移ろいゆく日々

 初めに桜井健人と藤野奈月を引き合わせたのは、私だった。

 ある女性に依頼を受けたのが、そもそもの始まりだった。


「――そうですか、子供を」

「えぇ……離婚した夫がこの前亡くなったものですから。あの人が引き取って育てていた娘が一人いるのですけれど、父親と二人暮しだったもので身寄りがなくて。わたくしが引き取って育てることに致しましたの」

 私の前には、どことなく気品のある夫人がゆったりとソファーに座っていた。流れるような仕草で出された珈琲を飲みつつ、自らの近況について話しているその姿は、さながら一つの絵画のようだ。

「それで、あなたにお頼みしたいことがあるの」

「何でしょう? 咲葵子さん」

 お嬢様に仕える執事とは、こんな気分なのだろうか。そんな風に思いながら、夫人――西村咲葵子の言葉を待った。

 咲葵子は口を開く。その表情に初めて、人間味が表れた。

「わたくしの夫は厳格な人だったでしょう。それゆえに、娘にとても厳しい教育をしたようなの。そのせいで……娘は今、ほとんど表情を無くしてしまっているのよ」

「表情を?」

「えぇ。とにかく笑わないの。最近の女子が喜ぶようなものを買い与えても全く興味を示さないし、テレビも見ない。読書はするようだけれど、参考書や論文といった類のものしか読んでいないみたいだし……外に出かけてきなさいと言っても、せいぜい買物に行く程度で」

「もしかして、友達というものは……一人もいないんですか?」

 もしや、と思いそう尋ねてみると、咲葵子は控えめに首を横に振った。

「仲良くしている子は一人いるみたいなの。だけど、しょっちゅう会っているというわけでもないというか……」

「そうなんですか」

 かろうじて、友人の一人ぐらいはいたようだ。少し安心した。

 それでも私は、これまでの彼女の話に、若干引いていた。いったいどんな教育をすれば、そんな人間が出来上がるというのだろう。

 咲葵子はさらに続けた。

「……それから変に大人ぶっているのも気になるわ。いくらもうすぐ大人とはいえ、あの子はまだ学生なのよ?」

 親の顔を見てみたいとはまさにこのことだ。彼女の話では、その張本人はもう亡くなっているというのだが。

 私の心情を察したのか、咲葵子も呆れたようにため息をついた。

「酷い話よね。このままじゃ娘は、子供心を知らないまま大人になってしまう。子供の気持ちが分からないと、将来あの子が親になった時にきっと大変な思いをする」

 そこまで語り終えると、咲葵子は可愛らしくふぅ、と息をついた。その表情は、同情にも憐れみにも満ちて見える。

「で、私に頼みたいことというのは」

「あの子も今年から高校生になるから、あなたが経営する塾に入れようと思っているの」

「入塾申し込みですか。それなら……」

「ただの塾、じゃダメなのよ」

 私の言葉を遮るように、指をピンと立てて咲葵子は言った。

「あの子には勉強ももちろんだけど、それ以外のこともいろいろと教えてやって欲しいの。具体的に言うと、楽しくはしゃぐことや笑顔になれることね」

 ふぅむ、と私は声を上げた。確かに話を聞く限り、彼女にはそういった教育が必要だろう。しかしそれは本来塾で教えるものでは……。

 思わず考え込んでしまう私の顔を、咲葵子は不安げに覗き込んでくる。

「あなたの塾でならできると信じて、お頼みしているのだけれど……ダメ、かしら?」

 そんな顔をされたら、断るに断りきれない。私が昔からそういった不安げな表情にめっぽう弱いということを、咲葵子はわかっているのだろうか。もしわかってやっているのだとしたら、相当たちが悪い。

 困った私は考えをめぐらせ、一つの結論に辿り着いた。そういえばうちには子供心をよく知る――むしろ知りすぎて扱いに困るぐらいの講師がいた。あの男なら、咲葵子の頼みに答えることができるはずだ。

