第10話
僕は、あめといるといつも調子が狂った。
いや――こういう言いかたでは正確じゃないな。もしくは、こういう言いかたじゃ足りないな。
正しくは、きっとこうだ。
僕は、あめやあめの周りにいる人達といると、いつも調子が狂った。
でも。
それでも、僕は。
あの将棋道場に通い続けた。
将棋道場に行く途中の道に、飲物を売ってる自動販売機があった。
ある日、僕がその前を通りかかると、ちょうどあめと琥珀が自動販売機の前にいた。
「よーし、あめはどのジュースが飲みたいんだー?」
琥珀はそんなのんきなことを言いながら、あめを抱っこして自動販売機のジュースを選ばせてやってた。
「えっとねえ――あめ、もものジュースがいい!」
「よーし、桃のジュースだな。待ってろ、今兄ちゃんが魔法でここから桃のジュース出してやるからなー」
えっ、魔法? と、僕は目をまるくした。琥珀はポケットからカードを取り出して、自動販売機の電子マネー決済のためのボードに当てて、ハッ! と気合を込めた。
「よーし、あめ、今兄ちゃんが魔法使ったから、あめの好きなジュースのボタン押してみな」
「うん!」
あめは大喜びで桃のジュースのボタンを押した。当然のことながら、桃のジュースのペットボトルが、ガコンッ! と取り出し口に落ちてきた。
「しゅごいね、にに! まほうだね!」
「どーだ、凄いだろー」
「ただ電子マネー使っただけじゃないか!」
僕は大人げなくもそうツッコミを入れた。
もっとも、その頃の僕は、それが大人げないことだということすらわからない子供だったんだけど。
「おいおい陸翔、おまえ、『高度に発達した科学技術は、魔法と見分けをつけることが出来ない』っていう、SF業界の有名な言葉を知らねえのか?」
琥珀は平然とそんなことを言ってニヤニヤ笑った。
「知らないよ、そんなこと」
「そうかそうか、おまえはまだガキンチョだから、知らなくってもしょうがねえな」
「ガキンチョの僕よりもっとガキンチョなあめをだますのはよくないと思うよ」
「だましてねえよ、楽しませてやってるだけだよ」
「おんなじことだと思うんだけどな……」
「いーや、全然違うね」
琥珀はそう言って、またニヤニヤと笑った。
「お、そうだ、陸翔、おまえちょうどいいとこに来た。おまえ、これからあの将棋道場行くよな?」
「え――まあ、行くつもりだけど――」
「そうか、そりゃよかった。じゃあ、いっしょに行こうぜ。ついたら話がある」
「ここで話せば?」
「ああ――あめのことで、ちょっと、あれだ、あれ」
琥珀はそう言いながら、僕達の話の内容を全然気にもせずに、ほんとにびっくりするくらい一所懸命になって、桃のジュースをコクコク飲んでるあめのほうをチラッと見た。
「なんだかよくわかんないけど――それなら、まあ、ついてからでもいいよ」
僕は渋々うなずいた。
「よし。それじゃ――あめ、陸翔もいっしょにパチパチのおうちに行くってよ」
「ほんてょー?」
あめはポヤポヤした声でそう言いながら、うれしそうににっこり笑った。
「りくにぃ、また、あめとパチパチしゅるー?」
「……まあ、してやってもいいよ」
僕はぶっきらぼうにそうこたえた。
僕がそんな態度をとったっていうのに、あめはやっぱりうれしそうに笑って、その上、小さな両手でパチパチ拍手までした。
「――で? 話って何?」
将棋道場で、僕はやっぱりぶっきらぼうに琥珀にそうたずねた。あめのことは心配なかった。あめは、将棋道場の年寄り連中――もとい、御年配のかたがたに大人気だったから、僕達が話している間、あめを見ていてくれるっていう人はそれこそいくらでもいた。いくらでもいすぎてあめの取りあいになったくらいだ。
それはさておき。
僕と琥珀は、二人きりで話していた。
「さっきも言ったけど、あめのことでな」
琥珀は、フッとため息をついた。
「あめが、どうかしたの?」
「ああ、あのな、あめがおまえと、『みんないるパチパチ』をしたいって言ってるんだ?」
「え? みんないるパチパチ、って――」
「あー、つまりあれだ、駒を全部使った将棋、ってことだ」
「え、でも、あめは、普通の将棋指すと、途中で疲れて目を回しちゃうじゃない?」
「ああ、そうなんだけど、それでもあめは、おまえと普通の将棋が指したいんだと」
「え……なんで?」
