第30話

「ねえミオ、本当にこの木にのぼるの?」

 10歳ほどに見える少年が、ちょっと心配そうに連れの少女に問いかける。

「のぼるよ。だって、この木にのぼんなきゃ、あの部屋の中見えないじゃん」

 少年と同じくらいの年ごろに見える少女が、口をとがらせて言い返す。

 少年の名はヒューバート・ソールディン。ソールディン家当主、リロイ・ソールディンの一人息子だ。美貌をうたわれることの多い父リロイには、幸か不幸かあまり似ていない。ヒューバートは、母ダーニャに生きうつしだ。のっぺり、茫洋とした、温和を絵に描いたかのような顔に、優しい茶色の瞳。絹糸のような栗色の髪だけが、父によく似ている。性格もまた、その容貌によく見あった、おっとりと温和で、のんびりとしたものだ。

 ちなみに、侍女あがりの上、容貌も、醜くはないが美しいとは到底言い難い、しかも、目から鼻に抜けるような才気煥発さもない、そんなダーニャをリロイが妻にめとった時は、ほうぼうの口さがない連中が、やっかみ半分かしましく騒ぎたてたものだが、リロイと、そしてリロイの兄弟達は、何があっても動じない、いつでもおっとりと穏やかな、しかもリロイの、ごくつまらないことにでも異常にこだわってしまうことがあるという奇癖をいつも鷹揚に受け入れてくれるダーニャを心から愛していた。

 少女の名はミオ・ソールディン。リロイの弟、カルディン・ソールディンの娘だ。ヒューバートとミオを並べて、どちらがリロイの子に見えるかと聞けば、ほぼ全員がミオを指さすだろう。ミオは、ソールディン一族の血を色濃くひいている。栗色の絹糸のような髪に、青空のような瞳、白くなめらかに整った彫刻のような顔。今は従兄のヒューバートと同じような服で、同じように泥まみれになって飛びまわっているが、年頃になればあまたの男達の心を片端から射抜いていくことだろう。

 ちなみに、ソールディンの兄弟達の内、結婚しているのはリロイとメリサンドラだけだ。カルディンは、子供はいるが結婚はしていない。子供の数はというと、リロイ本人の弁を借りれば「兄貴んちに預けてるのが5人くらい。よそに何人いるかは俺もよくわからん」とのことである。この言葉とその事実とが、カルディンという男を端的に象徴している。

「でもさあ、ミオ」

 と、ヒューバートが首を傾げる。

「待ってれば、お客さん達、きっと下におりてくるよ。そしたらきっと母さんが、お茶でもどうぞ、っていうからさあ――」

「だってさ」

 ミオはじれったげに、ヒューバートの言葉をさえぎった。

「お客さんとおじさん達、ケンカしちゃうかもしんないじゃん!」

「あ――そうだね」

 ヒューバートはうなずいた。

「父さん、かんしゃく起こすとすごいもんね」

「リロイおじさんはいいよ、他の人に怒ったって、他の人に怒られる事はないんだから。うちのくそ親父なんか、しょっちゅうよその人を怒らせてばっかりだよ、ほんとにまったく」

「このあいだ窓から放り出されてたよね」

 ヒューバートが同情したように言う。

「カルおじさん、今度は何やったの?」

「いつものことだよ」

 ミオがむくれかえった。

「弟か妹が一人増えただけ。生まれたら連れてくるってさ」

「ああ」

 ビューバートが納得したようにうなずく。

「カルおじさん、また、『俺は絶対に結婚しない!』って言っちゃったんだ」

「馬鹿なんだよ、ほんとに」

 ミオは深々とため息をついた。

「――ごめんね、ヒュー」

「え? どうしてミオが謝るの?」

「また、リロイおじさんとダーニャおばさんに面倒かけちゃうね」

「だってさ」

 ビューバートは一所懸命に言葉を探した。

「父さん言ってたよ、カルおじさんからちゃんと養育費もらってるって。だからさ、別に、面倒とかじゃないよ。それに、ぼくも母さんも、赤ちゃん、好きだしさ」

「うちのくそ親父がまともに養育費なんて払ってるわけないじゃん」

 ミオはひどく大人びた顔で言った。

「リロイおじさんはくそ親父が払ってると思ってるだろうけど、あれ絶対、ダーニャおばさんか、でなきゃメリーおばさんが払ってくれてるんだよ」

「え――そ、そうかなあ?」

「絶対そうだよ」

 ミオはきっぱりと言い切った。

「まあいいや。とにかくわたしは、この木にのぼるんだからね!」

「でも、ミオ」

「なんだよ、ヒューの弱虫!」

「この木にのぼれば、そりゃ部屋の中はのぞけるけど、そのかわりに、部屋の中からも丸見えだと思うけど?」

「え――」

 ミオはちょっと絶句した。確かに、手入れが非常に行きとどいた庭の木は、枝葉も適度に刈り込まれ、すっきりと軽やかに仕上がっていてたいそう見栄えがするが、それはつまり、人間の子供一人を楽々覆い隠せるほどの、うっそうとした茂みがないということだ。

「――まあ、大丈夫だよ」

 ミオは口をとがらせて言いきった。それをリロイかメリサンドラが見ていれば、その顔は幼かりし日のカルディンに、とてもよく似ていると絶対の自信を持って保証してくれたことだろう。

