第139話 (番外編)吉原潜入(後編)

 四十歳ぐらいの女中に案内され、俺は六畳ほどの部屋に通された。


 そこには、すでに簡単な料理と酒が乗った膳が一つ、用意されている。

 かなりきついお香が焚かれていて、最初はうっと顔をしかめたが、すぐに慣れた。


 女中が

「ごゆっくり」

 と、やたら笑顔でそう言い残して帰った後、俺は落ち着かず、きょろきょろと部屋の中を見回していた。


 布団が敷いてあり、枕が二つ。

 思わず、ゴクリと息を飲む。


 と、そこに

「お待たせしました」

 という可愛らしい声と共に、ゆっくりと障子を開ける一人の少女。


 先程の娘で……三つ指をついて、

浮船うきふねと申します……今宵はよろしくお願いいたします」

 と恭しくお辞儀してきた。


 俺も思わず同じ格好でお辞儀。

 すると彼女は、笑ってくれた。


 浮船という源氏名のその少女は、満年齢でいうと十六歳、現代ならば高校一年生ぐらいだった。


 綺麗な……というか、派手な色使いながら薄手の襦袢を纏っているだけの彼女。

 まだ若いが、化粧のせいもあって、かなりの色気を感じてしまう。


 すぐ隣に並んで座り、お酌をしようとしてきたが、俺が酒が苦手であることを告げると、今度は料理を食べさせてくれる。


 いわゆる、『あーん』というやつで……俺も彼女も次第に打ち解けてきたこともあって、なんだか少しずつ楽しくなってきてしまった。


「お客さん……こういうお店、初めてですか?」

「あ、ああ……やっぱり、分かるかい?」

「はい……なんとなく」

 ここでもう一度、笑い合った。


「慣れているお客さんだったら、もう今の時点で私の事、肩を抱いたり、胸に触れたりしていますから……」


 かっと身体が熱くなってしまうのを感じてしまった。

 そうだった、ここはそういうお店だった……。


 と、浮船は両手でそっと俺の右手を握ってきた。

「旦那様……今日はゆっくり楽しんでいってくださいね……」

 と、ここで俺はもう、ギブアップだった。


 彼女に、申し訳ないが自分は興味本位で、吉原という場所を知りたくて、外から眺めるつもりだけだったのに成り行きで君を指名してしまった、というようなことを、しどろもどろになりながら話してしまった。


 また、自分には嫁が居るから、その娘の事を考えると、君に手出しはできない、とも。


 すると、彼女は不思議そうな表情をして、

「じゃあ、どうして私を選んでくれたんですか?」

 と聞いて来た。


「それは……えっと……一番可愛かったから……」


 と、顔が火照っているのを感じながら話すと、彼女はクスクスと可愛らしく笑った。


「なんていうか……すごく純情で、素敵な旦那様ですね」


 怒っている様子でも無く……逆にこれでより一層打ち解けた。


 その後は、彼女の方から積極的に、俺に質問をしてきた。


「そんなに義理立てするなんて……奥さんって、きっと可愛いんでしょうね」

 ここで、五人もいるとは言えないので、とりあえず優を思い浮かべて、


「ああ、いつも俺を笑顔で癒してくれる、本当に大事な嫁さんだよ。やっぱり、彼女を裏切るわけにはいかない」


「……いいですね、そんなに慕われているなんて……奥さん、幸せでしょうね」


 ズクン、と心に痛みが走る。

 確かに、優は幸せだろうと思う。

 しかし、それを口にすることは、今隣にいる彼女にとって残酷な事なのではないだろうか。


「……どうしたんですか?」


「いや……なんか、嫁の自慢しちゃうと、申し訳ないなって思って」


「いえ、そんなことないですよ。私だって……」


 と、そこまで話したところで、彼女は「しまった」というような表情を浮かべた。


「……君も誰か、自慢できる人がいるのかい?」

「……他の人には、秘密ですよ。貴方は信用できそうな方ですから……」


 そして浮船は、恥ずかしそうに、けれども嬉しそうに話し始めた。


 自分には、とても仲良くなった常連客がいること。

 その方は大きなお店の若旦那ということで、そこそこお金を持っていて、自分の事を買い取りたいって言ってくれていること。


 まだ『身請け』するにはお金が足りないから、もう少しだけ待って欲しいと言われていること。

 そして、彼女もまた、その若旦那を好きになってしまっていること……。


「ひょっとしたら、騙されているのかもしれません。でも、真剣に私を身請けしたいって言ってくれているのを聞いて……ちょっとだけ、期待しているんです。それが今の、私の心の支え……」


 その彼女の嬉しそうな表情を見て、俺は安堵し、そして自分が恥ずかしくなった。


『この娘を幸せにしようと思えば、おそらく買い取るしかない。けど、事実上そんなことは無理だ――』などと、途方に暮れていたことが恥ずかしい。


 彼女は、ちゃんと自分で幸せになる答えを見つけていた。

 俺の考えは余計なおせっかいでしかない、何をうぬぼれ、悩んでいたのだろう、と。


 俺は彼女に、

「何もしてあげられないけど、その彼に身請けされて幸せになることを祈っているよ」

 とだけ話した。


 彼女は素直に喜んでくれた。


 そして、もう少し一緒に居たいという話になり……服を着たまま添い寝ぐらいだったら、ぎりぎり裏切りにはならないだろうと勝手に考え……時間まで、一緒に布団に入って並んで眠ったのだった。


 そして俺は、浮船と笑顔で別れた。


 一期一会――おそらく、彼女と会うことは、もうない。

 それでも、彼女の明るい笑顔を思い出し――必ず幸せになって欲しい、と願った。


 そして、まだまだ自分は大したことはできない、せめて前田邸の少女達はしっかり守っていこうと決意した。


 その後、俺は一度現代に戻って、入浴と着替えを済ませ、もう一度眠った。

 翌朝、前田邸に向かうと、優が玄関で出迎えてくれたのだが……。


「拓也さん……正直に話してください……」


「うん? 何が?」


「……昨日、女遊び、したでしょう?」


 もう俺は、心臓が口から飛び出そうなほど驚いた。


「な、なんでそう思うんだ?」

「やっぱり……今までに嗅いだことのないような、甘いお香の匂いがしますよ」


 そう、あの強烈なお香の匂いは、いつも通り一度風呂に入ったぐらいでは取れなかったのだ。


「い、いや、その……手を出したりはしてないよ。ちょっと事情があって……」

 自分でも、苦しい言い訳をしているようにしか思えない。


「……ごめん、でも、信じてくれ。絶対にやましいことはしていない」

「……何か事情があるんですか?」


「ああ。話せば長くなるが……」

 と、ここで、

「優、拓也さん来たんでしょう?」

 という明るい声が母屋の中から聞こえて来た。これは凜だ。


「ま、まずい……凜に知られると、大騒ぎになりかねない!」

 俺はパニックに陥りかけた。


「……大丈夫、今すぐ戻れば問題ないと思います。理由は……そうですね、『風邪をひいてしまって、みんなにうつしたくないから』っていうことにしましょう」


「な、なるほど……ありがとう、優」


 すると彼女は笑顔になって、


「たまには、私も拓也さんの事、守りたいです」

 と言ってくれた。


 昨日、前田邸の少女達を守りたいと決意したばかりなのに、逆に優に守られることになってしまった……その事を恥ずかしく思いながら、俺はラプターを操作したのだった。

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