ほのかな喜び

 今日の桜井先生は、妙にご機嫌斜めだった。

 眉間にしわを寄せながら黙っているとか、ピリピリしたオーラをかもし出しているとか、そういうわけではない。なにぶん彼は他の男の人よりも精神年齢が低いので、そんなこちらがびくびくしてしまうような怒り方はしないのだ。

 ただ黙ったまま、欲しいものを買ってもらえなかった小さな子供のように、終始頬をぷくぅっと膨らませていた。

 まぁ……怒っているというよりは、拗ねていると言った方が正しいだろう。

 何故かはわからない。原因に心当たりは全くないし、彼も口を開いてくれない。

 どうしたものか……と思い、わたしは一つため息をついた。聞き分けのない子を諭す母親のような気持ちで、できるだけ優しい声色で話しかけてみる。

「どうか、なさったんですか」

「……」

 相変わらず彼は黙っている。完全に機嫌を損ねているようだ。わたしは再びため息をつくと、いい加減にしてください、という意味を込めながら彼を呼んだ。

「先生」

 すると、彼はようやくこちらを見た。心なしか、さっきよりも頬が膨らんでいる。どうしたのだろう、と首をかしげながら、もう一度彼を呼んだ。

「先生?」

「それだよ!」

 唐突に、顔の前へびしっと指を指された。わけがわからず固まっていると、彼がまくしたてるように口を開く。

「ずっと気になってたんだ、その呼び方。もう俺は君の先生じゃないんだよ? なのにいつまで君は、俺のことをそう呼ぶわけ?」

 あぁ……なるほど。

 わたしはようやく納得した。どうやらわたしが彼を『先生』と呼ぶことが、どうにも不満らしい。

 彼の気持ちも、わからないではない。確かに彼はもうわたしの先生ではないし、わたしは彼の生徒ではない。わたしはとっくに高校を卒業して、彼の勤める街外れの塾を辞めている。こういう関係になった以上は、もう『先生』という呼び方はしてほしくないのだろう。

「あなたの言い分は分かりました。でも……」

 でも、それならこっちにだって言い分がある。

 わたしは彼に対抗するように、強気に腕を組んだ。とたんに彼は、不思議そうに首をかしげる。

「藤野?」

「それですよ」

 上目づかいで彼をじろりとにらみ、わざと怒っているような低い声を出した。

「あなたこそ、わたしのこと今でも『藤野』って名字で呼ぶじゃないですか」

 彼はハッとしたように目を見開いた。そんな彼を見つめたまま、今度は少し悲しそうな声を出してみる。

「いつまでも『先生と生徒』の関係から変わってないようで……わたし、ちょっと寂しいんですよ」

 あなただって、同じでしょう?

「……ごめんね」

 彼は反省したようだった。うつむき加減のわたしの頭を、いつもの優しい手でゆっくりと撫でてくれる。

「俺だけが不安なのかなって、思ってた。君も同じ気持ちだったんだね」

 ちょっと、安心したよ。

 彼は哀しそうな表情から、安堵したように破顔した。わたしもつられるように自然と微笑む。

 しばらくの間その状態でいたけれど、やがて彼はわたしの頭からゆっくりと手を離した。流れるようなしぐさで、その手をこちらへと差し出す。

「じゃあ、改めて。行こうか、奈月」

 あまりにサラッと言われたので、一瞬何を言われたのか理解できなかった。頭の中で彼の言葉を反芻し、みるみる顔が熱くなっていく。

 また、やられてしまった。

 そう思いながら、わたしは仕返しとばかりににっこりと笑って、彼の手に自らの手を重ねた。

「はい、健人さん」

 彼の顔が――おそらく、わたしと同じように――ほんのり赤く染まったのを横目で確かめながら、つないだ手はそのままに、わたしは彼からさりげなく顔をそむけたのだった。

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