兄と私の話

@39emma

第1話

夜の、しんとした空気。

どこからともなく沈丁花が香り、春が近いこの生け垣を曲がると我が家だ。

家賃10万。この辺りの相場でいえば安いと思う。

一軒家の生け垣を作ったのは昔この家に住んでいたという大屋さんだ。

今は田舎のマンションで隠居生活だと、おしゃべりな不動産屋が言っていた。

その他の植物は私が植えた。

近所にあるホームセンターから休みの度に小さな苗や種を買っては猫の額ほどの庭をいじっている。

くちなし、金木犀、銀木犀、ジャスミン、カオリバンマツリ、ミントなんかのハーブ(これは鉢に植えてから。)

それから苺、キンカン、ブルーベリー、ヤマモモ。

香りと味は記憶に直結していると聞いてから、せっせと植え付けているのだ。

寄り道せずにまっすぐ、まっすぐ。

生け垣を曲がり、昔ながらの引き戸の玄関をガラガラと音をたてながら入る。

廊下は暗いが、奥のリビングキッチンは明るい。

帰ってきて、人がいる気配がするって言うのは良いものだと、同居してはじめて気がついた。

この記憶を、なるべくながく保ちたい。

この先一人でも生きていかれるように、それぞれの季節でこの幸せを思い出せるように。

おかえりーとキッチンから声がかかる。

兄は、またビールを飲みながら炒飯を作っているのだろう。

炒飯も、おそらく、思いでの香りのひとつになるはずだと、確信している。

幸せって、続かないはずのものだ。

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