「わたしはヒューとちがってすばしっこいもん。ちゃんと隠れられるもん」

「そう? じゃ、ぼくは下にいるね」

「なんだよ、弱虫。見つかるのが怖いの?」

「え、だって、ぼくが下にいれば、ミオがおっこってきた時に助けてあげられるでしょ? ぼくさ、けっこう風の魔法が使えるようになったんだよ。ミオがおっこってきたら、ぼくが助けてあげるよ」

 にこにことそういうヒューバートは、もちろん完全に善意からその申し出をしたのだが。

「な、な、な――なんだよッ! ヒューのイジワルッ! わたしおっこちないもん! おっこったりするもんか! フーンだ!」

 気の毒なことに、ミオにはそう思ってもらえなかった。

「いいもん! わたしひとりでのぼるもん!」

 そう言って、憤然と庭木のほうに向きなおったミオと、そして、ミオにつられて庭木のほうを見たヒューバートは。

 ポンッ、という、いかにも軽薄な音とともに。

 庭木の幹にめり込むようにして、奇妙な男が出現するのをしっかりと目撃してしまった。

「ハーロハロハローン、こにゃにゃちわー♪」

 奇妙な男は、庭木に逆さまになって半ばめり込んでいるというとんでもない体勢をものともせずに、たいそう陽気に二人に声をかけた。

「呼ばれて飛び出て、ジャジャジャジャーン♪ …………って、あ、あり?」

 奇妙な男が目を白黒させたのかどうかはわからない。男の顔の上半分は、ひどく奇妙なもので覆われていたからだ。その奇妙なものを他の世界の住人が見れば、なんだ、バカでかいミラー加工のサングラスか、ですんだはずだが、そんなものを生まれてからただの一度も見たことのないミオとヒューバートには、それはたいそう不気味なものに見えた。

「あ、ありー、な、なんかちょっと、えー、まっずいなあ、エリちゃんってば、座標計算間違えちった?」

「キ、キ、キ――」

 数秒間金縛りにあっていたミオの口が、ここで大きく開いた。

「キャーッ!」

 そのとたん。

「てめえッ!!」

「カルにぃ!!」

 の、叫び声とともに、二階の窓からカルディンが文字通り飛び出して来た。とっさにはなったナスターシャの風魔法が、カルディンの着地の衝撃を和らげる。

「俺の娘に何しやがった!?」

「な、な、な、なんにもしてないッスよお!」

 逆さまになったままカルディンに胸倉をつかまれた奇妙な男は、なさけない悲鳴を上げた。

「オ、オレ、ただ単に、出現場所の座標計算を間違えちっただけっすよ!」

「――ああ、エリック」

 二階の窓から顔をのぞかせたパーシヴァルが、うんざりしたようにかぶりをふった。

「おまえいまだに、出現地点の座標計算を間違えてるのか? 言っちゃなんだが、そのくらい、私だってもう、ちゃんと時間をもらえば間違えずに出来るぞ」

「いや、これはね、エリりんのせいってゆーか、なんつーか、ソフトをバージョンアップしてなかったのが、いくなかったかなー、って」

 奇妙な男の正体は――もちろん、下級悪魔のエリックだ。エリックはカルディンに胸倉をつかまれて揺さぶられながら、のんびりとパーシヴァルにそう答えてみせた。

「ねーオタク、そろそろはなしてチョーダイよ。チビちゃん達をびっくりさせたのは謝るッスよ。いやその、悪気はなかったんスけどねえ」

「――と、こいつは言っているんだが」

 カルディンは真剣な顔でミオを見つめた。

「本当か? なんにもされてないか? 大丈夫か、ミオ」

「う――うん。び、びっくりしちゃっただけ。あ――ありがとう、お父さん」

「おーおー、くそ親父とはえらい違いだな」

 カルディンは苦笑した。

「おまえらなあ、ああいう事はよそでやってくれよ。今日はミーシェンが遠見と聞き耳の術でこの屋敷のまわりをバッチリ警戒してるんだぜえ? 俺恥ずかしかったのなんの。おまえらがいらんことペラペラ言ってくれちゃうせいで、兄貴とターシャ以外のやつらがずーっとクスクス笑いっぱなしだったぞ!」

「ご――ごめんなさい、お父さん」

「ごめんなさい、カルおじさん」

 ミオとヒューバートが、神妙な顔で頭を下げる。

「ヒューバート、ミオ」

 二階の窓からリロイの声がかかった。

「心配しなくても、私達はこの客人達と喧嘩したりしない。いや――もしかしたら、喧嘩するかもしれないが、お茶の一杯もごちそうせずにいきなり叩き出したりはしない。だから二人とも、おとなしく下で待っているんだ。そうすれば、私達の話が終わった後で、おまえ達の相手をするから」

「はい――ごめんなさい、父さん」

「リロイおじさん、ごめんなさい」

 再びヒューバートとミオは、神妙な顔で頭を下げる。

「エリック、大丈夫?」

 二階の窓から、クレアノンが顔をのぞかせる。

 その時はまだ、二人とも知らない。

 ただ、これが。

 ヒューバートとミオが、生まれて初めて竜と出会った瞬間だった。

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