私と一緒にいれば安心
ガタン、ガタン……。
電車が走る独特の音以外、他に聞こえるものはなかった。喋り声も、誰かが歩いてくる足音も、何もしない。他の両にはもしかしたら少しぐらい誰かいるのかもしれないが、少なくとも俺の視界の範囲内に人はいなかった。
電車内は今、座席に座る俺と彼女の二人きりだった。
――俺は免許を持っているので、いつもなら出掛ける時は車で移動している。しかし今日はなんとなくいい天気だったから、『たまには電車で移動しようよ』と俺がいつものごとく突然言い出したのだ。
会うたびに俺の突然の思い付きに振り回されている(と、自分で言うのもなんなのだが)彼女――藤野奈月はその時、またか、というように心底呆れた表情をしたが、やがてフッと小さく笑うと、優しい声で『仕方ないですね』と言って了承してくれた。
現在乗っている各駅停車の数両しかない小さなローカル電車は、若干田舎気味であるこのあたりではごく当たり前に走っているのだが、近頃では特急電車や新幹線、地下鉄などがよく利用されるためか、利用する人はあまりいない。また、ほぼ一時間に一本しかやってこないため、一度逃すと駅で時間をつぶすのが大変だったりすることも、敬遠される原因の一つである。
かくいう俺も、学生時代は通学手段としてこのローカル電車を用いていたものの、免許を取ってからはまったくもって利用することがなくなっていた。
だからこそ、最近ふと古びた最寄り駅の前を通りかかった時……懐かしいという気持ちがむくむくと湧いてきたのだ。もう一度電車に乗ってみたいと、考え付いてしまったのだ。
それがたまたま藤野と会う約束をしていた前日のことだったから、そのまま一緒に彼女を巻き込む羽目になってしまったというわけなのだが……。
でもまぁ、いつもと違う時間を藤野と穏やかに過ごすというのも、たまにはいいだろう。
というか、彼女と過ごせるならもう何でもいいや。
ガタン、ガタン……。
車内の揺れに合わせて、彼女の身体が左右にゆらゆらと動いている。その黒髪から香る甘い匂いが、時折ふんわりと俺の鼻を優しくくすぐった。
耳を澄ませば、小さな寝息の音。藤野は俺の傍らで、心地よさそうにすやすやと眠っていた。
カーブを描いた線路の上に来たのか、それまでのどかに走っていた電車が、一瞬大きくがたり、と揺れる。少し遅れて、彼女のぐらついていた重心がこてり、と傾いた。幸い通路側ではなく、俺のいる窓側に来たため、彼女の身体は支えのない通路へと落ちずに済んだ。
が……その代わり、彼女の身体は俺の肩のあたりにぐったりともたれかかる状態になった。
全身から力を抜いているためか、全体重にも等しい重みが、俺の肩にかかる。しかし彼女は身体が軽いので、そんなに苦痛を伴いはしなかった。むしろそれは、一種の心地よささえ感じる。
彼女が今、ここにいると。そう実感させてくれる、確かな重みだった。
もたれかかってくる藤野の体重と、暖かな体温。そして規則正しく聞こえてくる、小さな呼吸音。俺はそれらが心底愛おしいと思うし、あわよくば独り占めしてしまいたいとさえ思う。相当彼女に惹かれているのだなぁ……と、我知らず実感させられてしまった。
うつむいていて、俺からはその表情をうかがうことができない。けれどきっと、高校の時と同じような表情をしているのだろう。
かつて藤野が高校生で、俺の勤める街外れの塾に通ってきていた時……一度、俺の前で倒れてしまったことがあった。医務室のベッドで眠る彼女のまだあどけない寝顔をあんなに近くで、真正面から見つめることができたのは、あの時だけ。
もう何年も前のことになってしまったけれど、その時の発展途上だった気持ちを思い出して、俺の胸はほんわりと暖かくなった。もたれかかってくる藤野の身体を見下ろしながら、自然と頬が緩む。
窓側でだらんと垂れ下がっていた手を伸ばし、彼女の髪に触れる。つややかなそれは指通りがよく、毎日丁寧に手入れされているのであろうことがよくわかった。
俺が好き勝手髪の毛を弄っているというのに、彼女に目を覚ます気配は微塵もない。……まぁ、もしこれぐらいで起きるのだったら、先ほど電車が揺れた時点でとっくに起きているはずだと思うのだが。
藤野は変わらず穏やかそうに、すぅ、すぅ、と寝息を立てている。
もしかして、安心してくれているのかな。俺と一緒にいることで、俺が隣にいることで、彼女は少しでも安らいでくれているのだろうか。
そうだと嬉しいな、と俺は思った。
普段起きている藤野の容赦ない毒舌や、出会った頃よりもずっと豊かになった表情や、鈴がリンと鳴るように透き通った声を、今は感じることができない。けれどそれでも、現在こうして愛らしく寝息を立てている、普段よりずっと静かな彼女と過ごすのも悪くはないと思う。
変わらず外で響く、ガタン、ガタンという単調な音。隣にいる彼女の寝息。そして、凭れかかってくる彼女の体温……。
その全てが心地よくて、俺はだんだんと眠気を感じてきた。うつらうつらとしているうちに意識が飛びそうになり、彼女の髪を撫でる手がだんだんと不規則になっていく。
いつの間にか俺は、藤野の頭に置いていた手をそのままに、半ば彼女を抱きすくめるような形でしなだれかかると、急速に眠りの世界へ入って行ってしまっていた。
さすがの違和感に目を覚ましたらしい藤野が、顔を真っ赤にしながら俺を起こしにかかるまで。
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