僕は純粋に疑問だった。あめはその時、たったの3歳だったくせに、もうその将棋道場に通ってきてる人達のほとんどと将棋を指してしまっていた。正直なところ、僕はあめが将棋を指した相手の中で、最強だったってわけじゃ全然なかったし、マナーなんてたぶん最悪だっただろうと思う。それなのに、あめは僕と将棋を指したいんだという。しかも、あめが普段やってる、歩のない簡略版じゃなくて、普通の将棋を。
だから僕は、なんで? と思った。
「おまえみたいな相手は、あめにとっちゃ特別だからな。っていうか、おまえがあめと将棋を指すの見てて、俺にも初めて、おまえみたいな相手は、あめにとっちゃ特別なんだ、ってわかった」
琥珀はそう言って、なんだかちょっと不思議な笑い顔になった。
「それ――どういう意味?」
「んー……なんていうかなあ」
琥珀は、その細い一重まぶたの目をパチクリさせてちょっと考え込んだ。
「――あのな、陸翔と会うまで、あめは基本的に、大人としか将棋を指したことがなかったんだ。――あ、いや、ちょっと違うな。えーっと――」
琥珀はまた考え込んでから、ポンとその肉づきのいい手を打ちあわせた。
「ああ、そうだ、こう言えばいいんだ。あのな、陸翔、あめは、おまえと会うまで、将棋に負けて本気で悔しがるやつと、将棋を指したことがなかったんだ」
「え? そんなことってあるの?」
「あめの歳なら、あるんだな、これが」
琥珀は重々しくうなずいた。
「これで、あめが13歳っていうんなら、そんなこともなかったんだろうけどな。でも、あめはまだたったの3歳だ。だからな陸翔、おまえと将棋を指すまで、あめと将棋を指した連中はみんな、自分が将棋に勝っても負けても、基本的に機嫌よくニコニコしてたんだよ。だって、相手はたった3歳のガキンチョだからな。そんな相手に負けたからって、本気になって機嫌悪くしたり怒ったりするやつなんて、今までいなかったんだよ。少なくとも、あめの相手をしてくれた連中の中にはな」
「……なんだか、僕がすっごく大人げないやつだって言われてるような気がするんだけど」
「だっておまえはガキじゃねえかよ」
琥珀はあっさりとそう言い放った。
「だから、うん――だから、あめにとっちゃ、おまえが特別なんだよ。だって、今まで一度も見たことのない反応をする対戦相手だったからな」
「……やっぱり、馬鹿にされてるような気がする」
「馬鹿にしちゃいねえよ。ただ、事実を告げてるだけだ」
琥珀は真顔でそんなことを言った。
「だからあめは、またおまえとパチパチがやりたいんだと。しかも、今度は本格版で」
「いいの? そうしたら、あめ、また目を回して倒れちゃうかもよ?」
「そうだな。それに、もしかしたらあめ、ションベンもらしちまうかもな」
「え!? な、なんで!?」
「真剣に考えすぎて」
琥珀は、やっぱり真顔でそう言った。
「江戸時代の囲碁の名人のエピソードで、あんまり真剣に次の一手を考えすぎて、自分がションベンしたいっていうのにも気がつかなくて、碁盤の前に座ったまんまションベンもらしちまった、っていうのがあるんだけど、あめもな、真剣に考えすぎると、自分がションベンしたいってこともわかんなくなっちまうんだ。うちで詰将棋考えてた時、あめ、一度もらしちまったことがあってな。あめなー、今、夜はあれだ、トレーニングパンツっていうのか? オムツみたいなパンツっていうか、パンツみたいなオムツっていうか、そういうのはいてるけど、昼間はもう、一人でトイレに行けるんだ。全然失敗とかしねえ。あめ、頭がいいからな。夜はしょうがねえけど、昼間のオムツは結構早くとれたんだ。でも――将棋のこと真剣に考えてると、あめはもらしちまうんだよ。もらしちまった時、あめ、恥ずかしいのと悔しいので泣いちまってなー。あめはまだ3歳だけど、3歳児には3歳児なりの、プライドってやつがあるんだよ」
琥珀は優しい、真剣な顔でそう言った。
「それでもやっぱり、あめはおまえと将棋が指したいんだと。なあ、陸翔、あめと将棋を指してやってくれるか? まあ、もちろん、あめと将棋を指すも指さないも、おまえの自由なんだけどな」
「……そういう話を聞いといて断ったりなんかしたら、なんだか僕が、すっごく薄情なやつみたいじゃないか」
「おお、よくわかったな! うんうん、まったくもってそのとおりだ!」
そう言って、ニヤニヤうなずく琥珀のことを、物凄く憎たらしいやつだ、と僕は思った。
でも、だからといって、それがあめと将棋を指す邪魔になるっていうことは、なかった。
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