第319話 拓也を待ち続ける嫁達 ~ナツの場合~
秋華雷光流剣術道場にて、ナツは一人、素振りの練習をしていた。
夜が明けたばかりで、練習生はナツの他にはまだ誰も来ていない。
しかし、彼女にとってはその方が集中できる分、都合が良かった。
前田拓也が、また危ない橋を渡ろうとしている。
けれど、自分は彼に対し、何もすることができない。
せめて自分が男だったならば、戦いに参加することができたかもしれない。
いや、女子の身であっても、もっと剣の腕が良かったならば、彼の護衛として連れて行ってくれたかもしれない。
しかし、もはや彼は、自分より強くなっている――。
ナツも、決して弱いわけではない。
武士の娘として生まれ、剣の修行もしていた彼女は、この道場においても段位を獲得し、上級者と見なされている。
しかし、前田拓也は彼女以上の段位を得ているのだ。
彼女は、再び思いに耽る。
なぜ、彼は自分など嫁にしてくれたのだろう。
優はわかる。最初から相思相愛、正真正銘の恋仲だった。
凜さんも、あの美貌に色気があり、それに頭がいいから納得だ。
双子の妹であるユキとハルも、最初から彼に懐いており、手元に置いておきたいと思うのは理解できる。
ならば、自分はどうだったか。
最初は彼を警戒するあまり、邪険な態度を取ってしまった。
そんな自分を、百両もの大金で買い取ってくれた。
それどころか、「前田美海店」という料理屋を任され、料理長として毎日充実した日々を過ごせている。
そして嫁の一人に加えてくれた――。
大恩ある存在であり、
そう思い出したとき、彼女はわずかに頬を赤らめ、そして照れたような笑顔を浮かべた。
しかしすぐに元の真顔に戻った。
実は、彼にとっては、自分になど恋愛感情は持たず、ただ他の嫁達比べて差別されないよう、相手をしてくれているだけなのではないだろうか、と不安になった。
そしてまた、素振りを再開する。
そのとき、道場に誰か入ってきた。
既に道着を着ており、防具を着ければいいだけの状態だ。
「……おはようございます……やっぱり、ナツさんでしたね」
にっこりと笑顔を浮かべたのは、奥宇奈谷からの来訪者である姉妹のうち、妹の皐月だった。
確か、数え年で十五歳だったはずだ。
「……皐月、どうしたんだ? こんな早朝から……」
「はい、あの……今の時間だったら、男の人はいない……いえ、それどころかナツさんしかいないと思って……」
彼女は、姉の如月と同じで、「男の人が怖くてたまらない」心の病を患っている。
盗賊達によって
「そうなんだね……でも、女の子なのに、練習して強くなりたいの?」
「はい……だから、ナツさんにいろいろ教えて欲しくて……それに、できれば料理も教えて欲しいです。男の人が怖いから、接客はできないですけど、裏方で仕込みの手伝いならできると思いますので……」
どうやら、彼女は「前田美海店」での仕事も考えてくれているようだった。
「……そんなに強くなり、料理もうまくなりたいって……一体、どうして?」
「だって……剣も強くて、料理もできる素敵な女性になれば、ナツさんみたいに拓也さんのお嫁さんになれるかもしれないじゃないですか」
彼女の一言に、ナツは、衝撃を受けた。
数秒間、目を見開き、固まり……そして不意に涙を流し始めた。
「あ、あの……ナツさん……私、変なこと言いましたか?」
「……いや、そんなことない……むしろ、感謝してるよ……ありがとう。そうだな、私は前田拓也の嫁なんだ……」
同情かもしれないし、それ以外の感情が少しでも有ってくれるのかもしれない。
しかし、彼が自分のことをどう考えていたとしても、自分は間違いなく彼の嫁なのだ。
だから、誠心誠意、愛する彼のために尽くせばいいではないか――。
今はただ、彼に対しては無事を祈るしかない。それでも、留守を守る義務が、自分にはあるのだ。
そして、彼に託された仕事の一つが、目の前のこの娘と、その姉である如月の保護だ。
彼女たちが抱える大きな心の傷をなんとか忘れさせることも任されている。
「……よし、じゃあ……稽古、しようか」
「はい、お願いします!」
皐月は、女性相手ならもう元気を取り戻していた。
お互いに防具を着け、一礼をする。
次の瞬間、皐月は凄い勢いで突進し、上段からの面を繰り出してきた。
ナツは反射的に避けたが、驚きを隠せない。
さらに皐月は小柄な体を生かして、スピードのある連続攻撃を繰り出してきた。
奥宇奈谷は平家の落ち武者達の子孫。常に武術の修行を怠らないとは聞いていたが、まさか女子までも訓練していたとは――。
……いや、皐月がこれだけ練習に積極的なのは、それだけが理由ではない。
この娘は、本気で拓也殿の嫁になろうと考えている――。
ナツはニヤリと笑みを浮かべ、反撃に転じたのだった。
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