第113話 事業計画

『前田女子寮』の少女たちのミシン操作技術上達には、目を見張るものがあった。


 特に反物たんものから俺のために羽織を作成してくれた事は、個人的に嬉しくもあったし、今後十分に商売につながると考えた。


 どうやってその技術を身につけたのかとも思ったが、ちょっと意外なことに『れい』が元々、花嫁修業とかである程度裁縫技術を持っていたのに加え、俺が現代から持ち込んだ『ミシンを使った和服作成』の本を、絵を見ながらだったり、凜さんの協力を得たりで勉強しながら作成したということだ。


 その勉強熱心さに、あらためて彼女たちを見直した。

 しかし、一括りに『和裁』と言っても、当然のことながらその奥は深い。


 着物の種類だけでも、肌襦袢はだじゅばん、長襦袢、半襦袢、小袖、羽織、長着ながぎ、羽織、振袖、その他諸々、さらには打掛うちかけまで。

 浴衣なんかも和服といえば和服だし、半纏はんてんだってそうだ。


 そしてそれらは全て、元々は反物から作成される。

 反物とは、良く時代劇にでてくる、布をくるくる巻いて保管している巻物みたいなあれだ。


 基本的には一反から一着の着物が作成される。

 あの長細い反物を、四角形に切って、縫製していくのだ。

 出来上がった着物の縫い目をほどき、元の布だけにすると、ぴったり反物の通りの形に収まるのだという。


 その規格というか、切り方が決まっている。

 後々古着屋で売られ、仕立て直し、庶民はそれを着て、そしてまた古くなったら古着屋に売る、というリサイクルを繰り返していた。


 反物から新品の着物を注文できるのは、一部のお金持ちのみ。

 前回の俺の羽織りにしても、『練習用』として彼女たちに渡した『安物の』反物なのだが、そもそもが高い『反物』の中では安い、というだけであって、その値段は……彼女たちには黙っておこう。


 とはいえ、彼女たち、『古着の補修』や、『リサイクルされた布での再作成』については、もう既に内職の域を超えてしまっている。

 ミシンを使っている関係もあり、速度だけならば手作業の三倍以上の速さで仕事をこなすだろう。


 ミシンが苦手としていた布の端の処理も、『ロックミシン』を使用すればきれいにできることがわかり、これも足踏み式のそれを現代からこの時代へ転送済み。さらに効率化を図ることが出来た。


 しかし、黒田屋からもらった内職が早く終わり過ぎてしまい、手が空いてしまうという状態もたまに発生してしまっている。


 内職なので収入も少ない。

 それで少女たちは、反物からの着物の作成を希望しているのだが……。


 そもそも、反物から着物を作成するのは、腕のいい職人によるオーダーメイドだ。

 それまでの取引の信用なんかもあるし……ぽっと出の俺達が

「着物作り、始めました」

 と看板を出したって、誰も注文してこないだろう。


 元々、新品の着物は最低でも十両以上、現在の価値で百万円以上の値段だという話だし。

 せいぜい、自分達身内の分を作るぐらい。


 もちろん、現代から安い『反物』を運び込むのも一つの手なのだが、ここに大きな問題が生じる。

 もし、俺がそれを実践し、安い『反物』があふれてしまうとどうなるか。


 そもそも、反物作成は農家の貴重な収入源でもある。

 農作業が出来ない時期、機織はたおり機でトントンと、根気よく作成しているのだ。

(全ての家庭で機織が出来たわけではないが)。


 そうすると、その収入源が絶たれる家庭が出てくるわけで……これは『阿東藩全体を豊かにする』という課題からずれてしまう。

 なので、現状では彼女たちにフル稼働で働いてもらう事は困難。


 俺達の仕事の速さに、黒田屋も驚いて「発注を増やす」、とは言ってくれているが、所詮しょせん古着の修復。大きな利益にはならない。


 そう考えると、やはり元々考えていたあの『計画』を、なんとしても進める必要がある。


『阿東藩を絹糸の一大産地にする』


 反物も当然、絹糸を使用した、最高級の素材。それを元に最高級の和服を作成する。


 この時代では絹は日本ではあまり作られておらず、ほとんどを中国からの輸入に頼っている。

 理由は簡単、日本製の絹の品質が悪いから。


 しかし、これについては俺が良い品質の絹糸の製造方法、技術、機械を持ち込む事ができる。

 中国からの輸入が減少し、日本製の絹が普及したところで、少なくとも日本人が困ることはそうないだろう。


 良い絹糸を良い反物にするために、腕のいい機織り職人が必要となる。

 その絹糸を作るために、カイコを育てる者も必要だ。

 さらには、カイコのエサ『桑』も、植樹し、世話をする人も大勢出てくるだろう。


 こうやって出来上がってきた絹の反物を、前田女子寮の女性達が美しい着物へと加工していく。

 多くの人が関わり、雇用が生まれ、阿東藩全体が活気づく。


 これが今後の大きな目標の一つであり、前田女子寮を作ったのは、その先駆けでもあった。


 日本で養蚕が本格的に普及し始めたのは、徳川吉宗による『享保の改革』以降。


 俺は、この平行世界における時計の針を、数十年分進めてしまうことになるのかもしれない。

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