですね」

 クレアはため息を漏らしながら静かに首を横に振った。

「彼女は、きっと和彦のことが大好きなんです。それも、とっても。まるで磁石がお互いを引き寄せ合うみたい」

 クレアはまるで明白な事実を告げるかのようにさりげなく俺に言った。

 クレアのその言葉にドキリとする。

「……どうしてそう思う?」

 ようやく、俺はクレアの言葉に返事をした。

「見ていれば判ります。最初は心を閉ざしていたみたいですが、今では手を替え品を替え、和彦の分厚いガードをなんとか突き破ろうと一生懸命じゃないですか。それに和彦、あなただってそれが嫌な訳ではないんでしょう?」

 クレアがさらに鋭く斬り込んで来る。

 クレアには何も隠せない。

 一瞬ためらったが、俺はクレアに答えて言った。

「ああ……そうだな」

 マレスがずかずかと俺の中に斬り込んでくる。強烈な引力で俺のことを引きつける。

 俺が長い時間をかけてようやく張り巡らした硬い殻を突き破り、マレスがなんとかして中に入ろうともがいていることが俺にも判る。

「和彦」

 そんな俺の様子を見ていたクレアが再び口を開いた。

「あの子は今までとっても孤独だったんです。それが和彦を見つけた。いまではもう必死です。なんとかして和彦の隣に立とうとしています」

 隣に立つ?

 始め、俺はクレアが何を言っているのか理解できなかった。

「マレスさんは和彦と同じ孤独、いえ、ひょっとしたらもっと深い孤独と絶望を抱えているんです。だからこそきっと、彼女には和彦の孤独が判るのでしょう。彼女が和彦に惹かれたのはそのせいかも知れませんね」

 クレアが濃いブルーの瞳でまっすぐに俺を見つめる。

「今までマレスさんの隣には誰もいなかった。でも、今は和彦、あなたがいます。きっとあなたはマレスさんの良い救いになりますよ。せいぜい上手におやりなさいな」

「…………」

「彼女は本当にあなたと同じなんですよ、和彦。復讐が、ただ、それだけが彼女の生きる理由だったんです。それは彼女の今までの闘い方を見れば明白です。彼女はおそらく、今までは死んでもいいと思っていたのだと思います」

 あの彼女の格闘戦。確かにあれは自分の生死を度外視した戦い方だ。

 クレアは言葉を続けた。

「しかし和彦、今はあなたがいます。であれば和彦、あなたは彼女の気持ちに応える義務があります」

 クレアは柔らかい笑みを浮かべると、

「それに、さっきも聞きましたけど、和彦もマレスと一緒にいて楽しいのでしょう?」

 と横目で見ながら俺に言った。

「いや、俺は」

 図星を突かれて思わず口ごもる。

「嘘をついても無駄ですよ、和彦。……あなたは本当に嘘が下手」

 いつの間にかに、クレアはマレスを呼び捨てにしていた。

「簡単に言うけどな」

 俺は無理やり、搾り出すように答えた。

「しかし、俺は人の好意に対する答え方を知らない」

「もっと心を開いてあげればいいだけじゃないですか」

 クレアはこともなげに言った。

「簡単なことです。何を怖がっているんですか、和彦。ただ彼女の居場所をあなたの中に作ればいいだけの話です」

「……お説教かい、クレア」

 我ながら俺の声は弱々しかった。

「いいえ和彦、違いますよ、アドバイスです。和彦の数少ない友人の一人としての」

 クレアは優しくにこりと笑った。

「マレスはもう心を開いているじゃないですか。次はあなたの番です。あなたが心を開けば、きっとマレスはあなたの支えになります。いいじゃないですか、たまには支えてもらうのも。それがマレスを支えることにもなります」

 俺はクレアに答えることができなかった。

 マレスを俺の傍に置く? マレスに支えてもらう?

 それはまったくもって想像のつかないことだった。

 クレアはそんな俺を無言のままじっと見つめていたが、ふと目を逸らすと寂しげに顔を伏せた。

 流れた長い銀髪がクレアの表情を覆い隠す。

 どうやらガスタービンエンジンの冷機運転が終わったようだ。

 バイパスファンが停止し、車内が静寂に満たされる。

 遠くを走るパトカーのサイレンの音が微かに聞こえる。

「……でも、正直にいうと和彦」

 珍しく口ごもりながらクレアが呟く。

「私は、マレスが、少し羨ましいです」

 クレアが黙り込む。

 しばらく逡巡したのち、再びクレアは口を開いた。

「私も人の好意は判りますし、私にもそういう感情はあります。でも、恋愛感情は違います。私は和彦のことが好きですが、それは恋愛感情とはおそらく違います。マレスのしていることは私には真似できません。だから、私はマレスが羨ましい、です」

 その時、ベルキャプテンが恭しく開いたホテルの大きな玄関ドアからマレスが出てくるのが見えた。左肩に茶色いエルメスのトートバッグを掛け、取り澄ました様子でゆっくりと上品に歩いて来る。

 だが左右を見回して濃紺のスケルツォを認めた瞬間、マレスは周囲を照らすような明るい笑顔を浮かべながら左手を振り、こちらに向かって走り出した。

『お待たせしましたー』

 マレスが助手席に貼りつき、頬を少し上気させながら手の甲で窓を叩く。

 着替えたマレスはカーキ色のチノパンツの上に白いボタンダウンシャツを合わせ、月に咆哮する狼のエンブレムが肩に縫い付けられた濃紺のコンバットジャケットを右手に抱えていた。

 俺と同じような服装に着替えてきたのだ。これではペアルックだ。

「ほら、ね?」

 後ろでクレアは片目をつぶると優しく微笑んだ。


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