 私は咲葵子の目をしっかり見据えると、にっこり笑って答えた。

「分かりました」

 一瞬のうちに咲葵子の表情が華やぐ。そんな彼女に、私はまるで自慢でもするかのごとく高らかに言ったのだった。

「うちには、ぴったりの講師がいます」


    ◆◆◆


 翌日、私は部屋に一人の男を呼び出した。

「話って何ですか、柳さん?」

 塾長であるはずの私を、気軽に『柳さん』と呼ぶその男――桜井健人は無邪気にコテンと首をかしげ、本気で自分が呼び出された理由を分かっていないかのような不思議そうな表情で言った。私はそんな健人にそれとなく椅子へ掛けるように促すと、自らも椅子に座って話を切り出した。

「あぁ。新しく担当して欲しい生徒の話なんだが」

「……なんだ、それだけですか? やけにかしこまってるから、何かあるのかと思いましたよ」

 健人が拍子抜けしたように言う。

「いや……今回は少し事情が違うんだよ」

 眉根を寄せながら、私は答えた。健人もそんな私を見て、少し改まった表情になる。

「そうなんですか……で、この写真の子がその生徒ですね」

「そうだ。名前は藤野奈月。彼女は今年からこちらの高校に入学することになっている」

 そこには、セーラー服を着た黒髪の少女が映っている。まだ幼い顔立ちだが、そこに浮かぶ表情は子供のものとは程遠い。

「彼女には勉強だけでなく、それ以外のことも教えてやって欲しいんだ」

「勉強以外というと……例えば、どんなことを?」

 内緒話でもするかのように健人が聞き返してくる。私もつられるように息を潜めた。

「楽しくはしゃぐことや、笑顔になれること。彼女は幼いころ両親が離婚して、父親に引き取られたらしいんだが……どうやら父親にはそういったことを教えてもらえなかったらしい」

 だからこんな風にあどけない表情のない娘なのだ、と言外に込める。健人は苦虫を噛み潰したような表情をした。それは父親に対する嫌悪からか、娘に対する同情からか……傍目からはわからなかった。

「子供心を知らずに、今まで育ってきたということですか」

「噛み砕いて言えばまぁ、そうなる。それで君に……いつまでも少年の心を持つ君なら、彼女にそれを教えられるんじゃないかと思ってな」

「…………」

 健人は黙り込んだ。眉間には、彼の童顔に似つかわしくないほど深いシワが刻み込まれている。

「そんなに思いつめたような顔をするな。何も難しいことを頼んでいる訳じゃないだろう?」

「……いえ。少し悲しくなってしまっただけです」

 彼の瞳に痛みが浮かんだ。同情か、憐れみか――……子供らしく感受性豊かな彼のことだから、もしかしたら可哀想な境遇の少女にシンクロしているのかもしれない。

 しかしそれは一瞬のことだった。すぐに無邪気で純粋な子供のごとき満面の笑みを浮かべると、健人は自身満々に答えた。

「大丈夫ですよ。俺が絶対に、彼女を笑顔にさせて見せます」

 その笑顔を見ていると、こちらも何となくほっとした。この男なら本当に彼女を変えてくれるかもしれないと、確信を強めた。

 私も笑みを返し、机越しにある彼の肩をポンと叩いた。

「じゃあ任せたよ。学校の方も忙しいだろうが、頑張ってくれ」

 健人は表情を崩さぬまま、頼もしげに返事をした。

「はい!」


    ◆◆◆


 あれから、およそ二年ほどの月日が経った。

「やぁ、健人。久しぶりだね」

「あ、柳さん。お疲れ様です」

 古びた塾の廊下を歩いていると、仕事終わりの健人にたまたま鉢合わせたので、声を掛けた。健人はいつもと変わらないあどけない表情で、私に向け礼をする。私はそれに笑みを返し、まるで世間話でもするかのごとく尋ねた。

