秘密のひととき
「雨、ですか」
「雨だねぇ」
喫茶店の奥に位置する、二人用のテーブルにて。
ミルクティーを口にしていたわたしと、その向かいで珈琲を飲んでいた男性――桜井健人は、窓の外を見ながらほぼ同時に呟いていた。
「俺、傘持ってきてないよ」
少し落胆した様子で、桜井先生がつぶやく。
「午後から雨が降るって言っていたのに。もしかして、天気予報見てなかったんですか」
「家を出るときは降ってなかったから、大丈夫かなって思って」
えへへ、と照れたように笑いながら頭を掻く先生に、わたしはわざとらしく呆れたような溜息をついた。
鞄の中にふと目をやると、折り畳み傘が一本。この前行ったショッピングモールで、少し大きめだと宣伝文句が付されていた、晴雨兼用傘だ。
何度か使っているが、確かに広げてみると大きめだった。わたしは小柄な方なのですっぽりと身体全体を覆われ、これ一本で直射日光からも雨からもしっかり身体を守ってくれる。使い勝手も良くて、わたしはこれをなかなか気に入って使っていた。
けれど、一応折り畳み傘だし……二人も入れるだろうか?
……まぁ、大丈夫だろう。もし無理だったら、コンビニかどこかでビニール傘を買えばいいだけの話だ。
そう結論付けて、わたしは先生の方に向き直った。彼は相変わらず、困ったような表情で窓の外を見つめている。
「すぐ止むといいんだけど……」
「先生」
「ん?」
こちらへ顔を向け、こてりと首を傾げてみせる先生に、わたしは鞄から取り出したライムグリーンの折り畳み傘を軽く振って見せた。
「ちょっと狭いかもしれませんけど、入っていきませんか」
「いいの?」
黙ってうなずくと、先生は途端にぱぁっと表情を明るくした。外はあいにくの雨だが、彼の笑顔は今日も相変わらず調子よく晴れわたっているようだ。
わたしの好きなこの笑顔が、今の空模様にも少しぐらい影響されればいいのにな、とわたしは人知れず思った。
――喫茶店を出ると、ライムグリーンの大きな影に包まれ、雨が傘に当たるぱらぱらという音を聞きながら、わたしたちはしばらく二人で歩いた。
二人で入りきれるだろうかという当初の考えは、結局杞憂に終わった。宣伝文句通り、この傘はやっぱり十分に大きくて、わたしの身体はもちろんのこと、先生の身体までもすっぽりと覆ってくれている。
わたしと先生では頭一つ分くらいの身長差があるため、現在傘は先生が持ってくれている。
雨だからか人通りはあまり多くなく、いつも以上に空いた道を、互いにゆっくりとした足取りで歩いて行く。いつもなら手をつないで歩くから、必然的に同じようなスピードになるのだけれど、今日は先生が傘をさしていることもあって、先生の方がわたしに歩幅を合わせて歩いてくれているようだった。
普段の言動は無邪気な子供を連想させるような人だけれど、そういう何気ない気遣いができるところが、先生はその辺の男性よりもよっぽど大人びているのではないだろうかと思う。
……惚気ているように聞こえるかもしれないけれど、わたしにとっては事実だから仕方がない。まぁ、こんなこと本人には絶対言ってやらないけれど。
少し歩いて行くと、いつの間にか先ほどよりも人通りのない場所に来ていた。雨の休日だから、みんな家で過ごしているんだろうなぁ……と、なんとなくぼんやり思っていると、不意にさっきまで黙っていた先生が口を開いた。
「奈月」
互いに『照れくさいから』という理由でめったに呼ばないはずの下の名前を、先生がいきなり口にしたことに、わたしは少なからず驚いた。
振り返ってそちらの方を見ると、彼が優しく微笑みながらこちらを見ていた。目をぱちくりとさせている間に、先生はまるで二人の姿を隠すかのように、傘を少しだけ前に傾ける。何をするのだろうと完全に思うまでもなく、彼の顔がすっとこちらへ近づいてきた。
大きな傘の下、それはあまりにさりげなく、しかも一瞬だった。
思考が追い付かず、何をされたのかよくわからなかったけれど、その柔らかな感触と温もりだけはしっかりとわたしの唇に残る。
「……っ」
カッと顔が熱くなって、わたしは思わず口元を両手で覆った。そんなわたしを見ながら、先生がまるで悪戯に成功した子供のように、勝ち誇ったような笑みを見せる。
「びっくりした?」
「……っ、健人さんの馬鹿」
赤くなった顔を見られたくなくて、思わずそっぽを向く。大人げないとは思いながらも、そうせずにはいられなかった。
先生が機嫌良さそうに笑う声を、わたしは真っ赤に染まっているのであろう顔を背けたまま、唇を尖らせ聞いていたのだった。
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