幸せを願っています
今日は一年に一度の、とても大事な日。わたし――藤野奈月にとって決して忘れてはいけない、特別な日だった。
大学の授業を終えると、すぐにわたしは荷物をまとめた。いつもは大学で使うものを入れた鞄しか持たないわたしだが、今日はもう一つ、大事なものを入れた手提げ鞄を携えている。
準備を整え、キャンパスを足早に出る。別に急ぐようなことでもないのだが、あまり遅くなってしまうと、おかあさんに心配を掛けてしまう(過去に一度だけ怒られてしまった)から、出来る限りさっさとしなければならない。早めの時間に、あの場所へ着かなければならないのだ。
うつむきがちに歩いていたので、わたしは前に人がいることに気付かなかった。いきなり視界へ飛び出てきた、見慣れた男物の靴に、驚いて思わず後ずさってしまう。
叫び声を上げそうになるのをすんでのところで押さえ、わたしは目を見開いたままでバッと顔を上げた。
「っ……さ、桜井先生」
「やぁ、藤野」
わたしの目の前――頭上、と言った方が正しいかもしれない――でにっこりと笑みを湛えている桜井健人は、驚くわたしをよそに、ためらいもなくこちらへと手を差し出してきた。
「行こう?」
「えっ……」
どこへですか、とは聞かなかった。多分彼は、わたしがこれから行こうとしている場所を知っているのだろう。だって前に、教えたことがある。
だからわたしは、代わりに答えた。
「だって、いつも……」
いつもわたしは、あの場所へは一人で行くじゃないですか。
そう言おうとした言葉は、あっけらかんとしたシンプルな言葉に遮られた。
「今年は、俺も連れてってもらおうと思って」
ね、いいでしょ? と子供みたいなあどけない顔で懇願されてしまったら、わたしには断る術なんてもうない。
「……わかりましたよ」
わざと大きな溜息を吐く。彼の顔が、その瞬間ぱぁっと華やいだ。
あぁもう。本当にわたしは、この人に弱いというか、甘いというか、なんというか……。
「じゃあ、駐車場に車停めてあるから、一緒に行こう」
嬉しそうに笑いながら、彼は当たり前みたいにわたしが持っていた手提げ鞄を攫っていく。そしてもう片方の手でわたしの空いた手をさらっと絡め取り、何事もなく悠々と歩き出した。
そんな彼に、いつの間にかすっかり絆されてしまっている自分がいて……そんなのも悪くないかななんて思っているのだから、相当重症だ。
惚れた弱み、とはこのことだろうか。
間違っても絶対、本人には言わないけれど。
「ごめんなさい、おとうさん」
鼻歌を歌いながらわたしの手を引き、少し前を歩いている彼に、聞こえないよう小さく呟いた。
◆◆◆
ここから電車で二駅ほど行った、閑散とした田舎町に、その場所はある。
人気もなく、辺りに生い茂った木々が立ち並ぶ空間に車を停めてもらい、わたしは先生とそこへ降り立った。そこから足場の悪い山道をもう少し進むのだが、車でこれ以上行くのは危険だろうということを、この辺りに何度も来ているわたしは分かっている。
「気を付けて」
先生がわたしを案じるように言う。
本来ならここを知っているのはわたしなので、わたしが先に立って進まなければいけない立場なのだが、彼はそんなことお構いなしとでもいうように、自然とわたしを一歩後ろへ下がらせた。
わたしの手を引き、時折気遣うように振り返りながら、先生は歩く。
「こっちでいいの?」
「はい。ここの一本道を抜けたら、着きますから」
「ん、わかった」
納得したようにうなずいた彼は、それから一度も口を開かなかった。前におかあさんとこの場所へ来た時とは、また違う空気感に、戸惑いつつも安心感を覚えている自分がいる。
足場の悪い一本道をひたすら真っ直ぐに進み抜けると、やがてわたしが言った通り、目的地が見えた。広がる景色と立ち並ぶいくつもの石たちは、一年前と――もっと言うなら何年も前から、少しも変わっていない。
そこからはわたしが先導し、本来の目的地まで歩いた。この場所は神聖ともいえるような空間であるから、わたしたちは互いにそれをわかっていたから、二人とも口を開くことはしなかった。
そして――……。
「紹介しますね、先生」
ある一点で足を止めたわたしは、つられるように慌てた様子で足を止めた先生の方を振り向き、笑みを浮かべた。
「わたしの、おとうさんです」
まだそれほど古くはない、黒色の墓石。
そこには、わたしのおとうさん――藤野樹が、たった一人で眠っている。
この場所におかあさん以外の誰かを連れてきたのは、これが初めてだ。おとうさんは天涯孤独で、友人もなかったから、仕事以外の深い付き合いは皆無だったから。
今では法事の日などに、仕事仲間だった人たちが二、三人代表で来てくれる……その程度だ。毎年命日のたびに来る人なんて、それこそ娘であるわたしくらいしかいなかった。
「……誰かが、俺たちより前に来てたんだね」