「その後、奈月君の様子はどうだい」

「どう、といいますと?」

 抽象的な私の言葉がどうも分かりにくかったらしく、健人はコテンと首を傾げた。仕方がないので、もう少し細かいことを尋ねてみる。

「当初に比べて変わったことなどはないかね。例えば、咲葵子さんとの関係とか」

「あぁ……」

 健人は少し眉間にしわを寄せた。

「その辺は、ほとんど変わっていないようです。母親という認識が、まだあまりないみたいで」

「そうか……ではまだ、お母さんとは」

「えぇ。まだ……」

 呼べていないですね、と桜井は沈痛な面持ちで言った。

「彼女にはもう少し、時間が必要だと思います。俺としては、後悔しないうちに早く呼んであげてほしいのですが……」

 後悔しないうちに、という言葉に、健人の抑えきれない感情が込められているような気がした。

 私も自然と切ない気持ちになった。

 健人は知っているのだ。親を親と呼べない苦しさ、そして呼べなくなってしまった後の、狂おしいほどの後悔を……。

 なんとなくしんみりとした空気になる。しかしすぐにそれを打ち壊すように、でも、と明るく、健人がひときわ大きな声で言った。

「彼女は、変わった部分もたくさんありますよ。以前より笑ってくれることが増えましたし、俺に対して遠慮のない物言いをするようにもなりました」

 これは果たしていい傾向なんでしょうかねぇ、と呆れたように続け、健人はわざとらしくため息をついた。しかしその顔は綻んでいるので、おそらく彼自身も楽しんでいるのだろうと予測できた。

 その表情に、私も少し気持ちが明るくなった。

 私の当初の確信通り、あのつまらない――可哀想な少女は、彼のおかげで少しずつではあるが変化しているらしい。

 そして彼のほうも、少しずつ……。

「そうか、それはよかった」

 感慨深い気持ちで呟くと、健人はふんわりと微笑んだ。それは彼が最近よく見せるようになった、いつもの無邪気な笑顔とは違った大人の表情だった。

「その様子だと、咲葵子さんとの関係が直る日も近いかもしれないな」

「そうですね。そうなることを祈っています」

 私の希望を込めた言葉に、夢見るような瞳で健人はうなずいた。

「……では、俺はこれで」

「なぁ、健人」

 一礼し、立ち去ろうとする健人を、私は有無を言わさぬ声で呼び止めた。彼は足を止め、不思議そうに振り向く。

 私は健人に向き直ると、真剣な表情で、一番聞いてみたかった質問を面と向かってぶつけてみた。

「君は、藤野奈月を……どう思っている」

 健人は一瞬固まった。唖然としたように口をだらしなく開けていたが、やがて曖昧な笑みを浮かべ、ささやかな声で答えた。

「良い子ですよ……彼女は」

 『先生』としては一見当り障りのない答え。しかしその瞳は愛おしげに細められ、甘く綻んだ唇から紡がれる囁くような声は、壊れ物をそっと扱うかのようにやわらかく、繊細だ。

 それだけで私には、健人が彼女にどんな感情を抱いているかが十分すぎるほど伝わってくるようだった。

「そうか」

 私は健人に笑いかける。先ほどよりもずいぶん素直に笑いかけることが出来ているような気がした。

 健人は安堵したように微笑んだ。そして私に向かって一礼すると、スリッパの音を響かせながらパタパタと歩いて行った。


 そもそもは私が引き合わせた二人だった。

 そうして二人は出会い――今、お互いの影響を受けることで、少しずつではあるが変わり始めている。

 私には、最初からなんとなく分かっていた。この二人の出会いは、いわゆる一つの運命だったのだろうと。


「よい報告が出来そうだよ、咲葵子さん」

 彼女の心から喜ぶ顔を思い描きながら、私は心なしか軽い足取りで自室へと向かったのだった。

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