初めましてというように一礼した後、おとうさんを――藤野家の墓石を見て先生がポツリと呟いた言葉に、わたしは淡々と答えた。
「おかあさんだと、思います」
おかあさんは昼間、わたしが大学に行っている間に、墓参りを済ませてきたらしい。両側に飾られた真新しい花――聞いた話では、初めてデートした時におとうさんがプレゼントしてくれたものだという――が、四月の暖かな風に揺らされてふわりと揺れる。
おかあさんを無理にここまで連れてきた、昨年の命日以来も、おかあさんはおとうさんのことについてほとんど口にしない。それでも時々その口から語られるおとうさんとの思い出話には、じんわりとした温かさを感じて……あぁ、この人は今でも、おとうさんを愛してくれているのだと、そのたびに実感せずにはいられなかった。
黙って微笑む先生の手に掛かっている手提げ鞄から、お線香の入ったケースを取り出す。十本ほどの数を目分量で適当に掴むと、ライターで火を点け、半分差し出した。
「どうぞ」
「……ありがとう」
どことなく気弱な笑みを浮かべた先生を横目でちらりと眺め、わたしは何も言わずにいつも通りの手順でお参りを済ませた。「先生も」と短く促し、役目を終えたわたしは一歩後ろへ下がる。
「……で?」
やたらと長い時間、墓石に向かって手を合わせている先生の後姿に、わたしは静かなトーンで問いかけた。
「どうしていきなり、一緒に来たいなんて言い出したんですか」
いくらわたしのおとうさんだからとはいえ……面識もない人のお墓参りに来たって、何の意味もないでしょう?
ようやく立ち上がり振り返った先生は、開口一番「わかってないなぁ」とやたら厭味ったらしく言った。
「何ですか」
むぅ、と口を尖らせ、わたしより頭一つ分ほど背の高い彼を見上げた。
ふわり、とわたしの好きな柔らかい笑みを湛え、彼は答える。その口から紡がれた答えは、至極単純だった。
「君のお父さんに、挨拶しておきたかったんだ」
娘さんには、日ごろからお世話になっていますってね。
とくん、と胸が高鳴る。
「それに君にも、俺の父さんの墓参りに付き合ってもらったしね」と続けた彼の顔を、何故か直視することができなかった。
サラッと意味ありげな恥ずかしいことを言う彼の本質は、出逢った頃からほとんど変わっていない。無意識なのか確信犯なのかは知らないが、彼のそういうところに、わたしは何度ドキドキさせられてきたことか。
そして――……何度、この人のことが好きだと実感させられてきたことか。
悔しくて彼を横目で睨むも、当の彼は飄々とした様子で、いつものように朗らかな笑みを浮かべながらわたしを見ていた。
今のわたしをおとうさんが見たら、一体何と言うだろう。
あの頃なら……何をしているんだ、離れなさいと、怒られたかもしれない。というよりも、おとうさんは間違いなくわたしを先生から引き離しただろう。
けれど、今は――……。
今でも肌身離さず持っている、おとうさんからもらった最初で最後の手紙。それが入った鞄を、存在を確かめるようにぎゅっと抱きしめる。
『奈月。今まで、本当にごめん』
何回も、何回も、読み直した手紙の内容が、脳裏によみがえってくる。
『僕は君に、父親らしいことなんて何もしてあげられなかった。それどころか、不用意に苦しめまでして……どれほどまでに贖罪しても、一生赦されないことは分かってる』
その度に胸を締め付けられ、それほどいい思い出などないはずの過去に対する郷愁が、しみじみと感じられた。
『けれど、これだけは聞いてほしい。君の父親として、僕が最後に願うこと』
それは――……。
『せめてこれからは、君の思うように、自由に生きて。そして、いつか……君の心からの笑顔を、僕が奪った様々な感情を、僕に見せてほしい。僕が咲葵子を幸せにしてあげられなかった分も、君を不幸にした分も。その何倍も、何倍も――幸せに、なって』
――ねぇ、おとうさん。
そろそろ帰りますよ、と彼の手を引きながら、わたしはどこかにいるかもしれないおとうさんに語りかける。
――わたしは今、どんな顔をしていますか? 幸せに、見えますか?
「暗くならないうちに帰らないと、おかあさんに怒られてしまいます」
「おっと、それは大変だ」
――あなたが最後に望んでくれたような、わたしになれているでしょうか?
「責任を持って、わたしのこと送ってくださいよ」
「お安い御用だ!」
「何か古いですよ、それ。やっぱりもうおじさんですね」
「むぅ……俺、まだおじさんじゃないもん」
拗ねたように頬を膨らませる先生の大きな手に、自分の手を絡めたわたしは、自然と零れる笑みをそのままに、まだ明るい春の清々しい空を見上げた。
『奈月』とわたしを呼ぶ、ぶっきらぼうな懐かしい声が、肌を心地よく撫でる春風に乗って聞こえたような気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます